第2777話 2022/06/28

三井郡北野町弓削の法皇宮の祭神

 一昨日の久留米大学での講演で、神護景雲三年(769)に起きた宇佐八幡ご神託事件は九州王朝王族の復権のための物部系氏族(弓削氏、習宜氏)による〝共同謀議〟とする作業仮説(思いつき)をわたしが発表することを事前に予想されていたかのような資料を提供されたのが、地元久留米市の研究者、犬塚幹夫さん(古田史学の会・会員)でした。
 その資料とは、昭和62年(1987)発行の『北野町の神社と寺院』(注①)に収録された「法皇宮」のコピーです。三井郡北野町教育委員会によるもので、久留米市との合併前(注②)の資料です。同町は筑後川の北岸に位置し、小郡市の南側にあります。同地の上弓削にある法皇宮は以前から注目していた神社で、『北野町の神社と寺院』には次の解説があります。

 「一、法皇宮
   (北野町大字上弓削字屋敷に祀る)
 法皇宮は北野町上弓削の氏神で、祭神は後白河法皇を奉祀するといわれる。また弓削の道鏡を祀るとの説もある。法皇説としては棟瓦の中央と両端に菊花の御紋章が三ヶ所入れられていた。ところが戦時中に村の駐在所の指示により、勿体ないから取りはずせとのことで、これを処理したとのことであるが、その現物は現在残ってはいない。
 道鏡は奈良時代仏教の興隆期に太政大臣禅師、翌年に法王となり位人臣を極めたが、さらに天皇の位までうかがった。併し忠臣和気清麻呂に阻まれ下野国薬師寺の別当に貶され、宝亀三年(一二一六年前)配所で没した。この史実から逆臣であった道鏡が神に祀られるはずがなく、ただ弓削の姓から弓削の地名に通じたものであろうか。(後略)」

 この解説は一元史観を前提とした歴史認識に基づいており、わたしから見ると問題が多い解説です。法皇宮現地にある説明板の内容はこの認識よりも更に後退したもので、道鏡祭神説は記されていないようです。わたしの史料調査によれば、道鏡祭神は学者の「説」ではなく、現地伝承を伝えた史料事実なのです。たとえば江戸時代の地誌『太宰管内志』(注③)には、次のように法皇宮の祭神を道鏡とする伝承を記録しています。

「○弓削
 〔和名抄〕に御井郡弓削あり、(中略)〔筑後地鑑中巻〕に御井郡上弓削下弓削二村あり、弓削ノ杣ノ事はいまだ考へず、上弓削村に法皇宮あり道鏡ノ靈を祭れりと云」『太宰管内志』筑後之四(御井郡下)

 このように江戸時代の地誌には「道鏡ノ霊を祭れりと云」とあり、後白河法皇のことは見えません。従って、後白河法皇祭神説こそ明治以後に作られた「説」である可能性が大です。もちろんその理由は、明治以後の国家神道の台頭により、皇位簒奪を謀った悪人とされた道鏡(注④)を祀ることを憚ったためと思われます。(つづく)

(注)
①『北野町の神社と寺院』三井郡北野町教育委員会、昭和61年(1986)。
②三井郡北野町は2005年に久留米市と合併し、久留米市北野町になった。
③伊藤常足編『太宰管内志』天保十二年(1841)。歴史図書社刊、昭和44年(1969)。
④ウィキペディアでは、道鏡が「日本三悪人」の一人とされていることを紹介している。
〝道鏡(どうきょう、文武天皇4年(700年)? – 宝亀3年4月7日(772年5月13日))は、奈良時代の僧侶。俗姓は弓削氏(弓削連)で、弓削櫛麻呂の子とする系図がある。俗姓から、弓削 道鏡(ゆげ の どうきょう)とも呼ばれる。平将門、足利尊氏とともに日本三悪人と称されることがある。〟

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