第3156話 2023/11/10

三十年前の論稿「二つの日本国」 (11)

 「二つの日本国 ―『三国史記』に見える倭国・日本国の実像―」から、「五、二つの日本国」の後半部分を転載します。ここでは、これまでの『三国史記』の国名表記の史料批判の結果、七〇一年の王朝交代後の八世紀~九世紀における、「二つの日本国」(九州王朝と近畿天皇家)という新たな概念が必要としました。

【以下転載】
五、二つの日本国(後半)

 そうすると次に問題となるのが、近畿天皇家の日本国への更号の時期であるが、直接そのことを記した史料はないので、総合的な判断が必要となる。それでは検討してみよう。まず、その上限であるが、『新唐書』の次の記述「或は云ふ、日本は乃ち小国、倭の併す所と為る。故にその号を冒せり、と。」を信用するならば、その更号は九州王朝から列島の代表権を奪って以後と考えられる。そうすると、その候補としてまず指摘できるのは、九州年号が終わって、近畿天皇家最初の年号「大宝」が建元された年、七〇一年だ。次に下限は明白だ。『日本書紀』が成立した年、七二〇年である。なぜならその書名が示すとおり、自らの国名を日本国としてその歴史を編纂したものだからだ。また、七一二年に成立した『古事記』で、天皇名などに使用されていた「倭」の字が、『日本書紀』では「日本」と改められていることからも、当時の近畿天皇家が日本国を名乗っていたことは自明である。

 こうして上限は一応七〇一年が有力、そして下限は七二〇年とできるが、『旧唐書』帝紀長安二年(七〇二)に「冬十月、日本国遣使貢方物。」という記事が見えることから、七〇二年には日本国という国号が中国から承認されていたとも考えられよう。

 以上の考えをまとめると、六七〇年に倭国(九州王朝)は国号を日本国と改めた。その後、列島の中心権力者となった近畿天皇家は日本国(九州王朝)の国号を受け継ぎ、遅くとも七〇二年には中国からも日本国の代表者であることを承認された(国際承認)。こうした一連の動きが、『旧唐書』では倭国(九州王朝)・日本国(近畿天皇家)という別国表記として、『新唐書』では日本国(近畿天皇家)のみの立伝として表現された。また、『三国史記』では倭国、日本国とも九州王朝のこととして記されており、例外的に近畿天皇家も顔を出していた、このように言えそうだ。したがって、これら外国史書を理解する場合、二つの日本国(九州王朝と近畿天皇家)という新たな概念が必要となろう。そして、この「二つの日本国」という概念導入により、従来謎とされてきた、いくつかの問題の解決が可能と思われる。(つづく)
【転載おわり】

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