古田武彦一覧

第1079話 2015/10/21

『新唐書』日本国伝の新理解

 先日の「古田史学の会」関西例会で服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)から『新唐書』日本伝についての研究が発表されました。そのときの討論を経て、興味深いことに気づきましたのでご紹介します。
 ご存じのように『旧唐書』(945年成立)には倭国伝(九州王朝)と日本国伝(大和朝廷)とが併記されており、多元史観・九州王朝説を直接的に証明する史料として古田史学では重視されてきました。その後に編纂された『新唐書』(1060年成立)では日本伝のみであり大和朝廷のみの記述となっていることから、大和朝廷一元史観の学界では「同じ国である倭国と日本国を別国として表記した『旧唐書』は信頼性が劣る」とされ、日本伝に統一した『新唐書』こそ正しいとして重視する姿勢をとってきました。
 しかし、今回の服部さんの研究報告に触発され、『新唐書』を改めて読んでみると、『新唐書』編者は九州王朝と大和朝廷両国の存在を認識しており、その内の日本伝のみを記述していた可能性があることがわかりました。日本伝は日本側史料や歴代中国正史を参考にしてその歴史を記述しているのですが、具体的には『後漢書』の倭(委)奴国の時代から記述し、天御中主や神武頃からは「自らいう」として日本側の情報によっており、それまでは「筑紫城」に居住し、神武のときに「天皇」を名乗り「大和州」へ移ったとしています。いわゆる「神武東征」を史実として採用しています。
 他方、その日本国の歴史には「志賀島の金印」も「邪馬壹国の卑弥呼・壹与」「倭の五王」も一切登場しません。意図的に避けていると思われるのです。歴代中国史書に登場する倭国の有名人や金印授与などの歴史的事件が見事にカットされているのです。これらを偶然とすることは考えにくく、やはりその主体が異なると『新唐書』編者は認識していたのではないでしょうか。
 そうした九州王朝の有名人や重要事件がカットされた日本伝なのですが、不思議な記述がありました。それは「目多利思比孤」です。『隋書』国伝の「阿毎多利思北孤」と関係することは一目瞭然なのですが、「目」の意味が不明でしたし、九州王朝の多利思北(比)孤がなぜ近畿天皇家の歴代の天皇と並んで記されているのかが不審とされてきました。

 「(前略)次用明、次目多利思比孤、直隋開皇末年始與中国通、次崇峻(後略)」(『新唐書』日本伝)

 「目多利思比孤」は用明(585〜587年)と崇峻(587〜592年)の間の在位とされていますが、こうした人物は『日本書紀』などには当然見えません。従って、『新唐書』編者は別の情報に基づいて上記記事を書いたと思われます。ここで注目されるのが、古田先生が指摘されたように「隋の開皇の末にはじめて中国に通ず」という記事です。『新唐書』日本伝では隋の開皇年間(581〜600年)の末に初めて日本国は中国(隋)と国交開始したと記しているのです。ですから、日本伝に「志賀島の金印」や「邪馬壹国の卑弥呼・壹与」「倭の五王」などの古くからの国交記事が全く記されていないことと整合しています。
 『隋書』国伝によれば開皇20年に多利思北孤は遣隋使を派遣しています。先の記事はこの遣隋使記事と年代が一致しています。しかし『隋書』によれば倭国(国)は古くから中国と交流していることが記されていますから、『新唐書』の編者は日本伝の日本国と『隋書』の国(倭国)は別国と認識していたと考えざるを得ないのです。
 それではこの「目多利思比孤」とは何者でしょうか。古田先生によれば「目」は代理を意味する「目代」(代理人)などと同類の「称号」ではないかとされ、おそらく多利思北孤が派遣した遣隋使に同行した近畿天皇家の使者を「目・多利思比孤」、すなわち多利思北(比)孤の代理人(目)として『新唐書』に記したのではないでしょうか。
 歴史事実がどのようなものであったか、その詳細はまだわかりませんが、『新唐書』編者の認識は、九州王朝の天子・多利思北孤の「目(代理)」として「目多利思比孤」という人物を近畿天皇家(日本国)の代表者として用明と崇峻の間に記録したと考えざるを得ません。
 以上のように、『新唐書』日本伝は多元史観・九州王朝説に立って読んだとき、初めてその成立過程が理解可能となります。近畿天皇家一元史観では「隋の開皇の末にはじめて中国に通ず」という一文を全く説明できないのです。

 

掲載 歴史ビッグバン 古田武彦
(『新・古代学』第3集 1998年 新泉社)


第1078話 2015/10/20

池田大作氏の書評「批判と研究」

 古田先生が生前に親交をもたれていた各界の人士にご連絡をとっていますが、ご返信も届きはじめました。17日には創価学会名誉会長の池田大作氏から、知人を介して次の御伝言をいただきましたのでご紹介します。

 「ご生前の御功績をしのび、仏法者として懇ろに追善させていただきました。くれぐれもよろしくお伝え下さい。」(池田大作)

 古田先生と池田大作氏との交流は『「邪馬台国」はなかった』の発刊時にまで遡ります。同書は昭和46年11月に発行されています。わたしが古田先生からお聞きしたことですが、『「邪馬台国」はなかった』の書評を最初に発表されたのが池田大作氏で、それ以来、古田先生の著作が刊行されると贈呈し、そのたびに読書感想を交えた丁重なお礼状や池田氏の著作が届くという間柄になられたとのこと。先生のご自宅で池田氏のサイン入りの写真集なども見せていただいたことがあります。
 池田大作氏の書評は昭和47年1月15日の『週間読売』に掲載された「批判と研究」というものです。それは次のような文で始まります。

 「最近評判になっている『「邪馬台国」はなかった』(古田武彦著、朝日新聞社)という書物を一読した。はなはだ衝撃的な題名であるが、推論の方法は堅実であり、説得的なものがある。読んでいて、あたかも本格的な推理小説のような興味を覚えた。これが好評を博す理由もよく理解できる。」

 そして古田先生の邪馬壹国説を正確に要領よく紹介され、九州説の東大と近畿説の京大との学閥問題にも触れられます。さらには古田史学・フィロロギーの方法論と同一の考え方を示され、最後を次のように締めくくられています。

 「『批判』はどこまでも厳密であるべきだ。なればこそ『批判』にあたっては、偏見や先入観をできるかぎり排除して、まず対象そのものを冷静、正確に凝視することが大切であろう。そもそも『批判の眼』が歪んでいれば、対象はどうしても歪んだ映像を結ばざるをえないのだろうから--。」

 この池田氏の「批判と研究」は学問的にも大変優れた内容です。この書評は『きのうきょう』(聖教文庫81、聖教新聞社、1976年)に収録されています。
 わたしがこの書評の存在を古田先生からお聞きしたのは、「古田史学の会」創立後ですから、今から15年ほど前のことと思います。そのとき先生はうれしそうなお顔で次のように言われました。

 「池田さんとお会いしたことはないのですが、是非、会ってみたいという気持ちと、このまま書簡と書籍を交換するだけの間柄を大切にしたいという気持ちの両方があります。」

 こうして、古田先生は池田大作氏とはお会いされることはないまま逝かれました。


第1077話 2015/10/17

悲しみと励ましの関西例会

本日の関西例会はいつもとは少し異なり、重苦しい雰囲気が感じられました。というよりも落ち込んでいるわたしを皆さんにおもんばかっていただいたためでした。
 お昼休みに開催した「古田史学の会」役員会では古田先生のご逝去により、「偲ぶ会」の検討や『古代に真実を求めて』追悼特集について打ち合わせを行いました。午後の部の冒頭では参加者全員で黙祷しました。
 例会後の懇親会には桂米團治さんが駆けつけていただきました。米團治さんはは住吉での落語会を終えた後、懇親会に参加していただいたものです。 有り難いことです。今日は姫路市で落語会とのことでした。これからの米朝一門を立派に牽引されていかれることでしょう。皆さんに励まされた一日でした。
 10月例会の発表は次の通りでした。

〔10月度関西例会の内容〕
①本朝皇胤紹運録の中の九州年号(八尾市・服部静尚)
②新唐書日本伝の史料批判(八尾市・服部静尚)
③「副葬」は「廃棄」である(京都市・岡下英男)
④仮説、「国伝」(姫路市・野田利郎)
⑤盗まれた九州王朝の「難波宮」と「吉野宮」の歌(川西市・正木裕)
⑥「ニギハヤヒの位置付け」及び「神武の東征はなかった」の補足(東大阪市・萩野秀公)
⑦六国史の「皇祖母」(高松市・西村秀己)

○水野顧問報告(奈良市・水野孝夫)
 古田先生近況(10月14日22時13分、西京区の桂病院にてご逝去)・史跡ハイキング(関大博物館・他)・「最勝会」の研究・高橋崇『藤原氏物語 栄華の謎を解く』・水野孝夫「泰澄と法蓮」会報74号・その他


第1076話 2015/10/15

古田武彦先生ご逝去の報告

 古田武彦先生が昨日ご逝去されました(享年89歳。10月14日午後10時13分、搬送先の桂病院にて)。謹んで皆様にご報告申し上げ、心よりご冥福をお祈り申し上げます。
 なお、古田先生の御遺命により、葬儀は執り行われず、ご親族によるお別れがなされます。「古田史学の会」としましては、友誼団体ともご相談の上、「お別れ会」(仮称)を執り行います。日時・会場など詳細が決まりましたら改めてご報告申し上げます。
 また、「九州年号特集」を予定していました『古代に真実を求めて』19集(来春発行)は「古田武彦先生追悼号」に変更させていただきます。
 先生の御遺志と学問、古田史学・多元史観をこれからも継承発展させることをお誓い申し上げます。

 平成27年(2015)10月15日
         古田史学の会 代表 古賀達也

古田武彦研究年譜を掲載


第1064話 2015/09/29

「古田史学の会・まつもと」の皆さんと懇談

 今日から北陸・信州・名古屋と出張です。富山からは北陸新幹線で長野に入り、仕事と行程の都合から松本市で宿泊です。ちょうどよい機会ですので、「古田史学の会・まつもと」の北村明也さん、鈴岡潤一さん(松本深志高校教諭)と夕食をご一緒し、その後、村田正幸さんと歓談しました。北村さんは松本深志高校での古田先生の教え子さんで、村田さんは「古田史学の会」全国世話人を引き受けていただいています。北村さん・鈴岡さんとは「古田史学の会」の展望について意見交換し、村田さんからは長野県に分布する「高良社」「高良明神」などの調査結果の説明があり、なぜ筑後地方神とされる「高良神」が信州に数多く祀られるのかについて論議しました。いずれも楽しく有意義な一夕となりました。
 お会いする約束をいただくため、事前に北村さんにお電話したのですが、突然のわたしからの電話に、「古田先生に何かあったのですか」と驚かれていました。ちょっと申しわけない気持ちと、古田先生を気遣い慕う教え子さんたちの思いが、60年以上たった今日でも続いていることに感動を覚えました。
 今日、初めて北陸新幹線に乗りましたが、内装もきれいですし、シートに着いている枕は上下に移動するという優れものでした。金沢駅から富山駅まで乗り、その後、黒部宇奈月温泉駅から長野駅まで利用しましたが、いずれの駅も積雪に耐えられるように、ホームの屋根を支える鉄骨は京都駅などには見られないような頑丈な作りでした。さすがは雪国の新幹線仕様です。聞けば、様々な降雪対策が施されているとのことですので、岐阜・米原間の降雪でよく止まる東海道新幹線も見習ってほしいものです。なお、「黒部宇奈月温泉駅」は新幹線の駅名としては最も長い名前とのことでした。
 松本には仕事ではなく、次回はプライベートな旅行で訪れたいと思いました。


第1051話 2015/09/11

古田先生登場「桂米團治さんオフィシャルブログ」

 桂米團治さんのオフィシャルブログに古田先生や妻とわたしとの写真が掲載され、古田学説が見事な要約で紹介されています(9月9日付)。KBS京都放送のラジオ番組「本日、米團治日和」の収録時などの写真です。その要約があまりにも見事で、かなり古田先生の本を読み込んでおられ、正確に理解されておられることがうかがえます。大変ありがたいことです。転載し、紹介させていただきます。

「桂米團治さんオフィシャルブログ」より転載

2015.09.09 《古田武彦さん登場 @ KBS京都ラジオ》
http://www.yonedanji.jp/?p=16146

古田武彦さん──。知る人ぞ知る古代史学界の大家です。

「いわゆる“魏志倭人伝”には邪馬台国(邪馬臺国)とは書かれておらず、邪馬壱国(邪馬壹国)と記されているのです。原文を自分の都合で改竄してはいけません。そして、狗邪韓国から邪馬壱国までの道程を算数の考え方で足して行くと、邪馬壱国は必然的に現在の福岡県福岡市の博多あたりに比定されることになります」という独自の説を打ち立て、1971(昭和46)年に朝日新聞社から『「邪馬台国」はなかった』という本を出版(のちに角川文庫、朝日文庫に収録)。たちまちミリオンセラーとなりました。

その後、1973(昭和48)年には、「大宝律令が発布される701年になって初めて大和朝廷が日本列島を支配することができたのであり、それまでは九州王朝が列島の代表であった」とする『失われた九州王朝』を発表(朝日新聞社刊。のちに角川文庫、朝日文庫に収録)。

1975(昭和50)年には、「『古事記』『日本書紀』『万葉集』の記述には、九州王朝の歴史が大和朝廷の栄華として盗用されている部分が少なくない」とする『盗まれた神話』を発表(朝日新聞社刊、のちに角川文庫、朝日文庫に収録)。

いずれも記録的な売り上げとなりました☆☆☆

実は、芸能界を引退された上岡龍太郎さんも、以前から古田学説を応援して来られた方のお一人。

「古田史学の会」という組織も生まれ、全国各地に支持者が広がっています。

が──、日本の歴史学会は古田武彦説を黙殺。この45年間、「どこの国の話なの?」といった素振りで、無視し続けて来たのです。

しかし、例えば、隋の煬帝に「日出づる処の天子より、日没する処の天子に書を致す。恙無きや」という親書を送った人物は、「天子」と記されていることから、厩戸王子(ウマヤドノオウジ)ではなく、ときの九州王朝の大王であった多利思比孤(タリシヒコ…古田説では多利思北孤=タリシホコ)であったと認めざるを得なくなり、歴史の教科書から「聖徳太子」という名前が消えつつある今日、ようやく古田学説に一条の光が射し込む時代がやってきたと言えるのかもしれません^^;

とは言え、古田武彦さんは大正15年生まれで、現在89歳。かなりのご高齢となられ、最近は外出の回数も減って来られたとのこと。なんとか私の番組にお越し頂けないものかなと思っていたところ──。

ひょんなことから、「古田史学の会」代表の古賀達也さんにお会いすることができたのです(^^)/

長年にわたり米朝ファンでいらした鋸屋佳代子さんのご紹介で、古賀さんご夫妻とスリーショットを撮る機会を得た私。

古賀達也さんのお口添えにより、先月、私がホストを勤めるKBS京都のラジオ番組「本日、米團治日和。」への古田武彦さんの出演が実現したという次第!

狭いスタジオで、二時間以上にわたり、古代史に纏わるさまざまな話を披露していただきました(^◇^;)

縄文時代…或いはそれ以前の巨石信仰の話、海流を見事に利用していた古代人の知恵、出雲王朝と九州王朝の関係、平安時代初期に編纂された勅撰史書「続日本紀」が今日まで残されたことの有難さ、歴史の真実を見極める時の心構えなどなど、話題は多岐に及び、私は感動の連続でした☆☆☆

老いてなお、純粋な心で隠された歴史の真実を探求し続けておられる古田先生の姿に、ただただ脱帽──。

古田武彦さんと古賀達也さんと私の熱き古代史談義は9日、16日、23日と、三週にわたってお届けします。

水曜日の午後5時半は、古代史好きはKBSから耳が離せません(((*゜▽゜*)))


第1040話 2015/08/31

古田先生出演「本日、米團治日和」

 のオンエア日程

 先週、収録されたKBS京都放送の古田先生が出演される「本日、米團治日和」のオンエア日程ですが、いただいた企画表によれば、9月の9日、16日、23日の17:30〜18:00とありましたのでお知らせします。特段の事情がなければこれらの水曜日に放送されます。関西の皆さん、ぜひ聴いてください。なお、Radiko.jpプレミアムに登録すればパソコンやスマホで全国どこでも聴けるそうです(有料、要契約)。

「本日、米團治日和」での紹介です。
2015.09.09 《古田武彦さん登場 @ KBS京都ラジオ》

 希望される会員に「洛洛メール便」で配信しています「洛中洛外日記【号外】」の8月のタイトルをご紹介します。まだ発信申し込みをされていない会員の方は、ぜひお申し込みください。

「洛中洛外日記【号外】」8月配信のタイトル
日付    タイトル
2015/08/01 9月6日、東京講演会の打ち合わせ
2015/08/04 KBS京都ラジオ収録の打ち合わせ
2015/08/05 「インターネット例会」構想
2015/08/08 「国分寺」問題の服部さんとのメール
2015/08/10 古田先生から原稿いただく
2015/08/12 KBS京都放送で米團治さんと打ち合わせ
2015/08/17 古田ファン発見!「居島一平さん」
2015/08/18 東大で古代関東の研究例会開催
2015/08/20 『海路』12号「九州の古代官道」を読む
2015/08/21  9/06 東京講演のパワーポイント完成
2015/08/23  9月5日の「武蔵国分寺」現地調査プラン
2015/08/26 『月刊 加工技術』連載コラム「海の正倉院」沖ノ島の金銅製龍頭
2015/08/29  米團治さんからの問い


第1036話 2015/08/27

KBS京都放送でラジオ番組収録

 本日、KBS京都放送のラジオ番組「本日、米團治日和。」(毎週水曜日17:30オンエア)の収録を古田先生、桂米團治さんと行いました。京都御所の西側にあるKBS京都放送局で午後3時から約3時間ほどの収録でしたが、3回に分けてオンエアされるとのことです。
 最初は3人の対談を収録し、その後、不足分や修正部分を米團治さんとわたしの二人で追加収録しました。古田先生は2時間ほど対談され、話題は古田先生の奥様と米朝さんがともに姫路のご出身であったことなどからスタートし、古田先生の初期三部作(『「邪馬台国」はなかった』『失われた九州王朝』『盗まれた神話』)を紹介し、それぞれのテーマに分けて収録されました。オンエアも本ごとの内容に分けて3週にわたるとのことでした。
 米團治さんは古田説を大変よくご存じで、的確な質問を続けられ、古田説のエッセンスを抽出する収録となりました。古田先生もお疲れの様子も見せず、終始なごやかな雰囲気で収録は終了しました。オンエアがとても楽しみです。放送日程が決まりましたら、「洛中洛外日記」でご紹介しますが、残念ながらローカル局ですので、関西地方しか聞けないと思います。

「本日、米團治日和」での紹介です。
2015.09.09 《古田武彦さん登場 @ KBS京都ラジオ》

 「古田史学の会」からは服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集責任者)と会員の茂山憲史さんが写真撮影担当として同行していただきました。その服部さんから、次のメールが届きましたので、ご紹介します。収録スタジオの隣の編集室で見学されていたのですが、収録の雰囲気がよくわかると思います。

桂米團治師匠と記念撮影

左から桂米團治師匠、古田武彦先生、古賀達也、古田光河氏

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【服部さんから「古田史学の会」役員へのメール】

本日の収録には驚きました。

1、米團治さんが、古田史学を完璧に理解されている。その上での、問いかけだから的をいている。
2、古田先生が、2時間、休み無しで熱く語られた。酸素吸入無しに。
3、スタジオ、収録室が全て古田ファンであった。


第1015話 2015/08/04

「還暦」の想い出

 今日は仕事で名古屋に来ています。明日も当地で仕事ですのでホテルに泊まるのですが、明日、わたしは還暦(60歳、「還暦」の正確な定義は本稿末尾の西村注をご参照ください)を迎えます。還暦を迎えるのにふさわしい一日を過ごしたいと考えていますが、この「還暦」の想い出をご紹介します。
 今から29年前、わたしは初めて古田先生にお会いしました。「市民の古代研究会」主催の茨木市での講演会で初めて先生の謦咳に接したのです。
 その年、古田先生の名著『「邪馬台国」はなかった』(角川文庫版)を伏見の書店で偶然見つけ、夜を徹して読み続けました。わたしが真実の古代史を知った瞬間でした。その後、次々と古田先生の著作を買い求め、その日のうちに読破するという日々が続きました。学問とはこのようにするのかという感動に打ち震えながら、この古田武彦という人物に会ってみたいという願望が日増しに高まったのです。
 そうしたとき「市民の古代研究会」という古田先生を支持する研究会の存在を知り、当時、同会事務局長だった藤田友治さん(故人)に電話で入会を申し込みました。そうして古田先生の講演会に参加する機会を得ました。残念ながら講演の内容は全く覚えていませんが、講演後の懇親会の様子は今でも鮮明に記憶しています。
 著書の内容から素晴らしい人物だと思ってはいたのですが、同時に熱狂的なファンに囲まれていましたので、ちょっと用心深く観察していました。懇親会は古田先生の還暦のお祝いも兼ねており、赤い頭巾やちゃんちゃんこが古田先生にプレゼントされ、先生もにこやかに着ておられました。その後、参加者との質疑応答が始まり、初心者のわたしからの低レベルの質問に対しても懇切丁寧に答えられ、本当に「腰が低い」人物であることがわかりました。以来、わたしはこの人を学問の師とすることを決め、今日に至っています。
 わたしが古田先生に初めてお会いしたときの先生の年齢(還暦)を、明日、自分が迎えるのですが、感慨無量というほかありません。未だ先生の足下にも及びませんが、わたしの人生最大の決断は間違っていなかったと深く確信しています。

(西村秀己さんからのご注意〉
 「還暦」の解釈は大いに問題です。古賀さんの生まれた1955年は乙未でこの干支に還ることを「還暦」と言います。従って全ての人は自分の誕生日ではなくその年の「元旦」を迎えた時が還暦になります。この問題は「還暦」だけではなく「古稀」「喜寿」など全てに相当します。


第1010話 2015/07/31

古田武彦著

『古代史をゆるがす 真実への7つの鍵』復刊

 1993年に原書房から刊行された古田先生の著作『古代史をゆるがす — 真実への7つの鍵』が、この度ミネルヴァ書房から復刊されました。
 同書巻頭には美しいカラー写真が収録されており、印象深く記憶に残っている一冊でした。今回、改めて読み直しましたが、7つの重要な論点がそれぞれ独立していながらも、九州王朝という概念を明確に浮かび上がらせるという見事な構成となっています。その7つの論点は次の通りですが、古田史学や九州王朝説が初学者にとっても興味深く理解できる好著です。お持ちでない方は、この機会に是非書架に揃えていただきたい本です。

『古代史をゆるがす 真実への7つの鍵』の論点

第1の鍵 足摺に古代巨石文明があった
第2の鍵 宮殿群跡の発見と邪馬一国
第3の鍵 祝詞が語る九州王朝
第4の鍵 「縄文以前」の神事
第5の鍵 立法を行っていた「筑紫の君」磐井
第6の鍵 「十七条憲法」を作ったのは誰か
第7の鍵 もうひとつの万葉集


第1007話 2015/07/25

古田先生へのご挨拶

 本日、JR桂川駅のイオンモール2階の食堂で、古田先生と「古田史学の会」役員とで昼食をご一緒し、役員交代のご挨拶をしました。「古田史学の会」からは水野顧問・正木事務局長・竹村事務局次長・服部編集責任者とわたしが出席し、古田先生のご子息の古田光河(ふるたこうが)さんも同席されました。2時間ほど懇談したり、古田先生の新発見テーマなどをお聞かせいただき、楽しい昼食会となりました。
 服部さんからは、ミネルヴァ書房から発行予定の『「邪馬台国」論争を超えて -邪馬壹国の歴史学-』(仮称)の企画概要が説明され、古田先生のメッセージ執筆依頼を行いました。
 わたしからは、最近取り組んでいる鞠智城や熊本県あさぎり町才園古墳出土の鍍金鏡について報告し、古田先生のご見解を求めました。先生も関心を持っておられたようで、まず鍍金鏡の実物を見ることが重要とのご指摘をいただきました。
 この8月8日で古田先生は89歳になられますが、研究や執筆意欲は旺盛なご様子でした。足腰が弱られているようで、光河さんが車椅子で先生をご自宅まで送られました。皆で記念写真をとり、お別れの際、先生は車椅子から立ち上がられ、丁重にお辞儀をされました。わたしたちは先生のご長寿を祈り、古田史学の継承・発展を心に誓いました。

古田史学会役員交代挨拶

向かって左から水野前代表、正木事務局長、古賀代表、古田光河氏、服部編集長、中央が古田武彦氏


第961話 2015/05/29

火山列島の歴史学

 今日は博多に向かう新幹線に乗っていますが、平日ですので朝からひっきりなしに国内外のお客様や代理店、そして会社からメールと電話が入ります。毎度のことではありますが、これでは年休を取って休んでいる気がしません。特にベトナム向けの重要案件が進行中ということもあって、そのメール対応が大変です。明日は久留米大学での公開講座があるというのに、ビジネスから古代史への頭の切り替えが進みません。

 今朝、テレビニュースで鹿児島県の口永良部島の火山が噴火したと報道していました。島民の皆さんの安否が気がかりですが、こんなにあちこちで噴火する火山列島に、原発はやっぱり「無理」なのではないかと改めて思いました。世界的に見ても地震頻発地帯にこれほどたくさんの原発を作ったのは我が国くらいでしょう。「電気とお金は今欲しいが、核廃棄物処理と廃炉は数万年先まで子孫の税金で何とかしろ。俺たちは知らん」と考えている現代日本人には「火山列島(で生きるため)の倫理」教育が残念ながらなされていなかったのかもしれません。
 歴史学においても火山列島特有の視点が必要で、古田先生も縄文人が太平洋を渡ったのも、南九州における火山噴火からの船での緊急脱出と関係するのではと指摘されています。そして、その噴火の火山灰の被害から免れた筑紫(北部九州)と出雲に古代文明が残存でき、『古事記』『日本書紀』の神話の舞台になったとされました(南九州の文明は壊滅)。こうした視点で歴史研究を行う「火山列島の歴史学」の確立が期待されます。