古田武彦一覧

第724話 2014/06/11

「歴史秘話ヒストリア」の中の古田先生

 「洛中洛外日記」720話や721話において、NHK「歴史秘話ヒストリア」での「邪馬台国」纒向遷都説やNHKの放送姿勢を批判しましたが、同番組に古田先生がちらっと登場されたことに気づかれたでしょうか。
 番組冒頭で「邪馬台国」所在地論争に九州説と機内説があると紹介し、それぞれの論者と思われる人物写真が瞬間でしたが一斉に掲載されました。その九州説論者と思われる写真の一枚に古田先生そっくりの写真があったのです。しかし短時間でしたのでしっかりと確認できませんでした。出張先から帰宅したら、水野代表から同番組の再放送が10日の午前0時代にあるとメールが来ていましたので、水野さんらに電話で古田先生の写真が出たように思うが、間違いないか確認しました。残念ながらどなたも気づかれていなかったので、自宅で再放送をビデオ収録し、今朝確認したところ、やはり古田先生でした。古田先生と面識がある 妻にも確認してもらったところ、間違いないとのこと。見るところ、先生50歳頃の写真と思われました。他にも森浩一さんや松本清張さんの写真も見え、いずれも若い頃の写真でしたから、NHKの意図的な写真選択と思われました。
 ということは同番組を制作したNHKスタッフは古田先生や古田説を知っていたことは確かです。とすれば、倭人伝には「邪馬台国」などという国名記事はな く、原文は「邪馬壹国」(やまいちこく)であることも知っているはずです。従って、NHKは知っていながら史料事実とは異なる虚偽説に基づいて番組を制作し放送したことは明白です。これは明らかに「放送法」第4条に違反しています。同4条は次の通りです。

放送法
(国内放送等の放送番組の編集等)
第四条  放送事業者は、国内放送及び内外放送(以下「国内放送等」という。)の放送番組の編集に当たつては、次の各号の定めるところによらなければならない。
一  公安及び善良な風俗を害しないこと。
二  政治的に公平であること。
三  報道は事実をまげないですること。
四  意見が対立している問題については、できるだけ多くの角度から論点を明らかにすること。

 今回のNHKの「歴史秘話ヒストリア」は第四条三項と四項に違反しています。『三国志』倭人伝には「邪馬壹国」(やまいちこく)とある史料事実をまげて、「邪馬台国」と表記したり「ヤマタイコク」とナレーションしました。これは三項違反です。
 古田先生の写真まで掲載しながら、原文通り「邪馬壹国」が正しいとする有名な古田説があるにもかかわらず、「なかった」ことにして番組では一切触れられませんでした。これは四項に違反しています。
 それにしてもNHKは御用学者(福島原発は安全に停止説。健康に影響ない説)や虚偽説(ヤマタイコク説)が大好きな放送局のようです。みなさんもこれからNHKの番組や報道ニュースを見るときは、放送法第四条を意識して見られてはいかがでしょうか。


第716話 2014/05/30

吉野ヶ里遺跡の「ひみか」

 「洛中洛外日記」698話「梅花香る邪馬壹国の旅」で、古賀市立歴史資料館では「邪馬台国」の「台」の字が古田説に従って「壹」の字に貼り替えて展示されていることを紹介しましたが、合田洋一さん(古田史学の会・四国、事務局長)から再び「朗報」が届きました。
 「古田史学の会・四国」会員の井上在身(のぶみ)さん(高松市)が、3月に佐賀県吉野ヶ里遺跡を訪問されたとき、遺跡のマスコットキャラクターの絵が各所に掲示されており、その名前が「ひみか」と表記されていたとのことなのです。送っていただいた写真を見ても、はっきりと「ひみか」「HIMIKA」と表 記されています。たとえばJR「吉野ヶ里公園駅」への大きな案内板にも、古代人の衣装を着た「マスコットキャラクター ひみか」と説明された手を振る男の 子の絵が描かれています。公園内の各所にも同様のマスコットキャラクターの絵が描かれており、「ひみか HIMIKA」とあります。
 『三国志』倭人伝に記された倭国の女王「卑弥呼」は「ひみこ」と訓まれてきましたが、古田先生は緻密な倭人伝研究や現地伝承(筑後国風土記逸文のミカヨリ姫説話)の分析により、「ひみか」と訓む新説を発表されました(『古代は輝いていたⅠ』1984年刊、『よみがえる卑弥呼』1992年刊)。すなわち、 吉野ヶ里遺跡では従来説の「ひみこ」ではなく、古田説の「ひみか」をマスコットの名前にふさわしいと考え、採用されていたのです。このように古田史学(九 州王朝説・邪馬壹国説・ひみか説等)が九州王朝の故地では確実に公の場でも浸透しているのです。ちなみに井上さんが撮られた写真によれば、吉野ヶ里遺跡の 解説掲示板には四カ国語(日本語・英語・中国語・韓国語)が使用されており、マスコットキャラクターを通じて世界へ「ひみか HIMIKA」が紹介されて いることがわかります。
 日本を代表する弥生時代最大規模の遺跡公園「吉野ヶ里」のマスコットキャラクターの名前に古田説「ひみか」が採用されたことについて、その経緯をインターネットで調べてみました。「吉野ヶ里歴史公園」のHPによりますと、マスコットの命名にあたり、一般公募が行われ、その中から「ひみか」が採用された とのことです。命名は平成10年(1998)に行われたとありますから、古田先生による「ひみか」説の発表以後です。説明では吉野ヶ里遺跡がある3町村 (東背振村・三田川町・神崎町。いずれも当時の地名)の最初の字をとってネーミングしたとのこと。偶然の一致とはいえ、「ひみか」の名称で応募した人の中 には、おそらく古田説の「ひみか」をご存じだった方もおられたのではないかと思います。
 吉野ヶ里遺跡のような「施設」は東京ディズニーランドなどのようにアトラクションや大型イベントを常時開催できませんし、その施設性格から修学旅行客や青少年の見学者、そして歴史好きの高齢者が主たるターゲット顧客となります。従って、いずれもリピーターにはなりにくく、おそらく1回きりの顧客が大半でしょう。これでは開園当初は物珍しさも手伝って、一定の集客が期待できますが、結局、時間とともに来園者も減少を続け、赤字運営に転落し、例外なく公的資 金(税金)の投入ということに落ち着きます。まともな経営者であれば、少なくともそのようなシナリオを想定し、事前に対策を考えます。
 そこで集客力アップのための様々なアイデアが「吉野ヶ里歴史公園」でも検討されたはずです。当然のこととして「吉野ヶ里歴史公園」もプロのマーケターが検討を重ねたことでしょう。そして手っ取り早い方法として、マスコットキャラクターを作り、関連グッズを販売し、「ゆるキャラ」としてデビューさせることぐらいは、安易ではありますが低コストで比較的効果的な対策として実施するでしょう。そして、吉野ヶ里遺跡にふさわしい古代人のマスコット、しかも「倭人 伝」で有名な「卑弥呼」などを模したキャラクターを造るというアイデアはすぐに思いついたはずです。
 次いで、そのマスコットのネーミングを行いますが、そこで重要なのが「商標権」などを侵害しないようにすることです。キャラクターグッズ販売も当然想定されますから、このネーミングは極めて重要です。恐らく、当初は「ひみこ」が一案として俎上に上がったとは思いますが、ご存じのように「ひみこ」はあまりにも有名な名前ですから、日本各地にある「邪馬台国」関連施設のお土産などで「商標権」が既に成立している可能性があります。少なくとも、様々な法的制約を受けるリスクを避けられないでしょう。他地域との差別化も難しそうです。
 こうした問題をも想定して「吉野ヶ里歴史公園」の担当者は公募による多くの候補の中から「ひみか」を採用することにしたはずです。この名称「ひみか」は 商標権などの問題をクリアしただけでなく、現在の女の子の名前に多用されている「きらきらネーム」の「○○カ」「☆☆ナ」にも対応し、「△△コ」たとえば 「ヒミコ」や「タケヒコ」よりも現代風です。主要ターゲット顧客である子供たちやそのお母さんたちにも受けがいいと思われます。
 ところが次に問題となるのが、結果として古田説「ひみか」と同じ名称を採用することへの抵抗や懸念が、今度は歴史学関係者(学芸員や学者)から出された はずです。少なくとも真剣に検討されたことをわたしは疑えません。古田説(邪馬壹国説・九州王朝説)を無視すること、「なかった」ことにするのは古代史学 界の暗黙のルールですから、一元史観の研究者にとっては自分が古田説支持者と見られかねない名称「ひみか」に賛成することには相当の躊躇があったはずで す。
 しかし、現実には「ひみか」が採用されたことから、そうした抵抗や懸念を押し切って決めた事情があったものと推測します。ただ、よくある手法として「一 般公募」の形式をとって、「古田説採用」への批判をかわすというのもリスクヘッジになったでしょう。また、「ひみか」と命名されたマスコットキャラクター は「男の子」ですから、女王(女性)の卑弥呼(ひみか)とは直接関係ない、という言い逃れもできそうです。ちなみに「女の子(妹)」の名前は「やよい」 ちゃんとのことです。ビジネス的にも「学閥」的にも、よく練られたネーミングだと思います。
 佐賀県や「吉野ヶ里歴史公園」の関係者にお会いする機会があれば、ネーミングの経緯などについてうかがってみたいものです。そして何よりも、わたしも久しぶりに「吉野ヶ里公園」に行ってみたいと思いました。吉野ヶ里遺跡にはわ
たしは三十代の頃、古田先生と訪れて以来行っていません。当時はまだ発掘中でしたが、古田先生の来訪を知った当地の学芸員の方々から歓迎され、発掘現場のすぐ側まで案内していただきました。当時から、古代史学界よりも考古学界の方が、古田先生や古田説に好意的でした。吉本隆明さんも「わたしが知っている若手の考古学者の半分は古田説支持者です」と言っておられたそうですから、より 「理系」に近い考古学者の方が古田説を正しく評価できる人が多いのでしょうね。


第713話 2014/05/24

古田武彦『古代は輝いていたII』復刊

 「洛中洛外日記」693話で紹介しました『古代は輝いていた I』に続いて『古代は輝いていたII』がミネルヴァ書房より復刊されました。同書は古田先生による九州王朝通史全3冊の2冊目ですが、副題に「日本列島の 大王たち」とあるように、古田史学の中でも「多元史観」を理解する上で重要な著作です。
 九州王朝以外にも銅鐸国家、関東王朝、近畿天皇家などが著述されており、古代日本列島における多元的国家の成立が解説されています。九州王朝は「倭の五王(『宋書』倭国伝)」時代を中心にその歴史が解説されています。
 巻末には松本郁子さんによる「第10回古代史セミナー~古田武彦先生を囲んで~日本古代史新考 自由自在(その6)」(2013年11月)の「実施報告」が収録されています。気鋭の研究者である松本さんならではの見事な解説です。セミナーの様子や古田先生の直近の研究動向などを知ることができます。ご一読をお勧めします。


第698話 2014/04/23

「梅花香る邪馬壹国の旅」

 松浦秀人さん(古田史学の会・四国)から素敵な写真付きの旅行記が送られてきました。「古田史学の会・四国」福岡旅行(2/28~3/03)の記録です。本ホームページに「史跡探訪と講演会参加 梅花香る邪馬壹国の旅」として掲載していますので、是非ご覧ください。

 古田先生の福岡講演や宮地嶽神社神官による筑紫舞を中心に、水城・大宰府政庁跡・太宰府天満宮・観世音寺・宮地嶽神社や九州国立博物館、九州歴史資料館、古賀市立歴史資料館訪問の写真などが掲載されています。中でも、古賀市立歴史資料館で、「邪馬台国」の「台」の字が「壹」の字に貼り替えられた展示を「発見」されたことは感動的でした。同資料館の判断で、『三国志』原文を改訂した従来説(邪馬台国)を否定し、『三国志』原文の「邪馬壹国」が正しいとする古田説を採用した痕跡だからです。さすがは「九州王朝」のお膝元だけあって、古田史学・多元史観は公的な資料館でも着々と受け入れられていることが わかります。

 古田史学・多元史観の夜明けは、わたしたち古田学派が思っているよりも早いのかもしれません。全国の古田ファンのみなさん、「古田史学の会」会員のみなさん、古田学派研究者のみなさん、志と力をあわせて前進しましょう。わたしたち「古田史学の会」はその先頭に立つ決意です。


第697話 2014/04/22

『古代に真実を求めて』17集の採用稿

 発行が遅れています『古代に真実を求めて』第17集(2013年度賛助会員に進呈)ですが、掲載される論文等についてご報告します。同号は古田先生の米寿記念と「古田史学の会」創立20周年記念号となります。友好団体や「古田史学の会」地域の会からの米寿のお祝辞なども掲載させていただきます。鋭意、編集作業中ですので、申し訳ありませんが、今しばらくお待ちください。発行時期が決まりましたらご報告します。

○巻頭言 古田史学の会・代表 水野孝夫

○古田先生からのメッセージ

○古田先生米寿の祝辞

○古田武彦氏講演録
二〇一三年一月十二日 新年賀詞交換会
 「邪馬壹国」の本質と史料批判
二〇一四年一月一一日 古田史学新年賀詞交換会
 歴史のなかの再認識
 論理の導くところへ行こうではないか。たとえそれがいずこに至ろうとも

○会員論文
聖徳太子の伝記のなかの九州年号  岡下英男
邪馬壹国の所在と魏使の行程  正木 裕
奴国はどこに  中村通敏
須恵器編年と前期難波宮  服部静尚
天武天皇の謎  合田洋一
歴史的概念としての「東夷」について  張莉・出野 正
赤淵神社の史料批判  古賀達也
白雉改元の宮殿  古賀達也
「広瀬」「龍田」記事について  阿部周一

○会則・役員名簿・地域の会紹介

○原稿募集・編集後記


第693話 2014/04/13

古田武彦『古代は輝いていた I』復刊

 ミネルヴァ書房から古田先生の『古代は輝いていた I』が復刊されました。同書は古田先生による九州王朝通史で、全3冊の最初の一冊です。副題に「『風土記』にいた卑弥呼」とあるように、縄文時代から『三国志』倭人伝までの九州王朝の淵源から弥生時代の邪馬壹国までが論述されています。
 1984年(昭和59年)に本書は朝日新聞社から発刊され、後に文庫化されました。古田史学による初めての本格的通史であり、かつ刺激的な新発見が全3巻に掲載され、多くの古田ファンが魅了されました。今回の第1巻での新発見は、『三国志』倭人伝の女王卑弥呼(ひみか)が、「筑紫国風土記」に「甕依姫」 (みかよりひめ)として記されていることを発見、論証されたことです。本当に衝撃的な新発見で、わたしも大きな刺激を受け、北部九州の現地伝承や現地史料の再調査を改めて実施した記憶があります。
 これから第2巻、第3巻が引き続き復刊されますが、いずれにも当時としては画期的な新発見やテーマが取り扱われており、ミネルヴァ書房からの復刊により、新たな古田ファンが誕生することでしょう。まだお持ちでない方がおられたら、是非これら3冊を書架にそろえられることをお勧めします。


第689話 2014/04/03

近畿天皇家の称号

 近畿天皇家が701年の王朝交代以降は「天皇」を称号としていたことは明確ですが、それ以前については古田学派内でも諸説あり、やや「混乱」しているようにも見えます。この問題について、実証的に史料事実に基づいて改めて考えてみました。
 まず、古田先生の著作では史料根拠を提示して、7世紀初頭頃には「天皇」号を称していたと論述されています。『古代は輝いていた・3』(朝日新聞社。 269頁)によれば、法隆寺薬師仏後背銘にある「天皇」「大王天皇」を7世紀初頭の同時代金石文とされ、それを根拠に推古ら近畿天皇家の主は「大王」や 「天皇」を称していたとされました。もちろん、九州王朝の「天子」をトップとしての、ナンバーツーとしての「天皇」号です。
 その後の近畿天皇家の称号を確認できる史料根拠としては、飛鳥池遺跡から出土した7世紀後期(天武の頃と編年されています)の「天皇」木簡や「皇子」木簡(舎人皇子、穂積皇子、大伯皇子)があります。これらの史料事実から、近畿天皇家は7世紀前期と後期において「天皇」号を用いていたことがわかります。 これもまた、九州王朝の「天子」の下でのナンバーツーとしての「天皇」です。
 その後、8世紀になると九州王朝に替わってナンバーワンとしての「天皇」号を近畿天皇家は名乗りますが、同時に「天子」や「皇帝」などの称号も併用しています。その史料根拠の一つは『養老律令』です。その「儀制令第十八」には次のように記されています。
 「天子。祭祀に称する所。」
 「天皇。詔書に称する所。」
 「皇帝。華夷に称する所。」
 「陛下。上表に称する所。」
 このように『養老律令』では複数の称号の使い分けを規定しているのです。おそらくこうした「儀制令」の規定は『大宝律令』にもあったと思われますが、その実用例として、和銅五年(712)成立の『古事記』序文(上表文)に、当時の元明天皇に対して「皇帝陛下」と記していますから、701年以後は近畿天皇家の称号として、「天皇」の他にも「天子」「皇帝」を併用していたことがうかがえるのです。おそらくは、九州王朝での呼称(「九州王朝律令」)を先例としたのではないでしょうか。


第671話 2014/03/02

筑紫舞再興三十周年記念「宮地嶽黄金伝説」

 京都に帰る新幹線の車中で書いています。京都に着くのは午後11時頃ですが、明日から仕事ですから何としても帰らなければなりません。「宮仕え」のつらいところです。
 本日の古田先生の講演や宮地嶽神社神主さんたちによる筑紫舞は見事でした。とりわけ、浄見宮司の「神無月の舞」は感動的でした。九州王朝宮廷雅楽そのものでした。講演や演目は次の通りでした。(文責:古賀達也)

日時 2014年3月2日(日)15:00~19:00
場所 アクロス福岡

第一部 講演
 講師 赤司善彦(九州国立博物館展示課長)
 演題 よみがえった宮地嶽古墳黄金の太刀
   ※内容は『古田史学会報』に掲載予定。

宮地嶽神社 浄見宮司からのご挨拶(要旨)

 わたしは宮地嶽神社宮司の次男だったので、奈良の春日大社で十何年間「大和舞」を毎日舞わされて、それがいやになって渡米しました。跡継ぎだった 兄が亡くなりましたので、宮地嶽神社に戻りましたら、父から筑紫舞を舞えといわれ、筑紫舞の練習をしました。その結果、大和舞は筑紫舞の後の形だったことがわかり、大和舞の経験が役に立ちました。
 わたしがいうのもなんですが、本当に神様はいらっしゃると思いました。神様がわたしに筑紫舞を舞えといわれたのだと思います。そして、古田先生の『失われた九州王朝』を読むことになったのだと思います。この度、宮地嶽神社がイベントをやるのであれば講演すると古田先生から言っていただきました。本当に今日はありがとうございます。

第二部 講演(要旨)
 講師 古田武彦
 演題 筑紫舞と九州王朝

 古田武彦でございます。やっと皆様にお会いできることになりました。今年、88歳になります。古田が何を考えているのかをお聞きいただき、一人でも御理解賛同していただくことができればよいと思い、本日まで生きていたいと思ってまいりました。
 現在の日本の歴史学は間違っている。このことをお話しいたします。最大のピンポイントをゆっくりとお話ししたいと思います。
 わたしの立場は、邪馬台国というのは間違っている。『三国志』には邪馬壹国(やまいちこく)と書いてあります。いずれも古い版本ではそうなっています。 それを何故邪馬台国と言い直したのか、言い直してもよいのかというのが私の研究の始まりです。最初に言い直したのが江戸時代のお医者さんだった松下見林でした。彼は、日本には『日本書紀』があり、大和に天皇がおられた、だから日本の代表者は大和におられた天皇家である、だからヤマトと読めるよう邪馬壹国を 邪馬台国に直したらよいとしたのです。しかし結論を先に決めて、それにあうように原文を変えて採用するという方法は学問的に何の証明にもなっていない。
 わたしの方法はそれとは違い、原文に邪馬壹国とあるのだから、邪馬壹国とするという立場です。『三国志』倭人伝には中国から倭国への詔勅が出され、それに対する返答である上表文(国書)を出されています。国書には国名が書かれるのが当たり前で、そこに邪馬壹国とあったことになります。倭王の名前も書かれていたはずで「卑弥呼(ひみか)」という名前もそこに書かれていたはずです。ところが『日本書紀』神功紀には卑弥呼という名前は記されていない。すなわ ち、天皇家には卑弥呼と呼ばれる女王はいなかった証拠です。
 古賀市歴史資料館の説明版には「邪馬壹国」と表記されているそうです。これが正しい歴史表記です。わたしも見に行きたいと思っています。
 「日出ずるところの天子、日没するところの天子に書をいたす」という有名な名文句があります。これは『日本書紀』にはなく、中国の史書『隋書』に書かれています。それには王様の名前「多利思北孤」、奥さんの名前は「キミ」、国名は「イ妥国(たいこく)」と書かれています。ところが、『古事記』や『日本書紀』には多利思北孤という名前もイ妥国という国名もありません。『古事記』『日本書紀』では、7世紀初頭の天皇は推古であり女性です。従って、女性の推古天皇に奥さんがいるはずがない。すなわち、7世紀初頭に隋と交流した国は大和の天皇家ではなかったのです。
 現在の歴史学者はこの矛盾に誰も答えることができない。その矛盾を無視するというのは国民をバカにしているやり方です。こういうやり方では教育はできな い。こういうやり方に終わりが来た。みんなその矛盾に気づいてきた。古賀市歴史資料館でも九州王朝説に基づいた解説表記(原文通り「邪馬壹国」と表記)をしている時代です。これこそ「開かれた博物館」で、それをやらないのは国民をバカにした「閉じられた博物館」です。昨年あたりからとどめることのできない新しい時代が来た。たとえば中国人の女性研究者(張莉さん)が古田説が正しいという論文を発表しました。そういう時代に入りました。
 昭和55年5月にわたしに電話が入りました。西山村光寿斉さんという姫路の女性で、戦前、神戸で菊邑検校とケイさんという人に出会い、筑紫舞を伝授された方です。菊邑検校は太宰府のお寺で庭掃除していた男の所作が見事だったので、そのことをたずねると、その男は「わたしは死んだら必ず地獄に落ちると思い ます。師匠から習った舞を誰かに伝授しなければ地獄に落ちます。」とのことだったので、菊邑検校はその男から筑紫舞を習い、その筑紫舞をまだ子供だった西山村光寿斉さんに猛特訓して教えました。神戸の西山村さんの実家(やまじゅう)にお世話になっていた菊邑検校には筑紫のクグツが「太宰府よりの御使者」と口上を述べてよく挨拶にきたそうです。このようにして筑紫舞は現代まで奇跡的に伝わったのです。事実は小説よりも奇なりです。
 西山村さんの記憶では、戦前、宮地嶽神社の古墳の石室で筑紫舞が奉納されたとのことで、宮地嶽神社とは不思議な御縁があります。西山村さんや筑紫舞を受け継がれたお子さん、お弟子さんは「人間国宝」にふさわしい方々です。その筑紫舞の奉納の前座として今日話をさせていただいています。
 菊邑検校の「検校」を辞書で調べたところ、「盲目の人に与えられた最高の官」とありました。ということは、その官職を与える権力は「王朝」です。それは 太宰府を中心とした、官職を与えることができた「権力」「制度」があったということです。これこそ、九州王朝という概念があってこその「菊邑検校」という名前だったのです。菊邑検校が筑紫舞を習った太宰府近辺のお寺を探してみたらよいと思う。「太宰府からの御使者」の人物の名前もわかっており、筑紫斉太郎 (ちくしときたろう)というそうです。ぜひ探していただきたい。
 みなさんが学校で習った歴史は残念ながら本当の歴史とは言えません。わたしが京都の洛陽高校で教鞭をとっていたとき、同僚の教師から聞いた話で、その先生の隣家のおじさんが「天皇はんも偉くなりはったなあ。わたしのところには天皇はんの借金証文があります。東京であんじょうやってはるのでしょうなあ。」 と言っておられたとのことで、大変驚きました。これこそ江戸時代の天皇家の実体だったのです。明治時代に薩長政権が自らの政治的目的で「万世一系」という概念を作り上げたのです。
 今、わたしは本当の歴史を再建する時代に入っていると思う。どの国家も自分たちの権力を正当化するための「教育」を行い、宗教も自分たちを正当化するための「教義」を作り上げている。だから、戦争が絶えないのです。国家も宗教も人間が人間のために造ったものです。その国家や宗教が人間を苦しめるのは 「逆」である。国家や宗教のご都合主義の「教育」をキャンセルし、そこから抜け出して、人類のための国家、人類のための宗教はこうであると、言う時代がきたのです。そう言いたい。
 最後に、わたしは87歳ですからもうすぐ間違いなく死ぬと思いますが、死んだらわたしは地獄に行きたい。地獄は苦しんでいる人や犯罪者や自殺者が行くと ころとされています。地獄に行ったら、自殺者からなぜ自殺したのかを聞いてみたい。なぜ犯罪を行ったかを聞いてみたい。わたしは幸せな人生でした。そのおかえしに、死んだらまっしぐらに地獄に行きたい。わたしが死んだと聞かれたら、古田は希望通り地獄に行って忙しくしていると思ってください。

第三部 筑紫舞
 演目 笹の露 
 舞人 宮地嶽神社権禰宜 野中芳治・渋江公誉・渋田雄史・植木貴房・竹田裕城
   
 演目 神無月の舞 
 舞人 宮地嶽神社宮司 浄見 譲

 

旅の記憶 — 史跡探訪と講演会参加  (1,梅花香る邪馬壱国の旅) へ

よみがえる九州王朝 幻の筑紫舞』 (ミネルヴァ書房)

筑紫舞聞書(神事芸能研究会)より


第665話 2014/02/21

九州王朝の「遷都」論

 わたしは前期難波宮九州王朝副都説に至るよりも以前に、九州王朝の遷都について研究を続けていました。というのも、古田先生の『失われた九州王朝』に九州王朝の遷都を示唆する記述があり(第5章にある「遷都論」)、その研究が九州王朝史研究にとって重要テーマの一つであると考えていたからです。
 その後も、古田先生は九州王朝の「遷都」についての検討を続けておられ、「天武紀」に見える「信濃遷都計画」についても言及されていました。たとえば、 『古田史学会報』(1999年6月3日No.32)掲載の「古田武彦氏講演会(四月十七日)」の次の記事です(全文は本ホームページに掲載されていますので、ご覧ください)。

 二つの確証について
  −−九州王朝の貨幣と正倉院文書−−
(前略)この銭(冨本銭のこと:古賀)が天武紀十二年に現われる銅錢にあたるという。そうすると厭勝銭とは思えない。まじない銭に詔勅を出すだろうか?。 このときの詔勅では「今後、銅銭を使え、銀銭は使うな」とある。銀銭には反感を持っていて、使用禁止。『日本書紀』は信用できないか?。いや、この点は信用できる。「法隆寺再建論争」で喜田貞吉は『書紀』の記述のみを根拠に再建説をとり、結局正しかった。「焼けもせぬものを焼けたと書くか?」という論理し か根拠はなかった。『書紀』が信用できない点は、年代や人物のあてはめなどイデオロギーに関するものであって、事物や事件は基本的に「あった」のだ。(中 略)
天武紀十三年に「三野王らを信濃に遣わす」の記事あり、このとき携行したのかとの説がある。都を移す候補地を探したというが、近畿天皇家の天武がなぜ長野に都を移そうとするのか?ウソっぽい。白村江戦後、唐の占領軍は九州へ来た。なぜ近畿へ来なかったのか?納得できる説明はない。九州王朝が都を移そうと し、『書紀』はこれを二十四年移して盗用したのではないか?。
 朝鮮半島の情勢に恐怖を感じて遷都を考えたことはありうる。なぜ長野か?。海岸から遠いから。太平洋戦争のとき松代に大本営を移すことを考えたのに似ている。(後略)

 以上のように講演で指摘されているのですが、「『書紀』はこれを二十四年移して盗用した」という部分は、正木裕さんの 「34年遡り説」と同様の視点で、興味深く思います。このような古田先生による先駆的な研究に刺激を受けて、わたしの前期難波宮九州王朝副都説への発想が生まれたのかもしれません。
 なお、古田先生の「信濃遷都計画」論の出典をわたしは失念していたのですが、この古田先生の講演録であることを正木さんから教えていただきました。持つべきものは優れた学友です。正木さん、ありがとうございます。


第659話 2014/02/09

名古屋市博物館「文字のチカラ」展

 「洛中洛外日記」657話で紹介しました名古屋市博物館「文字のチカラ」展で すが、『古事記』真福寺本以外にも、大須観音(真福寺)所蔵の国宝『漢書』食貨志や、「大宝二年御野国加毛郡半布里戸籍断簡」(個人蔵)も出展されており、大きな規模ではないのですが、出色の展示会です。金石文でも「王賜銘鉄剣」(千葉県市原市稲荷台1号墳出土)の他、複製品ではありますが、「七支刀」 「江田船山古墳出土大刀」「『各田部臣』銀象眼大刀」などが展示されています。
 展示以外に感心したのが、会場で販売されている展示解説図録『文字のチカラ』です。カラー写真満載の160頁で価格は1000円。資料としてとても良いものでした。解説の内容は一元史観に基づいていますから、この点は割り引く必要がありますが。
 同展示会は2月16日までです。東海地区の皆さんには特におすすめです。


第654話 2014/01/31

おめでとう、小保方さん

 小保方晴子さんのSTAP細胞の研究をテレビ報道で知り、とても驚いています。ノーベル化学賞を受賞された白川先生のケミカルドーピング(ポリマーに金属の性質を発現させる技術)のとき以来の感動です。
 報道によれば、当初、小保方さんの発見は周囲から信じてもらえず、『ネーチャー』からも掲載を拒否されたとのこと。定説を覆すような発見や新たな学説が簡単には受け入れられないのは、理系も日本古代史も似たようなものかと考えさせられる反面、小保方さんの発見は5年で認められたのですから、わたしの感覚からすれば極めて早いと思うのですが、あるマスコミが「遅い」という論調で報道していることには違和感を覚えました。
 古田先生の学説は発表から40年以上もたっていますが、未だ古代史学界は無視の姿勢を貫いているのですから、このこともしっかりと報道し、「遅すぎる」と指摘するのがジャーナリズムやメディアの仕事ではないでしょうか。
 古田先生の支持者に理系の人が多いのは有名ですが、これは古田先生の学問の方法が「データ」や「再現性」「論理性」などを重視されていることにも関係すると思います。「古田史学の会」でも、水野代表とわたしは有機化学を、太田副代表は金属工学を専攻されたとうかがっています。水野さんは日本ペイントで研究開発に関わっておられたこともあり、色素の分子構造や性能についてアドバイスをいただいたこともあります。
 わたしは企業研究ですし、ノーベル賞級とも言われている小保方さんの研究とは比べものにもなりませんが、たとえばわたしが開発した近赤外線吸収染料は、 水着用途(赤外線透撮防止機能)には採用に3年、インナーウェア用途(太陽光発熱機能)には採用に7年かかりました。ですから、社会やマーケットに受け入れられるのに5年や10年かかるのは当然という感じを持っています。
 しかし、古田説が40年以上たっても学界から無視されるという現状は看過できません。もし効果的で実現可能な方法があれば「古田史学の会」としても取り組みたいと思うのですが、現実はそう簡単ではありません。そうした中で、ミネルヴァ書房から古田先生の書籍が続々と刊行されたり、大阪府立大学なんばキャンパス(I-siteなんば)に古田史学書籍コーナーができたりと、一歩一歩ではありますが、着実に前進しています。これからも皆様のご協力と効果的なアドバイスをいただければと思います。それにしても、小保方さん本当におめでとうございます。日本の若者の世界的活躍に拍手喝采です。


第653話 2014/01/29

「古田史学の会」の名称

 今日は快晴の東京に来ています。今年最初の関東出張です。車窓から見える東京タワーや東京スカイツリーが青空に映えてきれいです。

 関東には「古田史学の会」の「地域の会」はありませんが、これは「古田史学の会」設立の事情から意識的にそうしたためです。「市民の古代研究会」が分裂し、「古田史学の会」は全国におられる「市民の古代研究会」会員の受け皿として、全国組織として立ち上げたのですが、関東と九州には「多元的古代研究会」がそれぞれ発足されたので、その地域では「古田史学の会」が受け皿となる必要性がなかったのです。
 また、最古参である「東京古田会」をはじめ、「多元的古代研究会」や「古田史学の会」が互いに協力しあい、切磋琢磨することで、よりよい効果が発揮できると考えていました。ですから、関東や九州に「古田史学の会」の組織を作ることは考えていませんでした。「古田史学の会」発足当時、関東にも「古田史学の会」の組織を作りたいと申し出られた方もありましたが、丁重にお断りしたほどです。
 何よりも、わたしと水野さんには「市民の古代研究会」での経験から、無理な会員拡大を行ってもろくなことにはならないという「暗黙の合意」がありまし た。「組織論」的には正しくないのかもしれませんが、その意識は今も引き継がれています。「トラウマ」と言われても仕方がないのかもしれません。マネージメント論でいうならば、「組織の規模と形態、活動方法は目的(使命・ミッション)に従う」ということにつきますが、このことについては別の機会に触れたい と思います。
 「会」設立にあたり、人事とともに「会名」を検討したのですが、「古田史学」の4文字を入れることと、「○○研究会」という名称にはしないことを、わたしは決めていました。「会」の使命(ミッション)を明確にするために「古田史学」の4文字を冠することを古田先生に御了解いただきましたが、たとえば「古田史学研究会」という名称にはせずに、「古田史学の会」としたのには理由がありました。
 「市民の古代研究会」の理事会変質の過程で、研究会なのだから「研究者」が上で、「古田ファン」は下と、主に研究者で構成されていた理事会が古田ファンの会員を無意識のうちに見下していた可能性がありました。こうしたことが、たとえ無意識であっても二度と起こらないよう、「○○研究会」という名称にはしないことにわたしはこだわり、最終的に「古田史学の会」としたのでした。
 このように、ことあるごとに「古田史学の会」の使命(ミッション)を明確にしてきたにもかかわらず、「古田史学の会」発足の数年後には、熱心に研究発表されていたある会員から、「古田武彦も会員も研究者として平等なのだから、会誌・会報に古田さんの論文を優先的に掲載するのはやめるべき」という声が出たことがありました。わたしは、「古田史学の会」の使命(古田先生や古田史学への支持協力)を説明し、その申し入れを拒絶しました。結局その方は「古田史学の会」を離れられ、別の団体で「活躍」されておられるようです。
 使命を見失った組織の末路は哀れです。「市民の古代研究会」のようになるだけです。この「使命」に関しては、わたしはこれからも微塵も妥協するつもりはありません。もちろん、時代や環境の変化にあわせて「古田史学の会」が進化することは大切ですが、使命を絶対に見失ってはならない。このことをこれからも 繰り返し言い続けていくつもりです。(つづく)