王朝と官道名称の交替(3)
九州王朝官道が再編され、名称変更がなされるとすれば、そのタイミングは二回あったように思われます。一つは、九州王朝が難波に複都(前期難波宮)を置いたとき。もう一つは、大和朝廷へと王朝交替(701年、九州年号から大宝元年へ「建元」)したときです。
前者の場合は同一王朝内での複都造営時(652年、九州年号の白雉元年「改元」)ですから、必ずしも官道名称の変更が必要なわけではありません。しかも、首都の太宰府はその後も継続したと思われますから。
後者は王朝交替に伴う首都の移動ですから、この時点では官道名称変更が大義名分の上からも必要となります。なぜなら、大和朝廷の「七道」のうち「山陽道」「山陰道」は九州王朝官道の「東山道」「北陸道」の前半部分に当たりますから、大和に都(藤原京)を置いた大和朝廷としては、都から南西へ向かう道が「東山道」「北陸道」では不都合なわけです。そのため、「東山道」「北陸道」を分割再編し、大和より西は「山陽道」「山陰道」、東はそれまで通り「東山道」「北陸道」としたのです。また、九州王朝官道の「東海道」も、その前半は大和よりも西の四国地方(海路)を通りますから、これも「南海道」に変更されました。
そこでこうした官道再編や名称変更の痕跡が『日本書紀』や『続日本紀』などに遺されてはいないか、その視点で史料調査したところ、『日本書紀』天武十四年(685)九月条に、次の記事がありました。
「戊午(十五日)に、直廣肆都努朝臣牛飼を東海使者とす。直廣肆石川朝臣蟲名を東山使者とす。直廣肆佐味朝臣少麻呂を山陽使者とす。直廣肆巨勢朝臣粟持を山陰使者とす。直廣參路眞人迹見を南海使者とす。直廣肆佐伯宿禰廣足を筑紫使者とす。各判官一人・史一人、國司・郡司及び百姓の消息を巡察(み)しめたまふ。」『日本書紀』天武十四年九月条
この記事に見える、使者(巡察使)が派遣された「東海」「東山」「山陽」「山陰」「南海」「筑紫」は、「七道」から「北陸道」をなぜか除いた各地域のことで、これらは天武の宮殿(飛鳥宮)がある「大和国」(注①)に起点を置いたことを前提とする名称です。この記事が事実であれば、天武十四年(685年)時点では既に九州王朝官道の再編と名称変更が行われていたことになります。これは701年の王朝交替の16年前、持統の藤原宮(京)遷都の9年前のことです。従って、この記事の信憑性が問われるのですが、従来のわたしの研究や知識レベルでは判断できませんでした。しかし、今は違います。この10年での飛鳥・藤原木簡の研究成果があるからです。
飛鳥遺跡からは九州諸国と陸奥国を除く各地から産物が献上されたことを示す評制下(七世紀後半)荷札木簡が出土しています。「洛中洛外日記」2394話(2021/02/27)〝飛鳥藤原出土の評制下荷札木簡の国々〟で次の出土状況を紹介したところです(注②)。
【飛鳥藤原出土の評制下荷札木簡】
国 名 飛鳥宮 藤原宮(京) 小計
山城国 1 1 2
大和国 0 1 1
河内国 0 4 4
摂津国 0 1 1
伊賀国 1 0 1
伊勢国 7 1 8
志摩国 1 1 2
尾張国 9 7 17
参河国 20 3 23
遠江国 1 2 3
駿河国 1 2 3
伊豆国 2 0 2
武蔵国 3 2 5
安房国 0 1 1
下総国 0 1 1
近江国 8 1 9
美濃国 18 4 22
信濃国 0 1 1
上野国 2 3 5
下野国 1 2 3
若狭国 5 18 23
越前国 2 0 2
越中国 2 0 2
丹波国 5 2 7
丹後国 3 8 11
但馬国 0 2 2
因幡国 1 0 1
伯耆国 0 1 1
出雲国 0 4 4
隠岐国 11 21 32
播磨国 6 6 12
備前国 0 2 2
備中国 7 6 13
備後国 2 0 2
周防国 0 2 2
紀伊国 1 0 1
阿波国 1 2 3
讃岐国 2 1 3
伊予国 6 2 8
土佐国 1 0 1
不 明 98 7 105
合 計 224 126 350
七世紀当時、他地域からは類例を見ない大量の荷札木簡が飛鳥から出土しており、当地に列島を代表する権力者(実力者)がいたことを疑えません(注③)。従って、各地へ巡察使を派遣したという天武十四年条記事の史実としての信憑性は高くなります。同時代史料の木簡、しかも大量出土による実証力は否定(拒否)し難いのです。(つづく)
(注)
①藤原宮北辺地区から出土した「倭国所布評大野里」木簡によれば、七世紀末当時の「大和国」の表記は「倭国」である。このことを「洛中洛外日記」447話(2012/07/22)〝藤原宮出土「倭国所布評」木簡〟などで紹介した。
②市 大樹『飛鳥藤原木簡の研究』(塙書房、2010年)所収「飛鳥藤原出土の評制下荷札木簡」による。
③飛鳥池遺跡北地区からは「天皇」(木簡番号224)「○○皇子」(木簡番号64、同92、他)木簡の他に「詔」木簡(木簡番号63、同669)も出土しており、最高権力者が当地から詔勅を発していたことを示している。