「 古代に真実を求めて 」一覧

第1849話 2019/03/04

小笹 豊さん「九州見聞考」の警鐘(1)

 「古田史学の会」の論集『古代に真実を求めて』22集が今月末にも発行が予定されています。特集タイトルは「倭国古伝 姫と英雄と神々の古代史」です。どのような表紙になるのか、全体としての出来映えはどうかと、今から楽しみにしています。
 おかげさまで、特集タイトルを書名とし、コンセプトを明確にした論集作りを始めた最初の1冊『盗まれた「聖徳太子」伝承』(18集)は比較的早く初刷りが完売し、増刷できました。一昨年出版した『失われた倭国年号《大和朝廷以前》』(20集)も、服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)からの報告によれば出版社(明石書店)の在庫も底をつき、もうすぐ増刷となりそうです。服部さんを始め、編集部の方々、そして執筆者・関係者のご尽力の賜です。
 論文集ですから掲載論文の学問的レベルが最も大切ですが、それでも売れなければ世に古田史学を広め、後世に伝えることができません。そうした「古田史学の会」の目的のためにも、訴求力を持ったタイトルの選定も重要です。結果として増刷になれば、そのタイトルは「合格」ということにもなりますので、「失われた倭国年号《大和朝廷以前》」も「合格」をいただけたようです。わたしは「古田史学の会」の代表ですから、論集の学問的レベルと販売部数(マーケットでの高評価獲得。会の財政事情改善)の両方に対して責任がありますので、まずは一安心です。
 今は2020年発行の『古代に真実を求めて』23集の特集について検討を進めています。来年がちょうど『日本書紀』編纂千三百年になりますから、『日本書紀』に関わるテーマが特集の有力候補として上がっています。そこで『日本書紀』に関わる既発表の研究論文の精査を連日行っています。その対象は『古田史学会報』だけではなく、広く古田学派の論文にも目を通しています。
 その作業を進める中で、驚きの論稿を「発見」しました。正しくは「再発見」のはずなのですか、当初、読んだときにはその論文の意義にわたしは気づけなかったようで、内容も完全に失念していました。その論稿とは「多元的古代研究会」機関紙『多元』No.115(2013年5月)に掲載された小笹豊さん(横浜市)の「九州見聞考」です。(つづく)


第1810話 2018/12/28

『倭国古伝』(仮称)の巻頭言

 明石書店から『古代に真実を求めて』22集の初校が送られてきました。編集部で決めた書名は『倭国古伝 -姫と英雄と神々の古代史-』です。巻頭言ではその書名について解説しました。しかしながら最終的には明石書店の同意が必要ですので、書名が変更になれば巻頭言も書き直さなければなりません。
 本の宣伝も兼ねて巻頭言原稿を紹介します。この年末年始は校正に終始しそうです。

【巻頭言】
勝者の歴史と敗者の伝承
     古田史学の会・代表 古賀達也

 本書のタイトルに採用した「倭国古伝」とは何か。一言でいえば〝勝者の歴史と敗者の伝承から読み解いた倭国の古代史〟である。すなわち、勝者が勝者のために綴った史書と、敗者あるいは史書の作成を許されなかった人々の伝承に秘められた歴史の真実を再発見し、再構築した古代日本列島史である。それをわたしたちは「倭国古伝」として本書のタイトルに選んだ。
 その対象とする時間帯は、古くは縄文時代、主には文字史料が残された天孫降臨(弥生時代前期末から中期初頭頃:西日本での金属器出現期)から大和朝廷が列島の代表王朝となる八世紀初頭(七〇一年〔大宝元年〕)までの倭国(九州王朝)の時代だ。
 この倭国とは歴代中国史書に見える日本列島の代表王朝であった九州王朝の国名である。早くは『漢書』地理志に「楽浪海中に倭人有り」と見え、『後漢書』には光武帝が与えた金印(漢委奴国王)や倭国王帥升の名前が記されている。その後、三世紀には『三国志』倭人伝の女王卑彌呼(ひみか)と壹與(いちよ)、五世紀には『宋書』の「倭の五王」、七世紀に入ると『隋書』に阿蘇山下の天子・多利思北孤(たりしほこ)が登場し、『旧唐書』には倭国(九州王朝)と日本国(大和朝廷)の両王朝が中国史書に始めて併記される。古田武彦氏(二〇一五年十月十四日没、享年八九歳)は、これら歴代中国史書に記された「倭」「倭国」を北部九州に都を置き、紀元前から中国と交流した日本列島の代表権力者のこととされ、「九州王朝」と命名された。
 『旧唐書』には「日本はもと小国、倭国の地を併わす」とあり、八世紀初頭(七〇一年)における倭国(九州王朝)から日本国(大和朝廷)への王朝交替を示唆している。この後、勝者(大和朝廷)は自らの史書『古事記』『日本書紀』を編纂し、そこには敗者(九州王朝・他)の姿は消されている。あるいは敗者の事績を自らの業績として記すという歴史造作をも厭うことはなかった。
 古田武彦氏により、古代日本列島には様々な文明が花開き、いくつもの権力者や王朝が興亡したことが明らかにされ、その歴史観は多元史観と称された。これは、神代の昔より近畿天皇家が日本列島内唯一の卓越した権力者・王朝であったとする一元史観に対抗する歴史概念である。わたしたち古田学派は古田氏が提唱されたこの多元史観・九州王朝説の立場に立つ。
 本書『倭国古伝』において、勝者により消された多元的古代の真実を、勝者の史書や敗者が残した伝承などの史料批判を通じて明らかにすることをわたしたちは試みた。そしてその研究成果を本書副題に「姫と英雄と神々の古代史」とあるように、「姫たちの古代史」「英雄たちの古代史」「神々の古代史」の三部構成として収録した。
 各地の古代伝承を多元史観により研究し収録するという本書の試みは、従来の一元史観による古代史学や民俗学とは異なった視点と方法によりなされており、新たな古代史研究の一分野として重要かつ多くの可能性を秘めている。本書はその先駆を志したものであるが、全国にはまだ多くの古代伝承が残されている。本書を古代の真実を愛する読者に贈るとともに、同じく真実を求める古代史研究者が多元史観に基づき、「倭国古伝」の調査研究を共に進められることを願うものである。
     平成三十年(二〇一八)十二月二三日、記了


第1809話 2018/12/23

『古代に真実を求めて』22集の目次

 『古代に真実を求めて』22集(来春発行)の目次が服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)から送られてきましたので、ご紹介します。編集部としては『倭国古伝』というタイトルを決めたのですが、これから明石書店と相談の上、最終決定されます。従って、タイトルはまだ仮題です。
 ご覧のように全国各地の古代伝承を多元史観により解説し、収録しています。教科書では教えない多くの日本人がまだ知らない古代伝承も少なくありませんし、九州王朝説にとっても貴重な史料根拠となるものもあります。刊行が楽しみな一冊です。

『倭国古伝 ―姫と英雄と神々の古代史―』
『古代に真実を求めて』第二十二集

 目次

●はじめに
○巻頭言 勝者の歴史と敗者の伝承           古賀達也
○古代伝承を「多元史観」で読み解く理由        西村秀己

●特集 倭国古伝―姫と英雄と神々の古代史―

一、 姫たちの古代史 
① 太宰府に来たペルシアの姫           正木 裕
② 大宮姫と倭姫王と薩摩比売           正木 裕
③ 肥前の「與止姫」伝承と女王壹與         古賀達也
④ 糸島の奈留多姫伝承と「日向三代」の陵墓    正木 裕
⑤ 駿河国宇戸ノ濱の羽衣伝承           正木 裕
⑥ 常陸と筑紫を結ぶ謡曲「桜川」と「木花開耶姫」 正木 裕

二、英雄たちの古代史
⑦ 讃岐「讃留霊王」伝説の多元史観的考察     西村秀己
⑧ 丹波赤渕神社縁起の表米宿禰伝承        古賀達也
⑨ 六十三代目が祀る捕鳥部萬の墓         久冨直子
⑩ 関東の日本武尊                藤井政昭
⑪ 筑後と肥後の「あまの長者」伝承         古賀達也
⑫ 天の長者伝説と狂心の渠            古賀達也
〔コラム1〕肥前肥後の「聖徳太子」伝承        古賀達也
〔コラム2〕湖国の「聖徳太子」伝承           古賀達也

三、神々の古代史
⑬ 縄文にいたイザナギイザナミ          大原重雄
⑭ 「天孫降臨」と「神武東征」の史実と虚構    正木 裕
〔コラム3〕天孫族に討たれたあらぶる神        服部静尚
〔コラム4〕「国譲り」と「天孫降臨」         橘高 修
〔コラム5〕和歌山の鎮西将軍伝承           古賀達也
⑮ 恩智と玉祖―河内に社領をもらった周防の神様  服部静尚
〔コラム6〕日本海側の「悪王子」「鬼」伝承 古賀達也
⑯ 安曇野に伝わる八面大王説話          橘高 修
⑰ 甲斐の「姥塚」深訪              井上 肇
⑱ 荒覇吐神社の現地報告             原 廣通
〔コラム7〕羽黒山修験道と九州王朝          古賀達也

●一般論文とフォーラム
一般論文 「実証」と「論証」について         茂山憲史
 フォーラム①『東日流外三郡誌』と永田富智先生    合田洋一
 フォーラム②「倭国溶暗」と信濃           鈴岡潤一

●付録
古田史学の会会則
古田史学の会 全国世話人・地域の会・名簿
編集後記


第1752話 2018/09/18

紀伊國屋書店大阪本町店の調査

 今日は大阪で仕事をしましたが、お昼の休憩時間に紀伊國屋本町店を訪れ、古代史コーナーのマーケットリサーチをしました。同店のロケーションがビジネス街ということもあり、ビジネス書や趣味の関連書籍に多くのスペースが割かれています。古代史コーナーは「日本史」の棚の最上段とその下の二段のみで、約120冊ほどしか並んでいません。従って、古代史関連書籍の棚は激戦区です。
 幸い、その最上段の一番右端に『発見された倭京』(古田史学の会編、明石書店刊。2018年3月)が一冊だけおかれていました。残念ながらその他の『古代に真実を求めて』や古田先生や古田説関連書籍は一冊も置かれていませんでした。その意味では、『発見された倭京』は大阪のビジネス街で善戦しているほうかもしれません。
 同店の日本古代史コーナーは「日本考古学」「縄文時代」「古墳」「邪馬台国」「古代」「記紀」という小コーナーに分類されており、『発見された倭京』は「古代」に分類されていました。9月15日に開催した『古代に真実を求めて』編集会議では、ちょうど『日本書紀』成立1300年に当たる2020年に発行する『古代に真実を求めて』23集の特集テーマとして『日本書紀』を取り上げることを検討していますが、紀伊國屋書店に「記紀」のコーナーがあることからも、この特集テーマはマーケティングの視点からも良いかもしれません。
 『古代に真実を求めて』のタイトルにご批判をいただくこともあるのですが、もし売れなかったら論文を投稿していただいた会員に申し訳ありませんし、「古田史学の会」の財政基盤にも悪影響(単年度赤字決算)を及ぼします。もちろん、売れなければ明石書店も発行を引き受けてくれなくなるかもしれませんし、それは編集部員を任命した「古田史学の会」代表のわたしの責任です。売れる本作りのために編集部の皆さんが特集内容や論文の学問的レベルだけではなく、タイトル選考にも苦心惨憺していることをご理解いただければ幸いです。


第1747話 2018/09/06

古代建築物の南北方位軸のぶれ

 先日の東京講演会(『発見された倭京』出版記念)の終了後、後援していただいた東京古田会・多元的古代研究会の役員の皆さんと夕食をご一緒し、親睦を深めました。講師の山田春廣さん・肥沼孝治さんもご同席いただき、講演冒頭で披露された手品のタネあかしを肥沼さんにしていただいたりしました。
 懇親会散会後も喫茶店で肥沼さん和田さん(多元的古代研究会・事務局長)と研究テーマなどについて情報交換しました。特に肥沼さんが精力的に調査されている古代建築物や官衙・道路の「南北軸の東偏」現象について詳しく教えていただきました。
 古代建築には南北軸が正方位のものや西偏や東偏するものがあることが知られており、7世紀初頭頃から九州王朝の太宰府条坊都市を筆頭に南北軸が正方位の遺構が出現し、その設計思想は前期難波宮の副都造営に引き継がれています。他方、西偏や東偏するものもあり、都市の設計思想の変化(差異)が想定されます。肥沼さんはこの東偏する遺跡が東山道沿いに分布していることを発見され、その分布図をご自身のブログ(肥さんの夢ブログ)に掲載されています。人気のブログですので、ぜひご覧ください。
 肥沼さんの見解では東偏は中国南朝の影響ではないかとのことで、南朝の都城の方位軸の精査を進められています。この仮説が妥当であれば、東偏した遺跡は少なくとも5〜6世紀まで遡る可能性があり、それは正方位や西偏の古代建築物や遺構よりも古いことになり、古代遺跡の相対編年にも使用できそうです。
 わたしからは土器編年による遺構相対年代のクロスチェックを提案しました。土器編年がそれらの相対編年に対応していれば、学問的にも信頼性の高い相対編年が可能となるからです。このように肥沼さんの研究は、その新規性や古代史学に貢献する進歩性の両面で優れたものです。期待を込めて研究の進展を注目したいと思います。
 最後に、肥沼さんから『よみがえる古代武蔵国府』(府中郷土の森博物館発行)というオールカラーの小冊子をいただきました。これがなかなかの優れもので、当地の遺跡や遺物、その解説がカラー写真で載せられています。これからしっかりと読みます。


第1739話 2018/09/01

『発見された倭京』東京講演会レポート

 今日は東京家政学院大学(千代田三番町キャンパス)にて、『発見された倭京』出版記念東京講演会を開催しました。約80名の聴講者を前に、山田春廣さん・肥沼孝治さん・正木裕さんが講演されました。いずれの講演も九州王朝説に基づく最新の研究成果であり、初めて聞くテーマもあり意義深いものでした。司会は冨川ケイ子さん(古田史学の会・全国世話人、相模原市)。わたしは冒頭に主催者挨拶をさせていただきました。
 肥沼さんは冒頭にマジックをご披露され、一気に会場を和ませる手腕は流石です。講演では、7世紀中頃に九州王朝により造営された古代官道や建物遺構が当初は中国南朝の影響を受けて南北方位が東偏していることなど、武蔵国分寺遺構や府中市の古代遺構の方位を具体例として説明され、わかりやすいものでした。
 肥沼さんの報告を受けて、山田さんは九州王朝官道の全体像やその性格(軍管区)を西村仮説(西村秀己「五畿七道の謎」『発見された倭京』)をガイドラインとして展開されました。中でも大和朝廷による「山陰道・北陸道」を九州王朝の「北陸道」とする仮説を更に発展させ、ある時期にはその「北陸道」が「北海道」であったとされました。更にそのことから日本海の南側は「北海」と呼ばれていたとされ、その史料根拠も提示されました。この一連の仮説の進化と論理性にはとても驚かされました。ぜひ、関西でも講演していただきたいと思いました。
 正木さんからは関西でも好評を博したテーマ「大宰府に来たペルシャの姫 — 薩摩に帰ったチクシ(九州王朝)の姫」が講演され、東京でも好評でした。
 講演会終了後は講師を囲んで、東京古田会と多元的古代研究会の役員の皆さんと懇親会を持ち、古田史学を継承する三団体の親睦を深めました。遠くは信州から参加された吉村さんや関東の皆さんに御礼申し上げます。


第1719話 2018/08/11

『発見された倭京』出版記念講演会の準備

 9月には『発見された倭京 太宰府都城と官道』出版記念講演会を東京(9/01、東京家政学院大学千代田キャンパス)と大阪(9/09、i-siteなんば)で、10月14日(日)には久留米大学(御井キャンパス)で開催します。東京講演会は講師の肥沼孝治さん・山田春廣さん、そして正木裕さん(古田史学の会・事務局長)により、講演で使用するパワーポイントの準備やレジュメの作成が着々と進められています。
 大阪ではわたしも講演しますので、その準備を進めています。36枚のシートを使用して太宰府と前期難波宮について、全国支配に必要な規模と様式を持つ都城という視点で発表します。かなり完成度の高い研究発表になりそうです。多くの皆さんのご参加をお願いします。

9月1日『発見された倭京』東京講演会済み

9月9日『発見された倭京』大阪講演会済み

10月14日『発見された倭京』九州講演会済み


第1684話 2018/06/04

「実証と論証」茂山さんからのメール

 「学問は実証よりも論証を重んずる」と村岡典嗣先生が言われたこの言葉の意味や、それを受け継がれた古田先生の学問の方法についてより深く学びたいとわたしは願ってきました。
 そこで、フィロロギーの創始者であるアウグスト・ベークの著書『解釈学と批判 -古典文献学の精髄-』にまで遡っての解説を茂山憲史さん(『古代に真実を求めて』編集委員)にお願いして始まった「フィロロギーと古田史学」と題した関西例会での11回に及んだ講義もこの五月で最終回を迎えました。毎回、資料を作成して難解なベークの著書を解説していただいた茂山さんに深く感謝いたします。
 その終了後に、「学問は実証よりも論証を重んずる」に絞ってご意見をまとめて欲しいと更にお願いしていたところ、メールで「実証と論証について」という御論稿をいただいたのですが、わたし一人のものとするのはもったいないと思い、茂山さんのご了解をいただいて、転載することにしました。
 茂山さんは哲学を専攻されたとのことで、難解なベークの著作を深く考察され、そのエッセンスをわたしたちに教えていただきました。このテーマは奥が深く、まだまだこれからも勉強しなければならないと考えていますが、今回いただいた茂山さんの論稿はよく納得できるもので、学問の方法を身につけるためにもこれからの指針にしていきたいと思っています。

【以下、メールを転載】
古賀 様
          2018.5 茂山憲史

 村岡典嗣氏の「学問は実証より論証を重んじる」という言葉を理解するためには、村岡氏が自らの学問を「アウグスト・ベークのフィロロギーに基づいています」と公言していたのですから、ベークのフィロロギーからこの言葉を理解しなければならないように思います。
 ベークのフィロロギーについて1年にわたって報告してきたことを踏まえると、村岡氏の「学問は実証よりも論証を重んじる」という言葉は、具体的には多くの意味を内蔵していて、「肯定してもよい部分」と「容認してはいけない部分」があるように思います。

 肯定できるのは、
「事実を示すことが実証だと勘違いしてはいけません」
「実証にも常に論証が含まれていなければ、つまり、事実の理解と主張についての論証がなければ、学問的とは言えません」
「論証抜きの事実だけを根拠に、ひとの論証を否定することはできません。ひとの論証を否定できるのは、さらなる論証によってのみです」
という意味に理解することです。

 一方、容認できないのは
「実証の証明力(信頼度)よりも論証の証明力(信頼度)の方が、より大きい」
「実証と論証の結果が対立したときは、論証の方が正しいと結論するべきです」
「論証が完全であれば、実証の作業は必要ありません」
などと理解することです。

 村岡氏が言及していない方法論上の問題を、論理学とベークのフィロロギーから追加するなら
「仮説は論証されるべきものです」
「事実と合わない、という理由だけで仮説を葬り去ることはできません」
「文献学における論証は、かならず事実から出発しなければなりません」
「したがって、自ずとその論証は実証でもあり、実証がないという批難は当たりません」
「個別部分的に実証がないという批判はできますが、それを理由に仮説や論証の全体を葬り去ることはできません」
「実証より論証を重んじるからといって、論証にあぐらをかき、論証に緻密さや論理性を欠くようでは学問とは言えません」
などでしょうか。

 ベークは「未完成は欠陥ではない」といっていました。「未完成」ですから「証明できた」ということでないのは、当然なのです。ここで重要なのは、それが「欠陥ではない」ということです。「その仮説を捨て去ってしまってはいけませんよ」と言ってくれているのです。「未完成」ということは「否定の論証」も完成していないのですから、何も決まっていません。


第1643話 2018/04/07

九州王朝「北陸道」の問答

 『発見された倭京』で九州王朝の「東山道」15国を比定し、古代官道が太宰府を起点に展開されているとした西村秀己さんの論理的仮説を実証的に検証された山田春廣さんが、ブログにおいて太宰府起点の「東山道」「東海道」そして「北陸道」の地図を発表されています。山田さんは「妄想」と謙遜されていますが、そういうことはなく、なかなか優れた仮説(地図)と思います。
 その山田さんのブログ上で「北陸道」について、わたしと問答(学問的対話)を続けていますが、面白い展開を見せつつありますので、「洛中洛外日記」に転載させていただきました。皆さんも是非「問答」にご参加下さい。

【わたしからの質問】
山田様
 貴ブログの「北陸道」地図をわたしのfacebookに転載させていただきました。なかなかよい仮説(地図)と思いました。「北陸道」については次の疑問を抱いているのですが、山田さんのお考えをお聞かせいただければ幸いです。

1.他は「海道」「山道」なのに、なぜここだけ「北陸道」と命名したのか。あるいは、九州王朝は別の名称だったのでしょうか。「北海道」が別ルートとしてありますから、仕方なく「北陸道」と命名したのでしょうか。

2.筑前から東山道の山口県部分を飛び越えて、山陰ルートに向かいますが、やや不自然のような気がします。

 以上、ご教示ください。なお、この疑問は山田説を否定するという趣旨のものではありませんので、ご理解ください。

【山田さんからの応答】
 まず、「「九州王朝の北陸道」十二國」は西村さまの「五畿七道の謎」に沿って東・西・南・北海道を比定し、そこに私が比定した「東山道十五國」を重ねると、残りが「北陸道」だという理屈だけで想定したものですので、「東山道十五國」の比定も含めて批判されて然るべきものと考えています。ですから、古代官道の諸国について私の想定図とは異なる比定があってしかるべきと思っております。
 倭国(九州王朝)の古代官道については、西村仮説「五畿七道の謎」(「九州王朝(倭国)の首都大宰府」「太宰府を起点として全国に張り巡らされた官道」)のガイドラインに沿ってさえいれば、もっと様々な比定がなされてしかるべきで、それによってさらに議論が深められていくものと考えております。
 さて、古賀さまがご疑問に思われたことがらについて、私なりに考えてみました(根拠は示せませんので妄想ということです)。

1.「北陸道」という命名は確かに不審です。海に面している(実際も海路が主ではないかと思う)のに「陸」というのが納得できないところです。よって、これは「北海道」ではなかったかと考えています(西村さまとは少し異なる考えになりますが)。
 「北海道」は倭の五王時代にあった壱岐・対馬・金海(きむへ、南朝鮮)へ向かう海道であったわけですが、倭国(九州王朝)が朝鮮半島の版図を失い、海峡国家でなくなって以降の時代に、何時の時代かわかりませんが、博多湾を出て令制では「山陰道」と呼ばれている諸国沿いの海路が「北海道」と改称され、さらに「北陸道」と改称されたのではないかと妄想しています。

2.上記の妄想から、「北陸道」が「北海道」を改称した「海路」ということであれば、長門(山口県)を飛び越えて行くのもありと考えます。また、別の考え方として、「北陸道」が長門国の北部を通っている(長門を二道が通る)ということも考えられます。しかし、「官道」を「軍管区」と考えると、一国を二分するというのは不自然ですので、「北陸道」は「陸路」ではなく「海路」だった(後の時代に「北海道」を「北陸道」と改称した)という考えの方に今の段階では魅力を感じています。

 古賀さまのご疑問にお答えできたとは思いませんが、とりあえず考え(妄想)を述べさせていただきました。


第1638話 2018/04/01

百済伝来阿弥陀如来像の流転(1)

 太宰府市の観世音寺創建年次について、『発見された倭京』(古田史学の会編、明石書店。2018.03)収録の拙稿「太宰府都城の年代観 近年の研究成果と -九州王朝説-」で次のように記しました。

 「3.観世音寺の造営(六七〇年)
〔根拠〕①出土創建瓦老司Ⅰ式の編年が川原寺の頃と考えられる。②『二中歴』年代歴に白鳳年間の創建と記されている。③『日本帝皇年代記』に白鳳十年(六七〇)の創建と記されている。④『勝山記』に白鳳十年(六七〇)の創建と記されている。⑤『続日本紀』和銅二年(七〇九)二月条に、天智天皇が斉明天皇のために創建したとある。」(85頁)

 観世音寺の創建年は従来から諸説あり、一元史観においても安定した通説は見られませんでした。しかし、最終的な伽藍の完成年は8世紀前半とされてきました。考古学的にも創建年を特定できるほどの出土土器が少なく、出土瓦などの編年によっていました。
 他方、九州王朝説の視点から、わたしは創建瓦の老司Ⅰ式を従来の考古学編年に基づいて、川原寺系のもので藤原宮式よりも古い(7世紀後半)とする見解を支持してきました。更に文献史料に白鳳年間(661〜683)や白鳳十年(670)とするものを複数発見し、観世音寺創建を670年としました。
 この観世音寺創建670年説は揺るがないと考えているのですが、その結果、別の問題が発生し、解決できずに残されたままになっていました。観世音寺の本尊である百済伝来の丈六金銅阿弥陀如来像は、観世音寺創建までどこの寺院に安置されていたのかという問題です。(つづく)