大野城築城の時期
第260話などで紹介しました赤司善彦氏(九州国立博物館)の「筑紫の古代山城と大宰府の成立について−朝倉橘廣庭宮の記憶−」ですが、さすがに現地の専門家らしく、参考にすべき知見が数多く含まれた示唆的な論文でした。
たとえば、大野城の築城時期についても、出土した「孚石部」刻銘木柱が年輪年代測定から最外層が648年であり、伐採年もその付近と考えられ、従って大 野城築城時期も『日本書紀』記事の664年(天智4年)よりも溯ることを考慮すべきとされています。
なかなか鋭い指摘と思われました。もっとも、わたしは大野城の築城開始時期はもっと早いと考えていますが、「孚石部」刻銘木柱の年輪年代測定結果を知りませんでしたので、赤司氏の指摘も参考にすべきと思いました。
なお、「孚石部」刻銘は「孚石都」である可能性が高いと思うのですが、この「孚石都」の字義については、故飯田満麿さんの優れた考察があります。「大野城太宰府口出土木材に就いて」(『古田史学会報』75号2006年8月)という論文です。当ホームページにも掲載されていますので、この機会にご一読いただければ幸いです。
このテーマ以外にも赤司論文には、大宰府政庁1期下層の整地層に6世紀後半〜末頃の土器が多く含まれていたことも紹介されています。赤司氏はその時代の 古墳群や丘陵が切り崩され、整地層に混入したためとされていますが、単純に考えれば、6世紀後半〜末頃の土器を多く含んだ整地層の上に大宰府政庁1期が立 てられたのなら、その建てた時期は7世紀初頭と考えるべきではないかと思います。太宰府条坊都市=倭京の建都を九州年号の倭京元年(618年)とする、あ るいは九州年号の定居(611−617)年間に整地したと考えれば、わたしの説にピッタリですが、いかがでしょうか。