近江朝と「朝庭(錦織遺跡)」
近江朝を論じる際、最も重要な考古学的論点が大津市錦織遺跡から出土した大規模な朝堂院様式の宮殿遺構でしょう。周囲が宅地化しているので全容は未解明ですが、前期難波宮に匹敵する大規模な北闕型(王宮が北側に位置し、「北を尊し」とする)の朝堂院様式の宮殿であることがわかっています。文字通り「近江朝庭」と呼ぶにふさわしい規模と様式です。通常使用される「朝廷」とはやや意味が異なる「朝庭」という表記には「朝堂院等の建物に囲まれた広場」という字義がありますが、『日本書紀』などでは混用されているようです。従って錦織遺跡の宮殿遺構はまさに「近江朝庭」なのです(通常は「近江大津宮」と呼ばれている)。
わたしは「白鳳元年(661)、九州王朝の近江遷都」という仮説(「九州王朝の近江遷都」『古田史学会報』61号所収。2004年4月)や、天智による王朝継承・交替(「洛中洛外日記」580話「近江遷都と王朝交代」2013年8月15日)について発表したことがありますが、今回の正木新説は更に具体化させた「天智・大友による九州王朝を継承した九州王朝系近江朝」という新概念です。この考古学的痕跡が錦織遺跡の近江大津宮遺構ですが、実は『日本書紀』にも「近江朝庭」の史料的痕跡が残されています。
以前、「古田史学の会」関西例会で冨川けい子さんから『日本書紀』には「大和朝廷」という表記はなく、明確に「地名+朝庭」と理解できる表記は「難波朝庭」と「近江朝庭」であるとの研究発表がありました。この指摘は考古学的出土事実に対応していることから、わたしは注目してきたところです。というのも、文字通りの「朝堂院等の建物に囲まれた広場」である大規模な「朝庭」遺構は、7世紀段階では前期難波宮と近江大津宮(錦織遺跡)、そして7世紀末の藤原宮だけなのです(太宰府政庁2期は規模がかなり小さい)。中でも北闕様式の「朝庭」は前期難波宮と近江大津宮です。ですから『日本書紀』の記事(難波朝庭・近江朝庭)と考古学的事実(前期難波宮遺跡・錦織遺跡)が一致しているのです。
わたしは前期難波宮を「九州王朝の副都」と考えていますし、「九州王朝の近江遷都」があった可能性も高いと考えているのですが、こうした仮説がこれら文献史学と考古学の成果とよく対応しています。さらにこの仮説体系と今回の正木新説もうまく対応しているように思えますので、これからの正木説に対する検討や論争が期待されるところです。