第3513話 2025/08/09

「海の正倉院」

  沖ノ島祭祀遺跡の中の王朝交替(4)

 宗像大社沖津宮で玄界灘の孤島、沖ノ島からは4世紀頃~9世紀頃にわたる夥しい奉献品が出土しており、その全てが国宝に指定されています。そのため沖ノ島は「海の正倉院」とも呼ばれています。島の中腹にある祭祀遺跡は4期に分かれ、次のように編年されています。

❶ 岩上祭祀遺跡 4世紀後半~5世紀
❷ 岩陰祭祀遺跡 5世紀後半~7世紀
❸ 半岩陰・半露天祭祀遺跡 7世紀後半~8世紀
❹ 露天祭祀 8世紀~9世紀

 これらの遺跡はおおよそ次のように説明されてきました。

❶ 岩上祭祀遺跡 4世紀後半~5世紀
4世紀後半、対外交流の活発化を背景に巨岩上で祭祀が始まる。岩と岩とが重なる狭いすき間に、丁寧に奉献品が並べ置かれた。祭祀に用いた品は、銅鏡・鉄剣等の武具、勾玉等の玉類が中心で、当時の古墳副葬品と共通する。鏡・剣・玉は三種の神器(王権のシンボル)といわれ、後世まで長く祭祀で用いられる組み合わせ。

❷ 岩陰祭祀遺跡 5世紀後半~7世紀
5世紀後半になると、祭祀の場は庇(ひさし)のように突き出た巨岩の陰へと移る。岩陰祭祀の奉献品には、鉄製武器や刀子・斧などのミニチュア製品、朝鮮半島からもたらされた金銅製の馬具などがある。金製指輪は新羅の王陵から出土した指輪と似ており、ペルシャ製のカットグラス碗片はシルクロードを経て倭国にもたらされたと考えられる。

❸ 半岩陰・半露天祭祀遺跡 7世紀後半~8世紀
岩陰祭祀の終わり頃(22号遺跡)から半岩陰・半露天祭祀(5号遺跡)にかけて、奉献品に明確な変化がみられるようになる。従来のような古墳の副葬品とは異なる金銅製の紡織具や人形、五弦の琴、祭祀用の土器など、祭祀のために作られた奉献品が目立つようになる。

❹ 露天祭祀 8世紀~9世紀
8世紀になると、巨岩群からやや離れた露天の平坦地に祭祀の場が移る。大石を中心とする祭壇遺構の周辺には大量の奉献品が残されている。露天祭祀出土の奉献品は、祭祀用土器を含む多種多様な土師器・須恵器、人形・馬形・舟形等の滑石製形代が中心。それ以前とは激変する。奉献品は宗像地域独特の形状や材質で製作されていることから、宗像地域の豪族による祭祀が続いたと考えられる。

 ❶❷❸の奉献品は、王権からの祭祀品としてそれぞれの時代にふさわしい物ですが、8世紀の❹になると、それ以前とは激変し、「宗像地域独特の形状や材質で製作されていることから、宗像地域の豪族による祭祀」へと祭祀主宰者の変化を示しています。この3期と4期とでの奉献品の様相の激変は、沖ノ島の祭祀はヤマト王権が続けてきたとする、近畿天皇家一元史観による通説では説明できません。これは7世紀から8世紀にかけての王朝交代の痕跡であり、すなわち九州王朝(倭国)から大和朝廷(日本国)への王朝交代を示しているのです。(つづく)

フォローする