王朝交代の古代史
あけましておめでとうございます。
平成25年も興味をもっていただけるような充実した「洛中洛外日記」を綴っていきます。
1月12日の新年賀詞交換会で古田先生のお話を聞いた後は、2月24日(日)の東京での講演(多元的古代研究会主催)の準備に入ります。演題は「王朝交代の古代史 -七世紀の九州王朝-」です。
この数年、七世紀の九州王朝の復元研究にあたり、八世紀の大和朝廷との比較という研究方法を進めてきました。すなわち、701年を基点とした「王朝の相 似形」という視点で九州王朝の姿を推定するという方法です。例えば、列島の「全国」支配に必要な官僚群と官僚が勤務する役所は、その支配領域や律令支配の 形が九州王朝と大和朝廷でそれほど変わらなければ、両者は701年を基点として同じような規模や形式の宮殿・官衙を有していたはずという考え方です。
701年直近の大和朝廷の王宮は藤原宮や平城宮ですが、共に大極殿や朝堂院を有した当時としては巨大(列島内最大)なものです。中でも律令体制を維持す るための朝堂院と官衙群を持った王宮であることは、七世紀の飛鳥にあった近畿天皇家の宮殿と比較しても、その差は歴然としています。すなわち、列島内ナン バーワン(701以後)と臣下としてのナンバーツー(700以前)の差です。厳密にいえば、藤原宮は701年をまたいで存在していますので、その位置づけは複雑で、今後の研究課題です。
比べて、それらに匹敵する九州王朝の王宮・官衙は残念ながら大宰府政丁2期遺構は「内裏」も「朝堂院」も格段に見劣りがします。その理由も今後の研究課題です(白村江敗戦後の造営なのでこの程度の規模になったのではないか)。しかしながら、前期難波宮だけは藤原宮や平城宮に匹敵する規模と形式を有していますから、まさに九州王朝の副都にふさわしいのです。
2月24日(日)の東京講演ではこうした「王朝の相似形」という方法論を駆使した研究成果を発表します。関東の皆様にお聞きいただければ幸いです。