第3378話 2024/11/12

王朝交代前夜の天武天皇 (5)

 本シリーズの最後に、『日本書紀』天武紀に記された天武の和風諡号「天渟中原瀛真人天皇」(あまのぬなはらおきのまひとのすめらみこと)について考察します。

 『日本書紀』の成立は720年であり、厳密には天武天皇と全くの同時代の史料とは言えません。しかしながら、同諡号は天武天皇が崩御(686年)したときに遺族(天武の子ら)により付けられたものと考えられることから、「天渟中原瀛真人天皇」そのものは崩御時の史料に基づいて、天武の子や孫の世代により『日本書紀』に記されたものと考えざるを得ません。

 この天武の諡号で注目されるのが、「天皇」でありながら「真人」が付されていることです。天武紀によれば、真人とは、天武十三年(684)に制定した八色(やくさ)の姓(カバネ)の一つです。上位から順に、真人(マヒト)・朝臣(アソミ)・宿禰(スクネ)・忌寸(イミキ)・道師(ミチノシ)・臣(オミ)・連(ムラジ)・稲置(イナギ)とあり、八色の姓で臣下第一の「真人」姓が、崩御後に天武天皇の諡号に採用されているのです。この事実の持つ意味は重いと思います。

 この『日本書紀』天武紀の記述が正しければ、天皇が臣下に与える「八色の姓」を天武十三年(684)に制定し、その二年後に天武の子らは天武の諡号として「真人天皇」を選んだことになり、これは一元史観の通説では説明し難いことです。そのため、諡号の真人は道教思想の真人(しんじん)のことであり、八色の姓の真人(まひと)とは異なるとする理解も出されているようですが、これはかなり無茶な言いわけではないでしょうか。その言葉の淵源が「真人(まひと)」であろうが「真人(しんじん)」であろうが、天武紀に八色の姓制定記事を載せ、その臣下第一の「真人」を天武の諡号に採用したという事実にかわりはないからです。

 しかし、多元史観・九州王朝説に立てば、八色の姓を制定したのは九州王朝の天子であり、その第一の臣下である天武天皇に「真人」姓を与えたという理解が可能です。飛鳥出土の荷札木簡によれば、九州を除く列島諸国を統治していた天武天皇ですが、王朝交代前夜の時代では九州王朝の天子が倭国全体を「治天下」しているという大義名分がまだ成立していたものと思われます。その根拠の一つとして、七世紀第4四半期に九州年号が使用されていたという史料事実もあります(注)。

 以上、本シリーズで紹介した同時代エビデンスは、王朝交代前夜の九州王朝下のナンバーツーとしての天武天皇の姿に迫ることができたように思われます。これからも九州王朝研究を同時代のエビデンスベースで進めていきます。(おわり)

(注)「白鳳壬申(672年)骨蔵器」や「朱鳥三年戊子(688年)鬼室集斯墓碑」、「大化五子年土器(699年、骨蔵器)」などの同時代金石文が九州年号の存在を証明している。

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