「東西・南北」正方位遺構の年代観 (3)
九州王朝(倭国)がいつ頃から正方位を意識し、正確に正方位を確定することができたのでしょうか。このことについて、今までも論議や検討を続けてきましたが、技術的課題については一応有力な見解に到達しています。既に先行研究もあり、各分野では常識となっていると思いますが、東西方向については春分・秋分の日の、日の出と日の入りの方向を結ぶことで東西方向を確定できます。この観測により、古代人は東西方向(緯線)を求めたと思われます。南北方向(経線・子午線)はこの東西線に直角に交差した直線であり、北方向は北極星により定めたと思われます。
こうした観測技術により、「東西・南北」正方位を決めることができますが、実際にそうした技術を用いた痕跡(遺構)も発見されています。たとえば、福岡県春日市の日拝塚古墳(六世紀中頃の前方後円墳)が有名です。『春日風土記』(注①)には同古墳を次のように説明しています。
「下白水本村の南と北に、二つの大型古墳があります。日拝(ひはい)塚と大塚です。
南西約五〇〇メートルの河岸段丘上にある日拝塚古墳は、墳丘の長さ三四メートル、基壇を入れると四七メートル。周溝を備えた前方後円墳で六世紀中ごろの築造、儺県の首長墓とみられています。
墳丘は正しく東西方向を示し、春秋の彼岸の頃には、主軸の延長上にある筑紫野市の大根地山頂に日の出を拝することができるといわれ、この古墳の呼称の由来となっています。」103頁
このような説明があり、大塚古墳も東西方向を向いているとのことです(正方位かどうかは未詳)。太宰府の近傍に東西正方位を主軸に持つ六世紀中頃の古墳が存在することから、遅くともこの時代には東西正方位を意識し、観測により緯線を確定する技術があったことがわかります。
南北正方位については、太宰府条坊都市の右郭中心部の扇神社(王城神社)は、真北(北極星)と真南の基山山頂(基肄城)を結んだ線上にあり、太宰府条坊都市造営にあたり、基山山頂はランドマークの役割を果たしたとする説が、井上信正さん(注②)により発表されています。すなわち、条坊都市の右郭中心に宮殿(王城神社の地。小字「扇屋敷」)を置き、その位置決定に北極星と南の基山山頂を結ぶラインを採用し、それを政庁Ⅰ期時代の「朱雀大路」(政庁Ⅱ期時代の右郭二坊路に相当)にしたと思われます。
以上の例から、九州王朝では東西正方位ラインの設定は古墳時代には技術的に可能であり、南北正方位ラインは太宰府条坊都市の設計において採用されていますので、「東西・南北」正方位の太宰府条坊都市造営を可能とする測量技術は、遅くとも六世紀中頃にはあったと考えて問題ないと思われます。(つづく)
(注)
①春日市郷土史研究会編『春日風土記』春日市教育委員会、1993年。
②井上信正「大宰府の街区割りと街区成立についての予察」『条里制・古代都市研究 17号』条里制・古代都市研究会、2001年。
同「大宰府条坊について」『都府楼』40号、2008年。
同「大宰府条坊区画の成立」『考古学ジャーナル』588号、2009年。