第271話 2010/07/11

「紫宸殿」「内裏」

地名研究の課題と可能性

  第270話で、「『紫宸殿』地名の歴史的由来や伝承も無いので、どのように捉えるか判断できずにいました」と述べました。と言うのも、地名研究を歴史学に応用や利用する場合の難しさを感じていたからです。
 
例えば、太宰府政庁跡にある「紫宸殿」「大裏(内裏)」という字地名は、古田先生による九州王朝説という体系的に成立した学説や考古学的遺跡の裏づけによ
り、ここに九州王朝の宮殿が存在していたという傍証力を有しますが、仮に他の地域にあった場合、そこに古代王朝の宮殿があったという論証力を地名自身は持
ち得ないからです。
  すなわち、地名がいつ付いたのか、誰により付けられたのか、どのような歴史的背景を持つのかは一般的には地名自身からは不明です。したがって他の史料や伝承、考古学的事実に基づく個別の論証が要求されるのです。
 
例を挙げれば、紀貫之が赴任した土佐の国府跡には「内裏」という字地名が残されていますし、大伴家持は越中の国府を「大君の遠の朝廷」と『万葉集』(巻十
七・4011、巻十八・4113)で歌っています。これら地名や歌により、土佐や越中に王朝があったと言うことは学問上できません。都から派遣された国司
が自らの赴任先の館を「内裏」と呼んだり、「遠の朝廷」と歌ったというケースを否定できないからです。
 ですから、伊予に「紫宸殿」という字地名があると今井さんが「発見」された時も、九州王朝や越智国の紫宸殿という魅力的な仮説に飛びつきたい衝動と同時に、土佐や越中と同じケースもあることが脳裏をよぎったのです。
 このように地名や地名研究を歴史学に利用する場合、多元史観に立つわたしたちはより慎重にならなければなりません。その点、九州や出雲は九州王朝・出雲
王朝の存在が既に安定した学説として成立していますから、こうした多元史観に立った地名研究が、歴史学に大きく寄与できる可能性があります。地名研究の限
界に配慮しながらも、新たな可能性にわたしは期待しています。

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