第2464話 2021/05/17

「倭の五王」時代(5世紀)の考古学(5)

 ―考古学の実証(出土事実)と論証(出土解釈)―

 「倭の五王」時代(5世紀)の考古学的出土事実について紹介してきましたが、それら出土事実が何を意味しており、どのような解釈が可能かという点について考えてみます。言わば、学問における実証と論証に関するテーマです。
 例えば、古田先生は「筑後川の一線」という概念を提示され(注①)、弥生時代と古墳時代(正確には5世紀後半以降)では、墳墓の分布領域が筑後川以北から以南に移動するという考古学的事実を実証的に示され、その理由を、主敵が南九州の〝隼人族〟から北の高句麗・新羅に替わったためとする解釈により説明されました。そして、弥生時代の邪馬壹国(博多湾岸)とその後継王朝の「倭の五王、多利思北孤」が、共に「筑後川の一線」を防衛ラインとして利用していることは、いずれをも筑紫の王者と見なす九州王朝説と相対応しているとされました。
 あるいは、王都に消費財(須恵器)を大量に供給する、5世紀の須恵器窯跡群が筑後川北岸地域に分布している考古学的事実を根拠として、「倭の五王」の王都候補地として筑後川両岸地域が有力ではないかとする仮説をわたしは提起しました(注②)。詳述すれば、筑後川以南の水縄連山に装飾古墳が密集するのは5世紀後半であることから、「倭の五王」時代の前半は筑後川北岸領域(朝倉・夜須)に、後半になって以南の筑後地方(浮羽・三井・三潴)に王都を置いたのではないか。そして、7世紀(多利思北孤の時代)になると、再び筑後川以北(太宰府条坊都市)に遷都したのではないかと考えています(注③)。
 これらの仮説は九州王朝説にうまく整合しており、比較的有力な説と思われるのですが、一方で、5世紀最大の都市遺構は北部九州ではなく、大阪上町台地であることや、九州島内だけでも5世紀の最大古墳群は南九州の西都原古墳群であることなどは、従来の九州王朝説ではうまく説明できません。しかし、自説に不都合な事実を無視・軽視するのは学問的態度ではありませんし、そもそもエビデンスを無視したり明示しない議論は不毛です。これらの〝不都合な事実〟を九州王朝説の視点でどのように解釈・説明できるのかという、わたしたち古田学派の論証力(考古学や文献史学の史料事実に基づき、論理的に説明する姿勢と説得力)が試されているのです。(つづく)

(注)
①古田武彦「『筑後川の一線』を論ず ―安本美典氏の中傷に答える―」『東アジアの古代文化』61号、1989年。
②古賀達也「洛中洛外日記」2461話(2021/05/14)〝「倭の五王」時代(5世紀)の考古学(3) ―須恵器窯跡群、筑後・肥後・豊後「空白の5世紀」―〟
③古賀達也「よみがえる倭京(太宰府) ─観世音寺と水城の証言─」『古田史学会報』50号、2002年6月。後に『古代に真実を求めて』12集(明石書店、2009年)に収録。
 古賀達也「観世音寺・大宰府政庁Ⅱ期の創建年代」『古田史学会報』110号、2012年6月。
 古賀達也「太宰府建都年代に関する考察 ―九州年号『倭京』『倭京縄』の史料批判―」『「九州年号」の研究』ミネルヴァ書房、2012年。

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