群書類従「大蔵氏系図」の史料批判
「洛中洛外日記」2328話(2020/12/20)〝「千手氏」始祖は後漢の光武帝〟で紹介した『群書系図部集 第七』の「大蔵氏系図」(注①)ですが、少し気がかりな点があり、改めて内容を精査しました。
「大蔵氏系圖」は前文と系図部分からなっており、よく読むとその内容が異なっていることに気づきました。先に紹介したように、同系図では、後漢最後の獻帝(山陽公)の子が石秋王、その子が阿智使主、阿智使主の子が高貴王とあります。ところが、前文では次のようであり、石秋王と阿智王(阿智使主)が親子とはされていないようなのです。
「(前略)石秋王之裔孫曰阿智王。有子曰阿多倍。本號高尊王。始入日本国。任准大臣。(後略)」群書類従系圖部八十一「大蔵氏系圖」
また、名前も前文では「阿智王」「阿多倍=高尊王」、系図では「阿智使主」「高貴王」と微妙に異なっており、本当に同一人物の伝承なのか用心する必要もあります。
このように、阿智使主(阿智王)は石秋王の「子」ではなく、「裔孫」とされています。ですから、両者の間には何代かの名前が省略されているわけです。その証拠に、石秋王は後漢最後の獻帝(山陽公)の子とされており、三世紀の人物です。この前文にも、「山陽公薨。時年五十四。當本朝神功皇后卅五年。」とあり、山陽公の没年が「神功皇后卅五年」(西暦235年)に当てられています。
他方、系図では「阿智使主」(阿智王)の傍注に「孝徳天皇之御宇率十七縣人夫帰化」とあり、「阿智使主」やその次代の「高貴王」が七世紀中頃の人物とされています。ですから、獻帝(山陽公)と阿智王の関係を「子」ではなく、「裔孫」とする前文の記事は正確な表現と考えざるを得ません。
他方、後漢の皇帝や阿智王を先祖とする「坂上系圖」(注②)には、阿智王を応神の時代の人物として記されており、後代において系図年代が混乱していることがうかがえます。従って、現時点では「大蔵氏系圖」が比較的正しく伝えているように思われます。群書類従以外にも関係する系図がありますから、それらを精査したいと考えています。
(注)
①『群書系図部集 第七』「大蔵氏系圖」(昭和六十年版)
②『群書系図部集 第七』「坂上系圖」(昭和六十年版)