『隋書』俀国伝に記された
都の位置情報 (4)
『隋書』俀国伝に記された俀国やその都の位置認識に関する(1)~(5)の記事の中で異質な内容を持つのが(5)です。それは俀国の都へ向かう大業四年(608年)の隋使の行路記事です。
(5)〔大業四年(608年)〕上遣文林郎裴清使於俀國。度百濟行至竹島南望羅國。經都斯麻國逈在大海中。又東至一支國。又至竹斯國。又東至秦王國、其人同於華夏。以爲夷洲疑不能明也。又經十餘國達於海岸。自竹斯國以東皆附庸於俀。
俀王遣小徳阿輩臺從數百人設儀杖鳴鼓角來迎後十日。又遣大禮哥多毗從二百餘騎郊勞既至彼都。
この記事の解釈により、『隋書』俀国伝と大和朝廷一元史観の通説がかろうじて〝対応〟しています。というのも、『隋書』俀国伝に記された地名などで場所が特定できるのは、都斯麻國(対馬)・一支國(壱岐)・竹斯國(筑紫)・阿蘇山で、いずれも九州島内と周辺の島に限られており、大和や近畿の地名、九州から近畿に向かう途中の地名は皆無です。ですから、俀国伝を大和朝廷一元史観の根拠にすることはそもそも無理なのです。
そこで考え出されたのが、古田先生が「傍線行路」とされた「又經十餘國達於海岸」を〝瀬戸内海を通って摂津難波の海岸に達した〟とする〝苦肉の解釈〟でした。この記事を利用するしか、隋使が向かった都を近畿地方に持って行けなかったのですが、この解釈について古田先生は次のように批判しています。
〝「対馬国→一支国→竹斯国→秦王国」と進んできた行路記事を、まだここにとどめず、先(軽率なルート比定)の(B)の「又十余国を経て海岸に達す」につづけ、この一文に“瀬戸内海行路と大阪湾到着”を“読みこもう”としていたのである。
しかし、本質的にこれは無理だ。なぜなら、
①今まで地名(固有名詞)を書いてきたのに、ここには「難波」等の地名(固有名詞)が全くない。
②九州北岸・瀬戸内海岸と、いずれも、海岸沿いだ。それなのに、その終着点のことを「海岸に達す」と表現するだけでは、およそナンセンスとしか言いようがない。
ことに①の点は決定的だ。裴世清の「主線行路」は、先の「対馬――秦王国」という地名(固有名詞)表記部分で、まさに終了しているのだ。これに対して、(B)(「十余国」表記)は、地形上の補足説明(傍線行路)にすぎないのだ。だから地名(固有名詞)が書かれていないのである。後代人の主観的な“読みこみ”を斥け、文面自体を客観的に処理する限り、このように解読する以外、道はない。〟
このように、(5)の記事を通説の根拠に使用することは困難です。しかし、この記事には他にも問題点がありました。(つづく)
(注)古田武彦『邪馬一国の証明』ミネルヴァ書房版、265頁。