九州王朝説に三本の矢を放った人々(5)
通説側からの「九州王朝説に刺さった三本の矢」(注①)への反論として考えた前期難波宮九州王朝複都説でしたが、通説側でも論争が続いていました。それは、この巨大な前期難波宮を孝徳期とするのか天武期とするのかというものでした。それぞれに根拠を持った見解でしたので簡単に決着が付きそうもありませんでした。文献史学では、孝徳紀の大化改新詔などの文言が七世紀中頃のものではなく、孝徳紀の記事が疑わしく、出土した前期難波宮も規模や様式が七世紀中頃の宮殿にふさわしくないとする見解が出されていました。
他方、考古学者からは出土土器編年や宮殿の北西部の谷から出土した干支木簡(「戊申年」648年)を根拠に、孝徳期とする見解が優勢でした。しかし、少数ですが天武期ではないかと考える考古学者もいました。たとえば難波の発掘に携わってこられた大阪歴博の考古学者、伊藤純さんもそのお一人でした。2012年9月、大阪歴博で伊藤さんに前期難波宮についてのご意見をうかがったところ、次のように答えられました(注②)。
「わたしは少数派(天武朝説)です。90数パーセント以上の考古学者は孝徳朝説です。しかし、学問は多数決ではありませんから。」
「学問は多数決ではない」というご意見には大賛成ですとわたしは述べ、考古学出土物(土器編年・634年伐採木樋年輪年代・「戊申年」648年木簡)などは全て孝徳期造営説に有利ですが、天武期でなければ説明がつかない出土物はあるのですかと質問しました。
伊藤さんの答えは明瞭でした。「もし、宮殿平面の編年というものがあるとすれば、前期難波宮の規模・様式は孝徳朝では不適切であり、天武朝にこそふさわしい。」というものでした。すなわち、孝徳期では大和朝廷の王宮の発展史から前期難波宮は外れてしまい、天武期と考えると適切ということなのです。それと同時に、出土した土器の編年からみると、「孝徳期説の方がすわりが良い」とも正直に述べられました。この発言を聞いて、自説に不利なことも隠さずに述べられる伊藤さんの考古学者としての誠実性を感じました。
この伊藤さんの〝前期難波宮の規模・様式は大和朝廷の王宮の発展史と整合しない〟とする見解こそ、前期難波宮は近畿天皇家(後の大和朝廷)の宮殿ではないとする、九州王朝複都説の根拠の一つでしたので、伊藤さんの見解を知り、わたしは自説への確信を深めました。(つづく)
(注)
①九州王朝説への《三の矢》「7世紀中頃の日本列島内最大規模の宮殿と官衙群遺構は北部九州(太宰府)ではなく大阪市の前期難波宮であり、最古の朝堂院様式の宮殿でもある。」
②古賀達也「洛中洛外日記」474話(2012/09/26)〝前期難波宮「孝徳朝説」の矛盾〟