第1512話 2017/10/05

今月の読書、榎村寛之著『斎宮』

 九月に発刊された榎村寛之著『斎宮 伊勢斎王たちの生きた古代史』(中公新書)を読み始めました。古代日本における「斎宮」「斎王」という制度には以前から関心を抱いていたのですが、本格的な勉強はしないままでした。天皇の娘を伊勢神宮の祭祀役(斎王)として派遣するという制度が大和朝廷で初めて行われたのか、前王朝である九州王朝(倭国)にその淵源があったのかについて研究してみたいと思っていました。その答えやヒントが同書から得られるのではないかという予感を抱いて「今月の読書」の一冊にしました。
 著者の榎村さんのお名前は知らなかったのですが、同書に記された「著者紹介」によれば、日本古代史を専攻され伊勢神宮や斎宮・斎王の研究者のようです。現在は三重県立斎宮歴史博物館学芸普及課長とのこと。もし、九州王朝の「伊勢神宮」「倭姫命」があれば、斎宮・斎王制度もあったかもしれません。どなたか多元史観・古田史学で「九州王朝の斎宮・斎王」を研究されませんか。


第1511話 2017/09/30

9月に配信した「洛中洛外日記【号外】」

 9月に配信した「洛中洛外日記【号外】」のタイトルをご紹介します。
 配信をご希望される「古田史学の会」会員は担当(竹村順弘事務局次長 yorihiro.takemura@gmail.com)まで、会員番号を添えてメールでお申し込みください。
 ※「洛中洛外日記」「同【号外】」のメール配信は「古田史学の会」会員限定サービスです。

《9月「洛中洛外日記【号外】」配信タイトル》
2017/09/06 『多元』141号のご紹介
2017/09/17 アウグスト・ベークに学ぶ
2017/09/18 優れた論証は学問を牽引する
2017/09/22 岩手大学の岡崎教授から来信


第1510話 2017/09/30

『戦後型皇国史観』に抗する学問

           をHPに転載

 「古田史学の会」ホームページ「新古代学の扉」を担当されている横田幸男さん(古田史学の会・全国世話人)からの要請により、拙稿「『戦後型皇国史観』に抗する学問」を転載することになりました。同論稿は『季報 唯物論研究』の編集部より依頼されて執筆したもので、「中間総括・市民の日本古代史研究」を特集した138号(2017年2月)に収録されました。
 同誌は「古田史学の会」を一緒に立ち上げた藤田友治さん(故人、元・市民の古代研究会々長)も関わっておられた、立命館大学関係者が中心となって発行されているマルクス主義系の雑誌のようです。そうしたこともあり、「古田史学の会」役員会でも執筆依頼を受けるかどうか意見が分かれました。最終的には、わたしの意見を受け入れていただき、執筆することになりました。同特集には執筆予定者リストに反「古田武彦」、反「古田史学の会」の人物の名前が数名見られ、わたしが執筆しなければ、誤った古田史学の解説や古田先生への罵詈雑言が書かれた論稿のみとなりかねないと危惧していましたので、そのことを役員会でも理解していただきました。ですから、執筆した原稿を役員の皆さんに校正・チェックしていただきました。
 そうして書き上げた「『戦後型皇国史観』に抗する学問」は古田史学と「古田史学の会」の歴史的位置づけや使命を改めて表明したもので、古田先生を追悼する記念碑的論稿となりました。ホームページに転載されることにより、多くの皆さんに読んでいただけることを願っています。


第1509話 2017/09/28

10月、11月のイベントご案内

○誰も知らなかった古代史(21回)
日時:10月27日(金)18時30分〜20時
テーマ:「難波宮の官衙に官僚約8千人」
【カタリスト】服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)

○誰も知らなかった古代史(22回)
日時:11月24日(金)18時30分〜20時
テーマ:「大宰府に来ていたペルシャの姫」
【カタリスト】正木裕さん(古田史学の会・事務局長)

場所:まちライブラリー@森ノ宮キューズモール。
   〒540-0003 大阪府大阪市中央区森ノ宮中央2丁目1-70
・地下鉄中央線/長堀鶴見緑地線森ノ宮駅より徒歩約1分
・JR環状線 森ノ宮駅より徒歩約3分
 http://machi-library.org/where/detail/563/

定員30名(参加費ドリンク代500円)。

※「誰も知らなかった古代史」の申し込みは「森ノ宮まちライブラリー」まで
  TEL06-6949-9222 定休日=火曜日 受付=11:00〜19:00

○松本市講演会
 長野県松本市で「王朝交代―倭国から日本国へ」と題し、「邪馬壹国研究会・松本」と「古田史学の会」の共催で古代史講演会を開催します。ふるってご参加ください。

日時:11月14日(火)14時開会
14時〜14時50分 古賀達也「失われた倭国年号《大和朝廷以前》」
15時〜16時30分 正木 裕「王朝交代-倭国から日本国へ」
以後質疑応答 17時終了

会場:松本市中央図書館第一視聴覚室(松本市蟻ケ崎二丁目4-40、JR松本駅から約1.5㎞、北松本駅から1㎞)

参加費:1000円

連絡先:鈴岡潤一さん ℡026-332-7402


第1508話 2017/09/25

九州王朝の天子「筑紫君」の御子孫

 九州王朝史研究の一テーマとして、九州王朝の天子「筑紫君」の御子孫の調査があり、その研究成果については何度か説明してきました。「倭の五王」から筑紫君磐井たちは筑後地方に盤踞してきたと考えており、阿毎多利思北孤の時代、7世紀初頭になって筑前太宰府に遷宮します(倭京元年〔618年〕が有力候補)。そのとき、筑後に残った一族は稲員家(高良大社大祝の家系)を中心として現代まで御子孫が筑後地方や熊本におられます。ところが、太宰府に遷宮した多利思北孤の御子孫の行方がよくわからないままでした。
 かすかにその痕跡と思われる、戦国武将の筑紫広門を筑紫君の末裔とする史料が散見されるのですが、筑後の稲員家とは異なり、その系図などで確認することができていません。そこで今後の研究者のために筑紫広門を古代の筑紫君の子孫とする史料をご紹介することにします。
 その一つは、安政6年(1859)に対馬の中川延良により記された『楽郊紀聞』(らくこうきぶん)です。平凡社東洋文庫版によれば次のような記事が見えます。

 「筑紫上野介の家は、往古筑紫ノ君の末と聞えたり。豊臣太閤薩摩征伐の比は、広門の妻、子供をつれて黒田長政殿にも嫁し由にて、右征伐の時には、其子は黒田家に幼少にて居られ、後は筑前様に二百石ばかりにて御家中になられし由。外にも其兄弟の人歟、御旗本に召出されて、只今二軒ある由也。同上。」平凡社東洋文庫『楽郊紀聞2』229頁

 東洋文庫編集者による次の解説が付されています。
 「筑紫広門。惟門の子。同家は肥前・筑前・筑後で九郡を領したが、天正十五年秀吉の九州征伐のとき降伏、筑後上妻郡一万八千石を与えられ、山下城に居た。再度の朝鮮役に出陣。関ヶ原役には西軍に属したため失領、剃髪して加藤清正に身を寄せ、元和九年没、六十八。その女は黒田長政の室。長徳院という。筑紫君の名は『釈日本紀』に見える。筑紫氏はその末裔と伝えるが、また足利直冬の後裔ともいう。中世、少弐氏の一門となり武藤氏を称した。徳川幕府の旗本には一家あり、茂門の時から三千石を領した。」

 ところが『太宰管内志』の「筑前国御笠郡筑紫神社」の項には次のように記されています。

 「さて此社の神官は筑紫氏にして初は社邊に居りたりしを後に兵革を業として天正ノ比武威を振ひし筑紫上野介廣門は此神官の後裔なり、(中略)又〔筑後志四巻〕に筑紫上野介藤原廣門入道宗薫は大職冠鎌足公の後胤にして藤太秀郷の末裔なり下野守尚門は少弐ノ一族にして筑前國御笠郡筑紫村を領じ筑紫を家ノ號とす其子秀門・其子正門・其子惟門・其子廣門なり天正年中惟門肥前國二上山の城より筑後國鷹取の城にうつれり」『太宰管内志』(上)668頁

 『太宰管内志』引用の「筑後國志」によれば、廣門の先祖は少弐氏で筑紫村を領地にしてから筑紫氏を名乗ったとあります。この記事が正しければ、筑紫廣門は古代の筑紫君の子孫ではないかもしれません。少弐氏の出自が不明ですので、今のところこれ以上のことはわかりません。
 筑紫氏といえばニュースキャスターの筑紫哲也さんが有名です。筑紫さんは大分県日田市のご出身とのこと。日田市に筑紫氏がいたことは不思議ですが、日田市出土の金銀象嵌鉄鏡と筑紫さんのご先祖と何か関係があるのでしょうか。ちなみに筑紫哲也さんは古田先生の九州王朝説をご存じで、生前、わたしもお葉書をいただきました。おそらく、自らの出自を九州王朝の筑紫君だったと思っておられたのではないでしょうか。


第1507話 2017/09/24

倭人伝の「奴」国名と現代日本の「野」地名

 「洛中洛外日記」1505話「日本列島出土の鍍金鏡」で紹介した、岐阜県揖斐郡大野町の城塚古墳は野古墳群に属しています。わたしはこの「野古墳群」という名称に興味を持ち、地図などで調べたところ当地の字地名が「野(の)」でした。最初は「大野古墳群」の間違いではないかと思ったのですが、「野古墳群」でよかったのです。
 小領域の字地名とはいえ、「野」のような一字地名は珍しく、古代日本語の原初的な意味を持つ地名と思われ、古田先生が提唱された「言素論」の貴重なサンプルではないでしょうか。「野」の他には三重県津市の「津」も同様です。その字義は港でほぼ間違いなく、「野」は一定の面積を有す「平地」のことでしょうか。あるいは、そのことを淵源とした地名接尾語かもしれません。
 『三国志』倭人伝の国名に「奴」の字が使用されるケースが少なくないのですが、「奴国」などはその代表例です。この「奴」こそ、現代日本の地名にも多用される「野」に対応していると考えられます。従来の倭人伝研究では「奴」を「do」「na」と読んだり、中には「to」と読む論者もありました。残念ながら『三国志』時代の中国語音韻の復元はまだなされておらず、「奴」の音はいわゆる中古音に近い「no」か「nu」とする説が比較的有力と見られています。
 他方、日本列島内の地名と倭人伝国名との一致などから、現代日本語地名の読みが『三国志』時代の音韻復元に利用できそうであることを古田先生は指摘されていました。そうした中で、「洛中洛外日記」827話「『言素論』の可能性」でもご紹介した中村通敏さん(古田史学の会・会員、福岡市)の好著『奴国がわかれば「邪馬台国」がわかる』(海鳥社、2014年)が出版され、倭人伝の「奴」は日本の地名に多用される「野(no)」に相当することを論証されました。古代中国語音韻研究の最新成果とも整合しており、この中村説は有力と思います。
 こうした古田学派内の研究成果にわたしは触れていましたので、岐阜県揖斐郡大野町の字地名「野」の存在を知ったとき、これこそ弥生時代まで遡る可能性が高い地名であり、「倭人伝」の「奴国」の「奴」と同義ではないかと思いました。その「野」と呼ばれた地域に「野古墳群」が存在することも、深い歴史的背景を有していたためであり、偶然ではないと思います。ちなみに、当地には「美濃」「大野」など「野(no)」地名が散見され、古代の「奴国」の一つではなかったでしょうか。倭人伝にも複数の「奴国」がありますが、弥生時代も現代も「の」あるいは「○○の」は一般地名化するほど普通に使用されたと思われます。(つづく)


第1506話 2017/09/24

大阪歴博で市大樹さんの講演を聴講

 昨日は大阪歴博で開催された「大坂の歴史を掘る2017」の市大樹さん(大阪大学・準教授)の講演を聴講しました。「古田史学の会」からは小林嘉朗副代表、正木裕事務局長、服部静尚編集長、久冨直子さんも参加されました。
 市さんの講演主旨は、前期難波宮の造営を従来説より早く開始されたとされ、白雉改元儀式も完成の二年前の650年に前期難波宮で開催されたとする新説です。「洛中洛外日記」1470話「白雉改元『難波長柄豊碕宮』説」に市さんの当該論文「難波長柄豊碕宮の造営過程」を紹介していますので、ご参照ください。
 率直な感想としては、『日本書紀』孝徳紀の記事を無批判に「是」として、それを前提に各記事を解釈するという、言わば仮説に仮説を積み重ねるというかなり無茶な方法論が採用されており、古田史学の学問の方法とは異なると感じました。ただ、従来説の弱点であった、白雉改元の儀式を行った宮殿が上町台地のどこであったのか不明という難題に対して、果敢に一元史観の立場から挑戦された姿勢は、同じ研究者として共感できました。
 講演終了後に市さんに御挨拶し、「古田史学の会・代表」の名刺を差し上げました。司会を歴博の考古学者、李陽浩さんがされておられましたので、李さんにも御挨拶しました。李さんは古代建築研究の第一人者で、優れた論文を数多く発表されています。わたしも前期難波宮のことについて多くのことを教えていただいています。いつか「古田史学の会」で講演していただければと考えています。


第1505話 2017/09/21

日本列島出土の鍍金鏡

 熊本県球磨郡あさぎり町の才園(さいぞん)古墳出土の鍍金鏡(直径14.65cm)を含め、日本列島からは3面の鍍金鏡の出土が知られています。
 1面は九州王朝の中枢領域である糸島市の一貴山銚子塚古墳(4世紀後半、墳丘長103m)から出土した方格規矩四神鏡(直径21.2cm)です。同古墳は糸島地方最大の前方後円墳ですから、九州王朝の有力者の古墳と見てもよいと思います。もしかすると4世紀後半頃の「倭王」かもしれません。5世紀の「倭の五王」の時代になりますと、倭国(九州王朝)は筑後地方に遷都(遷宮)したと、わたしは考えていますから、被葬者はその直前の倭王の可能性が高いように思います。
 もう1面は何故か九州から遠く離れた岐阜県揖斐郡大野町の城塚古墳(5世紀中頃〜6世紀初頭、主軸全長75m)から鍍金獣帯鏡(直径20.3cm)が出土しています。九州王朝説の立場からすると九州内からの鍍金鏡出土は当然とも言えるのですが、岐阜県大野町の城塚古墳からの出土は多元的古代の観点から、この濃尾平野に鍍金鏡を埋納されるにふさわしい「天子」級の権力者が居たことを想像させます。
 もちろん出土した数の数倍の鍍金鏡が古代において存在していたと考えるべきですが、九州地方から2面、東海地方から1面という鍍金鏡出土分布は何を意味するのか、古田学派ならではの研究テーマです。(つづく)


第1504話 2017/09/20

南九州の「天子」級遺品

 宮崎県の島内114号地下式横穴墓(えびの市)出土の「龍」銀象嵌大刀は、南九州における「天子」級の遺品と思われるのですが、私の知るところでは他にも南九州から「天子」級遺品が二つ出土しています。
 一つは宮崎県串間市王の山から出土したとされる日本列島内では最大の玉璧(直径33cm)です。玉璧は古代中国では天子クラスの権力者の持ち物とされ、なぜ南九州から出土したのか不思議です。九州王朝の中枢領域である筑前からも玉璧の小片が出土しているだけです。同玉璧は中国産(漢代とされる)と思われますが、出土状況などが不明ですので、いつの時代に埋納されたのかなどもわかりません。
 もう一つは熊本県球磨郡あさぎり町の才園(さいぞん)古墳から出土した鍍金鏡(直径14.65cm)です。鍍金鏡は全国から数面しか出土しておらず、「天子」級の遺品と言えるのではないでしょうか。才園古墳は6世紀末〜7世紀頃の築造と編年されていますから、その時代に「天子」級の権力者が当地に居たことがうかがわれます。その人物が九州王朝とどのような関係にあったのかなど、やはり多元史観による解明が待たれます。(つづく)


第1503話 2017/09/19

九州王朝(倭国)の「龍」

 宮崎県の島内114号地下式横穴墓(えびの市)から出土した「龍」銀象嵌大刀について、「龍」は天子のシンボルであり、その「龍」の銀象嵌大刀を持つ被葬者は当地の最高権力者ではないかと指摘しました。そこで比較のため、九州王朝(倭国)のシンボルとしての「龍」遺品について代表的なものを紹介します。
 九州王朝の「龍」で著名なものが沖ノ島から出土した一対の金銅製龍頭(国宝)でしょう。造られた年代は不明ですが、九州王朝の天子のシンボルにふさわしいものです。
 次いで、ダンワラ古墳(日田市)から出土した金銀象嵌珠龍文鉄鏡に見える「龍文」です。恐らく中国製(漢鏡)と思われますが、国内では他に類例を見ない「宝鏡」で、天子の持ち物にふさわしいものです。それほどの鏡がなぜ日田市から出土したのかなど、解明すべき謎に満ちています。
 製造年代が明確なもとしては、観世音寺の銅鐘上部の「龍頭(りゅうず)」があります。7世紀末頃に造られたと考えられています。九州王朝の都、太宰府を代表する寺院である観世音寺の造営は「白鳳10年(670)」と文献(『日本帝皇年代記』他)に記されおり、出土創建瓦「老司Ⅰ式」の編年(7世紀後半)にも対応しています。
 これら九州王朝を象徴する「龍」遺品と比較すると島内114号地下式横穴墓出土の「龍」銀象嵌大刀はやや見劣りがしますが、時代差もあるため単純には比較できません。いずれにしても、「龍」をシンボルとした南九州の権力者の存在を示すものであり、多元史観によるその実体解明が必要です。(つづく)