太宰府一覧

第2658話 2022/01/10

大宰府政庁造営尺と唐開元大尺

 大宰府政庁正殿などの造営基準尺は29.4cmであり、晋後尺(24.50㎝)の1.2倍であることから、「南朝大尺」と仮称したのですが(注①)、この29.4cmと同じ長さの「唐玄宗開元大尺」があることを山田春廣氏がブログ(注②)で紹介されていました。そこで、先日のリモートでの勉強会のおり、山田さんにその詳細を教えていただきました。
 「唐玄宗開元大尺」とは唐の玄宗皇帝が開元年間(713年~741年)に『開元令』で定めた尺とされており、鉄製のモノサシが現存しているとのことでした。鉄製ですから木製や骨製よりも経年劣化や乾燥などによる収縮もはるかに少ないはずですから、1尺29.4cmという数値は信頼性が高いと思われます。また、開元年間(713年~741年)になって初めて作られた尺ではなく、隋・唐代において複数あった尺の中から、より広く採用されていたものを基準尺として公認したのではないかとのことでした。
 そうであれば、大宰府政庁造営基準尺として九州王朝(倭国)で採用されていた「南朝大尺」と同じものが中国でも使用されていたことになります。太宰府政庁Ⅱ期の造営年代を七世紀の第Ⅲ四半期頃とわたしは考えていますので、時代的にも対応しているようです。これは偶然の一致とするよりも、七世紀における両国の交流が度量衡にも及んでいたためと考えるべきではないでしょうか。もしそうであれば、短里(1里約77m)を採用していたと思われる九州王朝の公認里単位への影響も考える必要があるかもしれません。山田さんのご教示に感謝いたします。

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」2636~2641話(2021/12/14~20)〝大宰府政庁Ⅱ期の造営尺(1)~(4)〟
②山田春廣「sanmaoの暦歴徒然草」(2021年12月22日)〝実在した「南朝大尺」 ―唐「開元大尺」は何cmか― 〟に次の記事が収録されている。以下、転載する。
【転載】
 先の記事「1.2倍尺」の出現する理由―十二進法の影響か―2021年12月20日(月)で藤田元春「尺度の研究」(PDF)に載っていた「1.2倍尺」が出現するのは「十二進法」が影響したとする説を紹介しました。そこに挙げられていた「開元尺」は、唐の玄宗皇帝が開元年間(713年~741年)に『開元令』で定めたとされているものです。
 文化遺産オンラインを調べていたら、面白いモノサシを見つけました(リンクを貼ってあります)。単位はセンチメートルです。

唐小尺 金工 長さ24.3 幅1.5 厚さ0.25 1本
唐玄宗開元小尺 金工 長さ24.5 幅1.9 厚さ0.5 1本
唐玄宗開元大尺 金工 長さ29.4 幅1.9 厚さ0.5 1本

 何が「面白い」のかといえば、文化遺産オンラインに載っている「唐小尺 金工 長さ24.3(cm)」というのは、魏の「正始弩尺(24.30㎝)」であり、同じく「唐玄宗開元小尺 金工 長さ24.5(cm)」というのは、「晋後尺(24.50㎝)」であり、「唐玄宗開元大尺 金工 長さ29.4(cm)」というのは、古賀達也の洛中洛外日記 第2638話 2021/12/16 大宰府政庁Ⅱ期の造営尺(3)で古賀さんが指摘している大宰府政庁Ⅱ期の「正殿」「後殿」で用いられている「南朝大尺(29.4㎝)」と完全に一致しているのです。
 唐の李淵が隋を滅ぼして支那大陸を統一(618年)してから開元元年(713年)まで凡そ百年経過しているにも関わらず、江南を中心に「魏・正始弩尺(24.30㎝)」「晋後尺(24.50㎝)」さらに「南朝大尺(29.4㎝)」=「晋後尺(24.50㎝)の1.2倍尺)」が用い続けられていたため、玄宗皇帝は「唐小尺(24.3㎝)」「開元小尺(24.5㎝)」「開元大尺(29.4㎝)」を定めて度量衡の統一を図ったのではないかと思われます。


第2652話 2021/12/30

『多元』No.167に

「太宰府出土須恵器杯と律令官制」掲載

 本日、友好団体「多元的古代研究会」の会紙『多元』No.167が届きました。同号には拙稿「太宰府出土須恵器杯と律令官制 ―九州王朝史と須恵器の進化―」を掲載していただきました。
 同稿は、七世紀後葉の編年基準土器とされている須恵器杯Bの発生が、律令官制とその中央政府の官衙群成立を主要因とするものであり、七世紀中葉頃に太宰府条坊都市で杯Bが最初に本格使用されたとする論理的仮説(注)を提起したものです。この仮説が成立すると、杯Bの編年が四半世紀~半世紀ほど遡ります。令和四年には、その新編年仮説を考古学的出土事実により証明したいと考えています。

(注)須恵器杯Bは蓋に擬宝珠状のつまみがあり、杯身の底部に脚(高台)を持つタイプの土器。九州王朝が律令により全国の評制統治を行うために恐らく数千人におよぶ中央官僚群が太宰府(倭京)や前期難波宮(難波京)で誕生し、卓上で勤務、食事をとるようになり、脚が付いて卓上に安定して置ける杯Bの採用が始まったとする仮説。


第2641話 2021/12/20

大宰府政庁Ⅱ期の造営尺(4)

 大宰府政庁Ⅲ期と同位置と見られるⅡ期の造営尺に、南朝尺(24.5㎝)の1.2倍に相当する南朝大尺(29.4㎝)と太宰府条坊造営尺(30㎝)の二種類が併用された次の痕跡があります。

○正殿身舎(もや)部分の桁行(5間)・梁行(2間)の全長・柱間距離が南朝大尺。
○後殿の桁行(7間)各柱間距離は南朝大尺、梁行(3間)は条坊尺。基壇南北幅は条坊尺。

 今回、門(北門・中門・南門)と脇殿について調査報告書『大宰府政庁跡』を精査したところ、南門には南朝大尺と条坊尺の併用が見られ、他は条坊尺のみで造営されていました。Ⅲ期南門SB001Aは桁行(5間)・梁行(2間)で、東西棟の礎石造りです。礎石は12個残存し、そのうち7個が原位置を保っており、Ⅱ期も同位置と見られています。柱間は桁行両端各2間が3.825mの等間で、中央間のみ5.70mです。この柱間3.825mは南朝大尺の13尺、中央間5.70mが条坊尺の19尺に相当します。梁行柱間は4.05mの等間で、条坊尺の13.5尺です。
 以上のように、大宰府政庁の中心建物である正殿は桁行・梁行ともに南朝大尺で造営され、その真後ろに並列して位置する後殿は正殿に桁行のみ全長と柱間距離を対応させた南朝大尺です。そして、正殿から南へ心々距離で151mの位置にある南門では、桁行の両端各2間に南朝大尺、中央間に条坊尺が採用されています。異なる二種類の尺を使い分けて造営された大宰府政庁の設計思想解明とその時代背景についての研究を九州王朝説に基づいて進めたいと考えています。


第2638話 2021/12/16

大宰府政庁Ⅱ期の造営尺(3)

 大宰府政庁Ⅱ期の造営尺が、南朝尺(24.5㎝)の1.2倍に相当する「南朝大尺(仮称)」(29.4㎝)とする仮説の根拠として、正殿身舎(もや)部分の全長や柱間距離を挙げました。次に南朝大尺を採用した痕跡が後殿にもあることを紹介します。
 後殿とは正殿の背後(北側)に並列する東西方向(桁行7間×梁行3間)の礎石造りの建物跡SB1370です。礎石は遺っておらず、礎石の据え付け穴とそこに置かれた根石が五ヶ所で確認されています。同じ位置にあったⅡ期後殿も同規模と見られています(注①)。
 後殿は正殿の真後ろに並行してあり、正殿と後殿の梁行柱列は南北一列に並んでいます。その為、後殿桁行(東西方向7間)の柱間距離は各4.4m強であり、正殿とほぼ同じです。従って、この柱間4.4m強も正殿と同様に「南朝大尺」(29.4㎝)の15尺で造営されていることがわかります。ところが後殿梁行(南北方向3間)の柱間距離は、両脇の1間目と3間目が2.7m、中央の二間目が3.9mです。更に後殿基壇の南北幅は12,9mであり、これらは「南朝大尺」(29.4㎝)で割っても整数が得られません。南朝尺(24.5㎝)でも基壇南北幅では整数が得られません。ところが太宰府条坊造営尺(30㎝、注②)では整数が得られます。次の通りです。

      南朝尺  南朝大尺 条坊尺
      (24.5㎝) (29.4㎝) (30㎝)
桁行柱間  17.96  14.97  14.67
梁行柱間脇 11.02   9.18   9.00
梁行柱間中 15.92  13.27  13.00
基壇南北幅 52.65  43.88  43.00

 このように正殿と同距離の桁行柱間は南朝大尺で15尺、南北方向の梁行柱間二種と基壇南北幅は条坊尺で9尺・13尺・43尺と全てに端数がありません。

      南朝尺  南朝大尺 条坊尺
      (24.5㎝) (29.4㎝) (30㎝)
桁行柱間  18尺   15尺   14.7尺
梁行柱間脇 11尺 9.2尺 9尺
梁行柱間中  16尺 13.3尺 13尺
基壇南北幅  52.7尺 43.9尺 43尺

 このことは大宰府政庁Ⅱ期の後殿が南朝大尺(29.4㎝)と条坊尺(30㎝)を併用して造営されたことを示しています。不思議な現象ではありますが、前期難波宮においても同様に宮殿・西北地区条坊が29.2㎝尺、主要条坊が29.49㎝尺で造営されており、大宰府政庁Ⅱ期でも異なる尺が併用されていたと考えざるを得ません。特に太宰府においては、政庁よりも先に条坊が造営されていますから、後で造営された政庁に条坊尺が併用されたことになります。九州王朝(倭国)では南朝尺から南朝大尺という尺の変遷とは別に条坊尺が成立していたわけですが、こうした現象の発生理由を今のところうまく説明することができません。(つづく)

(注)
①『大宰府政庁跡』九州歴史資料館、2002年。
②実測値により、太宰府条坊(一辺90m)の造営尺は29.9~30.0㎝であることが報告されている。井上信正「大宰府条坊論」(『大


第2637話 2021/12/15

大宰府政庁Ⅱ期の造営尺(2)

 大宰府政庁遺構の調査報告書『大宰府政庁跡』(注①)には「大宰府政庁正殿跡の礎石間距離についての実測調査」(注②)という項目があり、その「調査目的」で次のように説明しています。

 「現在は正殿の建物はない。柱が乗っていたと考えられる礎石があるのみである。
 これらの礎石の位置も最初の礎石の時期から次の立て替え時期における位置を保っているものが多いらしいことが、これまでの発掘調査で判明した。
 立て替え時期においては、動いていないだろうと推測されていた北側の廂(ひさし)部分の側柱礎石も江戸時代において動かされていることが、発掘調査で判明した。
 そうした発掘調査の結果から、立て替え時期において据えられたままと考えられる礎石群は正殿中央部の身舎(もや)部分だろう、ということになる。すなわち、軒行5間梁行2間部分の合計14個の礎石群である。
 そこで、これらの柱間距離を測ることになった。」126頁

 このような判断に基づいて測定されたⅢ期正殿身舎部分の実測値が次のように示されています。

桁行全長 21.999m 梁行全長 6.485m
桁行柱間の平均距離 4.398m  梁行柱間の平均距離 3.241m

 これらの距離を南朝尺(24.5㎝)、前期難波宮造営尺(29.2㎝)、太宰府条坊造営尺(30㎝)などで割ったところ、南朝尺の1.2倍(29.4㎝)が最も整数を得ることがわかりました。当初は前期難波宮造営尺(29.2㎝)での造営ではないかと推測していたのですが、計算すると整数に最も近い値となるのが29.4㎝尺であり、これが偶然にも南朝尺の1.2倍だったのです。次の通りです。

     24.5㎝ 29.2㎝ 29.4㎝ 30㎝
桁行全長 89.79 75.34 74.83 73.33
梁行全長 26.47 22.21 22.06 21.62
桁行柱間 17.95 15.06 14.96 14.66
梁行柱間 13.23 11.10 11.02 10.80

 これらの数値はⅢ期正殿の実測値に基づいていますから、ほぼ同位置だったとされるⅡ期正殿の実態とは若干の誤差があることは避けられません。しかしながら「最初の礎石の時期から次の立て替え時期における位置を保っている」との判断を信頼すれば、南朝尺と同1.2倍尺による各距離は次のようになります。

     南朝尺(24.5㎝) 1.2倍尺(29.4㎝)
桁行全長   90尺     75尺
梁行全長   26.5尺    22尺
桁行柱間   18尺     15尺
梁行柱間   13.25尺    11尺

 両者を比べると、0.5や0.25という端数がでる南朝尺よりも、端数がでない1.2倍尺の方が、設計・造営に採用する尺としては穏当なものと思います。
 この〝1.2倍〟という数値は、いわゆる各時代の小尺と大尺の比率であることから、九州王朝(倭国)は南朝尺(24.5㎝)を採用していた時代と七世紀中頃からの同1.2倍尺(29.4㎝)を採用した時代があったのではないでしょうか。あるいは、南朝尺から同1.1倍尺(法隆寺造営尺)、そして1.2倍尺(大宰府政庁Ⅱ期造営尺)へと変遷したのかもしれません。この変遷は、時代と共に長くなるという尺単位の傾向とも整合しています。この点でも、大宰府政庁における南朝尺採用とした川端説よりも有力な仮説と考える理由です。わたしはこの1.2倍尺を「南朝大尺」あるいは「倭国大尺」と仮称したいと思いますが、いかがでしょうか。より適切な名称があればご提案下さい。
 なお、当仮説でも大宰府政庁Ⅱ期・観世音寺に先行して造営された太宰府条坊の造営尺(29.9~30.0㎝)の尺単位変遷史における適切な位置づけができません。この点も重要な研究課題です。なお、倭国尺についての山田春廣さん(古田史学の会・会員、鴨川市)による研究(注③)があります。特に次の見解はとても参考になりました。

(ⅰ)南朝尺は晋後尺(24.50㎝)以外にも魏尺・正始弩尺(24.30㎝)がある。
(ⅱ)魏尺・正始弩尺(24.30㎝)の1.2倍は29.16㎝であり、前期難波宮造営尺の29.2㎝に近い。このことから前期難波宮造営尺は魏尺・正始弩尺の1.2倍尺「倭大尺」だったのではないか。

 このように、山田さんの見解は基本的視点が拙稿と共通します。貴重な先行説として紹介させていただきます。(つづく)

(注)
①『大宰府政庁跡』九州歴史資料館、2002年。
②山本輝雄「大宰府政庁正殿跡の礎石間距離についての実測調査」『大宰府政庁跡』九州歴史資料館、2002年。

Fig.108 正殿跡の実測基準線と身舎柱間寸法の実測値(1/200)

Fig.108 正殿跡の実測基準線と身舎柱間寸法の実測値(1/200)

③山田春廣氏のブログ「sanmaoの暦歴徒然草」〝度量衡〟https://sanmao.cocolog-nifty.com/reki/cat24082218/index.html


第2636話 2021/12/14

大宰府政庁Ⅱ期の造営尺(1)

 川端俊一郎さんは著書『法隆寺のものさし』(注①)で、法隆寺以外に大宰府政庁や観世音寺の造営でも南朝尺(1尺=24.5㎝)が採用されているとされました。そこで、大宰府政庁Ⅱ期について報告書(注②)を精査したところ、南朝尺の1.2倍に相当する「南朝大尺」(仮称)とでも称すべき1尺=29.4㎝の尺が採用されている可能性に気づきました。
 大宰府政庁はⅡ期とⅢ期が礎石を持つ朝堂院様式ですが、Ⅱ期が焼失した跡の上層を整地し、Ⅱ期の礎石を上層に再利用しています。そのため、Ⅱ期遺構の規模(柱間距離など)を復原することが困難な状況です。そこで比較的礎石が遺っており、後世での移動がなされていないⅢ期正殿遺構の中心部分(桁行五間と梁行二間の身舎部分)の現存礎石14個を元に柱間距離の測定がなされています。そのⅢ期の礎石はⅡ期礎石の位置を保っていると判断されています。従って、政庁Ⅱ期の造営尺を確かめるためにはⅢ期正殿の中心部分礎石の計測値に依るほかありません。
 川端さんもⅢ期正殿の実測値を政庁Ⅱ期の造営尺推定の根拠に使用されています。この判断は妥当なものですが、採用された実測値が「昭和四三年(一九六八)から行われた大宰府政庁跡の発掘調査」(前掲書50頁)のものとあり、最新の実測値ではありません。川端さんが採用した正殿身舎の桁行全長は、「鏡山の実測値によれば母屋正面五間は二二〇二㎝である。」(同50頁、注③)とあり、最新(2002年の報告書)の実測値では2,199.9㎝であって、極めてわずかですが異なります。そして川端さんは桁行の1間を「十八材」(18南朝尺)とされました。また、奥行き4間の全長を1,299㎝とされ、1間を「十三材と四分の一」(13.25南朝尺)とされました。これを以て南朝尺により整数が得られたとされるのですが、奥行き(梁行)の1間が13.25尺というのでは、整数とするには細かすぎるように思われるのです。(つづく)

(注)
①川端俊一郎『法隆寺のものさし ―隠された王朝交代の謎―』ミネルヴァ書房、2004年。
②『大宰府政庁』九州歴史資料館、2002年。
③鏡山猛『大宰府都城の研究』風間書房、1968年。


第2634話 2021/12/12

大宰府政庁Ⅰ期の土器と造営尺(2)

 三期に大別される大宰府政庁遺構のうち最も早く成立した掘立柱建物のⅠ期の造営尺について報告書(注①)を調べました。結論から言えば南朝尺(1尺=24.5㎝)の痕跡は見つけることはできませんでした。というよりも、柱間距離に統一性が無い遺構が多く、造営尺を判断できるケースは少数でした。しかし、柱間距離が一定のケースの造営尺はほぼ1尺=30㎝であり、太宰府条坊の造営尺29.9~30.0㎝と一致しているようでした(注②)。その具体例を紹介します。

〔SB043〕中門調査区の西南部から検出した政庁Ⅰ期の掘立柱遺構SB043(3間×3間、西側へもう1間分伸びる可能性もある)の東西総長は約6.20mで、柱間は2.10mで等間。南北総長は約6.50mで、柱間は中央間は2.40m、両脇間が2.10m。各柱間を1尺30㎝で割ると整数を得られます。
〔SB120〕同じく正殿SB010の基壇下から検出した掘立柱遺構SB120の桁行の柱間は2.70mで等間、梁行3間が約2.40mで等間です。これも1尺30㎝で割ると整数を得られます。
〔SB360〕同じく北面回廊SC340基壇下層から検出した掘立柱遺構SB360(7間×3間)の桁行総長16.80mで、柱間は2.40m等間。梁行総長は6.50mで、柱間は東から2間は2.40m、西側1間の柱間は1.70mとやや変則的です。西側1間以外はいずれも1尺30㎝で割ると整数を得られます。

 以上の柱間距離が等間の三例では1尺=30㎝の基本単位が採用されていると見られます。従って、最も古い政庁Ⅰ期の掘立柱遺構の造営尺に30㎝尺が採用されていると考えることができ、南朝尺の痕跡を発見できませんでした。こうした遺構の出土状況と土器編年に基づいて、井上信正さんは大宰府政庁Ⅰ期や条坊の造営尺を29.9~30.0㎝とされ、政庁Ⅰ期新段階の年代を七世紀末とされています(注③)。政庁Ⅰ期の造営年代はそれよりも四半世紀ほど遡るとわたしは考えていますが、いずれにしても、それよりも新しい政庁Ⅱ期が南朝尺という古い尺で造営されたとは考えにくいのではないでしょうか。

(注)
①『大宰府政庁』九州歴史資料館、2002年。

Fig.40 掘立柱建物SB360実測図

Fig.40 掘立柱建物SB360実測図
『大宰府政庁』九州歴史資料館、2002年。64頁

②井上信正「大宰府条坊論」『大宰府の研究』大宰府史跡発掘五〇周年記念論文集刊行会編、2018年。
③同②。


第2632話 2021/12/10

大宰府政庁Ⅰ期の土器と造営尺(1)

 大宰府政庁や観世音寺が南朝尺(1尺=24.5㎝)により建造されたとする川端俊一郎さんの説(注①)に賛成はできないものの触発されて、大宰府政庁の調査報告書(注②)を改めて精査しました。
 大宰府政庁遺構は三期に大別され、掘立柱建物のⅠ期、その上層にある朝堂院様式の礎石建物のⅡ期、Ⅱ期が焼失した後にその上に建造された同規模の朝堂院様式礎石建物のⅢ期です。現在、地表にある礎石はⅢ期のものです。そこで、最も古いⅠ期の年代と造営尺について調べました。
 通説ではⅠ期の造営年代は七世紀末頃、Ⅱ期は八世紀初頭とされています。その主たる根拠は出土土器で、Ⅰ期時代の層位から須恵器杯Bが少なからず出土しています。この杯Bの編年が七世紀の第4四半期とされていることから、Ⅰ期の造営年代は七世紀末頃とされたわけです。報告書では次のように説明されています。当該部分を抜粋要約します。( )内はわたしによる注です。

〝土器の形態分類と編年
〈Ⅰa期〉
 杯a:無高台の小型品で、胴部下半にヘラケズリによる面を有する。
〈Ⅰb期〉
 杯b:有高台の杯(杯B)で、杯部は深い。底部にはハ字形に開く高い高台を貼付する。
 杯c:無高台の杯(杯G)で、深めの器形。底部は丸みを帯びる。
 杯a・bは、第1整地層中に多く包含される。
〈Ⅱa期〉
 杯a:有高台の杯(杯B)。浅めの器形で、口縁部は外反する。高台は低めで、断面靴形を呈する。
 杯b:杯a同様、浅めの器形で、口縁部は外反する。高台は低めで、断面靴形を呈する。

 Ⅰa期を政庁築造直前の7世紀第3四半期、Ⅰb期を政庁Ⅰ期開始の7世紀第4四半期、Ⅱa期を政庁Ⅰ期終末の8世紀第1四半期に考えておきたい。〟413頁

 この説明によれば、杯Bが政庁Ⅰ期時代の層位「第1整地層中に多く包含される」とあり、政庁Ⅰ期の年代判定の主たる考古学エビデンスになっています。
 次に礎石建物である政庁Ⅱ期の造営年代が8世紀初頭とされた考古学エビデンスは出土木簡でした。次のように説明されています。

〝本調査で出土した木簡は、大宰府政庁の建物の変遷を考える上でも重要な材料を提示してくれた。これらの木簡の発見まで、政庁が礎石建物になったのは天武から文武朝の間とされてきたが、8世紀初頭前後のものと推定される木簡2の出土地点が、北面築地のSA505の基壇下であったことは、第Ⅱ期の後面築地が8世紀初頭以降に建造されたことを示している。この発見は大宰府政庁の研究史の上でも大きな転換点となった。そして、現在、政庁第Ⅱ期の造営時期を8世紀前半とする大宰府論が展開されている。〟422頁

 ここで示された木簡2とは次のようなものです。

〝大宰府史跡第二六次調査 B地点(第Ⅲ腐植土層)
(2) ・十月廿日竺志前贄驛□(寸カ)□(分カ)留 多比二生鮑六十具
                      鯖四列都備五十具
   ・須志毛 十古 割郡布 一古〟550頁

 ここに見える「竺志前」が筑前の古い表記であり、筑紫が筑前と筑後に分国された8世紀初頭前後の木簡と推定されたわけです。しかし、九州の分国が六世紀末から七世紀初頭にかけて九州王朝(倭国)により行われたことが、わたしたちの研究(注③)で判明していますから、「竺志前」表記は八世紀初頭前後の木簡と推定する根拠にはならず、むしろ七世紀後半まで遡るとしても問題ないと思います。従って、大宰府政庁Ⅱ期の造営を観世音寺の創建(白鳳十年、670年)と同時期と見なすべきであり、太宰府遺構の既存土器編年の再検討が必要ではないでしょうか。(つづく)

(注)
①川端俊一郎「法隆寺のものさし─南朝尺の「材と分」による造営そして移築」『北海道学園大学論集』第一〇八号、二〇〇一年。
 川端俊一郎『法隆寺のものさし ―隠された王朝交代の謎―』ミネルヴァ書房、二〇〇四年。
②『大宰府政庁』九州歴史資料館、2002年。
③古賀達也「九州を論ず ―国内史料に見える『九州』の変遷」『九州王朝の論理 「日出ずる処の天子」の地』明石書店、2000年。
 同「続・九州を論ず ―国内史料に見える『九州』の分国」『九州王朝の論理 「日出ずる処の天子」の地』同上。
 正木裕「九州年号「端政」と多利思北孤の事績」『古田史学会報』97号2010年。
 同「盗まれた分国と能楽の祖 ―聖徳太子の『六十六ヶ国分国・六十六番のものまね』と多利思北孤―」『盗まれた「聖徳太子」伝承』古田史学の会編、明石書店、2015年。


第2631話 2021/12/09

再読、川端俊一郎著『法隆寺のものさし』(2)

 川端説(注①)では、法隆寺(1材=24.5㎝×1.1=26.95㎝)だけではなく大宰府政庁Ⅱ期や観世音寺も南朝尺(1尺=24.5㎝)を基本単位として唐代よりも前に建造されたとしています。しかし、わたしは次の理由により大宰府政庁Ⅱ期と観世音寺は七世紀後半の造営と考えています。

(1) 大宰府政庁Ⅱ期と観世音寺の創建瓦は複弁蓮華文の老司Ⅰ式・Ⅱ式であり、七世紀後半の瓦とされている。
(2) 大宰府政庁Ⅱ期の整地層からは須恵器杯Bが出土しており、七世紀後半の造営とするのが妥当である。
(3) 観世音寺創建年を白鳳十年(670年)とする史料(注②)があり、瓦や土器の編年と整合している。
(4) 井上信正さん(注③)の研究によれば、大宰府政庁Ⅱ期・観世音寺よりも条坊が先に造営されている。その条坊の造営尺は約30㎝とされ、それよりも新しい大宰府政庁・観世音寺造営尺としてより短い南朝尺(24.5㎝)を採用したとするのは、時代と共に長くなる「尺」の一般的変化(注④)に逆行する。

 こうした理由により、南朝尺に基づいて建造されたのは法隆寺に留まり、七世紀中葉からは倭国の独自尺(29.2㎝)により前期難波宮などが造営されたと考えるのが穏当ではないでしょうか。少なくとも国家的建築物の設計尺は国が定めた度量衡に従ったと思われます。
 この「尺」の変遷については、共に勉強を続ける古田学派の研究者らと検討を進める予定です。最後に付言しますが、法隆寺が南朝尺に基づくとする川端さんの研究は九州王朝説の視点からも特筆すべき学問的成果と思います。今後の南朝尺に基づいた建造物(道路・古墳等を含む)の調査研究が期待されます。

(注)
①川端俊一郎『法隆寺のものさし ―隠された王朝交代の謎―』ミネルヴァ書房、2004年。
②古賀達也「観世音寺の史料批判 ―創建年を示す諸史料―」『東京古田会ニュース』(192号、2020年)にて、観世音寺創建を白鳳十年、あるいは白鳳年間とする次の史料を紹介した。『勝山記』『日本帝皇年代記』『二中歴』『筑紫道記』。
③太宰府市教育委員会の考古学者。太宰府条坊に関する次の先駆的研究がある。
 井上信正「大宰府の街区割りと街区成立についての予察」『条里制・古代都市の研究十七号』二〇〇一年。
 同「大宰府条坊区画の成立」『考古学ジャーナル』五八八、二〇〇九年。
 同「大宰府条坊研究の現状」『大宰府条坊跡 四四』太宰府市教育委員会、二〇一四年。
 同「大宰府条坊論」『大宰府の研究』大宰府史跡発掘五〇周年記念論文集刊行会、高志書院、二〇一八年。
④【七~八世紀の都城造営尺】
○前期難波宮(652年、九州年号の白雉元年) 29.2cm
○難波京主要条坊(七世紀中頃以降) 29.49cm
 難波京北西域条坊(七世紀中頃以降) 29.2cm
○鬼ノ城礎石建物 29.2㎝
○大宰府政庁Ⅱ期(670年頃以降)、観世音寺(670年、白鳳十年) 29.6~29.8cm
 ※政庁と観世音寺中心軸間の距離が594.74mで、これを二千尺として算出。礎石などの間隔もこの基準尺で整数が得られる。
○太宰府条坊都市(七世紀前半か) 29.9~30.0cm
 ※条坊間隔は90mであり、整数として三百尺が考えられ、一尺が29.9~30.0cmの数値が得られている。
○藤原宮(694年) 29.5cm
 ※モノサシが出土。
○後期難波宮(726年) 29.8cm
 ※律令で制定された小尺(天平尺)とされる。
〔各数値はその出典が異なり、有効桁数が不統一。〕


第2629話 2021/12/06

水城築造年代の考古学エビデンス (7)

 水城第35次調査で、基底部から出土した敷粗朶の炭素年代測定値に200~400年のひらきがあるため、パリノ・サーヴェイ株式会社の報告書(注①)の最後には、「各1点の測定であるため、今後さらに各層の年代に関する資料を増やし、相互に比較を行うことで、各層の年代を検討したい。」とありました。そこで、その後の追加調査報告を探したところ第38次調査報告書(注②)にありました。
 第38次調査で水城から出土した木杭(SX181)の外皮1点を測定する際に、第35次調査で検出した敷粗朶サンプル3点を追加測定したものです。既に測定していたサンプルの測定値も含めて、下記の通りです。

○第35次発掘調査(2001) 東土塁南側下成土塁
 敷粗朶層サンプル中央値 660年(最上層)、430年(坪堀1中層第2層)、240年(坪堀2第2層)
 (第38次調査出土木材測定時に追加測定)
 暦年較正年代(1σ) 粗朶540~600年、葉653~760年、葉658~765年

 このように、追加サンプルの測定値は6世紀から8世紀を示しています。従って、240年や430年を示すサンプルは、「古い時代の流木が積土中に混入した」(注③)と見てよいようです。
 ちなみに、第38次調査で出土した木杭の測定値は8世紀から9世紀を示していることから、水城完成後の修理や補強で使用されたものと思われます(注④)。

○第38次調査(2004) 西門北西平坦面・西土塁丘陵取付部
 暦年較正年代(1σ) 木杭(外皮)777~871年

 更に第40次調査で基底部から出土した木片(敷粗朶)と炭化物の測定も行われており、いずれも7世紀後半から8世紀前半の測定値を示しています(注⑤)。

○第40次調査(2007) 西門木樋吐水部・外濠部
 暦年較正年代(1σ) 敷粗朶木片675~719年(41.7%)・742~769年(26.5%)、炭化物675~718年(42.0%)・743~769年(26.2%)

 以上の様に、水城築造時の考古学エビデンスとなる堤体内出土木材・炭化物の測定値の多くが7世紀後半以降を示しており、土器編年とも整合しています。従って、水城を5世紀「倭の五王」時代の築造とする仮説には、安定したサンプリング条件に基づく確かな考古学エビデンスはなく、成立困難と言わざるを得ません。(おわり)

(注)
①『大宰府史跡発掘調査報告書Ⅱ』九州歴史資料館、2003年、142頁。②『水城跡 下巻』九州歴史資料館、2009年、327~332頁。
③『大宰府史跡発掘調査報告書Ⅱ』九州歴史資料館、2003年、135頁。④同②。
⑤同②。


第2627話 2021/12/03

水城築造年代の考古学エビデンス (6)

 水城基底部から出土した厚さ約1.5mの補強層(粗朶と約10cmの土層を交互に敷き詰めた全11層の敷粗朶工法)の築造に240年頃から660年頃まで400年もかけたとは到底考えられないのですが、炭素同位体比年代測定した最上層とその下層の敷粗朶測定値(注①)に200~400年のひらきがあるのはなぜでしょうか。もっとも可能性があるのは「古い時代の流木が積土中に混入した可能性も考えられよう。」(注②)とする見解です。
 現代の考古学出土物の科学的年代測定技術は飛躍的に進歩していますが、他方、サンプルの採取方法が不適切であれば、その遺構の年代とは無関係の測定値が出ることがあり、サンプリングの重要性が指摘されています。たとえば太宰府条坊都市を取り囲む土塁(前畑土塁)から出土した炭化物が土塁の築造年代(七世紀後半)とはかけ離れた弥生時代とする数値(紀元前7世紀から紀元4世紀)が出ています(注③)。この炭化物は土塁築造に使用した盛土に含まれていた古い時代の炭化木材片と考えられています。
 こうした事例が各遺構で見られることもあり、古代山城研究者の向井一雄さんは次のように警鐘を鳴らしています(注④)。

 〝内倉武久は、二〇〇二年に『大(ママ)宰府は日本の首都だった』(ミネルヴァ書房)で、観世音寺に保管されていた水城の木樋や対馬金田城の土塁中の炭化材の炭素年代測定値から「水城の築造は五、六世紀」「(最初の金田城は)六世紀末から七世紀初めごろにかけて築造された」とし、神籠石系山城の朝倉宮防御説も「なんの根拠もない憶測にすぎない」と否定する。山城の築造年代が「謎」のままなのは研究者らが理化学的分析を避けているためだという。金田城では、ビングシ山の掘立柱建物内部の炉跡炭化物や南門から出土した加工材など、考古学的イベントに伴う資料(確実に遺構に伴う炭化物――火焚き痕跡、土器付着の煤、人工的な加工材など)の測定値は六七〇年や六五〇年前後と築城年代と整合している。土中にはさまざまな時代の炭化物が混入しており、イベントに伴わない炭化物を年代測定しても意味がない。〟『よみがえる古代山城』54頁

 「イベントに伴わない炭化物を年代測定しても意味がない。」は、ちょっと言い過ぎと思いますが、理屈としては指摘の通りです。しかし、水城基底部から出土した敷粗朶は水城築造時の敷粗朶工法に使用されたものであり、まさに〝考古学的イベント〟に伴った資料です。その測定値がサンプルによって大きく異なっているのですから、やはり測定を担当したパリノ・サーヴェイ株式会社の報告(注⑤)にあるように、「各1点の測定であるため、今後さらに各層の年代に関する資料を増やし、相互に比較を行うことで、各層の年代を検討したい。」とするのが学問的解決方法と思われます。(つづく)

(注)
①GL-2.0m 中央値660年(最上層)、坪堀1中層第2層 中央値430年、坪堀2第2層 中央値240年。
②『大宰府史跡発掘調査報告書Ⅱ』九州歴史資料館、2003年、135頁。
③小鹿野亮・海出淳平・柳智子「筑紫野市前畑遺跡の土塁遺構について」『第9回 西海道古代官衙研究会資料集』(西海道古代官衙研究会編、2017年)に前畑遺跡筑紫土塁盛土から出土した次の炭片の炭素同位体比年代測定値が報告されている。「試料こ」cal BC0-cal AD89(弥生時代後期)、「試料い」cal AD238-354(弥生時代終末~古墳時代三~四世紀)、「試料き」cal BC695-540(弥生時代前期)。
④向井一雄『よみがえる古代山城 国際戦争と防衛ライン』吉川弘文館、2017年。
⑤『大宰府史跡発掘調査報告書Ⅱ』九州歴史資料館、2003年。「9 水城第三五次調査(出土粗朶年代測定)」。


第2625話 2021/12/01

水城築造年代の考古学エビデンス (5)

 水城基底部の補強材(11層の敷粗朶工法)として使用された粗朶の炭素同位体比年代測定値が、最上層を中央値660年、中層を中央値430年、最下層を中央値240年とする記事が『古田武彦記念 古代史セミナー2021 研究発表予稿集』(注①)に散見されますが、厚さ約1.5mの補強層(粗朶と約10cmの土層を交互に敷き詰めた全11層の敷粗朶工法)の築造に240年頃から660年頃まで400年もかけたとは到底考えられません。そこで、なぜ最上層と下層の敷粗朶測定値にこれほどのひらきがあるのかを調べるため、調査報告書(注②)を繰り返し精査しました。
 敷粗朶が検出されたのは水城跡第35次調査(2001)のときで、次のようにサンプル名と測定値が報告されています。

(1)GL-2.0m 中央値660年 (最上層)
(2)坪堀1中層第2層 中央値430年
(3)坪堀2第2層 中央値240年

 発見された敷粗朶層はSX172と命名されています。(1)のGL-2.0mとは地表の2m下から出土したことを意味し、11層からなる敷粗朶層の最上層と説明されています。(2)(3)の「坪堀」とは遺跡発掘面の一部分を更に坪のように掘ったもので、(1)とはサンプリング条件が異なります。最上層は発掘地区の広い範囲から検出しており、サンプリング条件としては最も安定しています。しかも最上層ですから、その測定値(中央値660年)は水城基底部の完成時期を表します。
 採取された敷粗朶などのサンプル数は32点とされ、その内の3点が測定されたのですが、その他のサンプル名に「坪堀2粗朶4層」もあることから、(3)の坪堀2第2層は敷粗朶層の最下層ではないようです。従って、(3)を「最下層」とする表記は適切ではありません。
 これら3点の測定値がかけ離れていることについて、報告書でも次の見解が示されており、戸惑っていることがうかがえます。

 「GL-2mの試料は敷粗朶最上層であり、664年の水城築堤記事に最も近い。他の2点は築堤記事から200~400年も遡った数値であり、にわかに信じがたい。この2点は、粗朶層を部分的に掘り下げた坪堀りからの抽出試料であり、A区付近が溜まり地形の上に積土を施している点を考慮すると古い時代の流木が積土中に混入した可能性も考えられよう。」『大宰府史跡発掘調査報告書Ⅱ』135頁

 他方、測定を担当したパリノ・サーヴェイ株式会社による報告部分には次の見解がみえます。

 「記録では、水城が構築されたのがAD664である。GL-2.0mの暦年代は、構築年代とほぼ一致する。このことから、最上位の粗朶層が水城構築とほぼ同時期であることが推定される。土塁の直下から検出されていることを考慮すると、水城構築直前に使用された可能性がある。一方、坪堀1中層第2層と坪堀2第2層は、水城構築年代よりも300~400年程古い年代を示している。このことから、水城構築以前の300~400年間に粗朶層が作られてことが推定される。しかし、各1点の測定であるため、今後さらに各層の年代に関する資料を増やし、相互に比較を行うことで、各層の年代を検討したい。」同142頁

 発掘に携わった考古学者と科学的年代測定の担当者とで認識の違いがありますが、後者も「今後さらに各層の年代に関する資料を増やし、相互に比較を行うことで、各層の年代を検討したい。」と慎重な姿勢を見せています。そして、後に追加測定が実施されます。(つづく)

(注)
①内倉武久「『倭(ヰ)の五王』は太宰府に都していた」『古田武彦記念 古代史セミナー2021 研究発表予稿集』2021年。
 なお、大下隆司「考古出土物から見た「倭の五王」の活躍領域と中枢部」も同様の測定値を記すが、「最下層」ではなく「下の層」という適切な表記となっている。
②『大宰府史跡発掘調査報告書Ⅱ』九州歴史資料館、2003年。「7 水城第三五次調査(東土塁基底面の調査)」「9 水城第三五次調査(出土粗朶年代測定)」。
 『水城跡 上巻・下巻』九州歴史資料館、2009年。