第3455話 2025/03/22

唐詩に見える王朝交代の列島 (6)

王維の「九州」、古田説と中小路説の衝突

 古田先生は王維の詩に見える「九州」に注目し、それを九州王朝の故地である「九州島」、あるいは「九州王朝」そのものを意味するとされ、中小路先生はその読みは成立しないと批判しました。恩師の説と尊敬する古典文学者の意見が衝突したのですから、わたしはもとより、古田学派内で静かな衝撃がはしりました。それは次の詩に見える「九州」です。

❷《秘書晁監の日本國に還るを送る》王維(699?~759?年)
積水不可極 安知滄海東
「九州」何處所 萬里若乘空 →「所」を「遠」「去」とする版本がある。
向國唯看日 歸帆但信風
鼇身映天黑 魚眼射波紅
郷樹「扶桑」外 主人孤島中
別離方異域 音信若為通
(巻一二七)

 阿倍仲麻呂が日本国へ帰国の際に王維が作ったとされる詩です。古田先生はこの詩の「九州何處所」を〝九州は何処(いずれ)の所ぞ〟と読み、この九州を九州島のこととされました。すなわち、仲麻呂は九州王朝の故地で唐詩で扶桑とよばれる九州島に帰ると理解したのです。すなわち、仲麻呂九州出身説です。従って、「郷樹扶桑外」を〝郷樹は扶桑の外〟では、仲麻呂の郷土は扶桑(九州王朝)の外(大和朝廷)となるため、〝郷樹扶桑は外〟と読み、仲麻呂の故郷にある樹、扶桑(九州島)は中国から遠く離れた「外」にあると解釈しました(注①)。

 この古田先生の解釈に対して、中小路先生は、当時の漢文において「○○外」とあれば、〝○○の外側〟の意味であり、古田説のように〝○○は外〟と読むのであれば、その前例を提示すべきと批判しました(注②)。古典文学者として中小路先生は、前例のない古田先生の読みを認めることはできないとされたのです。

 このお二人の意見の衝突に、古田学派のほとんどの研究者は〝沈黙〟し、息をひそめて論争の成り行きを見ていたように思います。どちらの主張にも根拠があり、どちらを是とすべきか判らなかったのではないでしょうか。少なくともわたしはそうでした。また、古田先生と中小路先生は論文の他にも、電話でも論争を続けておられました。当時、中小路先生はお病気で、古田先生との長時間の電話による会話(論争)は息が切れて続けられない状況でした。そうした事情もあって、この論争は決着がつかないまま、中小路先生が亡くなられました(2006年没)。(つづく)

(注)
①古田武彦「日中関係史の新史料批判 ―王維と李白―」『古田武彦講演集98』古田史学の会編、1991年。
古田武彦・福永晋三・古賀達也「九州の探求」『九州王朝の論理 「日出ずる処の天子」の地』2000年、明石書店。
②中小路駿逸「王維が阿倍仲麻呂に贈った詩にあらわれる「九州」、「扶桑」および「孤島」の意味について」『中小路駿逸遺稿集 九州王権と大和王権』海鳥社、2017年。

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