「鎮護国家の伽藍配置」の明暗(2)
「洛中洛外日記」第1179話「観世音寺の創建年と瓦の相対編年」において、「百済から阿弥陀如来像がもたらされたとすれば、その時期は百済滅亡の660年よりも以前となりますから、白鳳10年創建とする史料とよく整合するのです。(中略)九州王朝説に立てば、文献・現地伝承や創建瓦(老司1式)などの編年とも矛盾しない、白村江戦(663)以前に造営が開始され、白村江戦後の白鳳10年(670)に完成したとする理解が可能です。」と記したのですが、正木裕さん(古田史学の会・事務局長)から疑義が寄せられました。
百済滅亡以前に九州王朝へ贈られた阿弥陀如来像が10年以上も後の白鳳10年に建立された観世音寺の本尊とされたことについて、「史料とよく整合する」と記した部分が意味不明とされたようです。たしかにここは説明が足りないなと、わたしも懸念を抱いていた箇所でもあり、その心裏を見透かされたような御指摘でしたので、さすがは正木さんと感服しました。
観世音寺創建について、わたしは次のように考えてきました。
1.九州王朝(倭国)と同盟関係にあった百済から阿弥陀如来像が贈られてきた。その正確な時期と理由は不明(検討中)。
2.その後、百済は滅亡し、同盟国である倭国は百済復興のため唐・新羅連合軍と朝鮮半島で戦い、白村江戦で敗北し、倭王薩夜麻は捕らわれる。
3.太宰府では従来の条坊都市の北部に異なった尺度による条坊を追加造成し、そこに太宰府政庁2期の宮殿と、その東に観世音寺の建設を行う。
4.そしてようやく白鳳10年(670)に観世音寺が落成し、百済から贈られた阿弥陀如来像を本尊として安置した。
5.このように白村江戦敗北や薩夜麻の捕囚などの大事件が続発したため、さらには条坊の追加造成などもあったので、観世音寺創建が遅れた。
以上のようにわたしは考えていますので、百済滅亡前に贈られた阿弥陀如来像のための寺院(観世音寺)建立に10年以上かかったのも当然としたのです。
今回の正木さんからのご指摘を得て、貞清世里・高倉洋彰「鎮護国家の伽藍配置」(『日本考古学』30号(2010)所収)について新たな疑問点が浮かんできました。
それは観世音寺式伽藍配置の特徴として金堂は東向きであり、これは仏教信仰形態(阿弥陀信仰)の影響を受けたとされているにもかかわらず、観世音寺を「鎮護国家の寺」とされたことです。仏教思想や国家と仏教との関係について勉強中なのですが、阿弥陀信仰というものは「鎮護国家」とは少し異なるように思うのです。王家や王族の菩提を弔う「菩提寺」のような性格ではないでしょうか。この点、観世音寺式寺院の阿弥陀信仰と「鎮護国家」を関連付ける積極的な理由が不明です。この点、わたしも勉強したいと思います。
なお、つい最近になって知ったのですが、摂津の四天王寺(『二中歴』年代歴に見える「難波天王寺」)の創建当時の本尊も阿弥陀如来像だったとする史料があるようなのです(調査中)。わたしは四天王寺(天王寺)も九州王朝の太子、利歌彌多弗利による創建と考えていますから、九州王朝は7世紀初頭において、阿弥陀信仰を受容しており、その影響は観世音寺にまで続いていたと考えられるのではないでしょうか。(つづく)