第2392話 2021/02/26

「蝦夷国」を考究する(9)

 ―「評制」時代の蝦夷国―

 蝦夷国と倭国(九州王朝)の関係は時代と共に変化していることを『日本書紀』等を史料根拠に説明し、多利思北孤の時代を含む六世紀後半から七世紀前半頃の両国は比較的安定した関係にあったとしました。今回は「評制」の時代、七世紀後半の両国関係について検討します。

 七世紀後半には木簡の出土量が飛躍的に増えますから、『日本書紀』だけではなく、木簡を主要史料として蝦夷国研究をすることが可能となります。幸いにも飛鳥地域(飛鳥池遺跡・石神遺跡・苑地遺跡・他)と藤原宮(京)地域からは約45,000点の木簡が出土しており、そのなかには350点ほどの評制時代の荷札木簡(注①)がありますので、飛鳥宮時代(天智・天武・持統)と藤原宮時代(持統・文武)の近畿天皇家の影響力が及んだ範囲(献上する諸国)を確認することができます。すなわち、九州王朝時代の七世紀後半、〝近畿天皇家の宮殿〟(注②)に産物を献上した諸国・諸評がわかるという、同時代史料群が当地にはあるのです。これを九州王朝や蝦夷国の研究に使用しない手はありません。
この全数調査結果は別途「洛中洛外日記」にて、主観を交えない客観的データベースとして報告し、読者の皆さんが研究に利用できるようにしたいと考えています。

 今回の蝦夷国研究に関わる所見として、飛鳥宮地域や藤原宮(京)へ諸国から持ち込まれた評制下木簡の二つの事実に注目しています。一つは以前にも指摘しましたが(注③)、九州(西海道)諸国からの荷札木簡が出土していない。二つは陸奥国・越後国からの荷札木簡も出土していないということです(注④)。すなわち、七世紀後半という時間帯において、倭国(九州王朝)の直轄領域である九州島と蝦夷国の領域と思われる陸奥国・越後国からは飛鳥宮や藤原宮へ産物が献上された痕跡がないのです。このことが何を意味しているのか、検討が必要ですが、王朝交代直前の大和の勢力と蝦夷国が〝疎遠〟だったのかもしれません。

 なお、九州島と蝦夷国とでは基本的な事情が異なると思われます。すなわち、太宰府からは九州内の「評」木簡(注⑤)が出土しており、九州で評制が施行されていたことが確実ですが、蝦夷国(陸奥国)内では評制が採用されていたのかどうか、出土木簡からは判断できません。倭国(九州王朝)と蝦夷国は別国ですから、蝦夷国が倭国の評制を採用していたとは考えにくいように思います。(つづく)

(注)
①市 大樹『飛鳥藤原木簡の研究』(塙書房、2010年)所収「飛鳥藤原出土の評制下荷札木簡」による。
②王朝交代に至る一時期、藤原宮や飛鳥宮に九州王朝の天子がいたとする作業仮説が西村秀己氏等から出されていることもあり、本稿では「〝近畿天皇家の宮殿〟」という〝〟付き表記を使用した。
③古賀達也「洛中洛外日記」123話〝藤原宮の「評」木簡〟(2007/02/25)
古賀達也「藤原宮出土木簡の考察」(『古田史学会報』80号、2007年6月)
④上記①によれば、越前国・越中国からの荷札木簡は飛鳥池遺跡・石神遺跡・苑地遺構から出土している。
⑤「久須評大伴マ」木簡が大宰府跡から出土している。

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