第968話 2015/06/03

鞠智城「8世紀代一時廃城」説

 木村龍生さんからいただいた鞠智城関連の報告書を読んでいます。今まで知らなかったことが数多く記されており、とても刺激的です。中でも鞠智城の編年研究において、8世紀代に鞠智城が一時廃城されていたとする説があることに驚きました。今回はそのことについてご紹介します。
 熊本県教育委員会編の『鞠智城跡Ⅱ ー論考編2ー』(2014年11月)所収の向井一雄さんの「鞠智城の変遷」によれば、「少なくとも8世紀初頭以降、鞠智城は新規の建築はなく、停滞期というよりも一旦廃城となっている可能性が高い。貯水池の維持停止もそれを裏付けよう。最前線の金田城が廃城になり、対大陸防衛の北部九州〜瀬戸内〜機内という縦深シフトからも外れ、九州島内でも防衛正面から最も遠い鞠智城が8世紀初頭以降も大野城と同じように維持されたというのは、これまで大きな疑問であったが、「8世紀代一時廃城」説が認められるのならば、疑問は解消される。」(89頁)とあります。
 考古学的事実に基づいた鞠智城一時廃城説ですが、その理由の説明が「説明」になっていません。「対大陸防衛の北部九州〜瀬戸内〜機内という縦深シフトからも外れ、九州島内でも防衛正面から最も遠い鞠智城」と一元史観による解釈では、その状況は7世紀でも同様ですから、8世紀初頭に廃城しなければならない説明になっていません。というよりも、この存在理由であれば鞠智城は大和朝廷にとって、そもそも必要ではないからです。
 鞠智城が7世紀末まで機能し、8世紀初頭に一時廃城されたとする考古学的事実は、古田先生が指摘された701年のONライン、すなわち列島の代表王朝が九州王朝から近畿天皇家に交代したという九州王朝説により説明可能なのです。鞠智城8世紀初頭一時廃城説は九州王朝説を支持する考古学的事実だったのです。やはり、鞠智城を九州王朝による造営とするわたしの推察は妥当だったようです。なお、鞠智城の編年については更に報告書を精査してから、解説したいと思います。

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