古田史学の会一覧

第2952話 2023/02/26

『東日流外三郡誌』真実の語り部たち

昨日、安彦克己さん(東京古田会・副会長)からお電話をいただき、1月、3月に続いて5月も和田家文書研究会での発表の要請を受けました。三十年前に古田先生と行った和田家文書調査の記録を『東京古田会ニュース』に掲載していただいており、それと併行してリモートでも発表させていただくことにしたものです。
1月は「和田家文書調査の思い出」(注)、3月11日(土)のテーマは「『東日流外三郡誌』真実の語り部たち」で、早くから和田家文書や『東日流外三郡誌』の存在を知る次の方々の証言を紹介します。

佐藤堅瑞氏(泊村浄円寺住職・青森県仏教会々長)
松橋徳夫氏(山王日吉神社宮司・洗磯崎神社宮司)
白川治三郎(元市浦村々長)
藤本光幸氏(北方新社版『東日流外三郡誌』編集者)
和田喜八郎氏(和田家文書所蔵者)
和田章子氏(喜八郎氏の長女)
※肩書きは当時のもの。和田章子さん以外は故人。

5月の和田家文書研究会では、考古学的出土事実と『東日流外三郡誌』の整合について報告をします。青森県弘前市の「秋田孝季集史研究会」(竹田侑子会長)の皆さんもリモートで聴講されており、同会との交流を深めるため、久しぶりに津軽を訪問できればと願っています。

(注)古賀達也「洛中洛外日記」2917話(2023/01/15)〝「和田家文書調査の思い出」を発表〟


第2947話 2023/02/18

和田家文書偽作説への反証

 本日、大阪市福島区民センターで「古田史学の会」関西例会が開催されました。来月は大阪市都島区民センター(JR京橋駅北口より徒歩10分)で開催します。初めて使用する会場ですので、ご注意下さい。

 今回、久しぶりに例会発表しました。30年ほど昔に古田先生と行った和田家文書調査の報告〝和田家文書調査の思い出 ―古田先生との津軽行脚―〟です。古田先生と津軽行脚した当時、『東日流外三郡誌』をはじめとする和田家文書を、所蔵者により昭和四十年代以降に偽作されたとする説が、マスコミを巻き込んで喧伝されていました。そうした偽作キャンペーンがあまりに酷いため、わたしたちは現地調査を実施し、和田家文書が戦後間もなく当地の研究者たちにより学術誌『陸奥史談』第拾八輯(昭和26年)や『市浦村史』(昭和26年)などに発表されていたことを突き止めました。

 和田家文書の存在を早くから知っていた人々に聞き取り調査も実施しましたが、当時の証言者の殆どが物故されたこともあり、わたしの記憶が鮮明なうちに関西例会で報告することにしました。当時の経緯は「洛中洛外日記」などでも紹介してきたところです(注)。この報告は次回例会でも続ける予定です。

 今回の例会には、一月に京都市で開催した新春古代史講演会のおり入会された松田さん(京都市)が初参加されました。また、相模原市から冨川ケイ子さん(古田史学の会・全国世話人)が参加され、研究発表されました。上田武さん(古田史学の会・会員、八尾市)は初発表です。

 2月例会では下記の発表がありました。なお、発表希望者は西村秀己さんにメール(携帯電話アドレス)か電話で発表申請を行ってください。発表者はレジュメを25部作成されるようお願いします。

〔2月度関西例会の内容〕
①ここまでわかった? 歴史教科書 (八尾市・上田 武)
②『新唐書』を再評価する (姫路市・野田利郎)
③『日本書紀』における「呉」について (たつの市・日野智貴)
④和田家文書調査の思い出 ―古田先生との津軽行脚― (京都市・古賀達也)
⑤系図研究から九州年号にも関心を持った大名・秋田実季 (相模原市・冨川ケイ子)
⑥三角縁神獣鏡研究の新展開 (京都市・岡下英男)
⑦天武天皇に関する一考察 (茨木市・満田正賢)
⑧『古事記』序文の理解 谷本氏からのご指摘に答える (東大阪市・萩野秀公)

◎「古田史学の会」関西例会(第三土曜日) 参加費500円(三密回避に大部屋使用の場合は1,000円)
02/18(土) 会場:都島区民センター ※JR京橋駅北口より徒歩10分

(注)
「洛中洛外日記」2575~2578話(2021/09/20~23)〝『東日流外三郡誌』真実の語り部(1)~(4)〟
「洛中洛外日記」2580~2583話(2021/09/25~29)〝『東日流外三郡誌』公開以前の和田家文書(1)~(3)〟
「和田家文書に使用された和紙」『東京古田会ニュース』206号、2022年。
「『東日流外三郡誌』公開以前の史料」『東京古田会ニュース』207号、2022年。
「『東日流外三郡誌』真作の証明 ―「寛政宝剣額」の発見―」『東京古田会ニュース』208号、2023年。

 

令和5年(2023)2月18日  古田史学会関西例会

和田家文書調査の思い出 — 古田先生との津軽行脚古賀達也


第2946話 2023/01/16

『古田史学会報』174号の紹介

 『古田史学会報』174号が発行されました。一面には日野智貴さんの論稿「菩薩天子と言うイデオロギー」が掲載されました。近年の『古田史学会報』に掲載された論稿としては、政治思想史を主題としたもので異色、かつ優れた仮説です。

 九州王朝の天子、阿毎多利思北孤を〝海東の菩薩天子〟と古田先生は述べられましたが、なぜ多利思北孤が「菩薩天子」として君臨したのかを政治(宗教)思想から明らかにしたのが日野稿です。すなわち、天孫降臨以降、日本列島各地に侵出割拠した天孫族(天神の子孫)に対して、多利思北孤は菩薩戒を受戒することにより、仏教思想上で「天神」よりも上位の「菩薩天子」として、全国の豪族を統治、君臨したとするもので、独創的な視点ではないでしょうか。

 当号には、もう一つ注目すべき論稿が掲載されています。正木さんの〝「太宰府」と白鳳年号の謎Ⅱ〟です。同稿は、大宰府政庁Ⅰ期とⅡ期の成立年代について、文献史学と考古学のエビデンスに基づく編年を提起したものです。太宰府の成立年代としては北部の政庁Ⅱ期・観世音寺よりも南部の条坊造営が先行し、両者の創建時期を八世紀初頭と七世紀末とする井上信正説(注①)が最有力視されていますが、観世音寺創建を白鳳十年(670年)とする文献史学のエビデンス(注②)と整合していませんでした。

 正木稿では、飛鳥編年に基づく太宰府の土器編年が不適切として、政庁Ⅱ期を670年頃、政庁Ⅰ期を前期難波宮と同時期の七世紀中頃、そして条坊都市の中心にある通古賀(王城神社)が多利思北孤と利歌彌多弗利時代の遺構として「太宰府古層」と命名し、条坊造営と同時期の七世紀前半成立としました。この正木説は有力と思われます。

 拙稿〝九州王朝都城の造営尺 ―大宰府政庁の「南朝大尺」―〟も大宰府政庁遺構の造営尺と造営時期を論じていますので、併せてお読み頂ければと思います。
上田稿〝九州王朝万葉歌バスの旅〟は『古田史学会報』デビュー作、白石稿〝舒明天皇の「伊豫温湯宮」の推定地〟は久しぶりの投稿です。

 174号に掲載された論稿は次の通りです。投稿される方は字数制限(400字詰め原稿用紙15枚程度)に配慮され、テーマを絞り込んだ簡潔な原稿とされるようお願いします。

【『古田史学会報』174号の内容】
○菩薩天子と言うイデオロギー たつの市 日野智貴
○九州王朝都城の造営尺 ―大宰府政庁の「南朝大尺」― 京都市 古賀達也
○舒明天皇の「伊豫温湯宮」の推定地 今治市 白石恭子
○九州王朝万葉歌バスの旅 八尾市 上田 武
○「壹」から始める古田史学・四十
「太宰府」と白鳳年号の謎Ⅱ 古田史学の会・事務局長 正木 裕
○関西例会の報告と案内
○『古田史学会報』投稿募集・規定
○古田史学の会・関西例会のご案内
○2022年度会費未納会員へのお願い
○『古代に真実を求めて』26集発行遅延のお知らせ
○編集後記

(注)
①井上信正「大宰府の街区割りと街区成立についての予察」『条里制・古代都市の研究17号』2001年
同「大宰府条坊について」『都府楼』40号、2008年。
同「大宰府条坊区画の成立」『考古学ジャーナル』588、2009年。
同「大宰府条坊研究の現状」『大宰府条坊跡 44』太宰府市教育委員会、平成26年(2014年)。
同「大宰府条坊論」『大宰府の研究』(大宰府史跡発掘五〇周年記念論文集刊行会編)、高志書院、2018年。
②古賀達也「観世音寺考」119号、2013年。


第2933話 2023/02/01

『東京古田会ニュース』No.208の紹介

『東京古田会ニュース』208号が届きました。拙稿「『東日流外三郡誌』」を掲載していただきました。同稿は本年1月14日(土)に開催された「和田家文書」研究会(東京古田会主催)で発表したテーマに対応したものです。同紙にはこのところ和田家文書関連論稿を掲載していただいています。次の通りです。

206号 和田家文書に使用された和紙
207号『東日流外三郡誌』公開以前の史料
208号『東日流外三郡誌』真作の証明 ―「寛政宝剣額」の発見―

209号には「『東日流外三郡誌』真実の語り部 ―古田先生との津軽行脚―」を投稿しました。併行して、東京古田会主催の和田家文書研究会にもリモートで研究発表をさせていただいています。今月に続いて3月11日(土)も発表予定です。この機会に、三十年前に古田先生と実施した津軽行脚の記録を整理・紹介したいと考えています。
拙稿の他に皆川恵子さん(松山市)の「田沼意次と秋田孝季in『和田家文書』その3 前編」が掲載されています。秋田孝季と同時代の江戸期の史料『赤蝦夷風説考』工藤平助著などが紹介されており、勉強になりました。


第2919話 2023/01/17

『九州倭国通信』No.209の紹介

 友好団体「九州古代史の会」の会報『九州倭国通信』No.209が届きました。同号には拙稿「『ヒトの寿命』は38歳、DNA研究で判明」を掲載していただきました(注①)。拙稿は、二倍年暦の傍証になりそうな理系研究の紹介を主内容としているため、当初から横書き掲載を想定して執筆したものです。というのも、わたしの英文論文“A study on the long lives described in the classics”(注②)を紹介するので、横書きにせざるを得ませんでした。

 今回の209号は、横書きの論稿が拙稿や表紙を含め7.5頁を占め、全14頁の過半数を超えています。『九州倭国通信』は横書き主流の新時代に入ってきたようです。

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」2839話(2022/09/18)〝「ヒトの寿命」は38歳、DNA研究で判明〟
②http://www.furutasigaku.jp/epdf/phoenix1.pdf


第2917話 2023/01/15

「和田家文書調査の思い出」を発表

昨日の和田家文書研究会(東京古田会主催)にて、「和田家文書調査の思い出 ―古田先生との津軽行脚―」をリモート発表させていただきました。当テーマは、和田家文書偽作キャンペーンが激しくなった、今から三十年程前に実施した、古田先生との津軽行脚の報告と和田家文書の史料情況について解説したものです。当発表は注目されていたようで、青森県弘前市からも「秋田孝季集史研究会」(竹田侑子会長)の皆さん約20名がリモート参加されていました。
今回の報告の主目的は、『東日流外三郡誌』をはじめとする和田家文書が昭和四十年代に和田喜八郎氏により偽作されたとする偽作説への反証として、津軽行脚での調査成果の紹介でした。当時の関係者のほとんどが物故されており、わたしの記憶が鮮明なうちに和田家文書研究者に伝え、偽作説が誤りであることを明確にすることでした。
当時(1996年8月)の聞き取り調査のうちで最も有力な証言は、北海道松前町阿吽寺で偶然にお会いした永田富智さん(当時、松前町史編纂委員。故人)によるものでした。その要旨は次の通りです。

(1) 津軽で貴重な文書が出たことを知り、当時、関わっていた北海道史の編纂に役立つかもしれないと思い、昭和46年に市浦村を訪問した。
(2) そのとき、同村役場で『東日流外三郡誌』約二百~三百冊を見た。
(3) 文書に使用されている紙は、明治の末頃に流行した機械梳きの和紙であった。
(4) 文字や墨の色も古く、戦後のものではありえず、明治の末頃のものと思われた。

この証言は決定的です。永田さんは中近世史研究の専門家で、数多くの古文書を見てきたプロフェッショナルです。その専門家が『東日流外三郡誌』約二百~三百冊を昭和46年に実見し、それらが明治の末頃のもので、決して戦後に作られたものではないと証言されのです。このときの証言はビデオ録画されており、証拠能力も申し分ありません。
このような報告をしたのですが、質疑も活発で時間不足のまま終わりました。主催された安彦克己さん(東京古田会・副会長)から、三月と五月の研究会での継続発表をご要請いただきました。ありがたいことですので、当時の調査資料の整理を兼ねて、準備したいと思います。


第2905話 2023/01/01

令和四年の回想「新時代の予感」

「古田史学の会」の皆さん、「洛中洛外日記」読者の皆さん、古田ファンの皆さん、古代の真実を愛する皆さん、新年のご挨拶を申し上げます。令和四年(2022)は内外ともに衝撃的で暗い事件が多く、恐らく歴史の転換点の年として記憶されるのではないでしょうか。ここでは古田史学と「古田史学の会」に焦点を絞って令和四年を振り返ってみます。
もっとも象徴的で印象に残ったことが二つあります。一つは、奈良新聞に正木さんの講演記事が大きく掲載されたことです。これは偶然でも僥倖でもなく、関係者による数年にわたる地道な努力の賜物です。このことに深く感謝しています。
二つ目は、インターネットを利用したリモート会議システム(zoom、skype)の研究会活動への採用です。このシステムのおかげで、わたしは多元的古代研究会や東京古田会の例会などに参加させていただくことができ、関東や東北他方の研究者と学問的交流と信頼関係を深めることができました。わたし自身も多くのことを学ぶことができ、今まで知らなかった優れた研究者との出会いも続いています。わたしも研究発表のご依頼をいただくこともあり(注)、自らの研究や認識を見直すよい機会にもなっています。また、「古田史学リモート勉強会」を開催し、今まで機会がなかった遠方の研究者との交流をわたしも始めました。
この二つの事例は、十年前であれば想像もできなかったことであり、わたしたちが歴史の転換点に立っていることを暗示しているように思います。今、このときが新時代なのかもしれません。
最後にわたし個人のことですが、定年退職後二年を経て、ようやく体調が改善しました。定年前十年間のハードワークがたたり、身体はぼろぼろでしたので、養生を続けて薬の服用を全てやめることができました。これからは学問研究と「古田史学の会」の運営、古田学派全体への貢献に尽力する所存です。皆さんのご支援、ご教導をお願いいたします。

(注)本年1月と3月の東京古田会主催「和田家文書研究会」で発表予定です。


第2904話 2022/12/31

『多元』No.173の紹介

友好団体「多元的古代研究会」の会誌『多元』No.173が届きました。同号には拙稿「宮名を以て天皇号を称した王権」を掲載していただきました。同稿は、『東京古田会ニュース』二〇六号(二〇二二年九月)に掲載された橘高修さん(東京古田会・事務局長、日野市)の論稿「『船王後墓誌』から見える近畿王朝」での重要な指摘を受けて著したものです。それは次の指摘です。

「(古田説によれば、船王後墓誌に見える)宮は天皇ごとに違うので、九州王朝は国王が変わるたびに中心となる宮の場所が変わる制度をもっていたことになるわけです。国王が変わるごとに年号が変わることは一般的と思われますが、宮の場所まで変わるとなるとどういうことになるのでしょうか。『天皇の坐す宮』と大宰府などの政庁はどういう関係だったのだろうか」 ※()内は古賀による補記。

この橘高さんの問題提起を受けて、九州王朝(倭国)が七世紀前半頃に恒久的都城・宮として「太宰府」条坊都市(名称はおそらく「倭京」)を造営した後、そこで即位・君臨した天子は何と呼ばれたのかについて考証したものです。関東の研究者たちとの学問的交流により、わたしの問題意識が深められました。
当号には和田昌美さん(多元的古代研究会・事務局長)による「一年を顧みて」が掲載されています。そこで七世紀の太宰府の編年研究について次のように述べています。

 「太宰府は九州王朝の首都の有力候補地と考えられます。しかし、その首都機能の成立年代はなかなか確定しません。(中略)新たな論拠、新たな物証が見つかった時点で議論を前に進めることが賢明なのではないかと愚考します。」

太宰府成立研究におけるエビデンス(出土物など)に基づく新たな研究を示唆されたものです。既存エビデンスの精査をはじめ、新たなエビデンスや視点に基づいた研究を進めたいと思います。


第2897話 2022/12/18

天孫に君臨する菩薩天子

 昨日はエル大阪(大阪市中央区)で「古田史学の会」関西例会が開催されました。来月はキャンパスプラザ京都6階(ビックカメラJR京都店の北)で開催します。午後は恒例の新春古代史講演会(注)を同施設4階で開催します。

 このところ研究ジャンルが広がり、ハイレベルの発表が続いている関西例会ですが、発表テーマをご覧になってわかるように、今月も様々な研究が発表されました。とりわけ、わたしが注目したのが日野さんの倭国(九州王朝)の政治思想についての研究です。やや説明や論理構造が難解だったこともあり、疑問意見が続出しましたが、多利思北孤が菩薩戒を受けたのは、「菩薩天子」となることにより、国内の天孫諸豪族の上位に立つためであるとする見解は鋭い指摘だと感心しました。
 仏教思想では仏や菩薩は諸天善神よりも上位であり、倭王(天子)は出家しなくても受戒できる菩薩天子となることにより、天孫降臨以来の多くの天神の末裔たちの上に宗教的にも世俗的にも君臨することができたというのが、日野説の論点です。この統治思想は隋の煬帝も持っていたとのことで、おそらく多利思北孤はそれに倣い、国内統治のために仏教を国家的に受容したことになります。ちなみに、王朝交代後の大和朝廷でも聖武天皇らにより採用されています。古代史と思想史を融合したこの日野さんの研究に注目しています。

 12月例会では下記の発表がありました。なお、発表希望者は西村秀己さんにメール(携帯電話アドレス)か電話で発表申請を行ってください。発表者はレジュメを25部作成されるようお願いします。

〔12月度関西例会の内容〕
①『隋書』俀国伝の二つの都 (姫路市・野田利郎)
②常世国と非時香菓(ときじくのかぐのこのみ)について ―大原重雄氏の『日本書紀』の史料批判の方法をめぐって― (神戸市・谷本 茂)
③縄文語で解く記紀の神々・第九話 カグツチ神から生じた神々 (大阪市・西井健一郎)
④消された詔と移された事情(前) (東大阪市・萩野秀公)
⑤聖地の記述に隠された王朝交代 (茨木市・満田正賢)
⑥縄掛け突起や石棺の形状の系譜 (大山崎町・大原重雄)
⑦傾斜のある石棺 (大山崎町・大原重雄)
⑧今城塚古墳の特徴から垣間見える騎馬遊牧民の姿 (大山崎町・大原重雄)
⑨十七条憲法と「菩薩天子」イデオロギーの違い (たつの市・日野智貴)
⑩同時代史料で九州王朝の天皇はどう呼ばれていたか (八尾市・服部静尚)
⑪多賀城碑から「東西5月行、南北3月行」を検証する (川西市・正木 裕)

◎「古田史学の会」関西例会(第三土曜日) 参加費500円(三密回避に大部屋使用の場合は1,000円)
 01/21(土) 会場:キャンパスプラザ京都(京都市下京区、ビックカメラJR京都店の北)

(注)
【令和5年 新春古代史講演会 よみがえる京都の飛鳥・白鳳寺院】
□日時 2023年1月21日(土) 午後1時開場~5時
□会場 キャンパスプラザ京都 4階第3講義室 定員170名
□主催 市民古代史の会・京都、古田史学の会・他
□参加費 500円(資料代) ※学生は学生証提示で無料
□講師・演題
 高橋潔氏(公益財団法人 京都市埋蔵文化財研究所 資料担当課長)
     「京都の飛鳥・白鳳寺院 ―平安京遷都前の北山背―」
 古賀達也(古田史学の会・代表)
     「『聖徳太子』伝承と古代寺院の謎」


第2894話 2022/12/13

『古田史学会報』173号の紹介

 『古田史学会報』173号が発行されました。一面には拙稿〝蝦夷国への仏教東流伝承 ―羽黒山「勝照四年」棟札の証言―〟を掲載していただきました。本稿は羽黒山神社にあった「勝照四年(588年)」銘棟札の史料批判の結果、勝照四年が倭国(九州王朝)から蝦夷国への仏教伝来年次を示すものであることを論じたものです。倭国(九州王朝)に仏教が伝来したのは418年とする研究(注)を発表したことがありますが、その170年後に蝦夷国(羽黒山)に仏教が東流したことになります。

 この他に、日野智貴さんの物部氏研究に関する論稿2編が掲載されました。いよいよ古田学派に於ける本格的な物部氏研究の始まりです。どのような展開となるのかはわかりませんが、重要テーマですので、多くの研究者に注目していただければと思います。

  173号に掲載された論稿は次の通りです。投稿される方は字数制限(400字詰め原稿用紙15枚程度)に配慮され、テーマを絞り込んだ簡潔な原稿とされるようお願いします。

【『古田史学会報』173号の内容】
○蝦夷国への仏教東流伝承 ―羽黒山「勝照四年」棟札の証言― 京都市 古賀達也
○新春古代史講演会(1月21日 キャンパスプラザ京都)のお知らせ
○九州物部氏の拠点について たつの市 日野智貴
○伊吉連博徳書の捉え方について 茨木市 満田正賢
○「丹波の遠津臣」についての考察 京丹後市 森 茂夫
○七世紀における土佐国「長岡評」の実在性 高知市 別役政光
○田道間守の持ち帰った橘のナツメヤシの実のデーツとしての考察 京都府大山崎町 大原重雄
○弓削氏と筑紫朝廷 たつの市 日野智貴
○「壹」から始める古田史学・三十九
「太宰府」と白鳳年号の謎Ⅰ 古田史学の会・事務局長 正木 裕
○古田史学の会・関西例会のご案内

(注)古賀達也「倭国に仏教を伝えたのは誰か ―「仏教伝来」戊午年伝承の研究―」『古代に真実を求めて』第一集、古田史学の会編、1996年。1999年に明石書店から復刊。


第2887話 2022/12/04

よみがえる京都の飛鳥・白鳳寺院2023年 1月21日(土)

京都の秦氏と『隋書』俀国伝の秦王国

 来年1月21日(土)の新春古代史講演会のテーマと演題が次のように決まりました。

〔テーマ〕
□よみがえる京都の飛鳥・白鳳寺院
〔講師・演題〕
□高橋潔氏(京都市埋蔵文化財研究所 資料担当課長)
 京都の飛鳥・白鳳寺院 ―平安京遷都前の北山背―
□古賀達也(古田史学の会・代表)
 「聖徳太子」伝承と古代寺院の謎

 高橋氏の考古学的成果の発表を受けて、わたしからは考古学と文献史学による、京都市(北山背)の古代寺院群と九州王朝(倭国)との関係について論じる予定です。
 同講演に備えて、発掘調査報告書の精査と文献史学による京都(北山背)の研究を進めていますが、わたしが最も注目しているのは、北山背の渡来系氏族とされる秦氏の存在です。七世紀の古代寺院の造営にあたり秦氏が大きな役割をはたしたと通説では説明されているのですが、この秦氏と『隋書』俀国伝に見える秦王国とは関係があるのではないかと考えています。
 この秦氏の「秦」は、「はた」あるいは「はだ」と訓まれていますが、本来は「しん」であり、渡来後のある時期に「はた」「はだ」の訓みが与えられたとする記事が『新撰姓氏録』には見えます。従って、秦(しん)氏と秦(しん)王国は関係があるのではないでしょうか。俀国伝の行程記事に見える秦王国の位置については諸説ありますが、わたしは古田先生が推定された筑後川流域説(注)を支持しています。そして、その地に割拠した渡来系集団としての秦氏は、太宰府条坊都市の造営に貢献したのではないでしょうか。
 その秦氏の一派が倭の五王や多利思北孤の東征に伴って、北山背にも入り、当地の古代寺院群の創建に関わったとする仮説をわたしは検討しています。更には平安京造営にもその秦氏が深く関わったのではないかと考えています。(つづく)

(注)古田武彦『邪馬一国の証明』角川文庫、1980年。後にミネルヴァ書房より復刊。


第2885話 2022/11/29

『東京古田会ニュース』No.207の紹介

本日、『東京古田会ニュース』207号が届きました。拙稿「『東日流外三郡誌』公開以前の史料」を掲載していただきました。同稿は和田家文書調査を開始した1994年頃からの思い出やエピソードを紹介したもので、昭和50年(1975年)から『市浦村史』資料編として世に出た『東日流外三郡誌』よりも先に公開された和田家文書について詳述しました。それは次のような資料です。

一、「飯詰町諸翁聞取帳」 昭和24年(1949年)
『飯詰村史』に和田家から提供された「飯詰町諸翁聞取帳」が多数引用されています。『飯詰村史』は昭和26年(1951年)の刊行ですが、編者の福士貞蔵氏による自序には昭和24年(1949年)の年次が記されており、終戦後間もなく編集されたことがわかります。福士氏は「飯詰町諸翁聞取帳」を『陸奥史談』第拾八輯、昭和26年(1951年)にも紹介しています。「藤原藤房卿の足跡を尋ねて」という論文です。

二、開米智鎧「役小角」史料 昭和26年(1951年)
『飯詰村史』で和田家の「役小角」史料を紹介されたのが開米智鎧氏(飯詰・大泉寺住職)です。開米氏は「青森民友新聞」にも和田家発見の遺物について、昭和31年(1956年)11月1日から「中山修験宗の開祖役行者伝」を連載し、翌年の2月13日まで68回を数えています。さらにその翌日からは「中山修験宗の開祖文化物語」とタイトルを変えて、これも6月3日まで80回の連載です。

三、開米智鎧『金光上人』昭和39年(1964年)
和田家から提供された金光上人関連文書に基づいて著された金光上人伝が『金光上人』昭和39年(1964年)です。同書には多くの和田家文書が紹介されています。

来年1月14日(土)に開催される「和田家文書」研究会(東京古田会主催)で、これらについて詳しく説明させていただきます。