第3171話 2023/12/04

空理空論から古代リアリズムへ (2)

 前期難波宮「九州王朝複都」説を論文発表したのは2008年ですが、口頭では古田先生への問題提起を皮切りに関西例会などでそれ以前から発表してきました。ところが古田先生から批判されたこともあってか、古田学派内から様々な批判がなされました。そのおかげで、再反論のために土器編年や関連遺構の調査、前期難波宮や難波京を発掘した考古学者たちへのヒアリングなどを実施し、わたし自身も大変勉強になりました。まさに〝学問は批判を歓迎し、真摯な論争は研究を深化させる〟を実体験できました。

 他方、これはいかがなものかと思うような〝批判〟もありました。たとえば、前期難波宮のような大規模な遺構は出土しておらず、大阪市や大阪府の〝地域おこし〟のために造作されたもので、古賀はそれを自説の根拠にしているというものです。こうした批判は、難波宮(難波京)を数十年にわたり発掘調査してきた大阪の考古学者に対して甚だ失礼なものでした。

 また、次のような批判も最近まで繰り返されています。云わく、〝文献的裏付けは何もなく、考古学的裏付けもなく、根拠となるのは「七世紀半ば、近畿天皇家が巨大王宮を建設するのを九州王朝が許すはずがない」という古賀達也氏の思考だけ〟というものです。

 この批判を受けて、わたしがこれまで発表してきた関連論文のリストを作成し、こうした批判が事実に基づかない「空理空論」であることを明らかにし、わたしの論文を正確に引用したうえで、事実に基づいた具体的な批判をいただけるよう努力しなければならないと、反省するに至りました。そこでこれまで発表した関連論文のリストを公表することにしました(多元的古代研究会の会誌『多元』に投稿させていただきました)。

2008年に発表した同テーマ最初の論文「前期難波宮は九州王朝の副都」を筆頭に、現在まで約50編の論文をわたしは発表してきました。論文の他に「洛中洛外日記」にも、関連する小文が多数あります(論文と内容が重複するものも含め、200編以上)。抜け落ちがあるかもしれませんが、各会誌・書籍で発表したそれらの論文・発表年を以下に列挙します。

《難波宮に関する論文・講演録》
【古田史学会報】古田史学の会編
① 前期難波宮は九州王朝の副都 (八五号、二〇〇八年)
② 「白鳳以来、朱雀以前」の新理解 (八六号、二〇〇八年)
③ 「白雉改元儀式」盗用の理由 (九〇号、二〇〇九年)
④ 前期難波宮の考古学(1) ―ここに九州王朝の副都ありき― (一〇二号、二〇一一年)
⑤ 前期難波宮の考古学(2) ―ここに九州王朝の副都ありき― (一〇三号、二〇一一年)
⑥ 前期難波宮の考古学(3) ―ここに九州王朝の副都ありき― (一〇八号、二〇一二年)
⑦ 前期難波宮の学習 (一一三号、二〇一二年)
⑧ 続・前期難波宮の学習 (一一四号、二〇一三年)
⑨ 七世紀の須恵器編年 ―前期難波宮・藤原宮・大宰府政庁― (一一五号、二〇一三年)
⑩ 白雉改元の宮殿 ―「賀正礼」の史料批判― (一一六号、二〇一三年)
⑪ 難波と近江の出土土器の考察 (一一八号、二〇一三年)
⑫ 前期難波宮の論理 (一二二号、二〇一四年)
⑬ 条坊都市「難波京」の論理 (一二三号、二〇一四年)
⑭ 「要衝の都」前期難波宮 (一三三号、二〇一六年)
⑮ 九州王朝説に刺さった三本の矢(前編) (一三五号、二〇一六年)
⑯ 九州王朝説に刺さった三本の矢(中編) (一三六号、二〇一六年)
⑰ 九州王朝説に刺さった三本の矢(後編) (一三七号、二〇一六年)
⑱ 「倭京」の多元的考察 (一三八号、二〇一七年)
⑲ 律令制の都「前期難波宮」 (一四五号、二〇一八年)
⑳ 九州王朝の都市計画 ―前期難波宮と難波大道― (一四六号、二〇一八年)
㉑ 古田先生との論争的対話 ―「都城論」の論理構造― (一四七号、二〇一八年)
㉒ 九州王朝の高安城 (一四八号、二〇一八年)
㉓ 前期難波宮「天武朝造営」説の虚構 ―整地層出土「坏B」の真相― (一五一号、二〇一九年)
㉔『日本書紀』への挑戦《大阪歴博編》 (一五三号、二〇一九年)
㉕ 難波の都市化と九州王朝 (一五五号、二〇一九年)
㉖ 都城造営尺の論理と編年 ―二つの難波京造営尺― (一五八号、二〇二〇年)

【古代に真実を求めて】古田史学の会編、明石書店
㉗ 「白雉改元の宮殿 ―「賀正礼」の史料批判―」 (十七集、二〇一四年)
㉘ 九州王朝の難波天王寺建立 (十八集、二〇一五年)
㉙ 柿本人麿が謡った両京制 ―大王の遠の朝庭と難波京― (二六集、二〇二三年)

【「九州年号」の研究】古田史学の会編、ミネルヴァ書房、二〇一二年
㉚ 白雉改元の史料批判
㉛ 前期難波宮は九州王朝の副都

【多元】多元的古代研究会編
㉜ 古賀達也氏講演会報告(宮崎宇史)「太宰府と前期難波宮 ―九州年号と考古学による九州王朝史復元の研究―」 (九七号、二〇一〇年)
㉝ 古賀達也氏講演録(宮崎宇史)「王朝交替の古代史 ―七世紀の九州王朝―」 (一一五号、二〇一三年)
㉞ 白雉改元の宮殿 ―「賀正礼」の史料批判― (一一七号、二〇一三年)
㉟ 感想二題 ―『多元』一四二号を拝読して― (一四四号、二〇一八年)
㊱ 「評」を論ず ―評制施行時期について― (一四五号、二〇一八年)
㊲ 九州王朝の黄金時代 ―律令と評制による全国支配― (一四八号、二〇一八年)
㊳ 難波から出土した筑紫の土器 ―文献史学と考古学の整合― (一五三号、二〇一九年)
㊴ 前期難波宮出土「干支木簡」の考察 (一五七号、二〇二〇年)
㊵ 天武紀「複都詔」の考古学的批判 (一六〇号、二〇二〇年)
㊶ 七世紀の律令制都城論 ―中央官僚群の発生と移動― (一七六号、二〇二三年)

【東京古田会ニュース】古田武彦と古代史を研究する会編
㊷ 前期難波宮九州王朝副都説の新展開 (一七一号、二〇一六年)
㊸ 前期難波宮の考古学 飛鳥編年と難波編年の比較検証 (一七五号、二〇一七年)
㊹ 前期難波宮「天武朝」造営説への問い (一七六号、二〇一七年)
㊺ 一元史観から見た前期難波宮 (一七七号、二〇一七年)
㊻ 難波の須恵器編年と前期難波宮 ―異見の歓迎は学問の原点― (一八五号、二〇一九年)
㊼ 古代山城研究の最前線 ―前期難波宮と鬼ノ城の設計尺― (二〇二号、二〇二二年)

 以上のタイトルだけでも、その内容が多岐多面にわたることを理解していただけるのではないでしょうか。考古学関連論文も少なくありません(④⑤⑥⑨⑪⑫⑬⑳㉓㉔㉕㉖㊳㊴㊵㊷㊸㊼が該当)。筑紫(糸島博多湾岸等、九州王朝中枢領域)の須恵器が難波から出土していることも論文㊳で紹介しました。
このように、わたしが書いた研究テーマとしては、九州年号研究に次ぐ論文数なのです。〝「七世紀半ば、近畿天皇家が巨大王宮を建設するのを九州王朝が許すはずがない」という古賀の思考だけ〟では、これだけの論文は書けないことをご理解いただけるものと思います。

 なお、これらの論文の多くは、古田先生に読んで頂くことを念頭に書き続けたものです。その結果、2014年(平成26年)の八王子セミナーでは、参加者からの「前期難波宮九州王朝副都説に対してどのように考えておられるのか」という質問に対して、「検討しなければならない」との返答がなされました。このときが最後の八王子セミナーとのことでしたので、わたしは初めて参加し、会場の片隅で聞いていました。先生からはいつものように批判されるものと思っていたのですが、「検討しなければならない」との言葉を聞き、その夜はうれしくてなかなか眠れませんでした。もちろん前期難波宮九州王朝副都説にただちに賛成されたわけではありませんが、はじめて古田先生から検討すべき仮説として認めていただいた瞬間でした。しかしながら、検討結果をお聞きすることはついに叶いませんでした。その翌年に先生は亡くなられたからです(2015年10月14日没、89歳)。(つづく)

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