第2318話 2020/12/12

改暦と王朝交替、水野説の紹介

 魏朝における短里制度開始が、明帝の景初元年(237)に行われた改暦と同時期とする西村秀己説を「洛中洛外日記」〝明帝、景初元年(237)短里開始説の紹介〟で解説しました。そのとき、ある論文を思い出しました。水野孝夫さん(注①)の「正朔を改めた?」です。同論文は安田陽介編著『「続日本紀を読む会」論集』創刊号(注②)に掲載されたものですが、同書は安田さんによる自家版の少部数発行だったこともあり、この水野論文の存在はあまり知られていないのではないでしょうか。改暦を多元史観・九州王朝説の視点で論じた好論ですので紹介します。
 わたしも以前から気になっていたのですが、文武が持統からの禅譲により天皇に即位した日付の干支が『日本書紀』と『続日本紀』で一日ずれています。両書の当該記事は次のようです。

○八月乙丑の朔(ついたち)に、天皇、策を禁中に定めて、皇太子に天皇位を禅(ゆづり)りたまふ。『日本書紀』持統十一年(701)条
○八月甲子の朔、禅を受けて位に即(つ)きたまふ。『続日本紀』文武元年(701)条

 このように文武即位日の日付干支が『日本書紀』では乙丑ですが、『続日本紀』はその前日の甲子とされています。この一日の差について、日本古典文学大系『日本書紀』(岩波書店)の脚注には次の解説があります。

 「続紀、文武元年条に『八月甲子朔、受禅即位』とある。朔日干支が異なるのは、書紀が元嘉暦によって七月を大の月、続紀が儀鳳暦によって七月を小の月としたためといわれる。八月一日践祚は確実であろう。」下巻、534頁

 すなわち、大和朝廷内での使用暦の変更(元嘉暦→儀鳳暦)と説明していますが、水野さんは王朝交替による改暦とされ、次のように説明されました。

 「中国で天子が代替わりしたから暦を改めるとは限られていないが、王朝の交代があったときには暦を改めるのが伝統である。日本列島に九州王朝があって、権力中心が近畿天皇家へ交代したとすれば、それは文武天皇時代であろうから、このあたりの時代に改暦の記事とか、詔勅とかがありそうなものなのにそれはなくて、ただ計算結果が改暦を示すのみである。『続日本紀』の編者たち(のすくなくとも一部)は、『書紀』との矛盾に気づかなかったのではなくて、理由は示せないが、ここで改暦があったと強烈に主張しているのだと私は考える。」56頁

 『日本書紀』と『続日本紀』の日付干支一日のずれを、王朝交替による改暦が原因とする水野説は、多元史観・九州王朝説ならではの仮説であり、貴重です。
 なお、水野稿では触れられていませんが、元嘉暦は南朝宋の元嘉22年(445)に施行されたもので、その当時の九州王朝が中国南朝の冊封を受けていた歴史背景と対応しています。他方、儀鳳暦は北朝唐の麟徳2年(665)に施行された麟徳暦のことです(注③)。近畿天皇家が唐の影響を受けたこと、あるいは白村江戦(663年)敗戦後の九州王朝が唐の暦を受け入れたのかもしれません。この点、今後の研究課題です。

(注)
①「古田史学の会」前会長、現顧問。
②『「続日本紀を読む会」論集』創刊号(1993年7月)は、安田陽介氏が京都大学学生時代(国史専攻)に主宰した「続日本紀を読む会」(京都市)から発行された。
③元嘉暦・儀鳳暦については、岩波書店の新日本古典文学大系『続日本紀』第1巻(242頁)の補注による。

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