古田武彦一覧

第1439話 2017/07/01

古田武彦「学問にとって重要なのは『論証』」

 わたしが古田先生から繰り返し聞かされた言葉があります。それは学問における論証の重要性に関することで、「論証は学問の命」という短い言葉でした。あるいは村岡典嗣先生の「学問は実証よりも論証を重んずる」という言葉も教えていただきました。この古田先生の教えは、わたしの学問研究における生涯の指針となっています。このことは「洛中洛外日記」などで何度も述べてきたところですから、読者のみなさんはご承知のことと思います。
 ところが、古田先生がお亡くなりになったとたん、“「実証よりも論証」などという古賀や「古田史学の会」の主張は古田先生の学問とは真反対である”と非難する声が聞こえてきました。これは村岡先生や古田先生の教えに対する誤解、あるいは意図的な曲解と言わざるを得ないのですが、古田史学や学問を理解する上で大切な問題ですので、改めて事の真実を明らかにしておきたいと思います。
 もちろん「学問は実証よりも論証を重んずる」という村岡先生の言葉や、それを受け継ぐ古田先生や古賀の理解は間違いであると批判されるのは個人の自由ですから、まったくかまわないのですが、その場合はわたしと古田先生の教えが「真反対」というのではなく、“村岡も古田も古賀も自分の考え(論証よりも実証)とは真反対である”と正確に批判していただきたいものです。
 このような「古田史学の会」やわたしへの非難に対して、『東京古田会ニュース』No.173に掲載された拙稿で、古田先生が「学問にとって重要なのは『論証』」と著書で記されている事を紹介しました。その当該部分を転載しておきます。「学問は実証よりも論証を重んじる」とするわたしと古田先生の意見が「真反対」などとする批判(いいがかり)がいかに間違ったものであるかが明白となることでしょう。

【以下、『東京古田会ニュース』No.173から転載】
「論証」は学問の命
 –古田先生の言葉と思い出–
              古賀達也
 (前略)
六、論証こそ学問の命

 「論理の導くところへ行こうではないか、たとえそれがいかなるところへ到ろうとも」
 「学問は実証よりも論証を重んずる」
 こうした言葉に現れているように、古田先生は学問にとって「論理」や「論証」がいかに大切かを繰り返し強調されてきました。そのことがはっきりと著書にも残されていますので、ご紹介します。
 『よみがえる九州王朝 幻の筑紫舞』(ミネルヴァ書房)の巻末の「日本の生きた歴史(十八)」に収録された古田先生の論文“「論証と実証」論”に次のように記されています。当該部分を引用します。

 《以下、引用》
日本の生きた歴史(十八)
 第一 「論証と実証」論
      一
 わたしの恩師、村岡典嗣先生の言葉があります。
「実証より論証の方が重要です。」と。
 けれども、わたし自身は先生から直接お聞きしたことはありません。昭和二十年(一九四五)の四月下旬から六月上旬に至る、実質一カ月半の短期間だったからです。
 「広島滞在」の期間のあと、翌年四月から東北大学日本思想史科を卒業するまで「亡師孤独」の学生生活となりました。その間に、先輩の原田隆吉さんから何回もお聞きしたのが、右の言葉でした。
 助手の梅沢伊勢三さんも、「そう言っておられましたよ。」と“裏付け”られたのですが、お二方とも、その「真意」については、「判りません。」とのこと。“突っこんで”確かめるチャンスがなかったようです。
      二
 今のわたしから見ると、これは「大切な言葉」です。ここで先生が「実証」と呼んでおられたのは、「これこれの文献に、こう書いてあるから」という形の“直接引用”の証拠のことです。
 これに対して「論証」の方は、人間の理性、そして論理によって導かれるべき、“必然の帰結”です。わたしが旧制広島高校時代に、岡田甫先生から「ソクラテスの言葉」として教えられた、
 「論理の導くところへ行こうではないか、たとえそれがいかなるところへ到ろうとも」(趣意)こそ、本当の「論証」です。
 (中略)
 やはり、村岡先生の言われたように、学問にとって重要なのは「論証」、この二文字だったようです。
 《引用終わり》

 このように古田先生は「実証より論証の方が重要」であることの解説のためにわざわざ一章を割かれているのです。この古田先生の言葉に示された“学問における「論証」の重要性”を深く重く受け止め、わたしはこれからも古代史研究を進めていきたいと思います。


第1435話 2017/06/28

「古田史学の会」会則の思い出

 過日の「古田史学の会」会員総会で会則の一部変更を承認していただきました。古田先生ご逝去に伴う最小限の変更で、「第二章 目的」は次のようになりました。

〔旧〕本会は、古田武彦氏の研究活動を支援し、旧来の一元通念を否定した氏の多元史観に基づいて歴史研究を行い、もって古田史学の継承と発展、顕彰、ならびに会員相互の親睦をはかることを目的とする。

〔新〕本会は、旧来の一元通念を否定した古田武彦氏の多元史観に基づいて歴史研究を行い、もって古田史学の継承と発展、顕彰、ならびに会員相互の親睦をはかることを目的とする。

 総会では目的に古田史学の方法論や古田説を具体的に書き加えてはどうかとするご意見も出されましたが、この会則を大きく変更する必要はなく、逆に大きく変更するとその説明と論議がこの会則のもとに入会された全会員間で必要となることもあり、最小限に留めました。
 この会則は「古田史学の会」創設後に古田先生や中小路駿逸先生ともご相談し、ご了解を得たうえで決められたものであり、わたしとしては基本的に変更する必要性はないと考えています。
 会則決定のことを『古田史学会報』9号(1995年9月25日)の編集後記に次のようにわたしは記しました。

▽初めての会員総会で、無事会則採択され、喜んでいます。同会則は会の将来に無用な混乱や道を誤らないようにする為に中小路駿逸先生の御助言をいただきながら作ったものです。今後は「細則」により、詳細についても整備していきたいと考えています。

 ここでいう中小路先生のご意見は、『古田史学会報』8号(1995年8月25日)にご寄稿いただいた次の論稿に記されています。全文はHP「新古代学の扉」に収録していますので、ぜひお読みいただければと思います。

『古田史学会報』8号より部分転載

古田史学の会のために
            中小路駿逸

(前略)
 古田武彦氏の言説に強烈な関心を(思わくはいろいろ違っても)持つ人々が集まってできた(と私は思っているのだが)いくつかの会のなかの「市民の古代研究会」という会が、別れるの別れないのとゴタゴタしていたとき、私は「旗印をハッキリと」と「市民の古代ニュース(一二六号)」に書いた。古田氏の言説が「近畿大和なる天皇家の王権は、七世紀よりも前から日本列島内で唯一の卓越して尊貴な中心的権力であった」という「一元通念」を学理上「非」なりとしている一点(この一点で古田説は通念に対して決定的に勝ったのである)に、同意するか、明言せずに伏せるか、ハッキリしなさい、という趣旨を述べたものであった。ゴタゴタの原因の肝心カナメのカンどころはここにあり、ここが分かれ目となって会は少なくとも二つのグループに分かれると見、この「ことのスジミチ」が後世にハッキリわかるような記録を、シッカリ残しておきたいと思ったからである。
 私が「古田武彦氏についていくか、いかないか」とか「古田氏の学問のどこに、どういう意味で関心を持つか、持たないか」などで分けようとしなかったのはなぜか、おわかりであろう。そんな「対古田学態度」などで分けようとしたら最後、答は千差万別 、千変万化、あらゆる言い抜けが可能となって分類は無意味となり、何よりも、肝心カナメのカンどころ、「一元通念」を「論証を経ざるもの」とした古田氏の指摘、日本古代史の研究史のなかで古田氏の学の位置を決定した理論上の「定礎」を「是」なりと明言するかしないかという、大事の一点が棚上げされ、覆われ、隠され、忘れられてしまい、結果は「学理上無効な一元通念が無期限に安泰」となること、明白だからである。「一元通念」を「非」とするか。この件を伏せて言わないか。この規準が明晰かつ有効であることを私は確信していた。この規準を用いれば、ありとあらゆる錯乱(無知、ウソ、ゴマカシ、スリカエ、だまし、そういうのをすべて含め、一括して「錯乱」と言っておく。こういうものをこまかく詮索して分類したってしかたがあるまい。)が、ゴタゴタの前後にわたってみずからの正体を自主的にさらけだして記録に残すこと、明らかだからである。
 (中略)
 この「名分に関する、信仰を含む宣言」を「史実宣言」へと横滑りさせ、この「名分」に合うように歴史のワク組みを構想した「錯乱」の所産が「一元通 念」なのだった。--私は今、そう考えているのである。古田氏の指摘はこの「錯乱」を非なりとし、その裏づけを提示した私も、同様これを非とし、歴史像を通念型から古代の文献の示しているものに返せ、と要求している。たとえこの通念が数百年、あるいは千年余、日本人の心を規制し、文化の深部に根付いているように思われていようとも、より深い基層にあるものが真実ならば、そこに復帰して当然ではないか。「一元通念を非とする。」--この一句に私が固執する意味がおわかり願えようか。日本の文化が、精神が、ほんとに確かな基礎に立ったものになれるかなれないか、その分かれ目がこの一句にある。私はそう思っているのである。
  「古田史学の会」の会則案には、この肝要の一句が入っているようである。この一句が会の総会で承認されるか否かを、はるかな過去からの歴史と、これから歴史として形成されるのを待つ、限り知られぬ未来とが、深い関心をこめたまなざしをもって見守っているのである。
 (なかこうじしゅんいつ・追手門学院大学教授)


第1430話 2017/06/23

本居宣長「師の説にななづみそ」

 「師の説にななづみそ。本居宣長のこの言葉は学問の金言です。」と、わたしは古田先生から教えられてきました。古くからの古田ファンの方なら、講演会などで古田先生からこの話を聞かれたことがあるのではないでしょうか。
 六月の「古田史学の会」関西例会で正木裕さん(古田史学の会・事務局長)のレジュメにこの言葉が記された本居宣長の『玉勝間』を紹介されていましたので、とても懐かしく思いました。学問を志す上で素晴らしい言葉ですので、その部分を転載します。
 なお、付言しますと、ある時期から古田先生はこの話をあまりされなくなりました。それは『東日流外三郡誌』などの和田家文書偽作キャンペーンが熾烈を極めた頃です。
 「古田先生は和田喜八郎氏にだまされている」「古田古代史は支持するが、和田家文書は偽作で支持しない」というような声が古田先生の支持者や「弟子」らの中から次々とあがり、そうした人々が先生から離反していきました。わたしが「兄弟子」として慕っていた人々の多くが古田先生を裏切り、偽作キャンペーン側についたり、“だんまり”“日和見”を決め込んだりしたのです。そのとき彼らは、「師の説にななづみそ」という言葉を自ら行為の「免罪符」に使いました。
 まだ若かったわたしは、あれだけお世話になった先生をこんな簡単に人々は裏切るのかと愕然としました。いわば、その人々は「師の説になづまず、他の人になづんだ」(中小路駿逸先生談)のでした。その頃から、古田先生はこの本居宣長の言葉をほとんど口にされなくなりました。わたしは今でも本居宣長のこの言葉は古田先生から教えられたとおり「学問の金言」と信じていますが、同時に古田学派にとって運命に翻弄された言葉でもあるのです。

 本居宣長『玉勝間』巻の二
師の説になづまざる事
 おのれ古典をとくに、師の説とたがへること多く、師の説のわろきことあるをば、わきまへいふこともおほかるを、いとあるまじきことと思ふ人おほかめれど、こはすなわちわが師(賀茂真淵)の心にて、つねにをしへられしは、後によき考への出来たらんには、かならずしも師の説にたがふとて、なはゞかりそとなむ、教へられし、こはいとたふときをしへにて、わが師のよにすぐれ給へる一つなり、
 (中略)
 吾(本居宣長)にしたがひて物まなばむともがらも、わが後に、又よきかむかへのいできたらむには、かならずわが説にななづみそ、わがあしきゆゑをいひて、よき考へをひろめよ、すべておのが人ををしふるは、道を明らかにせむとなれば、かにもかくにも、道をあきらかにせむぞ、吾を用ふるには有りける、道を思はで、いたずらにわれをたふとまんは、わが心にあらざるぞかし、


第1402話 2017/05/20

前期難波宮副都説反対論者への問い(6)

 「副都説」反対論者への問い
1.前期難波宮は誰の宮殿なのか。
2.前期難波宮は何のための宮殿なのか。
3.全国を評制支配するにふさわしい七世紀中頃の宮殿・官衙遺跡はどこか。
4.『日本書紀』に見える白雉改元の大規模な儀式が可能な七世紀中頃の宮殿はどこか。

  「前期難波宮九州王朝副都説」を発表以来、古田先生との意見交換が続き、ご批判やご指摘もいただきましたが、最後の八王子セミナー(2014年)では、参加者からの「前期難波宮副都説をどう思われるか」という質問に対して「検討しなければならない」と言っていただきました。発表以来、7年近くを経て、ようやく検討すべき仮説として認めていただいた瞬間でした。
 そうした古田先生とのやりとりの中で、意見が一致したこともありました。それは、『日本書紀』孝徳紀に見える孝徳の宮殿「難波長柄豊碕宮」は大阪市中央区法円坂の前期難波宮ではないということでした。
 この指摘は古田先生のほかに西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人、高松市)からもなされていたもので、大阪市中央区法円坂の前期難波宮遺跡と大阪市北区の長柄豊崎とは場所が異なり、従って、前期難波宮は孝徳の「難波長柄豊碕宮」ではないとされました。確かに、両者の位置は地下鉄でも5駅離れています(谷町線谷町四丁目駅、御堂筋線中津駅)。
 なお、北区長柄豊崎には豊崎神社が鎮座しており、同社の「由緒書」には、この地が孝徳天皇の「難波長柄豊碕宮」と紹介されており、平安時代に遡る現地伝承などをその根拠とされています。しかし、現在の古代史学界や考古学界では法円坂の前期難波宮遺跡を「難波長柄豊碕宮」とする見解が通説となっています。
 わたしも古田先生や西村さんと同意見で、前期難波宮は孝徳の「難波長柄豊碕宮」ではないとしてきました。ですから、この点については古田先生と見解が一致していました。その後、古田先生は「難波長柄豊崎宮」を博多湾岸の長柄川下流域とする説を発表されました。わたしは今のところ、『日本書紀』孝徳紀に見える「難波長柄豊碕宮」は大阪市北区長柄豊崎付近でよいのではと考えていますが、いずれも考古学的調査による7世紀中頃の宮殿遺構が発見されていませんので、今後の課題だと認識しています。(つづく)

〔参考〕昔書いた「洛中洛外日記」を付記しておきます。ご参考まで。

古賀達也の洛中洛外日記
第561話 2013/05/25
豊崎神社境内出土の土器

 『日本書紀』孝徳紀に見える孝徳天皇の宮殿、難波長柄豊碕宮の位置について、わたしは大阪市北区豊崎にある豊崎神社近辺ではないかと推測しているのですが、前期難波宮(九州王朝副都)とは異なり、七世紀中頃の宮殿遺跡の出土がありません。地名だけからの推測ではアイデア(思いつき)にとどまり学問的仮説にはなりませんから、考古学的調査結果を探していたのですが、大阪市文化財協会が発行している『葦火』(あしび)26号(1990年6月)に「豊崎神社境内出土の土器」(伊藤純)という報告が掲載されていました。
 それによると、1983年5月、豊崎神社で境内に旗竿を立てるために穴を掘ったら土器が出土したとの連絡が宮司さんよりあり、発掘調査を行ったところ、地表(標高2.5m前後)から1mぐらいの地層から土器が出土したそうです。土器は古墳時代前期頃の特徴を示しており、中には船のようなものが描かれているものもあります。
 大阪市内のほぼ南北を貫く上町台地の西側にそって北へ延びる標高2〜4mの長柄砂州の上に豊崎神社は位置していますが、こうした土器の出土から遅くとも古墳時代には当地は低湿地ではなく、人々が生活していたことがわかります。報告によれば、この砂州に立地する遺跡は、南方約3kmに中央区平野町3丁目地点、北方約2kmに崇禅寺遺跡があるとのことで、豊崎神社周辺にもこの時期の遺構があることが推定されています。
 今後の調査により、七世紀の宮殿跡が見つかることを期待したいと思います。


第1395話 2017/05/13

「武田鉄矢 今朝の三枚おろし」で古田説紹介

 冨川ケイ子さん(古田史学の会・全国世話人)からのメールで、歌手でタレントの武田鉄矢さんがラジオ番組「武田鉄矢 今朝の三枚おろし」で古田先生の『「邪馬台国」はなかった』を紹介されているとことをご連絡いただきました。下記のyoutubeで聞くことができます。かなり好意的な紹介でした。

https://www.youtube.com/watch?v=dGwnzDs2ckI

 武田鉄矢さんは博多のご出身でもあり、古田説に衝撃を受けたとのことです。思わぬところに古田ファンがおられるものだと、嬉しくなりました。わたしも学生時代にフォークバンドでリードギターを担当していたこともあり、武田鉄矢さん率いる「海援隊」のファンでした。まだそれほど有名になる前に開催された久留米市でのコンサートに行ったこともあります。機会があれば武田鉄矢さんにお礼のメールでも差し上げたいと思います。


第1382話 2017/05/04

「倭の五王」の都城はどこか(1)

 古田先生と論争的意見交換を続けたテーマの一つに、五世紀の「倭の五王」時代の都はどこかという問題がありました。二人の間でもっとも激しく論争したテーマの一つでしたので、当時のやりとりを今も鮮明に記憶しています。
 『宋書』倭国伝に記された「倭の五王」が中国南朝から都督を任じられていることから、その時代の九州王朝の都を「都府楼」(都督府の宮殿の意)の名称が現存する太宰府(大宰府政庁Ⅰ期)と、古田先生は当時考えておられました。
 それに対して、わたしは、大宰府政庁Ⅰ期の堀立柱遺構は規模が貧弱であり倭王の宮殿とみなすのは無理、かつ出土土器編年から見ても五世紀には遡らないと説明しました。それでも納得されない先生は「それでは倭の五王の都はどこだと考えているのか」と詰問され、「わかりません」と答えると、「だいたいでもよいからどこだと考えているのか」と質されるので、「筑後地方ではないかと思います」と返答しました。もちろんこの答えでも古田先生は納得されず、論争が続きました。結局、両者合意をみないままとなりましたが、『古田武彦の古代史百問百答』では「倭の五王」時代の都の所在地には触れられていませんから、晩年はどのような見解だったのかはわかりません。
 わたしが「倭の五王」時代の九州王朝の都を筑後と考えたのは、高良大社の御祭神「高良玉垂命」の名前が「倭の五王」にも襲名されたとする研究結果(「九州王朝の筑後遷宮」『新・古代学』第四集、新泉社。1999年)によるものでした。それと、古田先生が1989年に発表された「『筑後川の一線』を論ず」(『東アジアの古代文化』61号)でした。この論文は古田学派内でもあまり注目されてきませんでしたが、わたしは重要な論文と考えています。
 その主要論点は、弥生時代の九州王朝の中枢領域は考古学的出土物から見ても筑前だが、古墳時代になると様相が一変し、装飾古墳などが筑後地方に出現することから、筑後に変わっている。これは主敵が南の薩摩(隼人)などの勢力だった弥生時代から、北の朝鮮半島の国々に変化した古墳時代になると、九州王朝(倭の五王、多利思北孤)はより安全な筑後川(天然の大濠)の南に拠点を移動させたためだとされました。
 わたしはこの論文を支持しており、「倭の五王」や筑紫君磐井は筑後を都にしていたと考えています。そして多利思北孤の時代になって太宰府に遷都したと九州王朝史の大枠を理解しています。(つづく)


第1379話 2017/04/29

『古田武彦の古代史百問百答』百考(3)

 今回、『古田武彦の古代史百問百答』を熟読して、今まで気づかなかった古田先生の新仮説や新たな論理展開に遭遇し、はっとさせられることがいくつもあります。たとえば、『二中歴』「年代歴」にのみ見える最初の九州年号「継躰」(517〜521年)を当時の倭国の天子の名前とする次の見解などがそうです。

 「福井から二十年かけて大和に入った天皇は、その時はもちろん天皇ではなく、後に継躰天皇と謚(おくりな)されただけです。具体的には男大迹大王と言いましょうか。要するに近畿の首長です。この時点ではもちろん、九州に進出しておりません。
 これに対して、九州王朝では、前に言った丁酉の年(五一七)に継躰の年号を持った天子がいました。これについて『日本書紀』継躰紀二十四年の春二月の詔(『岩波日本書紀』下、四二ページ)では、継躰之君というのが出てきますが、これを通説では『ひつぎ』と普通名詞に取っていますが、普通名詞の人に『中興』の功を論じるのはこじつけで、はからずも九州王朝の天皇の名称を盗用したとした方が正しいのではないでしょうか。そのように解釈すると、近畿の男大迹とほぼ同じ頃に九州に継躰天皇がいたということになります。近畿王朝は、武烈を倒して、新王朝を樹立した男大迹を、ちょうど天子を名乗り始めた九州王朝の継躰にならい、『継躰』の名を謚したのです。そして九州の継躰を完全には消しえなかったのが、継躰二十四年の詔ということになります。」(110頁)

 この古田先生の見解を読んだとき、わたしは納得できませんでした。なぜなら、古代において天子の名前をそのまま年号に用いるなどという例を、中国や当の九州王朝でも知らなかったからです。逆に、天子の名前の字を避けるというのが古代中国における慣習でしたから、九州王朝の官僚たちが最初の年号を決めるにあたり、そのときの天子の名前「継躰」を採用したことになる古田説に、猛烈な違和感を覚えました。
 たとえば、今、知られている九州王朝の倭王や天子の名前に用いられた漢字(俾弥呼、壹與、讃、珍、済、興、武、旨、磐井、葛子、阿毎多利思北孤、利歌彌多弗利、薩夜麻、など)は九州年号に使用されていません。ましてや、その時代の天子の名前(今回のケースでは継躰)をそのまま年号に用いるなどとは考えられないのではないでしょうか。もし、九州王朝は天子の名前を年号に使用したとするのであれば、その根拠(たとえば中国での先例)を明示して論証が必要と思われるのです。
 他方、後世になって、「継躰」年号の時代の天子を「継躰之君」と呼んだり記したりすることはあるかもしれません。これは平安時代の例ですが、醍醐天皇(897〜930)のことを『大鏡』(平安後期の成立)では、その即位期間の代表的な年号「延喜」(901〜923)を用いて「延喜帝」と表記されています。『日本書紀』継躰紀二十四年の「継躰之君」がこれと同じケースであれば、この「継躰」は天子の名前ではなく九州年号ということになります。
 従って、「継躰之君」の「継躰」は、“ひつぎ”(通説)と“九州王朝の天子の名前”(古田説)と“後世における年号の転用”という三つの可能性がありますから、どの仮説が最も妥当かという論証が必要です。
 今年になって、『二中歴』に見える九州年号「継躰」は、「善記」を建元したときに、遡って「追号した年号」とする説が西村秀己さんから発表されています(「倭国〔九州〕年号建元を考える」、『古田史学会報』139号、2017年4月)。この西村説を援用するならば、天子の名前の「継躰」を年号として「追号」した可能性や、「年代歴」編纂時に、天子の名前「継躰」を年号と勘違いして「年代歴」に入れてしまったというケースも考えられるかもしれません。このことを西村さんに伝え、検討を要請しました。関西例会で検討結果が報告されることを期待しています。もし、古田先生がご健在であれば、どのように答えられるでしょうか。(つづく)


第1377話 2017/04/25

『古田武彦の古代史百問百答』百考(2)

 古田先生との応答で決着を見ないままとなった「論争」に「庚午年籍」問題がありました。『古田武彦の古代史百問百答』においてもこの問題が記されています。次の箇所です。

 「『続日本紀』の聖武天皇、神亀四年(七二七)に次の記事があります。
 『秋七月丁酉。筑紫諸国、庚午年籍七百七十巻。以官印々之(官印を以て之に印す。)』
 これがいわゆる『保存』の記事です。しかし、問題は『保存の目的』です。」(217頁)
 「『日本書紀』でも、六四五〜七〇一年の間がすべて『郡』とされている。
 こういう状況で『評にあふれた庚午年籍』が『公示』『公開』されたら、すべて“ぶちこわし”です。
 すなわち『評の庚午年籍』を“集め”て“封印”させるのが、この、いわゆる『保存』、この『封印』の意味とみる他ありません。(中略)
 要するに、あやまった『保存』という言葉に人々は“だまされ”てきたのです。
 『岩波日本書紀』下の『補注』巻第二十七-一四『庚午年籍』の項も、
 『この「近江大津宮庚午年籍」だけは永久に保存されるべきものとされた。』(五八三ページ)
と結ばれています。ですから、一般の読者は、
 『本当に、保存したのだ。』
と錯覚させられる。そういう『形』を、学者たちはとってきたのです。」(218頁)

 このように、古田先生は『続日本紀』に見える、筑紫諸国の「庚午年籍」官印押印記事を「保存」記事とみなされ、その目的は評制文書である「庚午年籍」の「封印」であるとされました。そして「庚午年籍」が保存されたとするのは現代の学者の解釈に過ぎず、一般の人はそれにだまされていると主張されました。
 わたしは古代戸籍や「庚午年籍」の研究を永く続けてきましたので、古田先生のご自宅まで赴き、大和朝廷が後世にわたり「庚午年籍」の保存を命じていたことを史料根拠を示して説明しました。それは次のような史料です。

 「凡戸籍。恒留五比。其遠年者。依次除。〔近江大津宮庚午年籍。不除〕」(『養老律令』戸令 戸籍条)
【意訳】戸籍は、常に五回分(30年分)を保管すること。遠年のものは次のものを作成し次第、廃棄すること。〔近江大津宮の庚午年籍は廃棄してはならない〕。

 大和朝廷は自らの『養老律令』で戸籍の保管期間を定め、「庚午年籍」は保管期間が過ぎても廃棄してはならないと明確に定めています。この規定等を根拠に現代の学者は『この「近江大津宮庚午年籍」だけは永久に保存されるべきものとされた。』と『岩波日本書紀』に注記したのです。
 更に『続日本後紀』には9世紀段階でも諸国に「庚午年籍」の書写保管を命じ、中務省へ写本提出を命じたことなどが記されています。
 こうした史料の存在を紹介し、「庚午年籍」の研究状況について、ご自宅まで押し掛けて説明しました。今から10年ほど前のことだった記憶しています。
 なお、『古田武彦の古代史百問百答』において、古田先生は『続日本紀』の「秋七月丁酉。筑紫諸国、庚午年籍七百七十巻。以官印々之(官印を以て之に印す。)」の記事を、筑紫での「庚午年籍」の「出土」と表現されています。

 「この答えは、右の『庚午年籍七百七十巻』という、大量文書の出土が、『近江』でなく『筑紫諸国』であること、この一事からハッキリわかるのではないでしょうか。」(219頁)
 「すなわち、問題の『庚午年籍』が、大量に出土しているのは、『近江諸国』ではなく、筑紫諸国なのです。」(233頁)

 『続日本紀』の当該記事からは、筑紫諸国の「庚午年籍」七百七十巻に(大和朝廷側の)官印を押した、ということがわかるだけで、“出土した”“発見された”というような情報は含まれていません。古田先生がどのような意図や根拠により、「出土」という表現を用いられたのかについて関心があったのですが、ついにお聞きすることができないままとなりました。先生がお元気なうちにお聞きしておけばよかったと悔やみました。(つづく)


第1376話 2017/04/24

『古田武彦の古代史百問百答』百考(1)

 古田武彦先生が亡くなられて一年半が過ぎました。わたし自身の気持ちの整理も少しずつついてきましたので、古田先生の学問学説やその基底をなしたフィロロギーなど学問の方法について振り返る時間が増えてきた昨今です。
 中でも晩年の古田先生の学説や学問的関心事などを要領よくまとめられた『古田武彦の古代史百問百答』(東京古田会編、ミネルヴァ書房刊。2015年4月)を集中して読み直しています。今回、あらためて気づいたことや懐かしく蘇った記憶についてご紹介していきたいと思います。

 同書223頁に次のような記述があります。わたしはここを読んで、当時の情景をはっきりと思い出しました。

 「その間、藤原宮の大極殿問題を発端とする、古賀達也氏(古田史学の会)との(論争的)応答や西村秀己氏(同上)の(「七〇一」禅譲)説などが、大きな刺激となりました。改めて、詳述の機を得たいと思います。」(223頁)

 古田先生のいう(論争的)応答とは、藤原宮の中心部を神社(鴨公神社が鎮座)と見るのか、王宮(701年以後は大極殿)と見るのかという数回にわたる応答でした。双方相譲らず、という結果だったと記憶しています。古田先生が亡くなられる10年ほど前から、わたしは様々なテーマで先生と意見交換を行いました。ときに激しい論争となったことも何回かありました。もちろん、先生に対して礼儀正しく応答したつもりですが、うるさがられたことでしょう。今となっては懐かしい思い出であり、得難い経験でした。
 古田先生は藤原宮の考古学的復元図に対して、大極殿は現代の学者による作図であり、現地にあるのは鴨公神社だと考えておられました。そのことが314頁に次のように記されています。

 「藤原京、難波京、近江京には大極殿はありません。藤原京、難波京共にあるべきであろうと思われる位置に、学者が作図して公にされています。藤原京はその位置には鴨公神社があります。大極殿の記録伝承はありません。近江京も当然無いと考えています。」(314頁)

 これに対して、藤原宮は発掘調査が行われており、その出土事実に基づいて復元図が作成されているとわたしは反論し、中公新書『藤原京』(木下正史著、2003年)を紹介しました。その後、古田先生との応答で、701年以降であれば文武天皇等が藤原宮の宮殿を「大極殿」と呼んだ可能性もあるということで、両者納得するに至りました。
 こうした古田先生との(論争的)応答の詳細については、わたしは今まで文章にすることはほとんどありませんでした。もし公にしたら、「古田と古賀が対立している」などとネットなどで反古田派による古田バッシングの材料に悪用されるのは目に見えていたからです。また、古田先生と異なる意見をわたしが発表すると、本来であれば純粋な学問論争ですので何の問題もないはずなのですが、非難される懸念もありましたので、こうしたテーマは慎重に取り扱ってきました。
 『古田武彦の古代史百問百答』でも次のように古田先生は記されています。

 「なかでも、印象に残ったのは、村岡さんの敬愛した本居宣長について、
 『本居さんは言っています。「師の説に、な、なづみそ。」と。自分の先生の説に“こだわる”な、と言うのです。それが学問なんですね。』
という言葉は、くりかえし聞きました。
 これが、わたしの村岡さんから学んだ『学問の精神』です。昨年(二〇〇五年)『新・古代学』(新泉社)の第八集(最終号)に載せた『村岡学批判』は、その表現です。
 もっとも、『師の意見』(A)と『師に反した自分の意見』(B)と、いずれが是か。それは後代の研究史が明らかにすることでしょう。
 慎重に、心をこめて、これをなすべきこと、それは当然のことです。」(344〜345頁)

 『古田武彦の古代史百問百答』百考をこれから連載するにあたり、慎重に、心をこめて、これをなしたいと思います。(つづく)


第1333話 2017/02/11

同人誌『飛行船』に古田説登場

 徳島市の「飛行船の会」(代表:竹内菊世さん)が発行されている同人誌『飛行船』第20号(平成28年11月)のコピーが合田洋一さん(古田史学の会・全国世話人、「古田史学の会・四国」事務局長)から送られてきました。古田史学の会・四国の白石恭子さんから頂いたものとのこと。
 同誌に掲載されている大北恭宏さんの「大知識人・坂口安吾」というエッセイ中に古田先生の九州王朝説が紹介されていました。そこには「ここで登場していただく先生がいる。古田武彦先生だ。古田先生は、日本の古代史の大学者だ。私は、今も、古田先生の本を、貪るように読み続けている。」と紹介され、多元史観・九州王朝説を正しく説明されています。
 日本各地の様々な分野で活躍されている人々の間に古田説が静かに確実に広がっていることが見てとれました。


第1320話 2017/01/10

中国北朝(北魏)の大義名分

 中国南朝に臣従してきた九州王朝(倭国)でしたが、梁の時代に入ると九州年号「継躰」を建元し、冊封から外れ天子を自称するに至ります。同時に北朝(北魏)との交流が始まった痕跡もあります。
 たとえば北部九州を代表する山でもある英彦山は北魏僧善正が九州年号の教到元年(531)に開基したとされていますし、雷山千如寺の国宝千手観音像の体内仏はその様式が北魏時代の仏像によく似ています。更に『隋書』には九州王朝の天子、多利思北孤と隋との交流が記録されています。このように、九州王朝は南朝梁の冊封から抜けてからは、むしろ北朝との関係を図っているように見えるのです。
 その北朝(北魏)が南朝をどのように認識(表現)していたのかが『北魏書』に記されています。

「(太和三年、479年)是年、島夷粛道成、其の主の劉準を廃し、僭わって自ら立ち、号して斉と曰う。」(『魏書 七上』高祖紀第七上)

 このように南朝斉の天子を「島夷」という蔑称で表記しているのです。この後も南朝の天子は「島夷」と表記されているのですが、南朝は「大陸国家」であり、「島夷」という表現はいくら蔑称とはいえ、地勢的に妥当ではありません。むしろ倭国(九州王朝)こそ「島夷」という表現が妥当でしょう。ちなみに、高句麗などについては「東夷」という伝統的な表記を用いています。

「(太延二年、436)高麗東夷諸国」(『魏書 四上』世祖紀第四上)

 この他にも『魏書』(『北魏書』)には「雑夷」「海夷」という表記も見え、北朝にとっての大義名分による蔑称が散見されるのです。
 なお、南朝に対してなぜ「島夷」という蔑称が用いられのかという面白い問題もあるのですが、古田先生との検討会では、文字通りの「島夷」である倭国と同列視して蔑んだのではないかとする見解(アイデア)で一致しました。もちろん、論証は今後の課題です。


第1314話 2016/12/30

「戦後型皇国史観」に抗する学問

 藤田友治さん(故人、旧・市民の古代研究会々長)が参加されていた『唯物論研究』編集部からの依頼原稿をこの年末に集中して書き上げました。市民の日本古代史研究の「中間総括」を特集したいとのことで、「古田史学の会」代表のわたしにも執筆を依頼されたようです。
 今日が原稿の締切日で、最後のチェックを行っています。論文の項目と最終章「古田学派の運命と使命」の一部を転載しました。ご参考まで。

「戦後型皇国史観」に抗する学問
-古田学派の運命と使命-
一.日本古代史学の宿痾
二.「邪馬台国」ブームの興隆と悲劇
三.邪馬壹国説の登場
四.九州王朝説の登場
五.市民運動と古田史学
六,学界からの無視と「古田外し」
七.「古田史学の会」の創立と発展
八.古田学派の運命と使命
(前略)
 「古田史学の会」は困難で複雑な運命と使命を帯びている。その複雑な運命とは、日本古代の真実を究明するという学術研究団体でありながら、同時に古田史学・多元史観を世に広めていくという社会運動団体という本質的には相容れない両面を持っていることによる。もし日本古代史学界が古田氏や古田説を排斥せず、正当な学問論争の対象としたのであれば、「古田史学の会」は古代史学界の中で純粋に学術研究団体としてのみ活動すればよい。しかし、時代はそれを許してはくれなかった。(中略)
 次いで、学問体系として古田史学をとらえたとき、その運命は過酷である。古田氏が提唱された九州王朝説を初めとする多元史観は旧来の一元史観とは全く相容れない概念だからだ。いわば地動説と天動説の関係であり、ともに天を戴くことができないのだ。従って古田史学は一元史観を是とする古代史学界から異説としてさえも受け入れられることは恐らくあり得ないであろう。双方共に妥協できない学問体系に基づいている以上、一元史観は多元史観を受け入れることはできないし、通説という「既得権」を手放すことも期待できない。わたしたち古田学派は日本古代史学界の中に居場所など、闘わずして得られないのである。
古田氏が邪馬壹国説や九州王朝説を提唱して四十年以上の歳月が流れたが、古代史学者で一人として多元史観に立つものは現れていない。古田氏と同じ運命に耐えられる古代史学者は残念ながら現代日本にはいないようだ。近畿天皇家一元史観という「戦後型皇国史観」に抗する学問、多元史観を支持する古田学派はこの運命を受け入れなければならない。
 しかしわたしは古田史学が将来この国で受け入れられることを一瞬たりとも疑ったことはない。楽観している。わたしたち古田学派は学界に無視されても、中傷され迫害されても、対立する一元史観を批判検証すべき一つの仮説として受け入れるであろう。学問は批判を歓迎するとわたしは考えている。だから一元史観をも歓迎する。法然や親鸞ら専修念仏集団が国家権力からの弾圧(住蓮・安楽は死罪、法然・親鸞は流罪)にあっても、その弾圧した権力者のために念仏したように。それは古田学派に許された名誉ある歴史的使命なのであるから。
本稿を古田武彦先生の御霊に捧げる。
(二〇一六年十二月三十日記)