大宰府政庁1期整地層出土の「須恵器杯B」
7世紀第4四半期に編年されていた「須恵器杯B」が前期難波宮整地層から出土していたことから、その発生時期が約30年ほど早くなることに気付いたわたしは、大宰府政庁遺構の出土土器を調べてみました。
大宰府政庁遺構は三期からなり、通説では最も下層のⅠ期は天智天皇の頃、Ⅱ期は8世紀初頭とされてきました。しかし、九州王朝説の立場から見ると、Ⅰ期は条坊都市が造営された7世紀初頭から前半、Ⅱ期は7世紀後半の白鳳10年(670)頃とわたしは考えてきました。
そこで出土土器を調べてみたのですが、『西都大宰府』(昭和52年)に記された土器の解説を見ると、何と政庁Ⅰ期下層整地層から「須恵器杯B」が出土していたのです(FaceBookの写真参照 7,8の土器)。このことにとても驚きました。九州王朝説の立場から考えると7世紀初頭の頃には「須恵器杯B」が九州では発生していたこととなり、通説よりも、前期難波宮整地層の「須恵器杯B」よりも更に早くなるのです。いくらなんでも、これは早すぎると思われ、わたしの仮説が間違っているのかもしれません。
『西都大宰府』の発行は昭和52年で一般向け書籍なので、掲示土器数も少ないため、比較的新しい学術論文を追跡調査しました。(つづく)