高良玉垂命と九躰皇子
Aさんの御先祖は系図によれば高良玉垂命(こうらたまたれのみこと)といい、筑後国一ノ宮の高良大社(久留米市)の御祭神です。高良玉垂命には九人の子供がおり、九躰皇子(きゅうたいのおうじ)と呼ばれ、高良大社が鎮座する高良山、その北側の阿志岐に九躰皇子宮があり、そこに御祭神として祀られています。子供達が「皇子」と呼ばれていることからもうかがえるように、高良玉垂命は「皇子」の父親たる「天皇」か「天子」だったのです。九州王朝の天子です。
歴代の九州王朝の王(倭王)は筑後にいるときは玉垂命と呼ばれていたようで、江戸時代の地誌『太宰管内志』によれば、九州年号の端正元年(589)に玉垂命が没したとありますから、このころまで倭王は玉垂命とも呼ばれていたのではないでしょうか。
端正元年に没した玉垂命(倭王)の次代には、あの輝ける日出ずる処の天子、多利思北孤が即位したものと推定されます。というのも、端正三年(591)には上宮法皇(法隆寺釈迦三尊像光背銘による)たる多利思北孤の年号「法興」が始まるからです。なお、七世紀初頭には日本初の条坊制を持つ巨大都市太宰府が創建されていますので、多利思北孤は筑後から筑前太宰府へ移ったものと考えられます。
九州王朝倭国は兄弟による統治を行っていると『隋書』に記されています。九州王朝王家の血統も単純ではないようです。おそらく、兄弟などで枝分かれした複数の血統が併存したものと予想していますが、詳しくはわかりません。今後の研究課題です。(つづく)
関連する報告として古賀氏の
玉垂命と九州王朝の都(古田史学会報二十四号)を参照