古田武彦一覧

第818話 2014/11/08

初参加、八王子セミナー(実況同時記録)

 今日は八王子大学セミナーハウスでの「第11回古代史セミナー・古田武彦先生 を囲んで」に初参加しました。久しぶりにお会いする懐かしい方々と旧交を暖めることができました。古田先生のご子息の古田光河さん(ふるたこうが)や主催されている荻上紘一さん(大妻女子大学・学長)ともご挨拶することができました。ちなみに、光河さんは一目見て、先生のご子息とわかりました。参加者も 100名を超え、盛況です。
 古田先生の講演は「日本古代史新考自由自在・その七」と銘打たれ、資料に記された講演テーマは次の通りです。

(一)松本深志講演(十月四日)の展開
  「深志から始まった九州王朝」
(二)日本考古学界の「通説」について
  福永伸哉講演(2014.4.12)
  『三角縁神獣鏡の研究』大阪大学出版会刊(2005.8.10)(大冊)
(三)トマス・ペインの『コモンセンス』(1776)と“A serious thought ”(1775)辛辣な思想
(四)秋田孝季の思想(寛政原本の「発見」と「未発見」)
(五)宗教と国家の死滅 — 表裏一体の「天国と地獄」「神と悪魔」論
(六)真実と人間の誕生

 講演に先立ち、荻上さんのご挨拶があり、当セミナーが11回を迎えられたことは歴史的なことであり、最近、古田先生の学問が受け入れられつつあり、先生には少しでも長くご研究を続けてほしいと述べられました。司会進行も荻上さんが担当です。
 講演は朝日新聞社OBの茂山さんからのお手紙を古田先生が紹介され、戦後まもなく親鸞研究に入った理由「自分が生きていくうえで、いかに生きるべきか」の説明から始められました。
 次いで、古代史研究(『三国志』倭人伝)に入るきっかけとなった松本清張さんの『陸行水行』や『中央公論』連載の「古代史疑」との出会いを紹介されました。
 次に、大阪大学の福永伸哉さんの「三角縁神獣鏡」魏鏡説(倭国向け特鋳説。だから中国から出土しなくてもよい、とする珍説。これだとA国から出土しなくても何でもA国製とできる「万能の論理」。もちろん学問の「禁じ手」です。古田学派の皆さんは真似しないようにしてください。:古賀注)を紹介され、学問として成り立たないことを批判されました。三角縁神獣鏡は日本製であり、3世紀の日本列島を知る上で貴重な鏡てあるとされました。
 次に、『コモンセンス』の「厳粛な思い」に記された英国による残虐な植民地支配(東インド)を批判した部分を示され、トマス・ペインの思想性を評価されました。更に勝者(連合軍)が敗者(日本)を有罪にした「東京裁判」や靖国神社問題にも触れられました。あわせて、秋田孝季の素晴らしい思想性を評価さ れ、和田家文書が真作であることを強調されました。また、和田家文書の秋田孝季による天地創造についての文とその思想について紹介されました。
 最後に、京都府向日市寺戸の五塚原古墳(全長約90m、前方後円墳)の第5次発掘調査現地説明会資料を示し、古墳の下に弥生時代の何かがあり、それを壊してこの古墳が造られているとのことでした。おそらく、弥生時代の銅鐸による祭祀跡があったのではないかとされました。

 ここで先生がお疲れとのことで、一旦、休憩となりましたので、その間に懐かしい方々にご挨拶まわりしました(まるで古田学派の同窓会のようでした)。

 再開後、最初のテーマは考古学的事実(ピラミッド建設・壊された銅鐸など)の「解釈」(学問の方法)についてでした。天皇陵古墳などの下に何があったか。そこには銅鐸文化の祭祀跡・遺跡があるのではないかと、天皇陵古墳をその下まで発掘する必要性をうったえられました。そ の際、周濠の水も入れ替えて魚が住めるようにきれいにすべきとも述べられました。
 次いで、テーマは神籠石山城へと移り、神籠石山城に囲まれた地こそ、都にふさわしい場所であり、この神籠石山城の分布は九州王朝説でなければ説明できないと指摘されました。
 更にテーマはギリシア神話に及び、太陽神アポロはアテネから北西のオリンポス山に行ったのではなく、オリンポス山の真東に位置するトロイから出発したのではないかとされ、その「トロイ神話」をアテネが取り込み、ギリシア神話として書き換えたのではないかとする仮説を発表されました。これは九州王朝神話を 『日本書紀』が盗用したことと同じ現象です。なお、来年4月にはギリシア旅行が企画されており、古田先生も参加されます(別途紹介予定。平成27年4月1 日~8日、旅行費用約33万円)。
 博多と信州の地を結んでいる歌として、『古今和歌集』巻十七の次の歌を紹介されました。

 「をそくいづる 月にもある哉 あしひきの山のあなたも 惜しむべら也」(877)筑紫太宰府の歌
 「わが心なぐさめかねつ さらしなや をばすて山に てる月を見て」(878)信州の歌

 『隋書』「イ妥国伝」の「有阿蘇山其石無故火起接天」の「火」は阿蘇山による自然の火ではなく(天然の火は「災」と表記 される)、人間が起こす「火」であり、神籠石での祭祀の場の火ではないかとされました。従って、「日出ずる処の天子」とは阿蘇山下の天子、九州王朝の天子 であると主張されました。
 「宗教と国家の死滅」のテーマでは、「天国と地獄」「神と悪魔」は相対概念であるとされ、宗教と国家には誕生と終わりがあるとする秋田孝季の思想を紹介されました。

 ここで質疑応答となり、先の『隋書』の文の後段に、その火を「俗以為異」(俗、もって異となす)と表現されているので、 人間による火ではなく、噴火の火ではないかとする質問が出されました。古田先生は噴火の火ではないと返答されました。この時点で、かなりお疲れのご様子で、心配です。
 邪馬壹国の邪馬はいわゆる「山」のことではなく、「国名」ではないかとの質問に対して、博多湾から筑後にいたる領域名と返答されました(このことは『「邪馬台国」はなかった』で、卑弥呼の居た中心領域の国名は「邪馬」国と既に説明されています:古賀注)

 ここで再度休憩となり、参加者が宿泊施設に入りました。わたしは荷物も少ないので、そのまま会場に残り、この執筆中の「洛中洛外日記」のチェック・校正を行いました。

 質疑応答が再開され、信州の八面大王の安曇野の住みかの名称が「神籠石の岩屋」とされていますが、九州と関係するのかという質問が出されました。古田先生は、九州と長野県に関連する名称と思われると返答。
 この後、以前に出されていた質問(複数)に対して回答されましたが、その中で『隋書』「イ妥国伝」に見える「秦王国」について、信濃のことではないかとする新たなアイデアを紹介されました。『日本書紀』天武紀にある「信濃遷都計画」記事について、九州王朝によるものではないかとされ、「秦王」も「シナノ」の音に近いことなどから、「秦王国」を信濃とする視点を得られたとのことでした。
 前期難波宮九州王朝副都説の是非についての質問に対し、今後検討しなければならない問題と回答されていたのが印象的でした。
 神籠石山城がいつ頃から建設が始まったのかという質問には、倭の五王の時代や多利思北孤の時代には有明海側からの防衛も必要になったと説明されました。
 平将門が神のお告げにより「新王」と称したとされていますが、これも九州王朝に淵源・関係するのではないかという質問に対し、面白いご意見なので深めてほしいと返答されました。
 その後は質問よりも「決意表明」や「意見発表」が続き、いろいろと考えさせられました。というところで、夕食の時間になりました。
 食後に古田先生の控え室にうかがい、『古代に真実を求めて』18集掲載用の古田先生へのインタビュー(古田・家永論争の思い出)の打ち合わせを行いました。光河さんや『古代に真実を求めて』編集責任者の服部静尚さんも同席されました。

 午後7時からは「夜の部」の始まりです。入り口で缶酎ハイが参加者に配られ、いよいよセミナーも佳境に入るのかと思い、 気を引き締めました。各人のデスクの上にはお菓子も用意されており、初参加のわたしには驚くことばかりです。さすがに先生のお話をお酒を飲みながら聞くのは、わたしにはできませんでしたので、缶酎ハイはそのまま持ち帰ることにしました。

 「夜の部」では、倭人伝や親鸞研究についての最新情報の紹介から始められました。そして、秋田孝季の思想(寛政原本の「発見」と「未発見」)をテーマに講演され、和田家文書の寛政原本の調査発見について、現在は絶好のチャンスであると話されました。和田喜八郎さんの祖 父・長作さんが隠した寛政原本がどこかにあるはずで、それら寛政原本の本来の持ち主は総理大臣の安倍さんであると言えないこともないと指摘されました。和田家文書は秋田孝季が書いた「安倍文書」というべきものというのが、その理由です。つまり、三春藩の秋田家(安倍・安藤一族の子孫)が孝季に命じて安倍・ 安藤の歴史を綴らせた文書が「和田家文書」として現在まで伝わっているわけです。
 次のテーマは「紫宸殿」地名。「紫宸殿」「大極殿」などという地名は誰かが勝手につけられるものではないとされ、太宰府や愛媛県にある「紫宸殿」地名も歴史事実(九州王朝の実在)の痕跡とされました。
 「宗教と国家の死滅」をテーマとして、宗教にも国家にも始まりがあり、終わりがあるというのが秋田孝季の思想であり、これは正しいと思うと述べられまし た。そして、原水爆は人間が作ったものであり、国家がこれを使用できると考えられているが、これは間違っていると指摘されました。人間が作った宗教や国家に、原水爆や原発で人間を殺す権限が与えられているとは思えないとされました。もはや人類は戦争をできる時代ではないと主張され、宗教や国家が原水爆や原 発を自由に作ってもよいという思想はもはや時代遅れと述べられました。
 更に先生の思考は深く深く進まれ、地獄に落ちる方法を考えているうちに、天国と地獄、神と悪魔とかの概念は本来同じもの、表裏一体ではないかと考えるようになったとのこと。

 以上で先生の講義は終わり、質疑応答が再開されました。安藤昌益と和田家文書の思想は共通しているように思うが関係はないのかという質問が出され、両者が知り合いであったという直接的な証拠は見ていないが、関係はあると考えられると返答されました。
 炭素同位体年代測定に関する新知見はないかという質問には、稲作の年代測定で博多湾岸や松浦半島が古く、次いで高知県足摺近辺が古く、その後に大和が古いとなっていることが紹介されました。なぜ足摺近辺が古いのか不明とされているが、古田説では足摺が倭人伝に見える侏儒国とされ、このことと無関係ではないと説明されました。

 午後8時30分になり、ようやくセミナーは終了となりました。古田先生がお疲れになられたのではと心配しましたが、無事お開きです。連日の出張で、わたしも疲れましたが、ご高齢の古田先生のお姿には改めて深く感銘しました。
 その後、門限の10時までラウンジで多元的古代研究会の皆さん、古田史学の会・四国や関西の皆さんと古代史論議を続け、とても楽しく貴重な時間を過ごすことができました。文字通り「古代史自由自在」の一日でした。これから、お風呂に入り就寝します。


第812話 2014/10/29

山崎信二さんの「変説」(2)

 このところ山崎信二さんの古代瓦に関する論文などを読んでいるのですが、さすがに瓦の専門家らしく、多くの論文を発表されています。中でも老司式瓦(筑前)と藤原宮式瓦(大和)の作製技法の共通性や変化(板作りから紐作りへ)に着目され、両者の「有機的関連」や「突然の一斉変化」を指摘されたことはプロの考古学者として優れた業績だと思いました。
 その山崎さんの優れた着目点であった老司式と藤原宮式の作製技法の変化の方向が、1995年では「筑前→大和」だったのが、2011年では「大和→筑前」へと、そして先後関係も「老司式が若干はやい」から「ほとんど同時期」へと微妙に「変説」していることを、わたしは指摘したのですが、その間に何があったのでしょうか。その「変説」の一つの背景となったのが学界内の趨勢ではなかったかと推測しています。当問題に関する学界の状況を知る上で参考になっ たのが、岩永省三さんの次の論文でした(インターネットで拝見できます)。

 岩永省三「老司式・鴻臚館式軒瓦出現の背景」
『九州大学総合研究博物館研究報告』No.7 2009年

 この論文には山崎説を含めおそらく学界をリードする瓦の研究者の諸説が紹介されており、学界内の動向や趨勢を知ることが できます。わたしの見るところ、当初は老司1式(観世音寺創建瓦)が藤原宮式より先行するとされていた状況から、近年の研究では岩永さんを含め、老司1式 をより新しく編年しようとする論説が多数を占めてきているようです。こうした学界内の趨勢に山崎さんが影響を受けられたのかもしれません。
 しかし、より本質的な背景として、わたしは太宰府現地の考古学者、井上信正さんの画期的で実証的な新説が学界に激震をもたらしたのではないかと考えてい ます。「洛中洛外日記」でも何度も紹介してきましたが、井上さんは精緻な実測調査により、大宰府政庁2期・観世音寺の主軸と、太宰府条坊の中心軸がずれており、大宰府政庁2期・観世音寺創建よりも条坊都市の方が先に成立したことを明らかにされたのです。おそらくその時間差は数十年以上と思われます。数年の差なら、わざわざ条坊の主軸とずらして政庁や観世音寺を造営する必然性も必要もないからです。この画期的な井上説が発表され始めたのが、ちょうど1995 年から2011年の間なのです。管見では次の井上論文があります。

2001年「大宰府の街区割りと街区成立についての予察」『条里制・古代都市の研究17号』
2008年「大宰府条坊について」『都府楼』40号
2009年「大宰府条坊区画の成立」『考古学ジャーナル』588

 この太宰府条坊が政庁・観世音寺よりも古いという新説は大和朝廷一元史観に激震をもたらしたはずです。それは次の理由からです。

(1)従来の瓦の編年では、観世音寺創建瓦(老司1式)が藤原宮創建瓦よりも古いとされていた。
(2)その観世音寺創建よりも太宰府条坊造営が古いことが井上さんの研究により明らかとなった。
(3)そうなると、従来わが国最初の条坊都市とされてきた「藤原京」よりも、太宰府が日本最古の条坊都市となってしまう。
(4)このことは大和朝廷一元史観ではうまく説明できず、古田武彦の九州王朝説にとって決定的に有利な考古学的根拠となる。

 以上の論理的帰結を理性的で勉強熱心な考古学者なら気づかないはずがありませんし、古田先生の九州王朝説を知らないはず もありません。九州王朝説であれば、九州王朝の首都である太宰府が国内最古の条坊都市であることは当然ですが、大和朝廷一元史観では、「地方都市」の太宰 府が大和の「都」よりもはやく「近代的都市設計」の条坊都市であることは、なんとも説明し難いことなのです。
 そこで考え出されたのが、老司1式瓦の編年を藤原宮式よりも新しくする、せめて同時期にするという「手法」です。しかし厳密に言えば、それでも「問題」 は解決しません。何故なら、観世音寺創建瓦(老司1式)を藤原宮と同時期かやや後に編年しても、その結果できることはせいぜい「藤原京」と太宰府条坊都市の造営を同時期とできる程度なのです。このように、観世音寺よりも太宰府条坊の方が古いという井上信正説は旧来の古代都市編年研究に瀕死の一撃を与えるほ どのインパクトを持っているのです。
 ちなみに、JR九州の駅で配られている観光案内パンフレット(九州歴史資料館監修)などには、太宰府や都府楼の案内文に「7世紀後半」と説明されており、大宰府造営を大宝律令制下の8世紀初頭とする通説とは異なっています。このように地元九州では井上説に立った解説や研究論文が公然と出されているので す。
 しかし、仮に「藤原京」と太宰府条坊都市の造営が同時期としても、やはり大和朝廷一元史観にとって「不都合な事実」であることにはかわりありません。というのも、大和の「都」と「地方都市太宰府」の条坊造営がなぜ同時期なのかという説明が困難なのです。さらに言えば『日本書紀』に「藤原京」と並び立つ太宰府条坊都市造営に関する記事がなぜないのかという説明も困難なのです。
 したがって、こうした無理な説明を強いる「変説」よりも、観世音寺創建(老司1式)の方が藤原宮造営よりも早く、瓦の編年も作製技法の移動も筑前が起点でより早い、すなわち九州王朝の影響が7世紀末に大和へ色濃く及ぶ「突然の一斉変化」こそ九州王朝から大和朝廷への王朝交代の反映とする、古田先生の九州王朝説こそ真実とするのが、学問的論理性というものなのです。
 実は先に紹介した岩永さんの論文にも、7世紀末頃の九州王朝から大和朝廷への王朝交代を「示唆」する指摘があります。それは次の部分です。

 「西海道と畿内との造瓦上の関わりは、7世紀末~8世紀初頭に単発的に生じたもので、ひとたび技術移転が果たされ在地の造営組織が創設され稼動し始めると、観世音寺においても大宰府政庁においても中央からの関与はなくなる。」(p.31)
 岩永省三「老司式・鴻臚館式軒瓦出現の背景」『九州大学総合研究博物館研究報告』No.7 2009年

 西海道(九州王朝)と機内(大和)の造瓦上(作製技法・文様)の関わりが「7世紀末~8世紀初頭に単発的に生じた」というややわかりにくい表現ですが、何度も徐々に筑紫と大和の関わりが生じたのではなく、7世紀末頃に一気に(単発的)起こったとされているのです。これこそ 701年に起こった王朝交代の考古学的痕跡であり、大和朝廷一元史観に立つ考古学者でも、このような痕跡を認めておられ、ややわかりにくい表現で筑紫と大和の7世紀末に発生した「事件」を説明されているのです。
 以上のように、考古学という「理系」の学問分野において、文献史学に先行して九州王朝説を(結果として)「支持」する研究結果が発表されていることに、時代の変化が感じとれるのです。


第801話 2014/10/13

『古田武彦が語る

     多元史観』刊行

 ミネルヴァ書房から古田先生の講演録を編集した『古田武彦が語る多元史観 燎原の火が塗り替える日本史』が刊行されました。「古田史学の会」の友好団体「古田武彦と古代史を研究する会(東京古田会)・多元的古代研究会」編です。古田先生による「はしがき」には編集者平松健氏への謝辞があることから、平松さんが編集を担当されたようです。確かに見事な編集作業であることが、一読して 感じられました。本当に良い仕事をされたものです。わたしからも読者の一人として感謝させていただきたいと思います。
 本書は毎年東京八王子市の大学セミナーハウスで開催されてきた「古代史セミナー」での古田先生の講演と聴講者との質疑応答をテーマごとにまとめられたものです。その講演はコアな古田ファンを対象としたものですから、はっきりいってそう簡単には読めません。本文は500頁に及び、全12章からなる講演録は 古田史学の基礎的理解がなければ深く理解できませんし、最新のアイデア段階の発見から、論証しぬかれた研究まで論多岐にわたってます。しかし、近年の古田先生の思惟の成果が縦横無尽に展開されており、古田史学研究者にとってはアイデアの宝庫であり、未来への研究テーマも指し示されています。
 本年11月に恐らく最後となる「古代史セミナー」が大学セミナーハウスで開催されます。わたしも参加します。今までは仕事の関係で参加できなかったのですが、今回は土日の二日間ということもあって、参加できることになりました。今からゾクゾクするような期待感に包まれています。


第793話 2014/09/27

佐藤優『いま生きる「資本論」』を読む

 最近、佐藤優さんの著書に興味を持ち、『いま生きる「資本論」』(新潮社・2014年7月)を読みました。佐藤さんは同志社大学神学部卒の元外交官で、2002年に背任などの容疑で逮捕され有罪となったことでも有名です。かなりの博覧強記の知識人で、なかなか尊敬できる人物のようです。
 『いま生きる「資本論」』は宇野弘蔵学派の立場からマルクスの『資本論』を講義した記録です。たいへんわかりやすく、かつ広く深い教養が随所に散りばめられた快書でした。わたしは学生時代にマルクス経済学の講義を半年だけ受けましたが、当時、母校(久留米高専)の図書館にはマルクス経済学の書籍は向坂逸郎さんの『マルクス経済学入門』(だったと思う)の1冊しかなく、その本を読んで自習しました。いくら理工系の学校とはいえ、マルクス関連書籍が図書館に 1冊しかなかったというのも驚きですが、下火になっていた学生運動の影響もあり、学生が「左傾化」するのを警戒されていたのかもしれません。
 二十歳前の若造だったころですから、ほとんど深く理解はできませんでしたが、社会の不平等や恐慌・貧困が資本主義という経済システムに原因するという指摘はとても新鮮でした。今回あらためて佐藤さんによる『資本論』解説を読み、年を重ねたこともありますが、学生時代とはかなり違った新鮮さを感じました。 こんなところが古典の魅力なのだと思います。ちなみに『資本論』の発刊は1867年、明治維新の前年です。日本人がちょんまげを結い刀をさしていた時代 に、マルクスはこの名著を書いたのです。これもすごいことですね。ちなみに、古田先生もわたしもマルクス主義者ではありませんが、マルクスを優れた思想家 の一人として尊敬しています。
 『いま生きる「資本論」』に『太平記』について次のような解説がありましたので紹介します。

 「日本でいうと室町より前の文献は、実証できない語り方になっています。室町以降は実証的になる。そんな時代の分水嶺が『太平記』です。『太平記』というのはハイブリッドなのです。現代人に繋がるところもあれば、古の神々の世界に繋がるところもある。(中略)
 一六世紀にフランシスコ・ザビエルをはじめとする宣教師たちが日本へたくさん来ました。あの人たちは『太平記』を読んで、日本語を勉強していた。マカオで日本語版の『太平記』が印刷されていたんです。(中略)『源氏物語』や『平家物語』の日本語では通用しないけれども、『太平記』の日本語はそのまま使えたから、宣教師たちはこの本で勉強したのです。」(114頁)

 わたしは始めて知るエピソードです。古代史研究で『平家物語』は読みましたが、『太平記』はまだ読んだことがありません。大著ですが、時間が許せば読んでみたくなりました。


第780話 2014/09/06

奴(な)国か奴(ぬ)国か

「古田史学の会」会員の中村通敏さん(福岡市在住)から、ご著書『奴国がわかれば「邪馬台国」が見える』 (海鳥社、2014年9月)が送られてきました。古田先生の邪馬壹国説の骨子がわかりやすく紹介されており、古田史学入門書にもなっていますが、著者独自の仮説(奴国の比定地など)も提示されており、古田先生に敬意を払いながらも「師の説にななづみそ」を実践された古田学派の研究者らしい好著です。
また、志賀島の金印の出自に関する古田先生の考察など、興味深いテーマも取り扱われています。中でもわたしが注目したのが、『三国志』倭人伝に見える国名の「奴国」の「奴」を「な」とするのは誤りであり、「ぬ」である可能性が高いことを論じられたことです。わたしも「奴国」や金印の「委奴国」の「奴」の 当時の発音は「ぬ」か「の」、あるいはその中間の発音と考えています。通説の「な」とする理解が成立困難であることは、古田先生も指摘されてきたところです。中村さんはこの点でも、独自の根拠を示しておられ、説得力を感じました。
なお、奴国の位置については『古代に真実を求めて』17集にも中村稿とともに正木稿が掲載されており、両者の説を読み比べることにより、倭人伝理解が深 まります。このところ古田学派による著書の出版が続いていますが、中村さんの『奴国がわかれば「邪馬台国」が見える』はお勧めの一冊です。

インターネット事務局案内

 中村通敏(棟上寅七)さんが主宰するホームページ(新しい歴史教科書(古代史)研究会)と『奴国がわかれば「邪馬台国」が見える』中村通敏著のPRです。

棟上寅七の古代史本批評 へ


第779話 2014/09/06

古田武彦著『古代の霧の中から』復刊

 古田武彦著『古代の霧の中から — 出雲王朝から九州王朝へ』がミネルヴァ書房から復刊されました。同書は1985年に徳間書店から出版されたもので、『市民の古代』などに発表された論文が収録されています。各章は次の通りです。

序章  現行の教科書に問う
第一章 古代出雲の新発見
第二章 卑弥呼と蝦夷
第三章 画期に立つ好太王碑
第四章 筑紫舞と九州王朝
第五章 最新の諸問題について
日本の生きた歴史(二十二)
歴史の道

 「日本の生きた歴史(二十二)」と「歴史の道」は復刊に伴って新たに書き下ろされたものです。本書の性格は「はしがき--復刊にあたって」で古田先生が次のように書かれていますように、「異色の一書」です。

 「異色の一書だ。最初の出版の時から、“濃密な”内容をもっていた。「学問の成立」とその発展が具体例でしめされていた。今回のミネルヴァ書房復刊本では、新稿「歴史の道」を加え、わたしにとって決定的な意味を持つ本となった。幸せである。」

 今回、改めて読み直してみて、面白い問題に気づきました。第五章にある「発掘が裏付ける『大津の宮』」において、大津市穴太2丁目から出土した「穴太廃寺」について、次のような考察が示されています。

 「これほどの寺院跡、法隆寺級の大寺院跡が出土したにもかかわらず、その存在事実を示す文献記載のないことに不審がもたれている、という(朝日新聞〔大阪〕、一九八四・七・六)。」(252頁)
 「これがもし、真に『寺院』であったとしたら、『日本書紀』にその記載のないのは、不可解だ。その、いわゆる『寺院』は、書紀の編者たちが知悉していたはずだ。そしてその存在や寺名を、“消し去る”べき必要が、彼等にあったとは、全く信じえないのである。」(253頁)

 穴太廃寺遺跡を古田先生は天智天皇が遷都した「近江宮」と解され、大津市錦織から出土した朝堂院様式の宮殿を、同じく天智紀に見える「新宮」とされたのです。大変興味深い考察ですが、穴太廃寺遺跡はその後の調査から、やはり寺院跡と見なされています。しかし、古田先生の抱かれた疑問「何故、これほどの大寺院が『日本書紀』に記載されていないのか」という視点は有効です。しかも、大津宮遺跡(大津市錦織)の真北から出土した 「南滋賀廃寺」も、やはり『日本書紀』に記載されていません。
 古田先生が疑問とされた『日本書紀』の「沈黙」こそ、わたしが提案している仮説「九州王朝の近江遷都」の傍証となるのではないでしょうか。大津宮が九州王朝による宮殿であれば、同時期に建立された九州王朝による大寺院が『日本書紀』から“消し去られた”理由も説明できそうです。
 『古代の霧の中から』の復刊により、当初は気づかなかった問題が「発見」できました。他にも同様の「発見」があるかもしれませんので、しっかりと再々読しようと思います。


第778話 2014/09/05

「古田武彦先生講演録集」を読む

 「古田史学の会」の友好団体「多元的古代研究会」(安藤哲朗会長)の事務局長の和田昌美さんから、同会の発足20周年記念に出版された「古田武彦先生講演録集」が送られてきました。同講演録には古田先生の三つの記念講演が収録されており、いずれも古田先生にとっても記念すべき次の講演の記録です。

「信州の古代文明と歴史学の未来」1979年9月13日、松本深志高校にて、「古田武彦と古代史を研究する会」発行の同会の冊子より再録

記念講話「岡田先生と深志」1990年、松本深志高校にて、同校発行校内誌より再録

記念講演「筑紫舞と九州王朝」2014年3月2日、アクロス福岡イベントホール、宮地嶽神社主催「筑紫舞再興三十周年記念イベント」にて

 いずれも古田先生にとっても記念すべき講演で、とてもよい出版企画となっています。なかでも1990年の「岡田先生と深志」は感慨深く拝読しました。古田先生にとって歴史研究とは何かというテーマにもふれられており、わたしも若い頃から何度も先生からお聞きした次のような言葉です。

 「歴史学の目標は私は予言にあると思います。何故かというと、結局、過去を勉強する、何のために--骨董いじりのような過去を勉強するか、言うまでもなく、人類の未来を知りたいから過去を勉強するわけです。現在という一点に立って、未来を知るためには過去を知ることによって過去から現在へ延長させると、その行く先の未来がどの方向に行くかが分ってくるわけです。その意味で歴史を学ぶ目標は、未来を知るためだと、私はこの点は一度も疑ったことはありません。」(78頁)

 「歴史学は人類の未来のための学問である」この言葉は古田先生から学んだ歴史研究の原点です。すべての古田学派や古田ファン の皆さんにも是非とも知っていただきたいと願っています。そういう意味でも、「多元的古代研究会」の20周年記念出版事業にふさわしい冊子でした。ご恵送たまわり、ありがとうございます。


第770話 2014/08/21

『古代に真実を求めて』17集が発刊

 昨日、明石書店から出来上がったばかりの『古代に真実を求めて』17集(2800円+税)が一足早く送られて来ました。古田先生の米寿記念特集号にふさわしく、表紙には古田先生の写真と「真実の歴史を語れ」というタイトルとともに次の先生の言葉が掲載されています。

 「あのユダヤ民族が全世界に四散させられた悲運の中から、数多くの人類の天才、アインシュタインたちを生み出したように、ヒロシマやナガサキ、そしてフクシマの逆境の中で、この日本列島から人類の究極の誇りとしての真実、あらゆるイデオロギーに組みせず、真実のために真実を求める人々が生まれ出ることをわたしは片時も疑ったことはない。」

 この本を手に取った全ての古田学派研究者や古田ファンの皆さんとともに、この先生の言葉を魂に刻み込んで、これからも生きていきたいと思います。
 同書には古田先生の米寿のお祝いの言葉や、先生の講演録、優れた古田学派学究の論文が収録されています。ぜひ多くの皆さんに読んでいただきたいと願っています。なお、17集は2013年度賛助会員(会費5000円)に1冊送付します。2014年度賛助会員には来春発行予定の18集を進呈します。目次は次 の通りです。

『古代に真実を求めて』第17集 目次

〔巻頭言〕会員論集・第十七集発刊に当たって 古田史学の会 代表 水野孝夫

○ I 米寿によせて
米寿に臨んで — 歴史と学問の方法 古田武彦
論理の導くところに「筑紫時代」あり 新東方史学会 会長 荻上紘一
謹賀古田先生米寿 多元的古代研究会 会長 安藤哲朗
古田先生の米寿にあたり 古田武彦と古代史を研究する会(東京古田会) 会長 藤沢 徹
青春の「古田屋先生」 古田史学の会・まつもと 北村明也
米寿のお祝い 古田史学の会・北海道 代表 今井俊圀
古田武彦先生の米寿の記念に添えて 古田史学の会・仙台 原 廣通
古田先生の米寿を心からお祝い申し上げます 古田史学の会・東海 会長 竹内 強
古田武彦先生が米寿をお迎えになられたことを衷心よりお祝い申し上げます 古田史学の会・四国 名誉会長 竹田 覚
古田武彦先生の米寿を祝う 古田史学の会・四国 会長 阿部誠一

○II 特別掲載
〔講演録〕古田史学の会・新年賀詞交換会(2013年1月12日 大阪府立大学i-siteなんば)
「邪馬壹国」の本質と史料批判 古田武彦
〔講演録〕古田史学の会・新年賀詞交換会(2014年1月11日 大阪府立大学i-siteなんば)
歴史の中の再認識 — 論理の導くところへ行こうではないか。たとえそれがいずこに至ろうとも 古田武彦

○III 研究論文
聖徳太子の伝記の中の九州年号 岡下英男
邪馬壹国の所在と魏使の行程 — 『魏志倭人伝』の里程・里数は正しかった 川西市 正木裕
奴国はどこに 中村通敏
須恵器編年と前期難波宮 — 白石太一郎氏の提起を考える 八尾市 服部静尚
天武天皇の謎 — 斉明天皇と天武天皇は果たして親子か 松山市 合田洋一
歴史概念としての「東夷」について 張莉・出野正
『赤渕神社縁起』の史料批判 京都市 古賀達也
白雉改元の宮殿 — 「賀正礼」の史料批判 古賀達也
「廣瀬」「龍田」記事について — 「灌仏会」、「盂蘭盆会」との関係において 札幌市 阿部周一

○IV 付録 会則/原稿募集要項/他
古田史学の会・会則
「古田史学の会」全国世話人・地域の会 名簿
第18集投稿募集要項
古田史学の会 会員募集
編集後記(古谷弘美)


第760話 2014/08/06

研究者、受難の時代

 昨日、理研の笹井副センター長が自殺するという痛ましい事件が、とうとう発生してしまいました。「とうとう」と記したのは、こうした事態がいずれ引き起こされるのではないかと、わたしは危惧していたからです。いったい笹井さんは死ななければならないようなことをしたのでしょうか。たかだかイギリスの商業誌(「ネイチャー」は学会誌ではありません)に論文を一つ発表しただけで、なぜあそこまで叩きに叩き、死ぬまで追いつめる必要があったのでしょう か。いつから日本社会は法治国家ではなく「集団でリンチ」する国になったのでしょうか。
 NHKは小保方さんを女子トイレまで追いかけ回し、全治二週間の傷害を負わせ、小保方さん笹井さんを特別番組(クローズアップ現代)で犯人扱いし、死ぬまでバッシングを続けたのです。この際、NHKは「日本犯罪者協会」と名称を変えるべきでしょう。
 例によってNHKの意に添ったテレビに出たがる御用学者を使い、一方的な「解説」をさせ、学問的に決着が付いていない研究(STAP細胞・現象)に対して非中立的な報道を続けました。これは明らかに放送法第4条違反です。

放送法
(国内放送等の放送番組の編集等)
第四条  放送事業者は、国内放送及び内外放送(以下「国内放送等」という。)の放送番組の編集に当たっては、次の各号の定めるところによらなければならない。
一  公安及び善良な風俗を害しないこと。
二  政治的に公平であること。
三  報道は事実をまげないですること。
四  意見が対立している問題については、できるだけ多くの角度から論点を明らかにすること。

 NHKは放送法違反の報道や番組をこれまでも何度も放送してきました。和田家文書偽作キャンペーンのときもそうでした。古田先生と安本美典氏の討論番組で、安本氏にVTRの使用や多くの時間配分を行うなど、明らかにアンフェアな番組を放送したのです。このときはさすがにNHK関係者からも非難の声があがりました。
 今回は、優秀な研究者を自殺するまで、半年間にわたり叩き続けたのです。小保方さんにしても発表した論文中の80枚近くの写真うち、3枚に悪意のない過誤があったにすぎず、しかも正しい写真は存在し、結論にも影響しないというものでした。それを「研究不正」などと称してバッシングを続け、女子トイレまで追いかけ回しました。その論文を指導した笹井さんを死ぬまで追いつめ続けました。
 日本社会は放送局(特にNHK)や新聞社(特に毎日新聞)、週刊誌、御用評論家らが白昼堂々と何も犯罪を犯していない個人を「集団でリンチ」する社会になってしまいました。研究者受難の国、受難の時代です。安倍総理の言う「法による支配」はウソだったのでしょうか。「技術立国」など今後は望むべくもない でしょう。


第745話 2014/07/13

復刻『古代は輝いていた III』

 ミネルヴァ書房より古田先生の『古代は輝いていた III 』が復刻されました。これで同シリーズ全三巻の復刻が完結しました。同書は九州王朝の輝ける時代と滅亡の時代、6~7世紀が対象です。わたしの研究テーマ の一つである「九州年号」の時代ですので、今回読み直してみて、古田先生の研究の深さと広さを再認識でき、とても触発されました。
 7世紀末には大和朝廷との王朝交代の時期を迎えますので、九州王朝研究にとってもスリリングなテーマが続出します。また、第三部にある「出現した出雲の金石文」で取り上げられた岡田山1号墳出土の鉄刀銘文「各田卩臣」(額田部臣)の「臣」に注目された論稿は、列島内に実在した多元的王朝(九州王朝、出雲王朝、関東王朝、近畿天皇家)や「臣」の痕跡を改めて明確にされたものです。
 九州王朝の輝ける天子、多利思北孤の活躍など同書は九州王朝史研究にとって最も重要な一冊です。皆さんに強くお勧めします。


第744話 2014/07/13

「邪馬台国」畿内説は学説に非ず(7)

 この「邪馬台国」畿内説は学説に非ずシリーズも一応今回で最後になりますが、『三国志』倭人伝に記された女王国(邪馬壹国)の所在地を考える上で、倭国の「文字文化」という視点を紹介したいと思います。
 倭人伝には次のような記事が見え、この時代既に倭国は文字による外交や政治を行っていたことがうかがえます。

 「文書・賜遣の物を伝送して女王に詣らしめ」
 「詔書して倭の女王に報じていわく、親魏倭王卑弥呼に制詔す。」
 「今汝を以て親魏倭王となし、金印紫綬を仮し」
 「銀印青綬を仮し」
 「詔書・印綬を奉じて、倭国に詣り、倭王に拝仮し、ならびに詔をもたらし」
 「倭王、使によって上表し、詔恩を答謝す。」
 「因って詔書・黄幢をもたらし、難升米に拝仮せしめ、檄を為(つく)りてこれを告喩す。」
 「檄を以て壹与を告喩す。」

 以上のように倭人伝には繰り返し中国から「詔・詔書」が出され、「印綬」が下賜されたことが記され、それに対して倭国か らは「上表」文が出されていることがわかります。従って、弥生時代の倭国は詔書や印に記された文字を理解し、上表文を書くこともできたのです。おそらく日本列島内で最も早く文字(漢字)を受容し、外交・政治に利用していたことを疑えません。従って、日本列島内で弥生時代の遺跡や遺物から最も「文字」の痕跡 が出現する地域が女王国(邪馬壹国)の最有力候補と考えるのが、理性的・学問的態度であり、学問的仮説「学説」に値します。そうした地域はどこでしょう か。やはり、北部九州・糸島博多湾岸(筑前中域)なのです。
 筑前中域には次のような「文字」受容の痕跡である遺物が出土しています。

 志賀島の金印「漢委奴国王」(57年)
 室見川の銘版「高暘左 王作永宮齊鬲 延光四年五」(125年)
 井原・平原出土の銘文を持つ漢式鏡多数

 これらに代表されるように、日本列島内の弥生遺跡中、最も濃厚な「文字」の痕跡を有すのは糸島博多湾岸(筑前中域)なのです。この地域を邪馬壹国に比定せずに、他のどこに文字による外交・政治を行った中心王国があったというのでしょうか。
 最後に、「邪馬台国」畿内説論者をはじめとする筑前中域説以外の考古学者へ発せられた古田先生の次の一文を紹介して、本シリーズを締めくくります。

 あの筑前中域の出土物、その質量ともの豊富さ、多様さは、日本列島の全弥生遺跡中、空前絶後だ。そして倭人伝に記述された「もの」と驚くほどピッタリ一致して齟齬をもたなかったのである。
  (中略)
 そうすればわたしは、その“信念の人”の前に、静かに次の言葉を呈しよう。“あなたのは、考古学という科学ではない。考古学という「神学」にすぎぬ”と。
 (古田武彦『ここに古代王朝ありき』朝日新聞社、86頁)


第736話 2014/06/28

若き親鸞を失ったであろう

 西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人、高松市)の呼びかけで高松市在住の古田史学の会・会員による月例会が企画されているとのことで、先日、四国出張のおり当地の会員さんにお会いし、夕食をご一緒させていただきました。
 そのときに「古田史学の会」や古田学派からの一元史観への厳しい批判や態度などが話題にのぼりました。わたしは、古田史学を学ぶ覚悟として、次のエピ ソードを紹介しました。昭和薬科大学諏訪校舎で開催された「邪馬台国」徹底論争シンポジウムでのことで、司会をされていた山田宗睦さんから次のような発言がありました。

 「古田さんが孤立している一つの原因は、論争的言辞の過剰にある。私はそう見ています。」

 山田さんは古田先生のことを思っての発言でしたが、それに対して古田先生は次のように答えられたのです。

 「山田さんの前では面はゆいんですが、ソクラテスが周辺から注目されるわけですね。『あなたは露骨に刺激的なことを言い過ぎる』と。だから憎まれて死刑になりそうになったのだと。もっとうまくやりなさい、と。ソクラテスは、いや、私はもう老人だと。こんな死を前にした老人が、なんで死を恐れる必要があろうか、と言って拒絶するわけですね。そして見事に死刑になって死んでいくわけです。(中略)
 同じ例は日本でもあります。法然が晩年に、門弟の中の長老から諫められるわけです。『あなたは専修念仏ということを言って、朝廷や貴族から憎まれる。露骨に言い過ぎる。もっと表面は旧仏教なみの穏やかな、模糊としたやり方にしておいて、内々で専修念仏を我々だけでやるようにしましょう。そうしてほしい』と。法然のためを思って言うんです。すると、いつもは穏やかな法然が断乎、その時はノウ、と拒絶するわけです。それはできないと。たとえ首を斬られても、 専修念仏をみんなの前で今まで通り言い続けます、と言うんですね。おそらくあの時、長老はじめ弟子たちは辟易したと思うんです。せっかく法然先生のことを思って私たち言ったのに、しょうもない、やっぱり性格というものは直らないなあと。
 しかし、私は思うんですが、あそこで、もし法然が長老の意見を取り入れて、穏健、ほのめかしの法然になっていたら、親鸞を失ったと思います。若き親鸞は去って行ったと思います。私はあの法然が正しかったと思っているわけです。」(『「邪馬台国」徹底論争』第2巻(東方史学会/古田武彦編。新泉社、 1992年)104頁「ソクラテスと法然の場合」に収録)

 このときの古田先生の発言を、わたしは運営協力者の一人(市民の古代研究会・事務局長)として、感動に震えながら聞いていました。古田先生の発言は表面的には山田さんへの返答だったのですが、その実、会場に来ていた多くの古田学派への強烈なメッセージだったのです。「若き『親鸞』よ、出よ」というわたしたちへの呼びかけだったと私は受け止めたのです。このとき30歳代半ばだったわたしは、古田先生を支持し古田史学に半生を捧げる覚悟を決めました。 しかし、ちようどその頃勃発した和田家文書偽作キャンペーンと古田バッシングの嵐により、会場に来ていた「兄弟子」たちの少なくない人々は、その後、古田先生のもとを去りました。
 「若き親鸞を失ったであろう」という先生の言葉は、今でも昨日のことのようにはっきりと覚えています。あのときから四半世紀がたちましたが、この「古田史学を学ぶ覚悟」は、わたしたち「古田史学の会」に今も脈打っているのです。