第2705話 2022/03/21

難波宮の複都制と副都(11)

 七世紀中頃に倭国(九州王朝)が採用した複都制は「権威の都・倭京(太宰府)」と「権力の都・難波京(前期難波宮)」の両京制であり、隋・唐の長安と洛陽の複都制に倣ったものとする仮説を本シリーズで発表しました。その痕跡が『養老律令』職員令の大宰府職員の「主神」ではないかと推定し、大宰主神の習宜阿曾麻呂が道鏡擁立に関わったことも、九州王朝の都「倭京(太宰府)」の権威に由来する事件だったように思われます。
 こうした一連の仮説とその論理を押し進めると、西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人、高松市)が早くから指摘されてきた〝前期難波宮は九州王朝の首都〟とする見解に至らざるを得ません(注①)。もちろん、複都制ですから太宰府(倭京)も首都に変わりはありません。「副都制」ではなく、「複都制」であればこの理解が可能であり、中国史書(『旧唐書』他)に〝倭国遷都〟記事が見えないことについても、説明が可能となります。
 前期難波宮首都説の到達点から改めて諸史料を見ると、『皇太神宮儀式帳』(延暦二三年・804年成立)の「難波朝廷天下立評給時」という記事が注目されます。〝難波朝廷が天下に評制を施行した〟という意味ですから、難波朝廷と言うからには難波を首都と認識した表現だったのです。すなわち「朝廷」とあるからには、そこは「首都」と考えなければならなかったのです。そして、七世紀中頃の国内最大の朝堂院様式の前期難波宮と条坊都市を持つ難波こそ、「難波朝廷」という表現がピッタリの九州王朝(倭国)の首都なのでした。また、創建当初から「難波朝廷」と呼ばれていたため、そうした呼称が後代史料に多出したのではないでしょうか。たとえば『皇太神宮儀式帳』の他にも次の史料が知られています(注②)。

(ⅰ)『日本書紀』天武十一年九月条
 「勅したまはく『今より以後、跪(ひざまづく)礼・匍匐礼、並びに止(や)めよ。更に難波朝廷の立礼を用いよ。』とのたまう。」
(ⅱ)『類聚国史』巻十九国造、延暦十七年三月丙申条
 「昔難波朝廷。始置諸郡」
(ⅲ)『日本後紀』弘仁二年二月己卯条
 「夫郡領者。難波朝廷始置其職」
(ⅳ)『続日本紀』天平七年五月丙子条
 「難波朝廷より以還(このかた)の譜第重大なる四五人を簡(えら)びて副(そ)ふべし。」

 そして、何よりも天子列席の下で白雉改元(652年)の儀式が行われており(注③)、その前期難波宮の地が首都であったとする他なかったのです。本シリーズでの考察を経て、ようやくわたしも確信を持ってこの認識に到達することができました。(おわり)

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」538話(2013/03/14)〝白雉改元の宮殿(4)〟
 古賀達也「白雉改元の宮殿 ―「賀正礼」の史料批判―」『古田史学会報』116号、2013年。後に『古代に真実を求めて』(17集、2014年)に収録。
②古賀達也「『評』を論ず ―評制施行時期について―」『多元』145号、2018年。
 古賀達也「文字史料による『評』論 ―『評制』の施行時期について―」『古田史学会報』119号、2013年。
③古賀達也「白雉改元の史料批判 — 盗用された改元記事」『古田史学会報』76号、2006年。後に『「九州年号」の研究』(ミネルヴァ書房、2012年)に収録

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