第3226話 2024/02/14

難波京条坊研究の論理 (3)

 難波京(前期難波宮)には条坊があったとする、わたしの論理的予察が条坊跡出土により立証されましたが、わたしには、もう一つの重要な検証テーマがありました。それは、難波京の条坊造営が開始されたのはいつ頃からかという問題でした。

 前期難波宮を九州王朝の王都王宮とするわたしの仮説からすれば、あるいは一元史観の通説に立っても、その宮殿や官衙は全国を評制統治するために造営したのであり、そうであれば大勢の中央官僚やその家族、そしてその生活を支える商工業者が居住可能な巨大条坊都市が成立していなければならず、王宮・官衙と同時期に条坊都市設計・造営がなされたはずと考えていました。列島内最大規模で初の朝堂院様式の宮殿・官衙と、そこで執務する多数(数千人)の中央官僚とその家族の居住施設を、同時に設計・造営するのは当然のことではないでしょうか。古代史学が空理空論でなければ、そう考える他ありません。ですから、前期難波宮には条坊都市が伴っていたはずと、わたしは確信していました。この確信は、古田先生から学んだソクラテスの言葉〝論理の導くところへ行こう。たとえそれが何処に至ろうとも〟という学問精神に支えられていました。

 他方、難波京条坊の造営を聖武期(注①)、後に天武期(注②)からとする積山洋さんの説が発表され、有力視されてきました。難波を発掘調査してきた積山さんの研究と経験に基づく仮説ですから、考古学の専門家でもないわたしにとって、克服すべき大きな課題となったのです。(つづく)

(注)
①積山洋「古代都城と難波宮の研究」大阪市立大学、学位論文(文学博士)、2009年。
②同『古代の都城と東アジア(大極殿と難波京)』清水堂出版、2013年。

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