2021年09月17日一覧

第2572話 2021/09/17

『東日流外三郡誌』、「寛政宝剣額」の発見(2)

 『東日流外三郡誌』の編著者、秋田孝季(あきた・たかすえ)の名前が記された「寛政宝剣額」を探し求めて、古田先生と二人で津軽の五所川原市を訪れたのは1994年5月5日のことでした。そして、市浦村役場の成田義正さんのご協力を得て、「宝剣額」が同村教育委員会で保管していることをつきとめ、ガラスケースの中に納められていた「宝剣額」とようやく対面することができました。
 その「宝剣額」の実見調査に基づく古田先生の所見が『古田史学会報』創刊号に報告(注①)されています。次の通りです。

〝「新しい段階」は、一枚の奉納額によって導入された。長さ、約七十センチ、幅、約三十三センチ、厚さ、約三・四センチの木板だ。その中央には、二振りの矛状鉄剣(宝剣)が打ちつけられている。長さ、約四八・五センチ。
 その周辺の文字は、次のようである。
 「(向って右側)
 奉納御神前 日枝神社
 (下部署名)
 土崎住
  秋田孝季
 飯積住
  和田長三郎
  (向って左側)
 寛政元年酉八月□日 東日流外三郡誌 (右行)筆起(左行)爲完結」(後略)〟『古田史学会報』創刊号

 後日、古田先生は「宝剣額」を市浦村からお借りして、昭和薬科大学で木材部分の顕微鏡写真撮影、東北大学金属研究所にて金属部分の検査を実施されました。その検査結果については後述します。
 このように徹底した学術調査が実施されました。しかし、偽作論者たちによる〝反論〟、たとえば「宝剣額は和田喜八郎氏による偽造」、あるいは「別の所にあった宝剣額を盗んで、文面を書き換えた」などの中傷が予想されたので、「宝剣額」が昔(例えば戦前)から山王日吉神社に奉納されていたことを知っている当地のご老人の証言を得るために、それこそ津軽半島を駆け巡りました。そして、ついに青山兼四郎さん(当時72歳、中里町)の証言を得ることができたのです。次の通りです。

〝青山兼四郎氏、七二歳。地元で建築関係の仕事に携わられておられ、郷土史にも詳しい方だ。青山氏の証言によれば次の通りだ(ビデオに収録。後日、手紙で再確認)。
①この額は山王日吉神社に掲げられていたものである。子供の頃から見て知っていた。
②昭和二八年秋頃、市浦村の財産区調査により測量を行ったが、自分以外にも調査関係者がこの額を見ている。存命の者もいる。
③当時、関係者の間でも大変古い貴重な額であることが話題になった。
④「日枝神社」「秋田孝季」という字が書かれていたことは、はっきりと覚えている。〟『古田史学会報』創刊号(注②)

 青山さんには詳細な事実関係等について、『古田史学会報』(注③)にも寄稿していただきました。
 古田先生とわたしは、津軽の古老達の証言を求める調査旅行を翌年以降も続けました。その結果、山王日吉神社宮司の松橋徳夫さん、市浦村元村長の白川治三郎さん(『東日流外三郡誌』や「宝剣額」写真を収録した『市浦村史』発刊時の村長)、青森県仏教会々長の佐藤堅瑞さん(柏村・浄円寺住職)ら当地有力者による貴重な証言を次々と得ることができました。(つづく)

(注)
①古田武彦「決定的一級史料の出現 ―「寛政奉納額」の「発見」によって東日流外三郡誌「偽書説」は消滅した―」『古田史学会報』創刊号、1994年6月。
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou/furuta01.html
②古賀達也「特集/和田家文書 秋田孝季奉納額の「発見」 「和田家文書」現地調査報告」『古田史学会報』創刊号、1994年6月
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou/koga01.html
③青山兼四郎「『東日流外三郡誌』は偽書ではない ―青森県古代・中世史の真実を解く鍵―」『古田史学会報』6号、1995年4月。
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou/tugaru06.html


第2571話 2021/09/17

『東日流外三郡誌』、「寛政宝剣額」の発見(1)

 『東日流外三郡誌』を歴史史料として使用するにあたり、学問的手続きとして、事前に進めなければならないことがありました。それは文献史学で言うところの史料批判という作業です。その史料がどの程度歴史の真実を伝えているのか、信頼性がどの程度あるのかを確かめる作業です。『古事記』『日本書紀』など、既に広く学界で認められている史料の場合は、とりたてて基礎的な史料批判の手続きを求められることはありませんが、和田家文書のように戦後になって世に出た史料の場合は、この手続きが不可欠なのです。
 なお、和田家文書の場合は、こうした学問的作業の最中に、悪意に満ちた偽作キャンペーンが始まりましたので、不幸なことであったと言わざるを得ません。学問研究には、静かで落ち着いた環境が必要だからです。もっとも、当時の偽作キャンペーンは古田先生やその学説(多元史観、九州王朝説)への中傷攻撃という側面が強かったので、その意味では偽作論者の目論見は、一応は成功したのかもしれません。
 その史料批判の第一段階として、使用された紙の調査を実施したことを先の「洛中洛外日記」〝『東日流外三郡誌』に使用された和紙〟(注①)で紹介しました。結論として和田家文書の多くが明治時代末頃からの機械漉きの和紙(美濃和紙)であったことが確認できました。
 もう一つの確認作業として、編著者とされる秋田孝季(あきた・たかすえ)についての調査も並行して行いました。わたしとしては、この秋田孝季調査が、『東日流外三郡誌』の真偽論や学問的史料として使用可能かを判断する上で重要課題と考えていましたので、最初に取り組みました。秋田孝季の実在を証明するためには、和田家文書以外の史料からその存在を証明しなければなりませんので、孝季が活躍した寛政年間(1789~1800年)から文政年間(1818~1830年)頃の地誌や日記類を調べました。たとえば津軽を旅行した文人、菅江真澄(すがえ・ますみ)は著名でしたので、『菅江真澄全集』は丹念に読み込みました。そして、菅江真澄の津軽での足跡について、偽作説への反証論文(注②)も書きました。
 ところが、秋田孝季と『東日流外三郡誌』のことを記した「寛政元年酉八月」(1789年)の年次を持つ「宝剣額」が市浦村に存在していることを偶然に知りました。そのきっかけは次のようなことでした。

〝昨年(1993年)八月発行の歴史読本特別増刊号『「古史古伝」論争』に掲載された藤本光幸氏の論文「『東日流外三郡誌』偽書説への反証」中に、秋田孝季が山王日吉神社に奉納したとされる額の写真がある。印刷が不鮮明なため正確には読み取れなかったが、「寛政元年八月」「土崎」「秋田」という字が読み取れた。
 この額が現存していれば和田家文書真作説の有力な証拠となるはずである。さっそく、藤本氏に問い合わせてみたが、現在どこにあるか不明とのこと。そこで、今回(1994年5月)の調査目的の一つにこの奉納額の探索を加えたのだが、事態は二転三転、スリリングな展開を見せた。〟(注③)

 この「寛政宝剣額」の調査旅行を皮切りに、5年間に及んだ、わたしたちの津軽行脚がスタートしました。古田先生67歳。わたしは38歳のまだ若かりし日のことでした。(つづく)

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」2569~2570話(2021/09/169〝『東日流外三郡誌』に使用された和紙(1)~(2)〟
②古賀達也「『山王日吉神社』考(3) 菅江真澄は日吉神社に行っていない」『古田史学会報』8号、1995年8月。
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou/koga08.html
③古賀達也「特集/和田家文書 秋田孝季奉納額の「発見」 「和田家文書」現地調査報告」『古田史学会報』創刊号、1994年6月
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou/koga01.html