大化改新詔「畿内の四至」の諸説(2)
『日本書紀』大化二年正月条(646年)に見える大化改新詔について、古田学派内では次の三説が有力視されています。
(a) 九州年号「大化」の時代(695~704年)に九州王朝が発した大化改新詔が、『日本書紀』編纂により50年遡って「大化」年号ごと孝徳紀に転用された。
(b) 七世紀中頃の九州年号「常色」年間(647~651年)頃に九州王朝により、難波で出された詔であり、『日本書紀』編纂時に律令用語などで書き改められた。
(c) 孝徳紀に見える大化改新詔などの一連の詔は、九州王朝により九州年号「大化」(695~704年)年間に出された詔と同「常色」年間(647~651年)頃に出された詔が混在している。
わたしは古田先生が主張された(a)の見解に立ち、大化改新詔(646年)に見える次の「建郡・郡司任命」記事を九州年号「大化」二年(696年)での〝廢評建郡〟の詔勅であったとする仮説(注)を発表し、この詔が出されたのは藤原宮としました。
「凡そ郡は四十里を以て大郡とせよ。三十里以下、四里以上を中郡とし、三里を小郡とせよ。其の郡司には並びに国造の性識清廉(いさぎよ)くして時の務に堪ふる者を取りて大領・少領とし、強(いさを)しく聡敏(さと)しくして書算に工(たくみ)なる者を主政・主帳とせよ。」『日本書紀』大化二年正月条
従って、この詔を発した実質的権力者は近畿天皇家の持統ではないでしょうか。他方、『日本書紀』には「大化二年」の「詔」と記され、九州王朝の年号「大化」を隠そうとしていないことから、大義名分上は九州王朝の天子による詔であったと考えました。王朝交代にあたり、おそらく「禅譲」という形式を持統は採用し、九州年号「大化二年(696)」に〝廢評建郡〟を九州王朝の天子に宣言させ、その事実を『日本書紀』では「大化」年号を50年遡らせて、九州王朝が実施した七世紀中頃の「天下立評」に換えて、大和朝廷が646年に「大化の建郡」を実施したとする歴史造作を行ったとしました。
しかし、その後に服部静尚さんから「大化改新詔」を七世紀中頃のこととする(b)説が出され、正木裕さんからは(c)説が出されました。そうした研究を受けて、わたしは(a)説から(c)説へと見解を変えることになりました。こうした諸仮説に触発され、その中心的論点の一つとして畿内の四至問題について改めて調査研究を始めたところ、とても興味深い論文に出会いました。(つづく)
(注)古賀達也「大化二年改新詔の考察」『古田史学会報』89号、2008年12月。