白雉年号と伊勢王
先週の日曜日は、会員の正木裕さんが見えられて、最近の研究について懇談しました。正木さんとは、月に一回程度、古代史研究について話しあうのですが、今回は『日本書紀』史料批判の方法論についてがテーマでした。
『日本書紀』に九州王朝系史料が盗用されていることは、古田先生の研究で明らかにされたところですが、どの部分が盗用なのかは、個別の史料批判が必要なこと、言うまでもありません。ところが、古田学派や多元史観研究者の中には、論証抜きで、自説に都合のよい部分を勝手に九州王朝系史料として、立論の根拠にする論者が後を絶ちません。これは学問ではなく、ただの思いつきにすぎず、歴史学の名に値しないものと言わざるをえません。その結果、それら非学問的な「論説」も含めて古田史学の一部(亜流)と受け取られることとなり、これは憂慮すべき問題と考えています。
そのようなこともあって、正木さんとは学問の方法論の厳密性についてが、いつも話題となるのです。特に、正木さんが発展させた『日本書紀』34年遡り現象という仮説と方法論が、どの程度有効なのかは、何度も二人で議論してきたところです。
今回は孝徳紀や天武紀に現れる「伊勢王」を九州王朝の天子としてとらえても良いかを検討しました。そして、その結論は九州年号の白雉年間に在位した九州王朝の天子の可能性があるというものでした。あくまでも可能性に留まってはいますが、その可能性は小さくないというものでした。
従来、疑問とされてきた天武紀に現れる伊勢王記事が、34年遡り現象により、孝徳期へと移動しうることが、正木さんの研究で判明していましたから、白雉年間の天子としての伊勢王の姿が見えてきたのでした。難波副都で活躍した九州王朝の天子伊勢王こそ、評制創設の立て役者ではなかったかと考えているのですが、いかがでしょうか。