第2489話 2021/06/13

古田学派における「倭の五王」研究

 大和の考古学的出土事実と倭人伝の史料事実に基づき、関川尚功さん(元橿原考古学研究所員)は「邪馬台国」大和説批判を圧倒的な説得力で展開されました。その関川さんによる4世紀と5世紀の歴史認識が『考古学から見た邪馬台国大和説』(注①)にも少しだけ示されていますので、紹介します。

〝箸墓古墳と纒向遺跡の発展は4世紀
 このようにみると、箸墓古墳の造営が始まり、纒向遺跡が最も拡大化する庄内式末期から布留式の初めにかけての時期というものは、やはり4世紀に入ってからのことであろう。近畿大和に邪馬台国の痕跡というものが確認できない以上、ここに邪馬台国の同時代の箸墓古墳や纒向遺跡が存在するなどということは、ありえることではないからである。〟158頁

〝対外交流の盛んな大和・河内の5世紀
 このような対外的な交流をめぐり、大和地域の弥生後期・庄内期の遺跡と全く対照的な内容を示すのは、古墳時代中期・5世紀の状況である。
 5世紀は、中国宋王朝との通交が行われ、半島諸国とも大きな関わりをもつ、いわゆる「倭の五王」の時代である。この時期、大阪平野や奈良盆地には巨大古墳が群生し、当時の政権の中枢が近畿中部に存在したことは明らかである。
 そして古墳にみる副葬品はもちろん、この時期の遺跡を発掘すれば、それ以前にはみられなかった半島系の韓式・陶質土器や古式の須恵器、さらには馬の歯・骨などが出土するのである。
 この時代の大和・河内が、政治ばかりでなく、対外交流の面でも、その中心にあり、それと共に新来の文物が到来する様を、古墳や遺跡からまぎれもなく実感することができる。〟77~78頁

 このように、「邪馬台国」が北部九州にあったとする関川さんでも、4世紀には大和で政権が成立し、その政権が5世紀には「倭の五王」へ続くと理解されています。その根拠は他地域を凌駕する河内・大和の巨大古墳群の存在ですが、こうした結論に至る、関川さんの学問の方法は一貫しています。考古学的事実と文献史学における史料事実の解釈が整合すれば、その解釈を最有力説とする方法です。具体的には次のように述べられています。

〝箸墓古墳は墳丘長300m近い大型前方後円墳である。そして同じような墳形・規模をもつ古墳は、5世紀の百舌鳥・古市古墳群にもみることができる。これらの古墳群には、この時期最大級の現仁徳・応神陵を始めとする大型古墳がみられるが、その中には中国史書に倭国王として登場する人物の古墳が含まれていることは確実であろう。
 それならば、箸墓古墳は卑弥呼の墓ではありえない。箸墓古墳の被葬者は、このような倭国王と同じ系列の古墳につながる、大和政権にかかわりのある人物であるとしか言いようがないのである。〟163頁

 こうした関川さんの理解は、大和朝廷一元史観成立の最大の根拠になりつつあります。「邪馬台国」論争は、関川さんの著書に示されたように、ほぼ古田説と同方向(北部九州説)へと収斂しつつあるようですが、「邪馬台国」の後継勢力が4世紀に大和へ進出し、大和政権の基礎を築き、5世紀には圧倒的な巨大古墳群を築造した「倭の五王」に続くとする通説を形成しているのです。
 これこそ、わたしが提起した「九州王朝説に突き刺さった三本の矢」(注②)の《一の矢》に他なりません。これは、古田先生が提唱された多元史観・九州王朝説を是とする、わたしたち古田学派にとって避けることのできない課題です。考古学的事実に基づいて成立した「倭の五王」=「河内・大和の巨大前方後円墳の被葬者」という通説に、どう対峙するのかが問われています。本年11月の八王子セミナーで、この問題についてどのような議論が行われるのかが、わたしにとっての最大の関心事です。(つづく)

(注)
①関川尚功『考古学から見た邪馬台国大和説 ~畿内ではありえぬ邪馬台国~』梓書院、2020年。
②古賀達也「九州王朝説に刺さった三本の矢」(『古田史学会報』135、136、137号。2016年8、10、12月)、古賀達也「洛中洛外日記」1221~1254話(2016/07/03~08/14)〝九州王朝説に刺さった三本の矢(1)~(15)〟において、古田学派が説明しなければならないテーマとして、次の3点を指摘した。
【九州王朝説に突き刺さった三本の矢】
《一の矢》日本列島内で巨大古墳の最密集地は北部九州ではなく近畿(河内・大和)。
《二の矢》六世紀末から七世紀にかけての列島内での寺院(現存・遺跡)の最密集地は北部九州ではなく近畿。
《三の矢》全国に評制施行した九州王朝最盛期の七世紀中頃において、国内最大の宮殿・官衙群遺構は北部九州(大宰府政庁)ではなく大阪市の前期難波宮(面積は大宰府政庁の約十倍。東京ドームが一個半入る)であり、国内初の朝堂院様式の宮殿でもある。

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