七世紀の九州王朝都城の〝絶対条件〟
昨日は多元的古代研究会月例会でリモート発表させていただきました。テーマは「王朝交代の新都 ―藤原京(新益京)の真実―」で、藤原宮(京)は九州王朝(倭国)から大和朝廷(日本国)への王朝交代の舞台であるため、そこに遺された両王朝の接点としての考古学的痕跡(古代貨幣・地鎮具・造営尺・土壇)の視点から王朝交代の実態に迫りました。更に、「七世紀の九州王朝都城論」という最新研究テーマも追加発表しました。
この新テーマは同会の和田事務局長から打診されていた、本年11月の〝八王子セミナー2023〟での発表のために研究していたものです。その論旨は、九州王朝(倭国)の律令制時代(七世紀)の王都にとって絶対に必要な条件を提示し、その条件を満たしてる都城はどこであり、仮説の当否はこの〝絶対条件〟と整合する必要があるとするものです。その〝絶対条件〟とは少なくとも次の五点です。
《条件1》約八千人の中央官僚(注①)が執務できる官衙遺構の存在
《条件2》それら官僚と家族、従者、商工業者、首都防衛の兵士ら数万人が居住できる巨大条坊都市の存在
《条件3》巨大条坊都市への食料・消費財の供給を可能とする生産地や遺構の存在
《条件4》王都への大量の物資運搬(物流)を可能とする官道・水運の存在
《条件5》関や羅城などの王都防衛施設(注②)や地勢的有利性の存在
これらの条件を満たせない地を、律令制時代(七世紀)の九州王朝の王都とする仮説は〝空理空論〟との批判を避けられないでしょう。(つづく)
(注)
①服部静尚「古代の都城 ―宮域に官僚約八千人―」『古田史学会報』136号、2016年10月。『発見された倭京 ―太宰府都城と官道―』(『古代に真実を求めて』21集)に収録。
②「逃げ城」としての山城は、厳密な意味での王都の「防衛」施設とは言いがたい。この点、大野城や基肄城は太宰府防衛の羅城(水城・土塁)と一体化しており、王都防衛施設と見なし得る。