第2993話 2023/02/01

『東京古田会ニュース』No.208の紹介

『東京古田会ニュース』208号が届きました。拙稿「『東日流外三郡誌』」を掲載していただきました。同稿は本年1月14日(土)に開催された「和田家文書」研究会(東京古田会主催)で発表したテーマに対応したものです。同紙にはこのところ和田家文書関連論稿を掲載していただいています。次の通りです。

206号 和田家文書に使用された和紙
207号『東日流外三郡誌』公開以前の史料
208号『東日流外三郡誌』真作の証明 ―「寛政宝剣額」の発見―

209号には「『東日流外三郡誌』真実の語り部 ―古田先生との津軽行脚―」を投稿しました。併行して、東京古田会主催の和田家文書研究会にもリモートで研究発表をさせていただいています。今月に続いて3月11日(土)も発表予定です。この機会に、三十年前に古田先生と実施した津軽行脚の記録を整理・紹介したいと考えています。
拙稿の他に皆川恵子さん(松山市)の「田沼意次と秋田孝季in『和田家文書』その3 前編」が掲載されています。秋田孝季と同時代の江戸期の史料『赤蝦夷風説考』工藤平助著などが紹介されており、勉強になりました。


第2932話 2023/01/31

松本郁子さんの思い出と業績 (5)

若くして太田覚眠研究の先駆者となった松本郁子さんは、古田先生にとっても特別の存在でした。周囲からも古田先生の〝愛弟子〟と見られていましたし、そのように紹介する人も少なくなかったと思います。たとえば鈴岡潤一さん(邪馬壹国研究会・松本の代表、古田史学の会・全国世話人)もそのお一人です。松本さんの紀行文「松本深志の志に触れる旅 輝くすべを求めて」に、鈴岡さんとの出会いの様子が記されています(注①)。

〝その深志に私は憧れた。私自身はもちろん、深志の卒業生ではないけれど、第二の母校のように感じ、憧憬の念を憶えずにはいられないのである。その松本深志の志に触れるべく、私は旅に出た。二〇〇七年(平成一九)の秋の日のことである。(中略)
いよいよ憧れの深志高校を訪れた。深志には現在、鈴岡潤一先生といって、希望者に対して行われる「尚学塾」という課外授業(土曜日)で古田説による古代史の授業をされている社会科の先生がおられる。(中略)私は鈴岡先生に後ろの空いている席に座るよう指示され、おずおずと席についた。いち早く「突然の来訪者」の存在に気付いた生徒は、「誰、この人?」という好奇の眼を私に向けている。
授業開始前、鈴岡先生が「後ろに座っているあの美人は誰だろう、とみんな気になっていると思う。あの方は、松本郁子さんといって、私が尊敬している古田武彦先生のお弟子さんで、京都大学で博士号をとられた方です。それでは松本さん、簡単に自己紹介をお願いします」と、冗談交じりに紹介して下さると、生徒たちが一斉に後ろを振り返った。クラス中の瞳がこちらを見つめている。緊張した。〟

先生ご自身も松本さんを「無二の後継者」と公言されました(注②)。

〝今回の日露極東シンポジウムの第二日目(九月四日)、若い日本の研究者によって注目すべき研究発表が行われた。
「太田覚眠と日露の人間交流」と題する、松本郁子さんの研究(論旨配布。日本語・ロシア語)である。(中略)
太田覚眠は、このウラジオストクで三十年近く、浦潮本願寺(西本願寺系)の代表を勤めた傑僧であるが、この研究によってわたしははじめてこの人物の“忘るべからざる思想と行動”を知った。
松本さんの研究はさらに進展した。「覚眠思想」のもつ独自の意義を明らかにすると共に、瞠目すべき学問上の方法論を切り開かれた。「コンプレックス・ラグの理論」である。この松本原則は今後の歴史・思想等の研究において、忘るべからざる道標となるであろう。松本さんは今問題のロシア語に強い。無二の後継者が現れたことを喜びたい。〟

このとき(2003年)の古田先生のロシア(ウラジオストク)訪問に、通訳として同行されたのが松本さん(当時23歳)でした。日本思想史学、なかでも親鸞研究は古田先生にとって〝母なる領域〟です。その分野に彗星の如く現れた「無二の後継者」が松本郁子さんだったのです。(おわり)

(注)
①松本郁子「松本深志の志に触れる旅 輝くすべを求めて」(『古田史学会報』84号、2008年。
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou84/kai08405.html
②古田武彦「言素論(Ⅱ)」『多元』59号、2004年。


第2931話 2023/01/30

松本郁子さんの思い出と業績 (4)

同志社大学でロシア語を学んだ松本郁子さんは、京都大学院に進み、苦学しながらも太田覚眠研究に没頭しました。学費や生活費を稼ぐため工場などでアルバイトしながらの勉学でした。ですから、拙宅に来るときは自転車で、冬はいつも同じボルドーカラーのブーツにコートという出で立ちでした。服飾費も切り詰めるという、若い女性にとってはつらいことだったと思います。それでも〝新潟美人〟という表現がぴったりの素敵なお嬢さんでした(新潟県村上市出身)。
他方、大学院では学問の方向性などを巡って何かと苦しんでいたように聞いています。そうした、必ずしも恵まれた学問環境とは言えないなかで、太田覚眠研究の集大成として『太田覚眠と日露交流 ロシアに道を求めた仏教者』(注①)を上梓しました。同書を一読して、その文体や学問の方法が、古田先生の学問と著書の影響を色濃く受けていることを知り、日本思想史の分野でも、古田先生の確かな後継者が出現したことを喜びました。
同書をはじめとする松本さんの太田覚眠研究は高く評価され、日本学術振興会特別会員に選ばれ、その成果により、国際日本文化研究センター(日文研。京都市左京区)に特別研究員として入りました(注②)。松本さんが日文研に入ったことに、わたしは驚喜しました。恐らく、古田先生にとっても感慨深いことだったはずです(先生と日文研の縁について、別述できればと思います)。
管見では、松本さんが『古田史学会報』などに発表した研究は次の通りです。(つづく)

○「太田覚眠における『時間軸のずれ』(タイムラグ)の問題 ―『乃木将軍の一逸詩』をめぐって―」『多元』59号、2004年
「日露の人間交流と学問研究の方法 大田覚眠をめぐって」『古田史学会報』61号、2004年。
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou61/kai06103.html
「太田覚眠と信州の偉人たち」『市民タイムス』2004年2月29日、『古田史学会報』62号、2004年。
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou62/kai06207.html
○「太田覚眠と信州の偉人たち」『多元』61号、2004年。
「太田覚眠における時代批判の方法 昭和十年代を中心として」『古田史学会報』65号、2004年。
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou65/kai06503.html
「太田覚眠と“からゆきさん”『覚眠思想』の原点」『古田史学会報』66号、2005年。
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou66/kai06605.html
○「日露戦争と仏教思想――乃木将軍と太田覚眠の邂逅をめぐって」軍事史学会編『日露戦争(二)――戦いの諸相と遺産』錦正社、2005年。
「太田覚眠と『カ女史』の足跡を訪ねて」『古田史学会報』74号、2006年。
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou74/kai07404.html
○『太田覚眠と日露交流 ロシアに道を求めた仏教者』ミネルヴァ書房、2006年。
「太田覚眠研究の現在と未来 さらなる探求の門出に際して」『古田史学会報』80号、2007年。
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou80/kai08003.html
「松本深志の志に触れる旅 輝くすべを求めて」『古田史学会報』84号、2008年。
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou84/kai08405.html
「祭りの後 『古田史学』長野講座」『古田史学会報』87号、2008年。
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou87/kai08702.html

(注)
①松本郁子『太田覚眠と日露交流 ロシアに道を求めた仏教者』ミネルヴァ書房、2006年。
②国際日本文化研究センター、2009年度研究部特別研究員(PD)。


2930話 2023/01/29

松本郁子さんの思い出と業績 (3)

松本郁子さんの太田覚眠研究(注①)は進展を続け、なかでも覚眠が1931年(昭和六年)レニングラードで会ったロシア人仏教者「カ女史」の話は感動的でした。帝政ロシアの貴族だった「カ女史」は、ロシア革命後に没落。乞食に身を落とし、宗教弾圧の中で托鉢をしながら、「巡査は仏様の使い、牢獄は念仏の道場」と言って布教を続けます。その姿に感動した覚眠は「モー命は惜しくない」と語ったとのこと(注②)。
松本さんは、思想の深化や変遷の解析手法として、タイム・ラグ(時間軸のずれ)とプレース・ラグ(立場のずれ)、それらが重なったコンプレックス・ラグという概念を提示するなど、優れた研究を発表し続けました(注③)。そこで、松本さんの発表の場を確保するために、日本思想史学会に入会することになりました。同学会は古田先生の恩師、村岡典嗣先生が東北大学で設立した研究会を母体とする権威ある学会です。入会には会員二名の推薦が必要なため、古田先生とわたしが推薦人となりました。ちなみに、わたしの入会時に推薦していただいたのは、古田先生と岩手大学教授の岡崎正道先生(近代史・近代思想史)でした。
同学会に入会された松本さんは、太田覚眠研究の処女作『太田覚眠と日露交流 ロシアに道を求めた仏教者』(注④)を2006年に上梓します。そして、同書を日本思想史学会奨励賞にノミネートするため、推薦状を書くようにと古田先生から要請され、松本さんから同書の進呈を受けました。同書執筆時、松本郁子さんはまだ二十代半ばであり、その若き才能と同著の素晴らしさに驚きました。わたしも気合いを入れて推薦状を執筆しました。(つづく)

(注)
①浄土真宗の僧侶、太田覚眠(1866~1944年)。
②太田覚眠『レニングラード念仏日記』1935年。松本郁子編『太田覚眠全集』第三巻(オンブック、2009年)に収録。
③松本郁子「日露の人間交流と学問研究の方法 大田覚眠をめぐって」『古田史学会報』61号、2004年。
④松本郁子『太田覚眠と日露交流 ロシアに道を求めた仏教者』ミネルヴァ書房、2006年。


第2929話 2023/01/28

松本郁子さんの思い出と業績 (2)

古田先生から松本郁子さんを紹介していただき、松本さんの研究に触れ、浄土真宗の僧侶、太田覚眠(1866~1944年、注①)の存在を知りました。なかでも、日露戦争勃発により、国家から見捨てられ沿海州に取り残された多くの女たち(多くは「売笑婦」)とその子供らを含む八百人を太田覚眠が救出したことなど、松本さんの研究内容には驚くことばかりでした。
あるとき、松本さんと古田先生との出会いについて、心打つエピソードを先生からお聞きしました。親鸞や浄土真宗、日本思想史について教えを請いたいと訪れた松本郁子さんに、古田先生が熱心に説明していたときのことです。突然、松本さんが黙り込んでしまい、その失礼な態度を古田先生はとがめられました。その叱責の声に、はっと気づいた松本さんは謝罪し、そそくさと帰られたとのこと。
ところが、松本さんが古田先生の言葉を深く考え込んだため、黙り込んだことに先生は後になって気づき、叱責したことを松本さんに詫びられました。そのときが、二人の魂と魂が深く結びあい、真に理解しあえた瞬間だったと、先生はうれしそうに話されました。
このエピソードについて、松本さんの著書(注②)にも〝「フリーズ」の深層〟として、次のように紹介しています。

〝「フリーズ」の深層
人間は絶えずより深い交流を求める存在である。
ある時、仏教思想を専門のひとつとする古田武彦先生に太田覚眠の「乃木将軍の一逸詩」を見せ教えを請うていた。覚眠と乃木将軍の対話の中に現れる「一殺多生」という言葉の意味を教えてもらっていたのである。その時に「フリーズ」してしまった。その言葉に対して何か深いものを感じ、思わず考え込んでしまったのだった。
しかし私が急に黙り込んだので、先生は私に対して注意された。私はすぐに謝った。けれども後になって、先生の方から私に謝って下さった。「あなたがあの場で黙り込んだのは、この問題について深く考えていた証拠であった。それに気付かず頭ごなしに注意して悪かった」と言われた。私はこの言葉を聞いて、この人は私のことを理解してくれたと感じた。
相手を前にして黙り込むことは、表面ではその人との交流を絶っているように見える。しかしその実、内面世界ではより深い対話を求めていたのである。真の交流とは、目に見える形で行われるものだけではない。より深い内面における交流の問題が存在することを、その時知った。〟

このときの「フリーズ」事件をきっかけに、古田先生と松本郁子さんとの、人と人との魂の〝師弟関係〟が成立したのだと思います。(つづく)

(注)
①松本郁子編『太田覚眠全集』オンブック、2009年。
②松本郁子『太田覚眠と日露交流 ロシアに道を求めた仏教者』ミネルヴァ書房、2006年。


第2928話 2023/01/27

松本郁子さんの思い出と業績 (1)

先週末、京都で開催された新春古代史講演会「よみがえる京都の飛鳥・白鳳寺院」に、ご近所や出町商店街組合・自治会・老人会の方々が参加されることになり、ご挨拶をしたいとのことで、妻が初めてわたしの講演会に来ました。なお、妻は古代史にほとんど興味はなく、会場の外の受付にいることにしたようです。当日、「古田史学の会」会員の大下隆司さん(豊中市)が来ておられることを知ると、ご挨拶したいとのことで紹介しました。
実は、大下さんのご子息のお嫁さん、松本郁子さん(旧姓)とは、郁子さんが学生時代(京都大学院)から家族ぐるみのお付き合いがあり、妻が自宅に招いたり、食事をご一緒したりしていました。わたしの娘が同志社中学演劇部の部長をしていたこともあり、演劇発表会にも出席していただいたとのことです(郁子さんは同志社大学卒)。ですから、わが家では「郁子ちゃん」と呼んで親しくさせていただきました。
大下さんによれば、郁子さんは鹿児島で今も研究を続け、講演もされているとのことでした。お元気なようで何よりです。
松本郁子さんが古田先生と初めて会われたのは2001年のことで(注①)、その年か翌年に、わたしも先生のご自宅付近の喫茶店で紹介されたように記憶しています。とても聡明なお嬢さんで、その研究(太田覚眠研究、注②)の秀逸さには舌を巻いたものです。あるとき、古田先生に、「松本さんの論文は、23歳の学生のものとは思えません。わたしが23歳のとき、とてもこのような論文は書けませんでした」と申し上げたところ、「わたしにも書けませんでした」と先生は返答されました。(つづく)

(注)
①松本郁子「日露の人間交流と学問研究の方法 大田覚眠をめぐって」(『古田史学会報』61号、2004年)に次の記事が見える。
〝古田先生との出会いは二年前、二〇〇一年六月十六日のことだ。この日、関西日露交流史研究会で古田先生が講師として招かれたのだが、その講演を聞きに行ったのがきっかけだった。演題は「古代におけるウラジオストックと出雲の交流」。実を言うと、私はこの講演自体に興味があったわけではない。“古田先生”その人に関心があったのである。というのは、私はすでにその時には研究の対象を浦潮本願寺(浄土真宗本派本願寺派)布教監督の太田覚眠に決めていた。しかし私は浄土真宗についても親鸞についても全く何の知識もなかった。古田先生が親鸞について何冊も本を出しておられることを知り、何か一つでも手がかりがつかめれば、と思ったからである。
ところが講演を聞いてみるとその話の面白いこと。夢中になってノートをとったことを覚えている。話の論理構造がしっかりしているので、極めてノートがとりやすい。大学の先生の中には、何のためにその話をしているのか分からないような話をだらだらとし、結局最後まで何だったのか分からない、という人も多い。ところが古田先生の場合は全く違っていた。全ての“部分”が、“全体”へとつながっていく、ある意味で理系的な発想や論理展開にただただ驚きの連続であった。〟
②松本郁子『太田覚眠と日露交流 ロシアに道を求めた仏教者』ミネルヴァ書房、2006年。


第2927話 2023/01/25

多元史観から見た藤原宮出土「富夲銭」 (3)

藤原宮大極殿跡出土の九枚の富夲銭について、阿部周一さん(古田史学の会・会員、札幌市)から、銭文の字体について次の指摘があります(注①)。

○飛鳥池出土の富夲銭が全体としてほぼ左右対称になっているのに対して、藤原宮出土品の場合、「冨」の「ワ冠」がデフォルメされておらず非対称デザインとなっている。
○これら意匠部分は従来型と比べて洗練されていないように見え、時期的に先行する可能性が示唆される。
○この「冨」の字の「ワ冠」について、その書体が「撥ね形」(一画目も二画目も「止め」ではなく「撥ね」になっている)であり、それは隋代の書体に頻出し、唐代に入ると急速に見られなくなるという古賀氏による指摘(注②)との関連を踏まえると、この富夲銭についてはその製造時期がかなり遡上するものと推定できる。

ここで示された「冨」の「ワ冠」の字体が七世紀の九州王朝(倭国)で採用されていたことがわかっています。たとえば次の史料で、「ワ冠」の一画目と二画目が「止め」ではなく「撥ね」になっており、「ウ冠」では二画目と三画目が「撥ね」になっています。

○鬼室集斯墓碑碑文(朱鳥三年、688年)の「室」
○法隆寺釈迦三尊像光背銘(623年)の「宮」「寶」「當」「勞」
○『法華義疏』の「寶」「窮」「宮」

中国の隋代の次の史料に「撥ね」型が見えます。

○『佛説月鐙三昧経』(大隋開皇九年、589年)の「受」
○『大智度論 巻六十二』(開皇十三年、593年)の「受」「帝」「當」「憂」「常」
○『大方等大集経 巻第廿』(大隋開皇十五年、595年)の「宀/之」 ※「宀」の下に「之」。
○「美人董氏墓誌」(開皇十七年、597年)の「宣」「婉」
○「龍山公墓誌」(開皇二十年、600年)の「帝」「字」「※旁/衣」「官」「宗」「家」 ※「旁」の「方」を「衣」とする字。
○『大般涅槃経 巻第十七』(仁寿三年、603年)の「當」

このように隋朝で流行った書体が九州王朝(倭国)に入り、七世紀の九州王朝系史料に採用されているわけです。藤原宮出土富夲銭が同様の書体であることは、富夲銭を九州王朝貨幣とする文献史学による結論と整合しており、阿部説の傍証となりそうです。それでは藤原宮出土富夲銭の鋳造はどこでなされたのでしょうか。なぜ天武らは飛鳥池で鋳造した富夲銭の字体を変えたのでしょうか。いずれも残された検討課題です。

(注)
①阿部周一「『藤原宮』遺跡出土の『富本銭』について 『九州倭国王権』の貨幣として」『古田史学会報』159号、2020年。
②古賀達也「洛中洛外日記」2099~2102話(2020/03/03~06)〝「ウ冠」「ワ冠」の古代筆跡管見(1)~(4)


第2926話 2023/01/24

多元史観から見た藤原宮出土「富夲銭」 (2)

藤原宮大極殿跡出土の地鎮具(注①)に納められていた九枚の富夲銭について、阿部周一さん(古田史学の会・会員、札幌市)が興味深い研究を発表しています(注②)。その論稿中の指摘を要約し紹介します。

(1) 藤原宮大極殿跡出土の富夲銭は鋳上がりも良いとはいえず、線も繊細ではないし、それ以前に発見されていたものは「富」の字であったが、これが「冨」(ワ冠)になっている。

(2) 内画(中心の四角の部分を巡る内側区画)が大きいため、「冨」と「夲」がやや扁平になっており、「冨」の中の横棒がない。

(3) 七曜紋も粒が大きい。

(4) 飛鳥池出土富夲銭の銭文はほぼ左右対称になっているのに対して、藤原宮出土品の場合、「冨」の「ワ冠」がデフォルメされておらず非対称デザインとなっている。

(5) これら意匠は飛鳥池出土品(従来型)と比べて洗練されていないように見え、時期的に先行する可能性がある。この「冨」の字の「ワ冠」について、その書体が「撥ね形」(一画目も二画目も「止め」ではなく「撥ね」になっている)であり、それは主に隋代までの書体に頻出するもので、唐代に入ると急速に見られなくなるという古賀による指摘(注③)との関連を踏まえると、この富夲銭については製造時期が従来型よりかなり遡上するものと推定できる。

(6) 藤原宮出土富夲銭は飛鳥池出土品と同時期あるいはその後期の別の工房の製品とされているようだが、そのように仮定すると、鋳造所ごとに違うデザイン、違う原材料、違う重量であったこととなる。しかし、鋳造に国家的関与があれば、そのような状況は考えにくい。重量は銭貨にとって重要ファクターであり、同時代ならば同重量であるのが当然だからだ。両者の差異は、鋳造の時期と状況が異なることを推定させ、その場合、藤原宮出土の富夲銭は飛鳥池出土品に先行すると考えるのが妥当である。

(7) 地鎮具に封入されるものとして、特別なもの、あるいは希少なものが使用されるのはあり得ることであり、王権内部で代々秘蔵されていたものがここで使用されたと見ることも出来る。

この阿部稿の指摘の内、(1)~(4)は従来から言われてきたことですが、(5)~(7)が阿部さんによる新説です。なかでも、結論に相当する(7)の「王権内部で代々秘蔵されていたものがここで使用された」という指摘は卓見です。阿部さんは富夲銭を九州王朝の貨幣としていますから、藤原宮は九州王朝の天子のために造営されたとする仮説(西村秀己説、注④)からすると、古いタイプの富夲銭を代々秘蔵してきた王権は九州王朝となるのかもしれません。(つづく)

(注)
①須恵器壺(平瓶 ひらか)の地鎮具に9本の水晶と9枚の富夲銭が入っていた。
②阿部周一「『藤原宮』遺跡出土の『富本銭』について 『九州倭国王権』の貨幣として」『古田史学会報』159号、2020年。
③古賀達也「洛中洛外日記」2099~2102話(2020/03/03~06)〝「ウ冠」「ワ冠」の古代筆跡管見(1)~(4)〟
④西村秀己氏(古田史学の会・全国世話人、高松市)が早くから唱えてきた仮説。


第2925話 2023/01/23

多元史観から見た藤原宮出土「富夲銭」 (1)

近畿天皇家の中枢領域(飛鳥宮遺跡の近傍)である飛鳥池工房遺跡から最多出土した富夲銭に次いで注目されるのが、藤原宮大極殿跡出土の地鎮具(注①)に納められていた九枚の富夲銭です。古代国家の中枢建築物の地鎮具として、この様式は示唆的です。すなわち、須恵器壺(平瓶 ひらか)の中に9本の水晶と水が入っており、その口の部分を9枚の富夲銭により塞ぐという様式を持つこの地鎮具には、新王朝(大和朝廷)のどのような国家意思が込められたのでしょうか。わたしはこの様式について、次のようなアイデアを持っています。

(1) 封入された水晶と、口の部分を封鎖している富夲銭の数がどちらも9個であることは偶然ではなく、何らかの意味を持つ数字と考えるのが穏当である。
(2) そこで思い浮かぶのが、古代国家における「九州」という概念である。古代中国では天子の直轄支配領域を九つに分けて統治するという政治思想があり、その国家自身も「九州」と称するようになった。
(3) 倭国(九州王朝)もこの制度・呼称を採用したと考えられ、その遺称地名として「九州」(九州島のこと)がある(注②)。
(4) こうした政治思想を反映した様式であれば、平瓶内に水没している9個の水晶は、当時(七世紀末から八世紀初頭)の倭国(九州王朝)の姿を表現しているのではあるまいか。
(5) そうであれば、その口の部分を封鎖するように置かれた9枚の富夲銭は、貨幣の持つ力(霊力)で〝倭国(九州王朝)を意味する9個の水晶の復活を阻止する〟という大和朝廷の国家意志を表現したものと思われる。

以上のような作業仮説を考えているのですが、前王朝の貨幣である富夲銭を使用した理由や、その富夲銭と飛鳥池出土の富夲銭とは、品質や重量、銭文の字体などが異なっている理由、飛鳥池遺跡でなければどこで鋳造したのかという新たな疑問が次から次へと浮かび上がります。こうしたことについて論じた優れた論文を阿部周一さん(古田史学の会・会員、札幌市)が発表されています(注③)。(つづく)

(注)
①須恵器壺(平瓶 ひらか)の地鎮具に9本の水晶と9枚の富夲銭が入っていた。
②古賀達也「九州を論ず ―国内史料に見える『九州』の成立」『九州王朝の論理 「日出ずる処の天子」の地』2000年、明石書店。
同「続・九州を論ず ―国内史料に見える『九州』の分国」『九州王朝の論理 「日出ずる処の天子」の地』2000年、明石書店。
③阿部周一「『藤原宮』遺跡出土の『富本銭』について 『九州倭国王権』の貨幣として」『古田史学会報』159号、2020年。


第2924話 2023/01/22

多元史観から見た飛鳥池出土「富夲銭」

「洛中洛外日記」2915話(2023/01/13)〝多元史観から見た古代貨幣「和同開珎」〟で紹介したように、『続日本紀』では和同開珎が大和朝廷(日本国)最初の貨幣と主張しています(注①)。ですから、七世紀以前の貨幣として出土が知られている無文銀銭と富夲銅銭(注②)は九州王朝(倭国)の貨幣と考えざるを得ません。
このことは史料事実に基づいた論理的帰結(論証)ですが、他方、出土事実を子細に見ますと、富夲銭の出土中心が飛鳥池遺跡であることが着目されます。同遺跡は、後の大和朝廷となる近畿天皇家の中枢領域ですから、当地を出土中心とする富夲銭を九州王朝貨幣と見る、先の論証結果とは整合していません。学問研究では、自説に最も不利な史料事実を真正面から受け止めることが大切ですので、この飛鳥池出土の富夲銭について考察を続けています。
フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」によれば、飛鳥池出土「富本銭」について次の解説(一部要約しました)があります。

〝1999年(平成11年)1月、飛鳥池工房遺跡から33点の富本銭が発掘された。それ以前には5枚しか発掘されていなかった。33点のうち、「富本」の字を確認できるのが6点、「富」のみ確認できるのが6点、「本」のみ確認できるのが5点で、残りは小断片である。完成品に近いものには、鋳型や鋳棹、溶銅が流れ込む道筋である湯道や、鋳造時に銭の周囲にはみ出した鋳張りなどが残っている。
富本銭が発掘された土層から、700年以前に建立された寺の瓦や、「丁亥年」(687年)と書かれた木簡が出土していること、『日本書紀』天武12年(683年)の記事に「今より以後、必ず銅銭を用いよ。銀銭を用いることなかれ」とあることなどから、奈良国立文化財研究所は、和同開珎よりも古く、683年に鋳造されたものである可能性が極めて高いと発表した。
その後の調査では、不良品やカス、鋳型、溶銅などが発見された。溶銅の量から、9000枚以上が鋳造されたと推定され、本格的な鋳造がされていたことが明らかになった。アンチモンの割合などが初期の和同開珎とほぼ同じことから、和同開珎のモデルになったと考えられる。〟

この解説で示された重要な事実は次の4点です。

(1) 七世紀頃の近畿天皇家の中枢領域(飛鳥宮遺跡の近傍)である飛鳥池工房遺跡から富夲銭が最多出土している。
(2) その出土層位は687~700年とされ、富夲銭鋳造が天武期末頃から持統期にかけてなされている。これは藤原宮(新益京)の造営期~完成期に相当する。
(3) 当遺跡での富夲銭鋳造推定量は9000枚とされており、この推定値が正しければ、富夲銭を貨幣として流通させることを意図していたと考えることができる。
(4) 富夲銭のアンチモン含有率が初期の和同開珎とほぼ同じである。

以上の出土事実と、そこから導き出される事象は次のようなものです。

(a) 七世紀第4四半期(恐らく680年代から)の飛鳥では、当地の権力者により本格的な貨幣(富夲銭)鋳造が進められていた。
(b) 富夲銭とその鋳造跡が出土した飛鳥池遺跡からは、「天皇」木簡とともに「大津皇子」「穂積皇子」「舎人皇子」「大伯皇子」「大友」など天武の子供達の名前を記した木簡が出土していることから、富夲銭鋳造は「天武天皇」とその「皇子」らにより主導されたと考えざるを得ない。
(c) 同時期に、律令による全国統治のための朝堂院様式の藤原宮(朝廷)と、その中央官僚群(約八千人。注③)の受け入れが可能な巨大条坊都市(新益京)の造営を飛鳥の近傍で進め、701年の王朝交代の準備を行っている。

このような天武らによる〝国家的事業〟が七世紀の第4四半期、すなわち九州王朝(倭国)の時代に行われていることは、701年の王朝交代の実像に迫る上で重視すべき現象です。(つづく)

(注)
①新日本古典文学大系『続日本紀 一』(岩波書店、1989年)に次の記事が見え、「和同開珎」(銀銭・銅銭)のことと見られる。
「五月壬寅、始めて銀銭を行ふ。」元明天皇和銅元年条(708年)。
「(七月)丙辰、近江国をして銅銭を鋳(い)しむ。」同上。
「八月己巳、始めて銅銭を行ふ。」同上。
②「富本銭(ふほんせん)」と表記されることが多いが、銭文の字体は「富夲」「冨夲」である。七世紀当時の「夲」は、「本」の異体字として通用している。
③服部静尚「古代の都城 ―宮域に官僚約八千人―」『古田史学会報』136号、2016年10月。『発見された倭京 ―太宰府都城と官道―』(『古代に真実を求めて』21集)に収録。


第2923話 2023/01/21

奈良新聞に

 「古田史学の会特集 太宰府の謎」掲載

古代大和史研究会(45)2022年11月29日 於:奈良県立図書情報館

太宰府と白鳳年号の謎

— 唐の駐留と都督薩夜麻 正木裕

https://www.youtube.com/watch?v=msVtwX0Gquk

太宰府の謎
太宰府と白鳳年号の謎 — 唐の駐留と都督薩夜麻 正木裕

本日の午前中は、キャンパスプラザ京都(京都市下京区)で「古田史学の会」関西例会が、午後は恒例の新春古代史講演会(注)が開催されました。二月例会は福島区民センター(大阪市福島区)で開催します。

例会では正木さんから、昨日(1月20日)の「奈良新聞」に二面にわたって掲載された「古田史学の会特集 太宰府の謎」(2022年11月29日「古代大和史研究会」での正木さんの講演録)の解説がなされました。同記事は、来年(2024)が藤原京創都1330年にあたり、その一環として特集されたものです。太宰府が倭国(九州王朝)の都であったとする古田説の解説に加え、大宰府政庁Ⅱ期遺構が筑紫君薩野馬(都督)の「都督府」であったとする正木説などが紹介されています。昨年に続いての古田説紹介記事を掲載していただいた奈良新聞社に感謝いたします。

1月例会では下記の発表がありました。なお、発表希望者は西村秀己さんにメール(携帯電話アドレス)か電話で発表申請を行ってください。発表者はレジュメを25部作成されるようお願いします。

〔1月度関西例会の内容〕
①垂仁記の日子坐王の系譜に関係する北方文化の説話 (大山崎町・大原重雄)
②太宰府の謎 (川西市・正木 裕)

◎「古田史学の会」関西例会(第三土曜日) 参加費500円(三密回避に大部屋使用の場合は1,000円)
02/18(土) 会場:福島区民センター(大阪市福島区)

午後からは、〝令和5年 新春古代史講演会 よみがえる京都の飛鳥・白鳳寺院〟が開催されました。新年の恒例行事ですが、今年は初めて京都市で開催しました。寒さ厳しいおりにもかかわらず、多くの京都市民にご参加いただきました。「古田史学の会」に入会される方もあり、盛況でした。
今回は、京都市埋蔵文化研究所の高橋潔先生に飛鳥・白鳳時代の北山背の廃寺・遺跡について講演していただきました。わたしからは、七世紀における九州王朝とその臣下の秦氏の京都市域(北山背)への進出について、最新研究を発表しました。
演題は次の通りです。ご参加いただいた皆さん、共催団体の皆さんのご協力に御礼申し上げます。

□講師・演題
高橋潔氏(公益財団法人 京都市埋蔵文化財研究所 資料担当課長)
「京都の飛鳥・白鳳寺院 ―平安京遷都前の北山背―」
古賀達也(古田史学の会・代表)
「『聖徳太子』伝承と古代寺院の謎」


第2922話 2023/01/20

『東日流外三郡誌』

   研究の推奨テキスト (3)

北方新社版『東日流外三郡誌』(注①)には欠字が多く、それは埋蔵金や財宝に関する記事が伏せ字になっているためであることに、わたしよりも早く気づいた人たちがいました。八幡書店版の編纂に携わった同社の関係者たちです。『東日流外三郡誌 別報6』(注②)に次の記事が見えます。

〝市浦版・北方新社版に共通する欠点としては、図版が底本とは似て否なるものであることや勝手に「左」が「右」に訂正されて図版が挿入されたり、その箇所にはない図版が割り込まれたりしていること。埋蔵金などの財宝に関する資料の時にはなぜか伏字が使用されていることなどが判明した。〟

ここにあるように、八幡書店版は先行した市浦村史版(注③)や北方新社版の問題点も把握したうえで、それよりも丁寧な編纂作業が行われていました。同社版が最も優れた校本であると古田先生が指摘された通りでした(注④)。この史料情況の論文発表を古田先生から止められたのですが、その事情を先生は次のように記しています。

〝この「埋蔵金」問題は、土地の人に(青森県西部地方)の関心を“ひそかに”ひきつけつづけていたようです。当然のことでしょう。
その“証拠”に、最初に公刊された『東日流外三郡誌』として知られる「市浦村史資料編」版では、この「埋蔵金」関連かとみられる個所は「脱字」扱いにされているようです。
この点、すぐれた研究者として次々各方面に研究業績をしめしておられる古賀達也さん(京都市)が、すでに早く気づき、これを論文化して発表したい、とのこと。その御意向を知り、その時点では、わたしはあえて「反対」しました。
なぜなら、その当時、いわゆる「偽作説」が世間で話題を奪っていた最中でしたから、その上にこの「埋蔵金」問題が話題となれば、一段と“論点”が混迷し、当事者(和田喜八郎氏も存命中)も“迷惑”するのではないか、と心配したのです。それで、もう少し「発表時期をのばす」ことを提案しました。古賀さんも、賛成してくださったのです。
しかし、もう、時期は変わりました。喜八郎さんに次ぎ、長男の孝さんも亡くなられました。一般の書籍や文庫本、雑誌などでも、「すでに『東日流外三郡誌』の偽書であることは確定した」かに(虚報を)叙述するものも、次々と現われています。その意味では「偽作論争」のさかりの時期は“過ぎた”ようです。
その上、何よりも、この「埋蔵金」問題が、『東日流外三郡誌』の真相を探る上で、不可欠のテーマであること、今まで述べたことでお判りの通りです。
ですから、古賀さんも近く、その所論を発表されることと思います。〟(注⑤)

当論稿をわたしは失念していました。この〝近く古賀から発表される所論〟が未発表のままであることを、今回、秋田市在住の読者Tさん(注⑥)からのお電話で思い出しました。古田先生に「伏せ字」問題の存在を報告した日から20年以上を経て、ようやく「洛中洛外日記」で概要を発表することができました。お問い合わせいただいたTさんに感謝いたします。

(注)
①『東日流外三郡誌』北方新社版(全六冊) 小舘衷三・藤本光幸編、昭和五八~六〇年(1983~1985)。後に「補巻」昭和六一年(1986)が追加発行された。
②森克明「『東日流外三郡誌』の編纂を終えて」『東日流外三郡誌 別報6』八幡書店、1990年。
③『東日流外三郡誌』市浦村史資料編(全三冊) 昭和五〇~五二年(1975~1977)。
④古田武彦「秋田孝季の人間学 ―和田家文書の〝発見〟―」『東日流外三郡誌 別報2』八幡書店、1989年。
⑤古田武彦「浅見光彦氏への“レター”」『新・古代学』第8集、新泉社、2005年。
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/sinkodai8/furuta82.html
⑥2023年1月14日に開催された和田家文書研究会(東京古田会主催)で、「和田家文書調査の思い出 ―古田先生との津軽行脚―」を古賀はリモート発表した。このとき、青森県弘前市でリモート聴講されていた「秋田孝季集史研究会」(竹田侑子会長)にTさんは出席されていたとのこと。