都塚古墳と蘇我氏
新聞やテレビニュースで、明日香村の都塚古墳が階段状の方墳であったことが最近の発掘調査で明らかになったことが報道されています。近くにある石舞台古墳が蘇我馬子の墓とされていることから、都塚古墳は馬子の父の蘇我稻目の墓ではないかとする見解も出されており興味深く感じています。
都塚古墳の階段状の墳形は国内では珍しく、同様の形状を持つ古墳としては、岡山県真庭市の大谷1号墳(五段の方墳)が知られていましたが、都塚古墳は7~8段あったのではないかと見られているようです。もし、石舞台古墳や都塚古墳が蘇我氏の墓であったとすれば、現在は失われている石舞台古墳の墳形も階段状であったのかもしれません。基底部は吹石の痕跡から方形であったことが判明しています。封土が失われた理由は不明ですが、人為的なものを感じさせます。自然の風雨だけであれほど完全に封土が失われるとは考えにくいからです。
前方後円墳が主流であった時代、飛鳥の地に異形ともいえる階段式方墳が天皇家をもしのぐような有力者だった蘇我氏の墓とすれば、蘇我氏は近畿天皇家とは 異質の豪族であったと考えられます。古田学派内でも蘇我氏に関して様々な見解・仮説が提起されてきました。たとえば「古田史学の会」草創期の会員(元副代表)であった山崎仁礼男さんはその著書『蘇我王国論』(1997年、三一書房)で、『日本書紀』は「蘇我王国」の歴史が換骨奪胎されたものとする作業仮説を発表されました。あるいは蘇我氏は九州王朝から飛鳥に派遣された近畿天皇家への「お目付役」とするアイデアも古田学派内から出されています。
蘇我氏と九州王朝との関係から、「古田史学の会」でも様々な調査検討が試みられてきました。たとえば「電話帳」検索で全国の「蘇我」さんの分布を調べて みたところ、全国16件中、4件が大分県でした(西村秀己さんの調査による)。また、今回の都塚古墳の報道を聞いて、わたしは何故「都塚」という名称が付けられたのかも気になっています。古田学派内での多元史観による「蘇我氏」「階段状方墳」の研究が期待されます。