三十年前の論稿「二つの日本国」 (9)
「洛中洛外日記」前話に続いて、「二つの日本国 ―『三国史記』に見える倭国・日本国の実像―」から、「四、新羅と近畿天皇家」(後半)を転載します。
『三国史記』新羅本紀では九州王朝の後裔を日本国と記述し、大和朝廷を倭国と表している事例(哀荘王三年十二月条)があるなど、『旧唐書』の倭国(九州王朝)・日本国(大和朝廷)とは真逆の国名表記となっていることには、どのような歴史背景があったのか、それとも『三国史記』編纂時の認識や情報の混乱によるものなのか、興味深い問題です。もしかするとこれは、『旧唐書』と『新唐書』での倭国と日本国の併合関係、すなわち、どちらの国がどちらの国を併合したのかという、その関係が両書では逆転しているように見えることとも関係するのかもしれません。
【以下転載】
四、新羅と近畿天皇家(後半)
『三国史記』『続日本紀』ともに、相手の無礼を主張しているが、具体的には何を意味するのか。おそらく、その一つは列島代表者としての近畿天皇家の認知に関することと想像される。『三国史記』の記述から見る限り、新羅は九州王朝のみを日本国として認知し、近畿天皇家に対しては、実際には使節が往来しているにもかかわらず、それを記さないという態度をとっている。ようするに、日本国の代表とは認めていないのである。先にあげた、国書不在の口頭外交もそのことの現れではあるまいか。かかる対応は『旧唐書』の記す所の、中国側の態度とは正反対である。したがって、近畿天皇家にすれば、中国から認知されているにもかかわらず、新羅が認知しないことを「礼を欠く」としたのではないか。
こうした一連の新羅と近畿天皇家、および東アジアの緊張状態を視野に入れた時、新羅が王族の一人、均貞を仮の王子として「倭国」へ人質に差し出そうとして本人の拒絶にあうという、先の『三国史記』の記事の内実が理解できるのである。これら『続日本紀』に記された近畿天皇家と新羅の国交記事からも、『三国史記』八〇二年条の「倭国」が、「日本国」=九州王朝との別国表記とすれば、それは近畿天皇家を指すという理解が妥当性を持つと考えられるのである。また、次節でふれるが、九州王朝は「倭」の字を嫌い、逆に近畿天皇家は自らの都を「大倭(やまと)」としていることから、この「倭」は「やまと」の意であるとの思量も可能であろう。
さて、これら一連の論証は必然的に次のテーマを明らかとする。それは古田氏が倭国(九州王朝)から日本国(近畿天皇家)への中心権力の移動時期を論証する際の根拠とされた。『三国史記』文武王十年(六七〇)の記事は、その文面が示すとおり九州王朝の国号変更、すなわち倭国から日本国への変更記事と見るべきあったこと、これである。なぜなら、『三国史記』における倭国(六七〇年以前)と日本国(六七〇年以後)が同じ国である以上、文武王十年条の記事はそのまま国号変更記事と見るのが道理だからだ。古田氏は『旧唐書』の文脈によって倭国=九州王朝、日本国=近畿天皇家とされ、その定理を『三国史記』にまで援用されたのだが、その方法が否であること、これが一連の論証の帰結であった。次章ではこの帰結に立脚して、日本国という国号成立について論を進める。
【転載おわり】(つづく)