太宰府一覧

第2547話 2021/08/22

太宰府出土、須恵器と土師器の話(7)

 牛頸窯跡群の調査報告書『牛頸小田浦窯跡群Ⅱ』(注①)を読んでいて不思議な記述があり、わたしの太宰府土器編年研究が中断してしまいました。それは須恵器杯の様式名に、既存編年の名称とは異なる表記が散見されたからです。具体例二点を紹介します。

(1) 26頁第16図73・74の須恵器蓋には「つまみ」はないが、23頁の説明ではそれらを「杯G」とする。
(2) 37頁第24図83の須恵器蓋にも「つまみ」はないが、36頁の説明ではそれを「杯B」とする。

 須恵器様式については既に説明(注②)してきたところですが、それとは異なり、「つまみ」がない須恵器蓋を杯Gや杯Bとする説明をわたしは理解できませんでした。これでは太宰府土器編年の根幹が揺らぎかねませんので、大野城市ホームページの「問い合わせ」コーナーから、上記の点について質問しました。まもなくすると、同市ふるさと文化財課の上田さんから丁寧な回答が届きました。要約して紹介します。

《大野城市ふるさと文化財課の上田さんからの回答》
【質問1】26頁第16図73・74の「杯G」の認識
 ご指摘のとおり、一般的な「杯G蓋」は「つまみ」を有しており、大野城市でも「かえり」「つまみ」を有す蓋と身のセットを「杯G」と理解しています。
 ところが、本市の牛頸窯跡群では、「かえり」を有すものの「つまみ」を欠く蓋が一定量あり、「つまみ」がないものも含めて「杯G」と表現しています。

【質問2】37頁第24図83の「杯B」の認識
 ご指摘のとおり、一般的な「杯B蓋」には「つまみ」があり、杯身には「足=高台」を有しています。
 「杯G」と同様、牛頸窯跡群では、高台を有する杯身とセットになる蓋で「つまみ」を欠く蓋が一定量あり、「つまみ」がないものも含めて「杯B」と表現しています。

【参考資料】
 大野城市では、奈良文化財研究所の須恵器分類を採用しております。参考までに『牛頸窯跡群総括報告書Ⅰ』の「例言」を添付しておりますますので、参考にしていただければと思います。
 以上のとおり、牛頸窯跡群では、杯G蓋・杯B蓋につまみを欠くものが一定量存在しております。近畿地域では、つまみを有するものが一般的かと思いますが、この点は地域性が発現しているものと理解できるのかもしれません。
 簡単ではございますが、以上を回答とさせていただきます。何かご不明な点がございましたらご連絡いただければ幸いです。

 上記の丁寧な回答が寄せられました。資料として添付されていた『牛頸窯跡群 ―総括報告書Ⅰ―』(注③)の「例言」には、次の説明がありました。

 「須恵器蓋杯については、奈良文化財研究所が使用している名称杯H(古墳時代通有の合子形蓋杯)、杯G(基本的にはつまみとかえりを持つ蓋と身のセット。ただし牛頸窯跡群産須恵器にはつまみのない蓋もある)、杯B(高台付きの杯)、杯A(無高台の杯)を使用する場合がある。」『牛頸窯跡群 ―総括報告書Ⅰ―』

 こうした説明を受けて、わたしもようやく事情が飲み込めてきました。すなわち、蓋に「かえり」(注④)が付いているものは「つまみ」がなくても杯Gに分類されていたわけです。おそらく同一遺構から「つまみ」付きの杯G蓋が多数出土し、併出した「つまみ」無しの蓋でも「かえり」があれば、杯Gに見なすということのようです。蓋がない杯Bも同様です。
 わたしは、蓋に「つまみ」がなく、「かえり」があるものは杯Hの進化形とする見解を大阪の考古学者から聞いていましたので、土器の地域差の発現だけではなく、考古学者の認識にも地域差があるのかもしれません。あるいは、わたしの認識・理解がまだ浅いのかも知れません。この点、他地域の考古学者の意見も聞いてみたいと思います。
 こうして、牛頸窯跡群出土土器の疑問については一応の解決をみたのですが、これからは調査報告書を精査する際、「つまみ」の有無だけでの単純な様式判断で済ませることなく、報告書の土器分類・編年表も用心深く見なければならないことを学びました。大野城市の上田さんに改めてお礼申し上げたいと思います。(つづく)

(注)
①『牛頸小田浦窯跡群Ⅱ ―79地点の調査― 大野城市文化財調査報告書 73集』大野城市教育委員会、2007年。
②古賀達也「洛中洛外日記」2537話(2021/08/14)〝太宰府出土、須恵器と土師器の話(2)〟にて、次のように説明した。
〝この須恵器は、なぜか七世紀になると様相が急に進化し始めるので、土器編年に使用されています。大きな変化の目安として、古墳時代から続く丸底で丸い蓋を持つ「杯(つき)H」から始まり、蓋につまみが付く「杯G」、更に底に足が付く「杯B」と変化し、その様相の違いを利用して相対編年が可能となります。実際には細部の形式変化や大きさ(法量)の変化も利用して、より詳しく分類・編年されています。〟
③『牛頸窯跡群 ―総括報告書Ⅰ― 大野城市文化財調査報告書 第77集』大野城市教育委員会、2008年。
④須恵器の「かえり」とは、蓋と杯身の併せ部分にある内側に向いた縁のことで、杯Hの場合は杯身側に「かえり」があり、蓋がそこに被さるようになっている。蓋側に「かえり」があるものは進化形で、食器内の湯気が蓋の天井で冷やされ、その雫(しずく)が「かえり」によって杯身の内側に流れ込むように工夫されている。蓋に「かえり」がない古いタイプの杯Hの場合は、内部で発生した雫(しずく)が杯身と蓋の隙間から外側へこぼれてしまう。そのため同じ杯Hでも、蓋に「かえり」を有するものが、より新しく編年されてきた。


第2542話 2021/08/18

太宰府出土、須恵器と土師器の話(6)

 牛頸窯跡群を筆頭に各地の窯から太宰府条坊都市に食器用途の須恵器、煮炊き用途に使用された土師器が供給されています。ところが、太宰府の土師器は、他地域とは異なる特徴を持つことが知られています。それは製法に関することで、ある時期から回転台(ろくろ)を使用して土師器が造られるようになることです。
 回転台成形による土器製造技術は須恵器製造技術と共に伝わったと考えられていますが、その後も土師器は地域伝統の「手持ち成型」技法で造られていました。ところが太宰府では須恵器杯Bの流行と同時期に土師器も回転台により造られるようになりました。これは大和の「宮都」にだけ見られた現象とされているようで、中島恒次郞さん(太宰府市都市整備部)の「日本古代の大宰府管内における食器生産」(注①)では次のように説明されています。

 「大宰府官制成立時に発現する回転台成形の土師器生産は、宮都以外に発現した一大画期とでもいえる事象で、大宰府管内においても重要な出来事である。」671~672頁
 「古代官衙成立後に発現する回転台成形の土師器を国家的な食器として見た時、九州内においては成川式土器、兼久式土器のように様式名称を上げることができるように大宰府との距離と正比例する強度で在地伝統が強くなる。逆を述べると大宰府を国家的な様相の極としていることになる。(中略)在地伝統の技術として捉えた手持ち成形の土師器は、実は都を包括する畿内では通有の事象であり、九州において在地伝統の技術を保持している集落と都がある畿内が同じ保守的様相を保っていることになる。」672~673頁

 この説明の重要点は、わたしの理解するところ次の通りです。

(1) 太宰府の官制成立時・官衙成立後に回転台成形の土師器が発現する。
(2) 須恵器と土師器が共に回転台成形になるのは、大和の「宮都」と太宰府にのみ見られる〝国家的〟現象である。

 そして、中島さんは土師器も回転台成形になった背景として、世襲工人の崩壊(筑前・筑後・肥前)や食器製造工人集団の統合がなされたためとしています。

 「(筑前・肥前・筑後の)土師器は、回転台成形の製品が優勢な大宰府を一方の極とし、前代からの系譜を引く手持ち成形の製品が優勢な集落を一方の極とする様相が観察できる。ただし、時間の経過とともに集落様相は、Ⅲー2期(八世紀後半~九世紀前半)には回転台成形の土師器が優勢へと転換していく。その背景は、生産工人のあり方を文献史学ならびに考古資料観察から導き出した、世襲工人の崩壊による多様な人々による生産への転換を想定している。」667頁 ※()内は古賀による注。
 「食器構成においてみるとⅢー1期(八世紀前半)において律令制国家的様相である土師器―須恵器の器種互換性・法量分化が成立し、国家的様相下に入るとともに、食器製作技法を見ると、地域の利害を無視した生産体制として土師器―須恵器の生産工人を整理統合、再分離を行ったと解せる事象が顕在化することになる。この食器生産体制の編成と時期を同じくして条坊制施行、官道整備、水城・大野城・基肄城の再整備など大規模でかつ広範な分野で国家制度を体現するための諸制度が敷かれていくことになる。」673頁 ※同上。

 こうした中島さんの見解について、その編年(暦年とのリンク)には賛成できませんが、「土師器―須恵器の生産工人を整理統合、再分離」が行われたということについては、あり得ることと思います。既に論じられていることとは思いますが、そうした現象面の解釈以上に、なぜ律令官制成立時期に土師器も回転台成形になったのかという理由こそ追究すべき問題と思います。そこにも歴史的必要性があったと考えるからです。
 わたしは九州王朝説に基づいて、次のような背景を推定しています。すなわち、多利思北孤による太宰府遷都(倭京元年、618年。注②)と律令制統治体制確立による急激な人口増加が太宰府地区で発生したため、それに対応した食器量産体制拡充のため、より生産性が高い回転台成形が土師器にも採用されたとする理解です。当然、これは須恵器増産のための牛頸窯跡群拡大と軌を一にした政策と考えざるを得ません。そうすると、その時期は七世紀前半頃に位置づけるのが穏当となるのですが、中島さんの編年とは50年ほど異なり、太宰府土器編年の検討が必要となるわけです。
 なお、中島さんのいう「大宰府官制」とは、王朝交替後の『大宝律令』下における八世紀の「大宰府官制」を指していますから、そのこと自体は妥当な見方です。実際に七世紀中頃に減少した牛頸窯跡群は八世紀になると再び増加していることが知られています(注③)。ですから、七世紀中頃の九州王朝律令官制確立の時期と回転台成形土師器の発生時期との考古学的対応の検討が重要です(注④)。その当否はまだわかりません。これから精査したいと思います。(つづく)

(注)
①中島恒次郞「日本古代の大宰府管内における食器生産」『大宰府の研究』高志書院、2018年。
②古賀達也「九州王朝の筑後遷宮 ―高良玉垂命考―」『新・古代学』第四集、新泉社、1999年。
 古賀達也「太宰府建都年代に関する考察 ―九州年号『倭京』『倭京縄』の史料批判―」『「九州年号」の研究』ミネルヴァ書房、2012年。
 正木裕「盗まれた遷都詔 ―聖徳太子の「遷都予言」と多利思北孤―」『盗まれた「聖徳太子」伝承』(『古代に真実を求めて』18集)明石書店、2015年。
③石木秀哲(大野城市教育委員会ふるさと文化財課)「西海道北部の土器生産 ~牛頸窯跡群を中心として~」『徹底追及! 大宰府と古代山城の誕生 ―発表資料集―』2017年。(同年2月に開催された「九州国立博物館『大宰府学研究』事業、熊本県『古代山城に関する研究会』事業、合同シンポジウム」の資料集)
④拙論〝前期難波宮九州王朝複都説〟によれば、「七世紀中頃の九州王朝律令官制確立の時期」には前期難波宮も含まれるので、検討範囲は難波地域(大阪市)や陶邑窯跡群(堺市)も対象となる。


第2540話 2021/08/16

太宰府出土、須恵器と土師器の話(5)

 本テーマで紹介した「須恵器杯Bや律令制国家官僚群は、七世紀の中葉頃、九州王朝(倭国)の都(太宰府)にて、他に先駆けて成立した」とする仮説には、有利な点と克服すべき課題を併せ持っています。このことについて説明します。
 まず、有利な点ですが、「飛鳥編年」など既存の土器編年を北部九州以外では基本的にそのまま採用できるということにあります。修正の対象が太宰府を中心とする北部九州(須恵器の先進地域)の土器編年であるため、新たな土器編年の検討作業を「九州編年」に集中することができます。
 克服すべき課題は、太宰府土器編年の見直しの方法論の確立です。具体的には次の諸点です。

(1) 杯Gや杯Bの相対土器編年と絶対編年(暦年)とのリンク。
(2) 文献史学による太宰府遺跡の編年と土器編年の整合。
(3) 各太宰府遺跡(政庁Ⅰ期・Ⅱ期、観世音寺、朱雀大路、太宰府条坊、水城、大野城、基肄城、土塁、阿志岐山城、等)相互の造営年代の整合。

 以上の諸点ですが、なかでも(1)が最も重要で困難な作業になります。土器編年を暦年にリンクするためには、科学的年代測定か確かな文献史料との対応が必要となりますが、後者の九州王朝系史料は極めて少なく、仮にあったとしても通説支持者はそれを史実とは認めないと思います。
 前者の場合、近年精度を増したとはいえ、炭素同位体比年代測定法の測定値には年代幅があり、七世紀(百年間)のなかで、杯H・杯G・杯Bと変化した土器編年と正確にリンクさせるのは困難です(注)。その点、年輪年代測定法は樹皮が遺っていればピンポイントで伐採年を判定できますが、伐採年と遺跡造営年が一致するのかどうかについては、木材の転用・再利用などの可能性があり、やはり研究者の解釈による恣意性が発生しそうです。
 このようにわたしの仮説の証明には大きな壁が待ち受けています。(つづく)

(注)大宰府政庁や水城の炭素同位体比年代測定の難しさを指摘した次の論稿を筆者は発表した。
○「理化学的年代測定の可能性と限界 ―水城築造年代を考察する―」『九州倭国通信』186号、2017年5月。
○「太宰府条坊と水城の造営時期」『多元』139号、2017年5月。
○「太宰府都城の年代観 ―近年の研究成果と九州王朝説―」『多元』140号、2017年7月。
○「前畑土塁と水城の編年研究概況」『古田史学会報』140号、2017年8月。
○「太宰府『倭の五王』王都説の検証 ―大宰府政庁編年と都督の多元性―」『多元』164号、2021年7月。
○「太宰府『倭の五王』王都説の限界 ―九州大学「坂田測定」の検証―」『多元』165号、2021年9月(予定)。


第2539話 2021/08/15

太宰府出土、須恵器と土師器の話(4)

 七世紀における須恵器杯Bの発生と増加の背景に、机で執務・食事をする律令制官僚群の誕生があったとする作業仮説をわたしは抱いていますが、このことを九州王朝説の視点から考察すると次のようになります。

(1) 九州年号の倭京元年(618年)に筑後から太宰府に遷都した多利思北孤の時代は全国統治の初期段階と考えられ、太宰府官衙に机で執務・食事する国家官僚群が配置・増員された。
 これに対応するように牛頸窯跡群から官僚用食器として須恵器杯Bの製造と供給が開始された。同窯跡群の生産活動が六世紀末から七世紀初頭にかけて急増するという考古学的出土事実がある。
 従って、杯Bの発生は七世紀中葉頃と考えている。以前、わたしは北部九州での杯B発生を七世紀初頭と考えていたが(注①)、それでは通説との乖離が大きくなり、やや早すぎると思われることもあって、「中葉頃」とする表現がより適切と現時点では考えている。七世紀中葉(約634~666年)の内のどの時期が有力かは、まだ確定できていない。

(2) 九州王朝(倭国)の律令制による全国統治が進むにつれ、七世紀中葉~後葉にかけて各地に国衙・評衙が造営され、地方官僚の配備と地方長官の派遣が始まる。それに伴って杯Bが各地に伝播し、七世紀第3四半期頃には各地で杯Bが一斉に普及し始める。その痕跡として、660~670年頃の遺跡層位から杯Bが出土し始める。なお、この出土事実と『日本書紀』に基づいて飛鳥編年は作られた。

(3) 七世紀中頃には評制による本格的な全国統治体制が確立し始める(注②)。九州年号の白雉元年(652年)には、全国統治拠点として、巨大な難波複都(前期難波宮と条坊都市)が完成する。そこで執務する数千人に及んだであろう国家官僚のために、陶邑窯跡群(堺市)でも杯Bの製造が始まり、難波京や周辺各地に供給された。
 前期難波宮整地層からは杯Bの出土は見られず(注③)、前期難波宮の活動時期の層位から杯Bの出土がみられる事実は、この仮説に対応している。すなわち、それまでの近畿地方には杯Bを必要とするような律令制国家官僚群は存在していなかった(倭国の都は近畿地方になかった)。

 九州王朝説に立てば、以上のような解釈(歴史理解)が可能です。すなわち、須恵器杯Bや律令制国家官僚群は、七世紀の中葉頃、九州王朝(倭国)の都(太宰府)にて、他に先駆けて成立したとする仮説です。(つづく)

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」1214話(2016/06/21)〝「須恵器杯B」発生の理由と時期〟において、次のように述べていた。
〝わたしは大阪歴博の考古学者の7世紀の難波の土器(須恵器)や瓦(四天王寺創建瓦:620年頃と展示。『二中歴』にも「倭京二年(619)の創建」と記されており、歴博の展示と一致)の編年は正確であると支持していますが、須恵器杯Bの発生について、九州王朝(北部九州、大宰府政庁1期下層出土など)において7世紀初頭頃と考えています。〟
②古賀達也「古田先生との論争的対話 ―「都城論」の論理構造―」『古田史学会報』147号、2018年8月
③前期難波宮水利施設造成時の客土層から出土した大型の〝杯Bの蓋〟(1点)について、江浦洋氏(大阪府文化財センター次長)は「普通の杯Bよりも大きめの坏で、いわゆる杯Bの範疇外」と筆者からの質問に返答された(2017年1月、「古田史学の会」新春古代史講演会にて)。
 また、佐藤隆『難波宮址の研究 第十一 前期難波宮内裏西方官衙地域の調査』(2000年3月、大阪市文化財協会)にも、前期難波宮整地層から須恵器杯Bは出土していないとされている。
 他方、小森俊寬『京(みやこ)から出土する土器の編年的研究 ―日本律令的土器様式の成立と展開、七~十九世紀―』(京都編集工房、2005年11月)において、前期難波宮整地層からの出土とされた杯Bは、いずれも後期難波宮整地層からの出土であり、前期難波宮整地層出土としたのは小森氏の誤認であることをわたしは次の論稿で指摘した。
○古賀達也「前期難波宮『天武朝造営』説の虚構 ―整地層出土「坏B」の真相―」『古田史学会報』151号、2019年4月。
○古賀達也「洛中洛外日記」1823~1839話(2019/01/12~02/17)〝難波宮整地層出土「須恵器坏B」の真相(1)~(5)(補)〟


第2538話 2021/08/14

太宰府出土、須恵器と土師器の話(3)

 須恵器杯の様式が大きく変化する七世紀ですが、その変化の概要は次のようにとらえられています。古墳時代から長く続いた杯Hの様式に重なるように、七世紀中葉に杯Gが発生します。そして、後葉になって杯Bが出現し、杯Hは激減します。しかも、この変化はほぼ全国的に一斉に進みます。わたしはこうした須恵器杯の様式変化は、九州王朝の全国統治の歴史に連動しているという作業仮説を持っています。このことについて説明します。
 七世紀の須恵器杯様相変化で、わたしがもっとも注目するのが杯Bの発生理由で、その機能性が変化の主要因と考えています。既に指摘されてきたことでもありますが(注)、杯身の底に足が付いた杯Bの最大の機能は、平たい机や台の上に安定して置くことができるということであり、食事の容器と考えられる須恵器杯ですから、机の上に食器を並べて食事するという習慣が生まれたことが、杯B発生の背景にあったと考えられます。しかも、三大窯跡群の一つである牛頸窯跡で大量の土器が六世紀末から七世紀初頭に製造され始めるのですから、杯Bも大量に太宰府条坊都市に供給されたことを疑えません。
 そのことから、机の上に食器を置いて食事する大勢の人々が発生したと考えざるを得ず、結論を言えば、机の上で執務する多くの文書官僚が誕生したことが杯B発生の主要因と思われます。たとえば律令制により全国統治するためには行政文書(命令書、報告書、戸籍類、役務や徴税、徴兵などの記録、他)の作成管理が不可欠です。その際、官僚たちが毎日床に這いつくばって行政文書を書いたとは考えられず、やはり机の上で執務したと思います。そして、食事もその机で、あるいは執務とは別の机で取るようになったと思われます。
 そうした多くの中央官僚たちが執務・食事する所こそ、権力中枢の地、すなわち「都(みやこ)」ではないでしょうか。ですから、杯Bの発生とその大量消費は、多くの律令制中央官僚の誕生、すなわち王朝による建都や遷都に連動した動きとわたしは考えています。(つづく)

(注)古賀達也「洛中洛外日記」1214話(2016/06/21)〝「須恵器杯B」発生の理由と時期〟で、小田裕樹さん(奈良文化財研究所研究委員)へのインタビューコラム「土器が語る食卓の『近代化』」(2016年6月1日・朝日新聞夕刊)の次の記事を紹介した。
 「推古天皇や聖徳太子が活躍した7世紀前半は、丸底の食器を手に持ち、手づかみで食べる古墳時代以来のスタイル。しかし7世紀後半の天智・天武天皇の時代に、平底から高台つきの食器を机や台に置き、箸やさじで料理を口に運ぶ大陸風のスタイルに変わったようです」


第2537話 2021/08/14

太宰府出土、須恵器と土師器の話(2)

 牛頸(うしくび)窯跡群から太宰府条坊都市に供給された食器(土器)は須恵器と土師器です。土師器は淡いオレンジ色がかった土器で、主に煮炊き用に使用されたと考えられています。須恵器は青みがかった灰色の土器で、こちらは食事用の容器、今でいえばお茶碗として使用されていたようです。須恵器の方が高温の還元炎で焼成するため、堅くて丈夫です。五世紀初頭頃に朝鮮半島から九州王朝(倭国)に伝わったようで、わが国最古の須恵器窯跡遺跡は福岡県筑前町(小隈・山隈・八並窯跡群等)から発見されています(注)。
 この須恵器は、なぜか七世紀になると様相が急に進化し始めるので、土器編年に使用されています。大きな変化の目安として、古墳時代から続く丸底で丸い蓋を持つ「杯(つき)H」から始まり、蓋につまみが付く「杯G」、更に底に足が付く「杯B」と変化し、その様相の違いを利用して相対編年が可能となります。実際には細部の形式変化や大きさ(法量)の変化も利用して、より詳しく分類・編年されています。それについては専門的になりますので、ここでは説明を省きます。
 これら須恵器杯の中で、わたしが最も注目しているのが杯Bです。その様式変化の理由と背景、その発生時期が九州王朝史と密接な関係があると考えています。なぜなら、その様式変化には必ず理由(歴史的必要性)があったはずだからです。(つづく)

(注)古賀達也「洛中洛外日記」1488~1494話(2017/08/26~09/03)〝須恵器窯跡群の多元史観(1)~(5)〟
 古賀達也「須恵器窯跡群の多元史観 ―大和朝廷一元史観への挑戦―」『古田史学会報』144号、2018年2月。


第2536話 2021/08/13

太宰府出土、須恵器と土師器の話(1)

 九州王朝の都、太宰府条坊都市に消耗品である食器(土器)を供給したのが牛頸(うしくび)窯跡群です。同窯跡群は水城の西側、大野城市南端の牛頸山からその周囲へと広がる、古代の三大須恵器窯跡群(注①)の一つとされています。六世紀中頃から九世紀中頃まで操業していますが、六世紀末から七世紀初頭に急拡大したことが明らかにされています。その後、七世紀中頃に縮小し、八世紀になるとまた生産活動が増えます。この牛頸窯跡群の活動規模の変遷が、九州王朝の歴史に対応していることをわたしは発表しました(注②)。
 文献史学の研究により、九州年号の倭京元年(618年)に九州王朝の天子、阿毎多利思北孤は筑後から太宰府(倭京)に遷都したと考えられていますが(注③)、それに対応する考古学的出土事実が、六世紀末から七世紀初頭にかけての牛頸窯跡群の急拡大です。九州王朝の全国支配のため、数千人の官僚群が執務し(注④)、その家族が生活する太宰府条坊都市へ、消耗品である食器(土器)供給のために牛頸窯跡群が造営されたと思われます。
 ですから、太宰府条坊は七世紀前半には造営されていたとしたのですが、現地の複数の考古学者にたずねても、太宰府条坊は七世紀前半には遡らないとのことなのです。わたし自身も発掘調査報告書を調べましたが、その通りでした。そこから、わたしの苦難の研究調査が始まりました。(つづく)

(注)
①堺市の陶邑、名古屋市の猿投山(さなげやま)とともに牛頸は三大須恵器窯跡群遺跡と称されており、古代(古墳時代~)においてこれらの地域に権力中枢が多元的に存在していたことを想像させる。
②古賀達也「洛中洛外日記」1363話(2017/04/05)〝牛頸窯跡出土土器と太宰府条坊都市〟
 古賀達也「太宰府都城の年代観 ―近年の研究成果と九州王朝説―」『多元』140号、2017年7月。
③古賀達也「九州王朝の筑後遷宮 ―高良玉垂命考―」『新・古代学』第四集、新泉社、1999年。
 古賀達也「太宰府建都年代に関する考察 ―九州年号『倭京』『倭京縄』の史料批判―」『「九州年号」の研究』ミネルヴァ書房、2012年。
 正木裕「盗まれた遷都詔 ―聖徳太子の「遷都予言」と多利思北孤―」『盗まれた「聖徳太子」伝承』(『古代に真実を求めて』18集)明石書店、2015年。
④律令制による全国支配に必要な官僚の人数は約八千人であり、その家族の生活のための巨大条坊都市の必要性を指摘した次の論稿がある。
 服部静尚「古代の都城 ―宮域に官僚約八千人―」『発見された倭京』(『古代に真実を求めて』21集)明石書店、2018年。


第2532話 2021/08/05

土器編年による水城造営時期の考察(3)

 水城の土器編年について、山村信榮さん(太宰府市教育委員会)は次のように説明されています。

 「〔フェイズ4〕須恵器Ⅳ+Ⅴ形式使用期で、大宰府羅城(水城、大野城他)、鞠智城等が成立。」(注①)

 この須恵器Ⅳ(九州編年)は「須恵器杯H」、Ⅴは「須恵器杯G」と呼ばれているものです。杯Hは碁石の容器のようなもので、丸底の杯身に同じく丸い蓋を持ち、杯Gは杯Hの蓋の中央につまみが付いたものです。杯Hは古墳時代からある古いタイプで、その改良型が杯Gと考えてもよいと思います。この杯Hと杯Gが水城堤体中(木樋周辺)から出土することから、これらの使用時期が水城造営の頃と判断されたわけです。
 具体的には水城の第5次調査で出土したSX050 SX051の土器とされているのですが、同調査報告書にはSX050 SX051から杯Hの出土は報告されていますが、杯Gは見えません。このSX050 SX051の土器とは、水城跡第5次調査(昭和50年、1975年。注②)で、東門地区西側から木樋(全長79.5m)とともに出土したもので、水城造営年代の根拠になるものです。そこで、他の木樋遺構の報告書を精査したところ、JR水城駅西南側から出土した木樋抜き取り跡の調査(水城跡第32次調査。注③)で杯Gが出土していました。
 水城の木樋遺構は4カ所発見されていますが、木樋そのものが出土したのは東門地区西側だけのようで、その他は木樋が抜き取られた痕跡が出土しています。その抜き取られた木樋跡の最下層(7層)から杯G(蓋)が出土しており、同報告書はこの土器を「七世紀の資料」と説明しています。これら水城堤体内からの出土土器が根拠となり、「須恵器Ⅳ+Ⅴ形式使用期」を水城成立時期と判断したと思われます。
 しかし、より厳密に言うならば、「須恵器Ⅳ+Ⅴ形式使用期」以後に水城が造営された根拠にはなりますが、それだけでは不十分です。なぜなら、水城造営時期の下限も押さえる必要があるからです(注④)。この下限の根拠となるのが水城築造後の遺物・遺跡に含まれる土器です。幸い、水城土塁の周囲や濠からは少なからず土器が出土しており、その中に須恵器杯Bと呼ばれるものがあります。杯Bは杯Gの底に「足」が付いたもので、今のお茶碗のようなスタイルです。これは平坦な机の上に杯を安定して置けるようにした進化形です。この杯Bの出土により、水城の造営時期は杯Gが使用された七世紀中頃と、杯Bが発生した七世紀第3四半期後半以降の間と考えることができます。すなわち、七世紀第3四半期頃を水城造営時期とする判断が最有力であると、土器編年からは導き出されるのです。
 通説に立てば『日本書紀』天智三年条(664年)の水城築造記事を史料根拠とでき、考古学による土器編年と文献史学による『日本書紀』のダブルチェックにより、水城造営を664年とする説が成立しています(注⑤)。
 更に、基底部出土敷粗朶の炭素同位体比年代測定値(注⑥)の多くが七世紀第3四半期頃造営説と対応しており、水城の年代判定に大きな矛盾も無く整合しています。
 なお、付言すれば杯Gの年代については、難波編年(難波Ⅲ中段階~新段階に出土)でも飛鳥編年(飛鳥Ⅱ~Ⅲに出土)でも「七世紀中葉~後葉」とされており(注⑦)、九州編年とも対応しています。
 こうしたエビデンスがあるので、わたしは太宰府関連遺跡の土器編年と、九州王朝説による文献史学の編年との齟齬に長く悩んできたのです。(つづく)

(注)
①山村信榮「大宰府成立再論 ―政庁Ⅰ期における大宰府の成立―」『大宰府の研究』高志書院、2018年。
②『水城跡 ―下巻―』九州歴史資料館、2009年。192頁。
③『大宰府史跡発掘調査報告書Ⅰ』九州歴史資料館、2001年。
④遺構の年代を決めるためには、遺構の層を挟む上下の層からの出土土器が必要と、わたしは大阪歴博の考古学者から教えていただいた。このことを「洛中洛外日記」1764話(2018/09/30)〝土器と瓦による遺構編年の難しさ(1)〟で紹介した。
⑤天智三年条の水城築造記事は、九州年号「白雉四年(655年)」の記事を「白鳳四年(664年)」に相当する天智三年条に移動したものではないかとする正木裕氏の見解がある。この見解は、土器編年(七世紀第3四半期頃)と対応しており、敷粗朶の炭素同位体比年代測定値とも大きな齟齬はないため、注目される。
⑥水城遺物の炭素同位体比年代測定値には、東土塁基底部(第35次調査)から出土した最上層(全11層)敷粗朶600~770年、第38次調査時に追加測定した第35次調査出土の粗朶540~600年・葉653~760年・葉658~765年、西門付近北東側(第40次調査)出土の敷粗朶と炭化物の測定値675~769年などがある。
⑦『難波宮址の研究 第十一 ―前期難波宮内裏西方官衙地域の調査―』大阪市文化財協会、2000年。255頁。


第2531話 2021/08/04

土器編年による水城造営時期の考察(2)

 今までも水城の土器編年について調査検討したことはあったのですが、合理的な判断が難しく、お手上げ状態でした。その理由について説明します。
 実は水城遺跡からは少なからず土器が出土しています。しかし、そのほとんどが造営年代の〝決め手〟に使えないのです。というのも、出土位置が濠の中であったり、土塁上や堤体の周辺であるため、いずれも水城造営後の土器であり、その土器の編年がそのまま水城の造営年を示すわけではないからです。
 これが堤体中からの出土であれば、その土器は造営時に取り込まれたことになります。ですから、その土器の製造時期以後に水城が造営されたわけですから、造営時期の判断根拠として使えます。ところが、土塁の主要部分は版築工法により形成されています。そこには均質な粒径や土質を持つ複数種の土壌が選ばれ、それらが交互に敷き詰められており、そこに土器が含まれることはほとんど期待できません。
 このように造営時期の編年根拠にできる土器が、その構造上から検出しにくい水城なのですが、ある特定の部位には造営時の土器が出土していることがわかりました。それは基底部の下部に埋設された木樋(木製の暗渠)の周囲(左右・上部)と内部です。
 水城には、太宰府側の内濠から博多側の外濠に水を送るための木樋が4カ所で埋設されていた痕跡が発見されています(注①)。この送水用暗渠は、基底部をある程度造成した後に、水城を南北に直行する溝(堀形)を基底部に穿ち、その溝に木樋(ヒノキ材)を埋設するという方法で造成されています。そのため、木樋周囲の隙間を木樋埋設後に土で埋めるのですが、その埋土に含まれていた土器片が出土しています(注②)。この土器は7世紀前半頃以前と編年されている須恵器坏Hと七世紀中頃の坏Gで、水城遺構から出土した土器としては最古に属するとされています。(つづく)

(注)
①水城跡第5次調査(昭和50年、1975年)で、東門地区西側から木樋(全長79.5m)が出土した。
②『水城跡 ―下巻―』九州歴史資料館、2009年。192頁に掲載されたSX050 SX051 SX135の土器(須恵器坏H、坏G、他)。


第2530話 2021/08/03

土器編年による水城造営時期の考察(1)

 九州王朝史研究にとって太宰府関連遺跡の造営時期や位置づけは重要課題です。しかし、文献史学によるそれらの造営年次と考古学による土器編年は整合していません。この問題についてはこれまでも論究してきましたが、残念ながら未だに解決できていないのが現状です(注①)。そのため、土器編年研究を一旦ペンディングし、炭素同位体比年代測定などの科学的年代測定からのアプローチを進めてきました。
 たとえば、水城については、東土塁基底部(第35次調査)から出土した敷粗朶工法最上層(全11層)の敷粗朶の炭素同位体比(14C)年代測定によるAD600~770年(中央値660年)という測定値や(注②)、西門付近北東側(第40次調査)から出土した敷粗朶と炭化物の年代測定値が共にAD675~769の範囲に含まれることなどから(注③)、これら測定値は『日本書紀』に記された天智三年条(664年)の水城造営記事と整合しており、水城の造営時期は660年頃と考えて問題ないとしてきました(注④)。
 このわたしの見解に対して、正木裕さん(古田史学の会・事務局長)からは、炭素同位体比年代測定値には測定幅の誤差が大きく、『日本書紀』天智三年条(664年)記事(注⑤)の当否や、水城完成が白村江戦の前か後かという判断の根拠に使用するのは不適切とする批判をいただいていました。確かに、この批判はもっともなものです。そこで、ペンディングしていた太宰府関連遺跡群の土器編年精査を再開することにしました。どのような結論に至るのかは今のところ不鮮明ですが、学問研究ですから、自説と土器編年との齟齬を避けては通れません。時間はかかりそうですが、真正面から挑戦してみます。(つづく)

(注)
①たとえば、拙稿「大化改新詔と王朝交替」(『東京古田会ニュース』194号、2020年10月)において、次のように述べた。〝わたしは太宰府条坊都市の造営を、九州年号「倭京」(六一八~六二二年)などを史料根拠に七世紀前半に遡ると考えているが、考古学的出土事実に基づく証明には未だ成功していない(太宰府条坊遺構からの七世紀前半に遡る土器の出土報告がない)。〟
②『大宰府史跡発掘調査報告書 Ⅱ』九州歴史資料館、2003年。
③『水城跡 ―下巻―』九州歴史資料館、2009年。
④古賀達也「洛中洛外日記」1627~1630話(2018/03/13~18)〝水城築造は白村江戦の前か後か(1)~(3)〟
古賀達也「洛中洛外日記」2451~2454話(2021/05/07~09)〝水城の科学的年代測定(14C)情報(1)~(3)〟
⑤「是歳、対馬嶋・壹岐嶋・筑紫国等に、防と烽を置く。又筑紫に、大堤を築きて水を貯へしむ。名づけて水城と曰ふ。」『日本書紀』天智三年是歳条(664年)


第2521話 2021/07/17

古田史学の「部民制」研究

 本日は久しぶりに大阪市に戻り、福島区民センターで「古田史学の会」関西例会が開催されました。8月と9月例会はi-siteなんば(参加費1,000円)で開催します。
 リモートテストには、西村秀己さん(司会担当・高松市)、正木裕さん(古田史学の会・事務局長、川西市)、冨川ケイ子さん(古田史学の会・全国世話人、相模原市)、谷本茂さん(神戸市)、樋口憲司さん(枚方市)らが参加されました。
 今回の例会では日野智貴さんが部民制について古田説を紹介し、古田史学の視点から考察されたのが印象的でした。通説では大和朝廷による民衆支配の制度と説明される部民制ですが、古田先生は天孫降臨以前に部民制の根源が成立していたとされ、例えば出雲風土記に見える「伴」「部」などを検証されています。以来、古田学派では部民制を本格的に取り上げた研究者はいなかったように思います。その意味では、日野さんが正面から部民制に対する通説を批判されたことは、初歩的ではあれ画期的なことではないでしょうか。
 もう一つ、わたしが注目したのが服部静尚さんの大宰府遺構の成立時期に関する考察でした。主に須恵器による飛鳥編年と九州編年をリンクされ、大宰府政庁や条坊、水城、大野城などの造営年代を整理・考察されたもので、今後の太宰府遺構編年の基本研究の一つとなりそうです。その結論として、飛鳥と北部九州の須恵器編年は概ね一致していること、考古学者(山村信栄氏)による大宰府遺構の土器編年に基づく造営年代が、『日本書紀』に基づいた通説と異なっていることを指摘され、大宰府遺構編年は土器編年に従うべきとされました。重要な指摘が含まれた発表でしたので、わたしも検証したいと思います。
 なお、発表者はレジュメを30部作成されるようお願いします。発表希望者は西村秀己さんにメール(携帯電話アドレス)か電話で発表申請を行ってください。

〔7月度関西例会の内容〕
①「自竹斯国以東」の証明 ―川村明説の批判―(姫路市・野田利郎)
②中臣鎌足と百済王豊璋の同一人物説(大山崎町・大原重雄)
③遺蹟・遺物が示す九州王朝の初期王都の中心領域の変遷(川西市・正木 裕)
④遣隋使と遣唐使の違いに関する一考察(茨木市・満田正賢)
⑤「部民制」はあったのか(たつの市・日野智貴)
⑥貼られた文節「白雉二年是歳条」(東大阪市・萩野秀公)
⑦主に土器から見た大宰府成立時期の考察(八尾市・服部静尚)

◎リモートによる会務報告(正木事務局長)
1.4月以降の新会員の紹介
2.会費納入状況
3.各地の講演会開催の報告
4.開催予定の講演会
5.関西例会の予定
6.会報・会誌の状況報告、他

◎「古田史学の会」関西例会(第三土曜日) 参加費500円(「三密」回避に大部屋使用の場合は1,000円)
08/21(土) 10:00~17:00 会場:i-siteなんば
09/18(土) 10:00~17:00 会場:i-siteなんば
 ※コロナによる会場使用規制のため、緊急変更もあります。最新の情報をホームページでご確認下さい。

《関西各講演会・研究会のご案内》
 ※コロナ対応のため、緊急変更もあります。最新の情報をご確認下さい。

◆「市民古代史の会・京都」講演会 会場:キャンパスプラザ京都 参加費500円
 07/22(木・祝) 13:30~16:30
「考古学から見た邪馬台国 ―畿内ではありえぬ邪馬台国―」 講師:関川尚巧さん(元橿原考古学研究所員)
「考古学から見た邪馬壹国 ―徹底検証九州説―」 講師:谷本 茂さん(古田史学の会・会員)

◆「市民古代史の会・東大阪」講演会 会場:東大阪市 布施駅前市民プラザ(5F多目的ホール) 資料代500円
 07/24(土) 14:00~16:30 「邪馬壹国と卑弥呼の世界」 講師:服部静尚さん

◆「古代大和史研究会」講演会(原 幸子代表) 参加費500円
 07/27(火) 10:00~12:00 会場:奈良県立図書情報館
 「古代瓦の変遷と飛鳥寺院」 講師:服部静尚さん(古田史学の会・会員)

◆誰も知らなかった古代史の会 会場:福島区民センター 参加費500円
 《未定》

◆「和泉史談会」講演会 会場:和泉市コミュニティーセンター(中集会室)
 《未定》


第2479話 2021/06/05

水城築造に要した労働力試算

    林 重徳

 「水城に関する土木建築・技術・構造論的考察」

 「洛中洛外日記」2476話(2021/05/31)〝土木工学から見た水城の建設技術〟で、林重徳さんの「遺跡に〝古代の建設技術〟を読む」(注①)を紹介しました。その論文には「水城の築堤工事は基本的にわずか1年足らずの短期間で完了したものと考えられる。」とありましたが、同論文の主要テーマが水城の建設技術でしたので、築造に要した労働力などには触れられていませんでした。そこで、同じく林さんの論文「水城に関する土木建築・技術・構造論的考察」(注②)に記されている水城築造に要した労働力試算について紹介します。それは、水城築堤が一年で可能とする根拠にもなります。
 同論文冒頭に次の記述があり、試算の前提が示されています。

〝平成二十五年・平成二十六年度の断面開削調査によって築堤材料がほぼ特定されたことを受け、『日本書紀』の記述通り、約一年間で築造されたものとして、全体の土工量と作業人員が概算する。なお、土工量の変化率ならびに作業能率等は、大林組による『王陵 現代技術と古代技術による「仁徳天皇陵の建設」』を参考にした。〟307頁

 そして、土工作業可能日数の推定として、太宰府気象観測所の過去十年の観測データをもとに、日降雨量に関する次の土木作業基準によって土木作業可能日数を推定されました。

(1)日降雨量10mm以下の日:土木作業は可能
(2)日降雨量10mm以上~50mm未満の日:その日の土木作業は不可能
(3)日降雨量50mm以上~100mm未満の日:その日+一日の土木作業は不可能
(4)日降雨量100mm以上の日:その日+二日の土木作業は不可能

 この結果、太宰府地方においては、61.9日が降雨により土木作業が不可能となり、一年間に施工(土木)可能な日数を303日とされました。
 次に、堤体の復原標準断面形状から盛土量を次のように計算されました。下部堤体(下成土塁)延長1040m、上部堤体(上成土塁)延長1030mとして、堤体盛土量は24万8560立法㍍及び8万340立法㍍で、合計32万8900立法㍍。そして、堤体盛土量、濠掘削量と土取場掘削量および「土工」に関わる作業を一年間での施工とすると、約3200人/日になるとされました。
 従って、この動員が可能であれば水城の築堤は一年で行えることになります。なお、築堤以外に東西二ヶ所の門や塀の建設、関連施設と道路の造成も必要ですから、恐らく水城全体の造営は数年で完了したと思われます。そうであれば、『日本書紀』天智三年(664)条の水城築城記事(注③)により(他に水城築造年次に関する史料根拠はない)、白村江戦(663年)以前に水城築造は開始され、完成したのが天智三年(664)とするのが土木工学の考察と『日本書紀』の史料根拠に基づいた穏当な理解です。
 そして、この期間は唐軍の筑紫進駐以前(注④)ですから、九州王朝(倭国)は水城を完成させることができたのではないでしょうか(注⑤)。更に、筑紫に進駐した唐軍二千人の実態は大半が船団の水夫(百済人による送使)であり、筑紫を制圧できるような軍団規模ではないとする説(注⑥)も出されており、留意が必要です。

(注)
①林 重徳「遺跡に〝古代の建設技術〟を読む ~特別史跡・水城を中心として~」『ジオシンセティックス論文集』第18巻、2003年12月。
②林 重徳「水城に関する土木建築・技術・構造論的考察」『大宰府の研究』大宰府史跡発掘五〇周年記念論文集刊行会編、平成三十年(2018)。当論文は平成二九年十月に没した著者の遺稿である。
③「筑紫国に大堤を築き水を貯へ、名づけて水城と曰う。」『日本書紀』天智三年(664)条
④『日本書紀』天智紀によれば唐の集団二千人が最初に来倭(筑紫)したのは天智八年(669)である。
⑤古賀達也「水城築造は白村江戦の前か後か」(『古田史学会報』149号、2018年12月)において、水城完成を白村江戦後の天智三年と考えても問題ないとした。
安随俊昌「『唐軍進駐』への素朴な疑問」(『古田史学会報』127号、2015年4月。『古田武彦は死なず』2016年、に収録)によれぱ、『日本書紀』天智十年(671)条に見える唐軍2,000人による倭国進駐記事について、この2,000人のうち1,400人は倭国と同盟関係にあった百済人であり、600人の唐使「本体」を倭国に送るための「送使」とされた。すなわち、百済人1,400人は戦闘部隊ではないとされた。