鞠智城と前期難波宮の「八角堂」比較
今回の久留米大学や和水町での講演会では大きな学問的収穫に恵まれました。なんといっても鞠智城を見学できたことは幸いでした。訪問当日、温故創生館は休館日だったにもかかわらず、木村龍生さんのご案内と解説によりとても勉強になりました。
たとえばわたしが最も関心を持っていた鞠智城の「八角堂(鼓楼)」について多くの知見を得ることができました。なかでも前期難波宮の「八角堂」との違いがよくわかり、共に九州王朝による造営と思われるのですが、その性格的違いの理由を改めて考えさせられました。
特に木村さんからの、前期難波宮の方には芯柱が無いという指摘は衝撃的で、遺跡の図面をよく見比べればわかることなのですが、指摘されるまでわたしは気づきませんでした。そして実際に鼓楼の内部に入ってみると、1階は柱だらけの印象で、内部に何かを保管したり、儀礼を行うというスペースはありません。ですから、鞠智城の場合は「八角堂」というような表現は適切ではなかったのです。「堂」であれば内部に一定のスペースが必要ですから。
この点、規模も大きく、芯柱も無い前期難波宮の場合は「八角堂」「八角殿」という表現が妥当です。こうした差異から、両者は「八角」という点では共通していますが、その使用目的や性格は異なると思われました。このことに気づいたのも、今回の成果の一つでした。
もう一つの相違点は、共に1対2棟の「八角堂」なのですが、前期難波宮は東西対称に同じ規模で並び、南北方向は正確に北を向いています。ところが鞠智城は南北に並び、南北軸は北とは無関係ですし、それぞれ大きさや柱の数も異なります。なお、同じ場所に新旧の「八角堂(鼓楼)」が立てられた痕跡があり、鞠智城の「八角堂」は新旧2対の計4棟あったことが明らかとなっています。そのうち1棟だけは礎石造りで、他の3棟は堀立柱構造です。
このように、鞠智城の「八角堂(鼓楼)」の向きがが磁北とずれていることは、その性格を理解する上で留意すべき点と思われます。この差異も、前期難波宮と鞠智城の「八角堂」の目的や性格が異なることを指し示しているように思われるのです。
(後記)本稿に対して西村秀己さんより、「一階が柱だらけ、ということで何のための建物かというイメージがつかみにくい。」という感想をいただきました。この通りで、わたしにもまだイメージが掴めていません。これからの課題です。