2021年09月07日一覧

第2558話 2021/09/07

古田先生との「大化改新」研究の思い出(4)

 古田先生がそれまでの慎重姿勢から本格的な「大化改新」研究に進むに当たり、〝決め手〟となったのが藤田友治さんの研究「日本古代碑の再検討 ―宇治橋断碑について―」(注①)でした。この研究の発端に、わたしも関わっていたのでよく憶えています。
 当時、「市民の古代研究会」では遺跡巡りを兼ねて、宇治橋断碑の現地調査を行っていました(注②)。入会して間もなかったわたしは、藤田さん(当時、同会・事務局長)に「宇治橋断碑には銘文を囲む界線や罫線があるが、これは古代の金石文には珍しいように思いますが」と質問しました。この質問がきっかけとなったようで、藤田さんは、金石文に界線・罫線が描かれるようになったのはいつ頃かという界線の技術の発達史を調査されました。その結果、同碑(原石碑部分)の成立を延暦年間(782~806年)と推定されました。

 「原石碑部分と思われる断碑を他の金石文と比較して考察すると、界線は外枠・縦界線・割付ありを示す浄水寺南大門碑(七九〇年)と同じ特徴を示すから、延暦年間(七八二~八〇六年)と推定される。」181頁

 これらを根拠として、『日本書紀』成立(720年)以後に宇治橋断碑の碑文は成立しており、宇治橋断碑を『日本書紀』の大化年号を史実とする証拠にはできないとしました。更に、「この結論は、九州年号論、『大化改新』論等にさまざまな展開をもたらしうるであろう。」と、九州年号・九州王朝説に基づく「大化改新」研究へと発展することを予想されたのでした。
 こうした藤田さんの研究内容は、論文発表前に古田先生にも届いていたようで、「市民の古代研究会十周年記念講演会」(注③)で古田先生は次のように述べられています。

〝『日本書紀』の「大化」は六四五年であるのに対し、九州年号がわの「大化」は七世紀の終わりごろに近いところに、出没している。各文献において少しずれるのです。それがひとつと、それ以上に大事なことは、宇治橋という、ここ(大阪市)に近い所に「金石文」がある。京都の宇治です。そこに「大化二年」で干支が「丙午」と書いてある。六四六年にあたる形で書いてある。金石文である以上、これを簡単に否定するわけにはいかない。したがって、残念ながら、“涙をのんで”これを「保留」したわけなんです。(中略)
 ところが、最近、藤田友治さんが宇治橋断碑に取り組まれて、今日の資料にも藤田さんから提供していただいたものが入っていますが、どうもこれは乗り越えられると、詳しくは藤田さんの論文が『市民の古代』に載ると思いますので、(後略)〟(注④)

 藤田さんのこの研究成果により、『日本書紀』の「大化」年号も九州年号からの〝盗用〟と見なすことが可能となり、九州王朝説に基づく「大化改新」研究への扉が開いたのです。しかし、もう一つの問題が残っていました。講演で「『大化』は七世紀の終わりごろに近いところ」と表現されているように、九州年号史料には「大化」の位置(暦年)について複数の記述があるため、暦年特定という課題が未解決でした。これには、「市民の古代研究会」の丸山晋司さん(当時、市民の古代研究会・幹事)の九州年号研究が寄与しました。(つづく)

(注)
藤田友治「日本古代碑の再検討 ―宇治橋断碑について―」『市民の古代』10集、新泉社、1988年。
②広野千代子『「市民の古代」遺跡めぐりの旅』(自家版、1991年)によれば、宇治橋断碑調査は1987年7月19日の「山城地方の遺跡・神社」巡りのときである。同書は「市民の古代研究会」の遺跡めぐりを担当されていた広野千代子さん(後に同会・副会長に就任)が執筆されたもので、わたしは副担当として協力していた。多元史観・古田史学が、そう遠くないうちに教科書に載るようになると、わたしは信じて疑わなかった、牧歌的で良い時代であった。その数年後、「市民の古代研究会」は分裂し、後に解散することになる。
 同書には、古田先生による「鴨川の水のように ―発刊によせて―」の一文が寄せられている。一部抜粋し紹介する。
〝『市民の古代』の大阪講演会は、春秋行われるのが慣例である。(中略)四~五時間に及ぶ講演のあと、夕食をともなう懇親会が二時間余り。それからさらに、喫茶店にたむろしてのダベリ合い、とつづくのだけれど、まだ、そのあと。楽しいひとときがつづくことがある。梅田から東向日町へ、阪急電車の中だ。JRのこともある。京都から来ておられる小川澄子さん・古賀達也さん・そして広野さん。わたしも、向日町帰りだから、一時間足らず、また話がはずむのである。
 楚々たる小川さんも、馥郁(ふくいく)の広野さんも、無類の聞き上手だから、わたしはつい引きこまれて、最近の研究目標、いや、探求へのとりとめもない夢を語りはじめる。(中略)それに古賀さんが加われば、いつも新鮮な課題を見つけ、エネルギッシュに取り組んでおられる、その姿に、わたしが快い刺激と高揚をうけること、いうまでもない。
 京へ、京へ。――京への夜ふけの電車は、そのような人間の心情の高まりを運んで疾走するのだ。〟
③昭和63年(1987)5月23日、「市民の古代研究会」結成十周年記念講演会がなにわ会館(大阪市天王寺区)で開催された。10月30日には東京(労音会館、千代田区)でも開催された。
④古田武彦講演録「金石文と史料批判の方法 ―黒曜石・稲荷台鉄剣銘・多賀城碑など―」『市民の古代』10集、新泉社、1988年。65~66頁。演題中の「稲荷台鉄剣」とは、千葉県市原市の稲荷台1号墳から出土した銀象嵌の文字が刻まれた「王賜」銘鉄剣のこと。