志賀島の「金印」か「銀印」か
本日の久留米大学公開講座では九州王朝の歴史の概略について説明し、特に学問の方法について意識的にふれました。冒頭、志賀島の金印の持つ論理性について述べ、金印は中国の王朝から見て、周囲の朝貢国内のナンバーワンの権力者に与えられるものであり、その金印が志賀島から出たのであれば、倭国の王者が北部九州にいた証拠であるとしました。
ちなみに、『三国志』倭人伝によれば卑弥呼には金印が下賜され、その部下の難升米には銀印が与えられたと記されています。このことから、金印は倭国のナンバーワンに与えられるのであり、ナンバーツー以下であれば銀印がふさわしいことがわかります。従って、志賀島の金印を従来説(近畿天皇家一元史観)のように「漢の委(わ)の奴(な)の国王」というように、大和朝廷(委)をトップとする下での奴国に与えられたとするのであれば、金印ではなく銀印か銅印でなければなりません。志賀島から出たのが金印ではなく銀印であれば、倭国のナンバーツー以下がもらったと言えないこともありませんが、事実は「志賀島の金印」であり「志賀島の銀印」ではないのです。
こうした「金印」と「銀印」の論理性に、今回の久留米大学での講演の準備をしていて気づきましたので、冒頭に話させていただいたものです。
講演の最後には、久留米出身の超有名古代人こそ九州王朝の天子・多利思北孤であり、その伝承が「聖徳太子」の事績として『日本書紀』などに盗用されていたことを『盗まれた「聖徳太子」伝承』に詳しく記したと紹介しました。おかげで会場に持ち込んだ同書を完売することができました。久留米の皆さん、お買い上げいただき、ありがとうございました。会場で販売していだいた不知火書房の米本様にも改めて御礼を申し上げます。