2021年09月19日一覧

第2574話 2021/09/19

竹内強さんの思い出と研究年譜

 昨日(令和三年九月十八日)、古田史学の会・東海の会長、竹内強さん(古田史学の会・全国世話人、愛知県阿久比町議)がご逝去されました(享年七一歳)。謹んで哀悼の意を捧げます。
 昨年の暮れ、竹内さんからお電話がありました。手術入院するとの連絡でした。病状がかなり悪いようで、「古賀さんへのお別れの電話になると思う」と言われ、「お互い、まだ使命があります。使命を果たすまで死ぬことはできません。古田先生ならもっと頑張れと言われるはずです。」と励ますことしか、わたしにはできませんでした。そして、今年春のお電話が最後の会話となりました。
 竹内さんが阿久比町議になられ、研究の第一線から退かれてからも、名古屋出張のおりには夕食をご一緒していました。学問研究のこと、古田史学の将来のこと、議員活動のことなど、話題は尽きませんでした。しかし、体調が良くないようでしたので、町議を引退されてはどうかと、会う度に進言しましたが、地方町議の議員報酬は少ないので若い人では生活ができず、そのため後任の立候補者もなく、辞められないとのことでした。
 竹内さんが町議に立候補する際、古田先生に報告されたのですが、先生は猛反対されました。二時間にわたり立候補への思いを訴えられ、古田先生も最後には「がんばりなさい」と言われたそうです。
 竹内さんは二十年ほど前から「古田史学の会」関西例会に岐阜市から参加されていました。二〇〇三年からは、古田先生の呼びかけに応えて、和田家文書に使用された美濃和紙の紙問屋調査に入られました。そして、廃業した紙問屋の御子孫を探しだし、和田家文書の紙が明治時代の美濃和紙であることをつきとめ、二〇〇五年六月の「古田史学の会」大阪講演会で発表されました。その研究論文「和田家文書『北斗抄』に使用された美濃和紙を探して」は『和田家資料3 北斗抄』(北方新社)に掲載されました(古田史学の会HPに収録)。
 その経緯を「洛中洛外日記」2570話(2021/09/16)〝『東日流外三郡誌』に使用された和紙(2)〟で紹介したのですが、その翌々日に竹内さんは亡くなられました。偶然とは思えません。和田家文書偽作キャンペーンに抗して、古田先生と古田史学を守り続けてきた同志のご逝去、無念と言うほかありません。
 竹内さんの研究年譜をここに書きとどめ、弔いといたします。

【竹内強さんの研究年譜】
2003/06 古田先生の大阪講演会(「王朝の本質 九州王朝から東北王朝へ」)に参加。先生の呼びかけに応えて、美濃和紙の調査を始める。
2005/05 「法隆寺金石文金銅仏『笠評君観音菩薩立像』の分析」(古田史学の会・関西例会)
2005/06 「和田家文書に使用された美濃紙追跡調査」(古田史学の会・大阪講演会)
2005/08 「安倍仲麻呂『天の原ふりさけみれば…』を考える」(古田史学の会・関西例会)
2005/09 「闇の中に消された『竺志』」(古田史学の会・関西例会)
2006/01 「和田家文書『北斗抄』に使用された美濃和紙を探して」(『和田家資料3 北斗抄』北方新社)
2006/03 「大安寺伽藍縁起並流記資財帳の中の仲天皇と袁智天皇とは?」(古田史学の会・関西例会)
2006/07 「大野城創建と城門柱の刻書」(古田史学の会・関西例会)
2006/10 「竺志考2」(古田史学の会・関西例会)
2007/02 古田先生のエクアドル調査旅行に同行。
2007/03 「エクアドルの旅─古田武彦と共に」(古田史学の会・関西例会)
2007/08 「『上宮聖徳法王帝説』中のもう一つの九州年号」(古田史学の会・関西例会)
2007/10 古田史学の会・東海会長に就任。その後、古田史学の会・全国世話人に就任。
2008/03 「両面宿儺伝説についての一考察」(古田史学の会・関西例会)
2008/08 「伊予の湯の岡碑文と九州王朝論 ─白方勝氏の歴史観について─」(古田史学の会・関西例会)
2008/09 「『上宮聖徳法王帝説』再考」(古田史学の会・関西例会)
2008/11 「二人の天子と『仁王経』―『隋書』「俀国伝」日出ずる処の天子についての新理解」(古田史学の会・関西例会)
2009/01 「前期難波宮の中の九州王朝」(古田史学の会・関西例会)
2009/03 「愛知県刈谷市の天子神社と海士族の伝播」(古田史学の会・関西例会)
2011/07 「板付水田遺跡は弥生か縄文か」(古田史学の会・関西例会)
2013/09 「ワニ氏の北方系海人族としての歴史的考察」(古田史学の会・関西例会)

古田史学の会・東海 第3代会長 故竹内強氏

古田史学の会・東海 第3代会長 故竹内強氏