倭国(九州王朝)遺産
・文字史料編
前話に続いて「倭国(九州王朝)遺産」です。今回は文字史料について「認定」します。もちろんわたしの個人的見解であることは、前話と同様です。九州王朝の実体を知る上で、文字史料はとても貴重です。それではご紹介します。
〔第1〕法隆寺釈迦三尊像・後背銘
九州王朝の天子、阿毎多利思北孤がモデルとされる「飛鳥仏」を代表する仏像です。従来は大和朝廷の聖徳太子のこととされてきましたが、古田先生の研究により九州王朝の天子の仏像であることが判明しました。後背銘にある「法興」が九州年号(正木裕説では多利思北孤の法号)であることも注目されています。
〔第2〕法華義疏
皇室御物である「法華義疏」を古田先生は京都御所で実見し、調査されました。その結果、九州王朝の上宮王が収集した文書であることをつきとめられました。冒頭部分に記された「大委国上宮王」は多利思北孤であるとされ、本来所蔵されていた寺院名が書かれていた箇所が切り取られていることも発見されていま す。
〔第3〕「十七条憲法」(『日本書紀』所収)
古田先生の研究によれば、『日本書紀』に聖徳太子によるとされている「十七条憲法」は九州王朝史書からの盗作とされています。『日本書紀』には九州王朝の事績が盗用されていることは知られていましたが、「十七条憲法」も九州王朝の「憲法」であれば、その研究により九州王朝の政治体制や実体解明にとって有効な史料となります。
〔第4〕芦屋市出土「元壬子年」木簡
芦屋市三条九の坪遺跡から出土した「元壬子年」木簡は、当初「三壬子年」と判読され、『日本書紀』に見える「白雉三年壬子」(652年)のことと理解されてきました。ところがわたしたちの調査(赤外線撮影、光学顕微鏡観察)により、「元壬子年」であることが確認され、『二中歴』などに見える九州年号の 「白雉元年壬子」(652年)を示していることが明らかとなりました。この発見により、九州年号実在の直接的な証拠となる同時代の木簡であることがわかりました。この史料事実に対して、大和朝廷一元史観の学界や九州王朝説反対論者は今も沈黙を続けています。卑怯というほかありません。
〔第5〕「年代歴」(『二中歴』所収)
九州年号群史料として最も原型に近いとされているのが、『二中歴』に収録されている「年代歴」です。特にその細注に記された記事は九州王朝系史料に基づいていることが判明しており、とても貴重な史料です。
〔第6〕太宰府市出土「嶋評戸籍木簡」
2012年に太宰府市から出土した最古(7世紀末)の戸籍木簡は、九州王朝の中枢領域であるこの地域が造籍事業でも国内の先進地域であったことをうかがわせるもので、その内容は九州王朝の実体解明を進める上で貴重なものでした。正倉院文書の大宝二年『筑前国川辺里戸籍断簡』などの西海道戸籍の統一された様式からも、九州の造籍事業の先進性が従来から指摘されていましたが、この最古の戸籍木簡の出土がそれを裏付けることとなりました。
〔第7〕倭王武の「上表文」(『宋書』倭国伝所収)
九州王朝(倭国)と中国南朝との交流において、『宋書』に収録された貴重な倭王武の「上表文」は倭国の歴史や文化、文字使用の伝統などを知る上で貴重な史料です。史料そのものは中国史書ですが、その「上表文」部分は倭国遺産に認定したいと思います。
〔第8〕「君が代」(『古今和歌集』他所収)
日本国国歌「君が代」の歌詞も「文化遺産」として認定したいと思います。古田先生の研究により、その歌詞には糸島博多湾岸の地名・神名などが読み込まれており、同地域で弥生時代に成立したとされています。ちなみに、次の地名・神名などが読み込まれています。
「千代」福岡市千代
「さざれいし」糸島市細石神社
「いわお(ほ)」糸島市井原(いわら)山水無鍾乳洞
「こけのむすまで」糸島市志摩町桜谷神社祭神「古計牟須姫命」「苔牟須売神」
〔第9〕祝詞「六月の晦(つごもり)の大祓」
「六月の晦(つごもり)の大祓」の祝詞も文化遺産として認定したいと思います。古田先生の著書『まぼろしの祝詞誕生』(古田武彦と古代史を研究する会編、新泉社、1988年)によれば、「六月の晦(つごもり)の大祓」は「天孫降臨」当時(弥生時代前半期)に糸島博多湾岸(高祖山連峰近辺)で成立したとされています。
〔第10〕稻員家系図(福岡県八女市、広川町、他)
筑後国一宮である高良大社の神官であり、同社祭神の高良玉垂命を祖先とする稻員氏が九州王朝の王族の末裔であることが、古田先生の研究で明らかとなりました。同家の系図には7世紀以前の人物に「天皇」や「天子」の称号を持つものがあり、同系図が九州王朝系図であることもわかってきました。九州王朝王族にはいくつもの支流があるようで、その全体像はまだ不明ですが、稻員家系図や他家の系図の史料批判により、今後解明が進むことと思います。
以上の史料を「倭国(九州王朝)遺産」に認定したいと思います。いずれも、九州王朝研究にとって貴重な史料です。(つづく)