難波宮の礎石の行方
2012年最後の洛中洛外日記です。12月の関西例会で、わたしが前期難波宮について発表したとき、今後の検討課題とし て何故難波宮が上町台地最北端で最高地点でもある大阪城のある場所に造営されなかったのかという疑問をあげました。そして、難波宮よりやや高台にあたる現 大阪城の場所には別の建築物(逃げ城的な要塞など)があったのではないかというアイデアを示しました。
このとき西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人、会計担当)より、大阪城の地は石山本願寺があったところで、もともと「石」がたくさんあったため「石山」という地名がつけられたという情報が寄せられました。お面白いご意見でしたので、このことを大阪歴博学芸員の李陽浩(リ・ヤンホ)さんに尋ねました。
「石山」地名の由来については山根徳太郎さんの説だそうで、礎石などが遺っていたのではないかという説とのこと。そのことに関して、豊臣秀吉時代の大阪城石垣が出土していることを教えていただきました。発掘調査報告書(『大阪城跡?』大阪市文化財協会、2002年)を見せていただいたのですが、その石垣の中に建築物の礎石が転用されていることが写真付きで報告されていました。李さんの説明では、花崗岩の礎石であり、後期難波宮の礎石の可能性があるとのことでした。その根拠として、七世紀までの礎石は凝灰岩が使用されていることが多く、八世紀からは花崗岩が多く使われていることをあげられました。
難波宮の時代、その北側の大阪城がある場所には何があったと考えられますかと、李さんに質問したところ、おそらく神社など神聖な場所であったと考えているとのことでした。王朝(権力者)にとっても宮殿を造営することさえはばかられる場所として、神聖な「神社(神域)」説はなるほどと思いました。山根徳太郎さんの著作を読んでみる必要がありそうです。
前期難波宮が焼失後、その上に礎石造りの後期難波宮が造営され、その礎石が石山本願寺や大阪城に再利用され、その上に徳川家康の大阪城が造られたという ことになるのでしょうが、学術調査により明らかになりつつある歴史の変遷に不思議なものを感じます。こうしたことも歴史研究の醍醐味といえるでしょう。
さて、本年最後の洛中洛外日記もこれで終わりますが、ご愛読いただいた皆様に御礼申し上げます。それでは良いお年をお迎えください。