第1053話 2015/09/13

瓦の編年と大越論文の意義

 「洛中洛外日記」1014話『九州王朝説への「一撃」』で、わたしは九州王朝説がかかえている課題として次のような指摘をしました。

 「九州王朝の天子、多利思北孤が仏教を崇拝していたことは『隋書』の記事などから明らかですが、その活躍した7世紀初頭において、寺院遺跡が北部九州にはほとんど見られず、近畿に多数見られるという現象があります。このことは現存寺院や遺跡などから明確なのですが、これは九州王朝説を否定する一つの学問的根拠となりうるのです。まさに九州王朝説への「一撃」なのです。
 7世紀後半の白鳳時代になると太宰府の観世音寺(「白鳳10年」670年創建)を始め、北部九州にも各地に寺院の痕跡があるのですが、いわゆる6世紀末から7世紀初頭の「飛鳥時代」には、近畿ほどの寺院の痕跡が発見されていません。これを瓦などの編年が間違っているのではないかとする考えもありますが、それにしてもその差は歴然としています。」

 軒丸瓦の基本的編年として、6世紀末から7世紀初頭に現れる「単弁蓮華文」から、7世紀後半頃から現れる「複弁蓮華文」が著名ですが、こうした編年観から九州には7世紀前半以前の寺院が見られないとされてきたのです。
 この九州王朝説にとって課題とされているテーマに挑戦された優れた論文があります。『Tokyo古田会News』(古田武彦と古代史を研究する会)94号(2004年1月)に掲載された大越邦生さんの「コスモスとヒマワリ 〜古代瓦の編年的尺度批判〜」です。同論文で大越さんは軒丸瓦の編年観に対して次のように疑義を示されました。

 「白鳳期以前の九州から、複弁蓮華文(ヒマワリ型)は本当に出土しないのだろうか、の問いである。白鳳期以前の複弁蓮華文(ヒマワリ型)は九州に存在する。それどころか、九州を淵源とした文様の可能性すらある。その事例を挙げよう。」とされ、「石塚一号墳(佐賀県佐賀郡諸富町)出土の装飾品」を次のように紹介されています。

 「筑後川河口近くの石塚一号墳は六世紀後半の古墳といわれる。ここから華麗な馬具や蓮華文をほどこした装飾品が出土している。金銅製の装飾品は蓮華文がタガネで打ち出されており、掛甲の胴部にも同じく蓮華文がほどこされている。」

 次いで、福岡県の長安寺廃寺の造営を「欽明二三(五六二)年に長安寺は存在していた」と理解され、「長安寺廃寺はすでに発掘調査が行われている。その調査報告にもある通り、長安寺の創建瓦は複弁蓮華文(ヒマワリ型)軒丸瓦であり、五六二年頃の瓦であった可能性があるのである。」と6世紀後半に複弁蓮華文があったのではないかとされました。
 更に、「法隆寺釈迦三尊像光背の蓮華文」についても言及され、複弁蓮華文の意匠が7世紀前半に九州王朝では成立していたと次のように指摘されました。

 「光背の銘文により、法隆寺の釈迦三尊像は六二三年に制作されたことが知られている。この光背に複弁蓮華文(ヒマワリ型)が描かれている。」

 この大越論文は九州王朝説への「一撃」に対する「反撃」ともいうべきもので、10年以上も前に出されています。当時、わたしはこの論文の持つ意義について、充分に理解できていませんでした。今回、改めて読み直し、その意義を認識しました。
 大越さんの軒丸瓦の編年観については同意できませんが、「一撃」に対して古田学派から出された最初の「反撃」という意義は重要です。同論文は「東京古田会」のホームページに掲載されています。なお、大越さんには「法隆寺は観世音寺の移築か」という論文もあります。大変優れた内容で、わたしも同意見です。

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