古田史学の会一覧

第2593話 2021/10/15

パリからの国際電話(古田先生の命日)

 昨晩、パリ市在住の奥中清三さん(古田史学の会・会員)から国際電話をいただきました。奥中さんはパリ市公認の画家で、年に一ヶ月ほどはモンマルトルのアトリエで観光客の似顔絵などを描き、それ以外のときは自らが好きな絵を描いておられるとのこと。今年はパリに渡って50年になるそうです。コロナでフランスも大変で、政府に対してワクチン接種反対デモなども頻繁に行われていると仰っていました。日本とは大違いです。
 コロナ禍のために帰国もままならいようで、前回は2016年11月に大阪市でお会いし、大阪城や難波宮跡などをご案内しました。昨日(10月14日)は、古田先生の命日ということで、お電話をいただきました。先生の命日を忘れずにいていただき、有り難いことと感謝しています。


第2590話 2021/10/12

『古田史学会報』166号の紹介

 『古田史学会報』166号が発行されましたので紹介します。
 一面には、9月18日に亡くなられた竹内強さん(全国世話人、古田史学の会・東海会長)への弔辞として、故人の思い出と研究業績を綴らせていただきました。古田先生や古田史学を守り続けてきた同志のご逝去は耐えがたい悲しみです。
 本号で、わたしがもっとも注目したのは野田さんの論稿です。『隋書』の表記「自A以東」において、「以東」の中にAを含むのか含まないのかという文法についての研究で、当時の人々の文法認識に迫る点では、フィロロギーに関わるテーマです。従来の研究では〝含む場合もあれば、含まない場合もある〟という説が有力だったのですが、それでは『隋書』の中の重要な位置情報が、読む人の主観に任されるという懸念があり、わたしは疑問に感じていました。野田稿では『隋書』の史料批判の結果、含まないとされました。野田説の当否は置くとしても、こうした位置情報に関して、含むのか含まないのかという基本的な文法に曖昧さを残さないという研究は貴重と思いました。
 正木さんの論稿は、『赤渕神社縁起』(兵庫県朝来市)を史料根拠とする九州王朝の天子、伊勢王の事績研究です。七世紀における九州王朝史研究の基本論文の一つではないでしょうか。
 大原さんの論稿は関西例会で論議を巻き起こした研究です。『日本書紀』斉明紀に見える「狂心の渠」を水城のこととする古田説を深化させたもので、更なる論議検証が期待されます。

 166号に掲載された論稿は次の通りです。投稿される方は字数制限(400字詰め原稿用紙15枚程度)に配慮され、テーマを絞り込んだ簡潔な原稿とされるようお願いします。

【『古田史学会報』166号の内容】
○竹内強さんの思い出と研究年譜 古田史学の会・代表 古賀達也
○「自A以東」の用法 ―古田・白崎論争を検証する― 姫路市 野田利郎
○九州王朝の天子の系列(3) 『赤渕神社縁起』と伊勢王の事績 川西市 正木 裕
○『無量寺文書』における斉明天皇「土佐ノ國朝倉」行幸 高知市 別役政光
○狂心の渠は水城のことだった 京都府大山崎町 大原重雄
○「壹」から始める古田史学・三十二
 多利思北孤の時代Ⅸ ―多利思北孤の「太宰府遷都」― 古田史学の会・事務局長 正木 裕
○『古田史学会報』原稿募集
○史跡めぐりハイキング 古田史学の会・関西
○古田史学の会・関西例会のご案内
○編集後記 西村秀己


第2589話 2021/10/11

鬼ノ城と前期難波宮の使用尺が合致

 昨日の多元的古代研究会月例会では、鈴木浩さんが「倭五王王朝の興亡 朝鮮式山城・神籠石と装飾古墳」というテーマで研究発表されました。神籠石などの古代山城の多くは九州王朝の時代に築城されていることもあり、わたしも研究対象として注目してきました。そこで、同例会に先だって古代山城について予習しました。
 予習として最初に読んだのが向井一雄さんの『よみがえる古代山城』(注①)です。同書は大和朝廷一元論に基づいていますが、古代山城研究の第一人者と目される向井さんの著書だけに、考古学的出土事実に関する紹介は参考になり、古田学派の研究者にも注目して欲しい一冊です。そこに、次の興味深い指摘がありました。

 「古代山城の倉庫は、通常の郡衙倉庫が三〇平方㍍であるのと比べても大きく、特に大野・基肄城で採用されている三×五間の総柱礎石建物は六〇平方㍍とひときわ大きい。設計に使用された尺度は大野城では天平尺の二九・六㌢よりも若干長く国分寺建設期の一尺(二九・九㌢)と合致する(鏡山 一九八〇)。鬼ノ城では前期難波宮使用尺の二九・二㌢と合致する柱間が指摘されており、大野城倉庫の年代が八世紀代に下る可能性が尺度面からもうかがえる。」108頁

 最後の「大野城倉庫の年代が八世紀代に下る可能性が尺度面からもうかがえる。」には賛成できませんが、次の指摘部分は九州王朝説にとって、貴重な知見です。

(1)古代山城の倉庫は、通常の郡衙倉庫と比べて大きく、特に大野・基肄城で採用されている三×五間の総柱礎石建物は六〇平方㍍とひときわ大きい。
(2)大野城の設計に使用された尺度は一尺:二九・九㌢。
(3)鬼ノ城では前期難波宮使用尺の二九・二㌢と合致する柱間が指摘されている。

 上記(1)は、九州王朝の都(太宰府条坊都市)を防衛する南北の山城(基肄城・大野城)に「ひときわ大きい倉庫」があることは、九州王朝説に有利な事実です。
 (2)の大野城設計使用尺が29.9cmであることは、太宰府条坊設計尺(約29.9~30cm)に極めて近く、両者が同時期に設計・造営されたことをうかがわせる事実です。井上信正説(注②)によれば、太宰府条坊都市造営は太宰府政庁Ⅱ期に先行するとされており、大野城も太宰府条坊都市と同時期(七世紀前半~中頃)に設計・築城が始まったと考えられます。従って、使用尺を国分寺建設期(八世紀)のものとする向井さんの見解には賛成できません。
 そして、わたしが最も驚いたのが(3)の知見、鬼ノ城と前期難波宮の造営尺(29.2cm、注③)が同じという指摘です。前期難波宮九州王朝複都説(九州年号の白雉元年:652年造営)に立つわたしの視点からすると、同一尺を使用した鬼ノ城と前期難波宮の設計・造営時期はともに七世紀中頃と見なせます。それはとりもなおさず、鬼ノ城の築城者は九州王朝複都の前期難波宮造営尺を使用した勢力ということになり、北部九州や瀬戸内海地域に点在する神籠石山城を九州王朝(系勢力)による築城とみなした古田説を支持します。そして古田説が正しいとなれば、鬼ノ城と同一尺で設計された前期難波宮を九州王朝の複都とするわたしの説と整合するからです。

(注)
①向井一雄『よみがえる古代山城』吉川弘文館、2017年。
②井上信正「大宰府の街区割りと街区成立についての予察」『条里制・古代都市の研究17号』2001年
 井上信正「大宰府条坊について」『都府楼』40号、2008年。
 井上信正「大宰府条坊区画の成立」『考古学ジャーナル』588、2009年。
 井上信正「大宰府条坊研究の現状」『大宰府条坊跡 44』太宰府市教育委員会、平成26年(2014年)。
 井上信正「大宰府条坊論」『大宰府の研究』(大宰府史跡発掘五〇周年記念論文集刊行会編)、高志書院、2018年。
③古賀達也「都城造営尺の論理と編年 ―二つの難波京造営尺―」『古田史学会報』158号、2020年6月。
 古賀達也「洛中洛外日記」2522話(2021/07/18)〝難波京西北部地区に「異尺」条坊の痕跡〟


第2588話 2021/10/10

「多元的古代研究会」月例会にリモート参加

 本日、「多元的古代研究会」月例会にリモート参加させていただきました。ときおり、配信状況が悪くなり、よく聞き取れなかったのが残念でした。
 今回の発表は次のお二方で、西坂さんが紹介された古田先生の「筑紫の難波長柄豊碕宮」説は、先生と意見交換や論争を十年間続けたテーマでもあり、当時のことを思い出しながら聞きました。

○西坂久和さん 「筑紫の難波長柄豊碕宮を探る」
○鈴木 浩さん 「倭五王王朝の興亡 朝鮮式山城・神籠石と装飾古墳」

 質疑応答の時間に、古田先生との論争内容やその後の研究状況などについて、紹介させていただきました。
 まず、『日本書紀』に見える「難波長柄豊碕宮」に「碕」の字が使用されており、岩山である愛宕山(福岡市西区)にふさわしい用字とする見解について、『日本書紀』(岩波日本文学大系本、国史大系本)では、「さき」地名には「碕」の字が使用されており(注①)、「崎」は見あたらないので、「碕」字使用を岩山と結びつける根拠にはできないことを説明しました。次に大阪市北区長柄豊崎地区には古墳時代の豊崎遺跡が出土しており、当地を「低湿地」とする理解は適切ではないと述べました(注②)。
 そして、古田先生との間で見解が対立した論点について、わたしからの次の主張を紹介しました。

(1)福岡市西区の愛宕山からは七世紀の宮殿跡は出土していない。古墳の出土をもって七世紀に宮殿があったとはできない。〔古田先生はこの地で「乙巳の変」(入鹿暗殺)が起こったとされる(注③)〕
(2)福岡市西区の愛宕山付近に九州王朝の宮殿があったと解しうる現地伝承はない。他方、大阪市北区には「難波長柄豊崎宮」伝承地(豊崎神社創建伝承・他)がある(注④)。

 今回の西坂さんの発表が刺激となり、『日本書紀』孝徳紀を精査したところ、新たな発見がありました。別途、報告したいと思います。例会にリモート参加させていただき、ありがとうございました。

(注)
①『日本書紀索引』(吉川弘文館)によれば、次の「碕」字使用の地名が見える。
 「笠狭之御碕」「熊野之御碕」「豊碕」「豊碕宮」「長柄豊碕宮」「難波之碕宮」「難波長柄豊碕宮」「腠碕」「三津之碕」「三穂之碕」「山碕」
②古賀達也「洛中洛外日記」561話(2013/05/25)〝豊崎神社境内出土の土器〟
 古賀達也「洛中洛外日記」1593話(2018/02/01)〝豊崎神社付近の古代の地勢〟
③古田武彦「大化改新批判」『なかった』第五号、ミネルヴァ書房、2008年。
④古賀達也「洛中洛外日記」268話(2010/06/19)〝難波宮と難波長柄豊碕宮〟
 古賀達也「洛中洛外日記」1402話(2017/05/20)〝前期難波宮副都説反対論者への問い(6)〟
 古賀達也「洛中洛外日記」1689話(2018/06/12)〝「長柄の国分寺」の寺伝〟


第2585話 2021/10/01

『親鸞と被差別民衆』の人間模様

 河田光夫氏と古田先生、藤田友治さん

 四半世紀ぶりに、河田光夫氏の『親鸞と被差別民衆』(明石書店、1994年)を書架より探し出して読みました。同書冒頭には古田先生による序文が記されています。

〝(前略)
 わたしは馬齢を重ね、古希の坂へと登ろうとしている。しかし、振り返っても、君は亡い。
 河田氏の新著を祝うための一文が、一片の弔辞としてはじまったこと、それを読者におゆるしいただきたいと思う。わたしにとって氏は、親鸞研究の未知の沃野を開くべき刮目の人、そういう研究者だったのである。
 氏は、わたしの親鸞に関する論文を深く熟読して下さった。わたしの親鸞学の学問としての方法を理解し、その成果を深く摂取しつつ、新たな研究分野を切り開いてゆかれたのである。
 中でも、被差別民衆の立場から親鸞言説を検証する、その方法論は、出色だった。幾多の親鸞研究の中でも燦然たる光を放っている。今後も、失われることはないであろう。
 (中略)
 それゆえに、弔いの言葉としてではなく、お祝いの言葉をもって、本書の序文を結ばせていただきたいと思う。
  一九九四年十月十五日
  ――住井すゑさんの牛久の会の講演に赴く前夜――
                     古田武彦〟

 著者は親鸞研究を通して古田先生と懇意にされていたようです(注①)。河田氏はガンの闘病生活のなかで同書の校正を続け、その途中で亡くなられました(1993年12月18日没)。その校正作業を引き受け、出版にまでこぎ着けたのが藤田友治さん(注②)でした。同著末尾にある藤田さんの「河田光夫氏への追悼と本書の解題」にその経緯が記されています。また、藤田さんは河田氏を介して古田先生の著作を知り、先生との交流が始まったとのこと。当時の様子を次のように記されています。

〝河田氏の引越しの手伝いで河田氏宅にいった際、河田夫人から古田武彦『「邪馬台国」はなかった』や『親鸞 人と思想』の贈呈を受け、古田氏は河田氏の友人であることが解った。
 「偶然は人を思いがけないところへ導くものである」という言葉通り、河田氏から紹介された古田氏を中心にして、その後“囲む会”、さらに発展改称し、“市民の古代研究会”とし、全国組織となったのである(当初、事務局長、前会長)。そして最近は「古田史学の会」へその精神は引き継がれた。〟『親鸞と被差別民衆』146頁

 こうした学問研究を縁(えにし)とした人間模様は、これからも誰かに繋がっていくものと思います。河田氏、藤田さん、古田先生は既に鬼籍に入られました。残された者の一人として、記憶を書き留め、これからの新たな学縁を繫いでいきたいと願っています。

(注)
①古田武彦『親鸞 人と思想』(清水書院、1970年)に河田氏の研究が次のように紹介されている。
 「この問題について、河田光夫に『念仏弾圧事件と親鸞』〈『日本文学』一九六八・七・十月号〉という、みごとな研究がある。言語文法の側面から、この問題を分析したものだ。」170頁
②藤田友治氏(1947~2005年)。「市民の古代研究会 ―古田武彦と共に―」の創立者で、事務局長、会長を歴任された。1994年の「古田史学の会」創立に参加。


第2582話 2021/09/27

『東京古田会ニュース』No.200の紹介

 『東京古田会ニュース』200号が届きました。今号は拙稿「年輪年代測定『百年の誤り』説 ―鷲崎弘朋説への異論―」を掲載していただきました。奈良文化財研究所による年輪年代測定は西暦640年以前のヒノキ標準パターンが百年間違っているとする鷲崎弘朋説に対して、法隆寺五重塔心柱(594年)と前期難波宮水利施設出土の木枠(634年)の両伐採年については妥当とする異論を発表したものです。また、「洛中洛外日記」2529話(2021/08/02)〝『東京古田会ニュース』No.199の紹介〟も転載していただきました。有り難いことです。
 同号に掲載された吉村八洲男さん(上田市)の論稿「『真田の鉄』発見記 その①」は、フィールドワークと顕微鏡観察に基づいた、なかなかの力作でした。吉村稿によれば、従来、長野県上田市真田町には鉄に関連した遺跡や史料は皆無とされてきましたが、真田町傍陽(そえひ)地区に製鉄に関する伝承があることを知った吉村さんは、同地を調査され、鉄滓・炉壁・鉱石を発見されました。その経緯や分析結果が報告されています。文献史学や考古学とは少し違った分野での新発見でもあり、続編が楽しみです。
 なお、200号という記念すべき当号の発行にあたり、一面には田中巌会長のご挨拶が掲載されています。会紙を200号まで続けるということは大変な努力の積み重ねの結果であり、東京古田会を支えてこられた先人や現役員の皆様に改めて敬意を表します。


第2573話 2021/09/18

斉明紀「狂心の渠」=水城説の展開!

 本日はi-siteなんばで「古田史学の会」関西例会が開催されました。10月例会はドーンセンター、11月はi-siteなんばで開催します(参加費1,000円)。
 今日の発表はいずれも勉強になることばかりで、驚きの連続でした。満田さんは、大業四年(608年)倭国に派遣された裴世清使節団の副使、遍光高という人物を紹介されました。『日本書紀』にも中国史書にも記されていない人物で、元興寺伽藍縁起にのみ記されているとのこと。従来、平安末期成立の偽文書扱いされている同縁起の再評価が必要と思われました。
 谷本さんも同縁起に見える「大隨國」の「隨」の時に焦点を当て、本来の国名「隋」と字が異なる理由について解説されました。隋唐時代に「隋」と「隨」が併用されており、隋代では「隋」が圧倒的に多く、唐代になって「隨」字の使用が激増したとのこと。このことをわたしは知りませんでしたが、隋唐の研究者にとっては有名なことのようです。結論として、元興寺伽藍縁起に引用されている古文書には古態を遺している部分があり、全否定するには惜しい文献とされました。
 正木さんは、九州年号「常色」「朱雀」などが記されている『赤渕神社縁起』(兵庫県朝来市)の詳細な史料批判を行われ、九州王朝(倭国)に関する記事の洗い出しに成功されました。同縁起の史料価値を更に高めた研究でした。『古田史学会報』への発表が待たれます。
 不二井さんの発表は短里の基礎となった「短歩」に関するもので、短里説の証明や痕跡を研究する上で役立つものと思われました。
 大原さんは、『日本書紀』斉明紀に見える「狂心の渠」記事を丹念に読み解くことにより、同記事を水城や神籠石造営のこととする古田説を精緻に発展させたもので、説得力を感じました。優れた研究と思いましたので、『古田史学会報』への投稿を要請しました。
 最後に発表された日野さんは、『記紀』ではなぜ初代天皇が神武とされ、ニニギとされなかったのかという疑問を提起し、元明天皇らがニニギを始祖とした九州王朝の存在を隠蔽するためとされました。この他にも、「古人大兄皇子は九州王朝の皇子」説などを発表されました。
 わたしは、宮崎県の「阿万」「阿萬」「米良」姓の集中分布と西都原古墳群の異形前方後円墳(前「三角錐」後円墳)との関係について研究発表しました。いずれの発表に対しても活発な質疑応答がなされ、更にパワーアップした「古田史学の会・関西」らしい例会となりました。コロナ禍も徐々に落ち着いてきましたので、多くの皆さんの参加をお待ちしています。
 なお、発表者はレジュメを25部作成されるようお願いします。発表希望者は西村秀己さんにメール(携帯電話アドレス)か電話で発表申請を行ってください。

〔9月度関西例会の内容〕
①裴世清と高表仁の格の違いについて (茨木市・満田正賢)
②「丈六光銘」の「大随國」をめぐって (神戸市・谷本 茂)
③服部仮説「遣唐使=14年のズレ」は成り立つか? (神戸市・谷本 茂)
④『赤渕神社縁起』の重要性の再発見 (川西市・正木 裕)
⑤「あま」姓・「米良」姓の分布と論理 ―宮崎県の「阿万」「阿萬」姓と異形前方後円墳― (京都市・古賀達也)
⑥人足と狸歩 (明石市・不二井伸平)
⑦狂心の渠は水城のことだった (大山崎町・大原重雄)
⑧元明天皇はなぜ九州王朝を隠蔽したのか (たつの市・日野智貴)

◎会務報告(正木事務局長)
1.大阪府立大学と市立大学の合併(大阪公立大学)によるi-siteなんばの今後について。

◎「古田史学の会」関西例会(第三土曜日) 参加費500円(「三密」回避に大部屋使用の場合は1,000円)
10/16(土) 10:00~17:00 会場:ドーンセンター
11/20(土) 10:00~17:00 会場:i-siteなんば
 ※コロナによる会場使用規制のため、緊急変更もあります。最新情報をホームページでご確認下さい。


第2565話 2021/09/12

「多元的古代研究会」月例会にリモート初参加

 昨日に続いて、本日は「多元的古代研究会」月例会にリモートで参加させていただきました。今回の月例会はコロナ禍のため、リモート参加のみにしたとのことでした。どの研究会も苦労されているようで、スカイプやズームのシステムなどについて、同会事務局長の和田昌美さんと情報交換もさせていただきました。
 今回は「天子の系列・後編~利歌彌多弗利から伊勢王へ」という演題で、七世紀中頃に活躍した九州王朝の天子「伊勢王」の事績について正木裕さん(古田史学の会・事務局長)が研究発表されました。『日本書紀』に見える「伊勢王」は九州王朝(倭国)の天子、即位は常色元年(647年)で白雉九年(660年)まで在位したとされ、評制の施行や律令制定など数々の痕跡が『日本書紀』に遺されていることを論証されました。これらは、七世紀前半から後半にかけての九州王朝史復原の先端研究です。

「佐賀なる吉野」へ行幸した九州王朝の天子とは誰か (上) (中) (下) に改題されています。

 質疑応答タイムでは、わたしから二つの質問をさせていただきました。

(1)『日本書紀』天武十年条(注①)や持統三年条(注②)に見える律令関連記事を通説では「浄御原令」のこととするが、それを34年遡って九州王朝律令とする正木説では、九州王朝複都の前期「難波宮」時代のことになり、「飛鳥(大和であれ筑紫であれ)」の「浄御原宮」での制定を前提とした「浄御原」令という名称は不自然ではないか(「難波律令」なら妥当)。

(2)大化二年(646年)の改新詔など大化期の一連の詔について、どのように位置づけるのか。

 正木さんからの回答(概略)は次のようなものでした。

(1)『日本書紀』では天武・持統による律令制定という建前にしているので、その制定場所も飛鳥浄御原宮ということになる。そのため、九州王朝が常色・白雉年間にかけて策定・公布した九州王朝律令を近畿天皇家が「浄御原令」(『続日本紀』大宝元年八月条。注③)と後に〝命名(改名)〟した可能性もあり、名称にこだわる必要はないと思われる。

(2)九州王朝(倭国)が常色年間(647~651年)に発した律令や詔勅と近畿天皇家(日本国)が王朝交代時(九州年号の大化年間、695~700年)に発した詔勅が、『日本書紀』の大化年間(645~649年)に配置されており、どちらの詔勅かは個別に検証しなければならない。

 以上のような回答でしたが、(1)の見解は初めて聞くもので、〝なるほど、そのような可能性(視点)もあるのか〟と勉強になりました。(2)については、「古田史学の会」関西例会で散々論議したテーマでもあり、わたしも同意見です。なお、リモート例会終了後に正木さんと電話で論議・意見交換を続けました。
 このように、有意義でとても楽しいリモート例会でした。これからも時間の都合がつく限り、参加したいと思います。

(注)
①「詔して曰く、『朕、今より更(また)律令を定め、法式を改めむと欲(おも)う。故、倶(とも)に是の事を修めよ。然も頓(にわか)に是のみを就(な)さば、公事闕くこと有らむ。人を分けて行うべし』とのたまう。」『日本書紀』天武十年(682)二月条
②「庚戌(29日)に、諸司に令一部二十二巻班(わか)ち賜う。」『日本書紀』持統三年(689)六月条
③「癸卯、三品刑部親王、正三位藤原朝臣不比等、従四位下下毛野朝臣古麻呂、従五位下伊吉連博徳、伊余部連馬養等をして律令を選びしむること、是を以て始めて成る。大略、浄御原朝庭を以て准正となす。」『続日本紀』大宝元年(701)八月条
 この記事の「大略、浄御原朝庭を以て准正となす」を史料根拠として「浄御原令」が持統により制定されたとするのが一般的な通説ですが、「古田史学の会」内でも諸説が発表されています。


第2564話 2021/09/11

「東京古田会」月例会にリモート初参加

 本日は東京古田会月例会にリモートで参加させていただきました。リモートでの月例会参加やスカイプ使用は初めてでしたが、トラブルもなく楽しく参加できました。関東の研究者の皆さんとはいつでもお会いできるわけではありませんから、リモート参加も良いものです。
 今回は和田家文書をテーマとする月例会(和田家文書研究会)で、安彦克己さんと藤田隆一さんによる下記の発表がありました。事前に資料が同会アーカイブに用意されていたこともあり、内容もよく理解できました。

○「奥州仏教伝来」 安彦克己さん
○「十三湊明神 願文」「十三往来」(『津軽一統志』附巻)の解説 藤田隆一さん

 いずれも勉強になりました。藤田さんは十三湊や山王日枝神社、福島城跡現地調査時の写真なども紹介され、30年ほど昔に古田先生と訪れた地でしたので、とても懐かしく思いました。なかでも、福島城については、その築造年が通説よりも和田家文書の記録の方が正しかったということが発掘調査により判明し、和田家文書は真作であることが証明されました。そのことを『古田史学会報』(注)で次のように発表しましたので、抜粋して紹介します。

和田家文書と考古学的事実の一致
 ―『東日流外三郡誌』の真作性― 京都市 古賀達也

福島城の築造年代
 東北地方北部最大の城館遺跡として知られる、福島城跡(青森県市浦村)は昭和三〇年に行われた東京大学東洋文化研究所(江上波夫氏)による発掘調査の結果、築造年代は安藤氏の城という所伝から南北朝~室町のころ(十四~十五世紀)のものとされ、長く通説となっていた。
 また文献史学の立場からも、秋田家で発見された『十三湊新城記』の次の記事を根拠に正和年中(一三一二~一三一六)の築城とする説が出されている(佐々木慶市「中世の津軽安藤氏の研究」『東北文研究所紀要』十六号所収。一九八四年十一月、東北学院大学発行)。
 (中略)
 ところが、一九九一年より三ヶ年計画で富山大学考古学研究所と国立歴史民俗博物館により同城跡の発掘調査がなされ、その結果福島城遺跡は平安後期十一世紀まで遡ることが明らかとなった(小島道祐氏「十三湊と福島城について」『地方史研究二四四号』所収。一九九三年八月)。そして『東日流外三郡誌』には福島城の築城は承保元年(一〇七四)と記されており、従来の通説とは異なっていた。
  福島城 別称視浦館
  城領半里四方 城棟五十七(中略)
  承保甲寅元年築城
  (『東日流外三郡誌』北方新社版第三巻、一一九頁、「四城之覚書」)
 近年の発掘成果により『東日流外三郡誌』ではなく通説の方が覆ったのである。このような考古学的新知見と和田家文書の見事な一致は真作説にとって有利な根拠と言える。(後略)

(注)古賀達也「和田家文書と考古学的事実の一致 ―『東日流外三郡誌』の真作性―」『古田史学会報』4号、1994年12月。


第2557話 2021/09/06

古田先生との「大化改新」研究の思い出(3)

 「市民の古代研究会」では、『日本書紀』孝徳紀の大化改新詔は七世紀末の九州年号大化期に九州王朝により発せられたものではないかとする研究が進められていました。そして、その仮説成立の〝障壁〟となっていた「大化二年丙午之歳」の銘文を持つ宇治橋断碑に関する研究が1988年頃から論文発表され始め、大化を九州年号とすることに慎重だった古田先生の認識に変化が起こります。それは次の論文です。

○中村幸雄「宇治橋に関する考察」『市民の古代』10集、市民の古代研究会編、1988年。
○藤田友治「日本古代碑の再検討 ―宇治橋断碑について―」 同上

 両氏は「市民の古代研究会」以来の先輩〝兄弟子〟であり、後に「古田史学の会」創立に当たっては、行動を共にしていただいた同志でした(古田史学の会・全国世話人として参加。共に故人)。中村さんは九州年号の研究仲間でもあり、「大化」年号原型論などで厳しく論争したこともありました(注①)。藤田さんは、古田先生と中国吉林省集安で好太王碑の現地調査を行うなど、金石文研究で成果をあげられていました(注②)。
 中村さんは、宇治橋碑は中世に造られた「川施餓鬼参加勧誘碑」であり、そこに記された「大化二年丙午之歳」は石碑が造られた年ではないとしました。従って、宇治橋断碑は『日本書紀』大化(645~649年)の実在を証明する同時代金石文ではなく、本来の九州年号「大化」の年代は、『皇代記附年代記』に記された大化(698~700年)であるとしました。そして、「結語」に次のように記し、大化改新詔の実年代を九州年号の大化(698~700年)の頃と示唆されました。

〝私は本稿で採用した「大化元年=持統十二年=六九八年」説を、いわゆる「大化改新」に適用し、『日本書紀』の六四五~六四七年の「大化の諸詔令」は、むしろ大宝律令発布(七〇一年)直前の持統大化、六九八~七〇〇年に移動させる方が適切であることを(中略)いずれ別稿「新大化改新論争の提唱」として発表するつもりである。〟

 後に発表された「新『大化改新』論争の提唱」(注③)によれば、「大化」年間(698~700年)に発せられた「大化改新詔」は持統天皇によるものであり、このころは九州王朝と大和朝廷の並立時代とされました。中村さんは平成七年(1995)三月に物故され、この論文は遺稿として『新・古代学』3集(新泉社、1998年)に掲載しました(注④)。(つづく)

(注)
①「古田史学の会」HP「新・古代学の扉」に〝中村幸雄論集(遺稿集)〟があるので、参照されたい。
②好太王碑現地調査は1984年3月に行われた。藤田氏の業績は『藤田友治追悼集 ともに生きる』(藤田友治追悼集刊行会、2006年)に詳しい。
中村幸雄「新『大化改新』論争の提唱 ―『日本書紀』の年代造作について」『新・古代学』3集、新泉社、1998年。「古田史学の会」HPにも収録した。
④古賀達也「学問の方法と倫理 二 歴史を学ぶ覚悟」(『古田史学会報』38号、2000年6月)において、次のように紹介した。
〝いま一人、忘れがたい人に中村幸雄氏(当時、市民の古代理事)がおられる。小生が市民の古代との決別と本会設立の決意を中村氏に電話で伝えた時、「古賀さんがそう言うのを待ってたんや。あんな人らとは一緒にやれん。古田はんと一緒やったらまた人は集まる。一から出直したらええ」と言われ、小生と行動を共にすることを約束されたのであった。「理事」などという堅苦しい肩書きをいやがられ、「自分は世話人でよい」と早朝の例会会場予約や裏方を黙々と務められた、実に庶民的で気さくな方であった。ちなみに、本会の「全国世話人」という制度と名称は、こうした氏の意を汲んで決めたものである。しかし、その翌年、氏は急逝された(一九九五年三月十七日、享年六八才)。会分裂と本会設立の心労が禍したのであろうか。訃報に接した夜、小生は家人の目も憚らず、泣いた(注2)。〟
〝(注2)故人は例会での研究発表を大変楽しみにされていたという(寿子夫人談)。急逝直後の関西例会は追悼例会として、生前故人が準備されていたレジュメに基づいて、藤田友治氏が代わって報告された。また、『新・古代学』3集には遺稿「新『大化改新』論争の提唱 ―『日本書紀』の年代造作について」を掲載し、霊を弔った。〟


第2553話 2021/09/02

『多元』No.165の紹介

 本日、友好団体「多元的古代研究会」の会紙『多元』No.165が届きました。前号の「太宰府、「倭の五王」王都説の検証 ―大宰府政庁編年と都督の多元性―」に続いて、「倭の五王」の王都をテーマとした拙稿「太宰府、「倭の五王」王都説の限界 ―九州大学「坂田測定」の検証―」を掲載していただきました。
 本年11月に開催される、「倭の五王」をテーマとする〝八王子セミナー2021〟のために執筆したものですが、同セミナーでの実りある論議を期待して、事前にわたしの考えを明示し、考古学的事実の情報共有化を目指しました。なお、『多元』を読まれていない参加者のために、同セミナー「予稿集」に当該論稿を資料として掲載したいと考えています。
 本号掲載の論稿で、〝これは面白いな〟と思ったのが安彦克己さん(東京都港区)の「『和田家文書』で読む『渡島(渡嶋)』」でした。安彦さんの検証によれば、「和田家文書」に見える「渡島(渡嶋)」は「おしま」と訓まれており、北海道のこととされました。
 『日本書紀』などにも「渡嶋」が見えますが、こちらについては下北半島(宇曽利・糠部地方)にあった「渡嶋(わたりしま)」とする合田洋一さんの研究(注)が著書『地名が解き明かす古代日本』にあり、通説の北海道説を批判されています。この合田説は詳細な地名調査などに基づいており、通説よりも有力とわたしは評価してきました。しかし、今回の安彦さんの検証結果が異なっていたので、興味深く思ったしだいです。
 合田さんは『地名が解き明かす古代日本』で、〝この『東日流外三郡誌』では「渡嶋」を北海道としている。これについては、この書は寛政年間つまり江戸時代中期に、史料収集・編纂されたものであり、編者の秋田孝季・和田長三郎吉次の歴史観によるところが大きい。そのため、六国史の「渡嶋」を北海道と見なしたものと考える。〟(141頁)とされています。
 もしかすると、「渡嶋(おしま)」と「渡嶋(わたりしま)」は漢字では共に「渡嶋」ですが、本来は異なる時代の異なる地域だったのでしょうか。安彦さんや合田さんにより、和田家文書や「渡嶋」研究が更に深まることを願っています。

(注)合田洋一「第I部 渡嶋と粛慎 ―渡嶋は北海道ではない―」『地名が解き明かす古代日本 ―錯覚された北海道・東北―』ミネルヴァ書房、2012年。


第2546話 2021/08/21

九州年号と仏典研究のすすめ

 本日は久しぶりにホームタウンともいえるi-siteなんばで「古田史学の会」関西例会が開催されました。9月例会もi-siteなんば(参加費1,000円)で開催します。
 リモートテストには、西村秀己さん(司会担当・高松市)、正木裕さん(古田史学の会・事務局長、川西市)、杉本三郎さん(古田史学の会・会計監査、伊丹市)、冨川ケイ子さん(古田史学の会・全国世話人、相模原市)、谷本茂さん(神戸市)、萩野秀公さん(東大阪市)、別役政光さん(高知市)らが参加されました。

 今回は久しぶりにわたしも発表させていただきました。仏典からの九州年号の出典調査という基礎研究の中間報告ですが、九州王朝(倭国)が重視した仏典に『五分律』(6世紀段階)や『四分律』(7世紀段階)があり、これは中国の南朝仏教から北朝仏教へと、九州王朝が傾斜していった痕跡ではないかなどの分析結果について報告しました。
 質疑応答では、西村さんから、基本的な検索条件の誤りの指摘を得ることができ、論文発表前でしたので助かりました。また、最初の九州年号を「継体」(『二中歴』)とする私見に対し、谷本さんより「善記」の方が有力とする意見も出され、有意義な議論ができました。大原さん(『古代に真実を求めて』編集長)からは、九州年号と仏教との関係を指摘した阿部周一さん(古田史学の会・会員、札幌市)の説(注①)についても触れるべきとの意見が出されました。阿部さんからの私説(注②)に対するご批判に対して、まだ返答していませんでしたので、これを機会に改めて論文執筆に入りたいと考えています。
 最後に九州年号や仏典研究を多くの研究者に取り組んでいただきたいと要請しました。
 今回の例会で、わたしが最も刺激を受けた発表が、満田さんによる石暁軍著「隋唐外務官僚の研究 ―鴻臚寺官僚・遣外使節を中心に」の紹介でした。隋唐が外交官を派遣する時、本来の官位とは異なる官位を臨時に授ける「仮官」という制度があったというもので、隋から倭国に派遣された裴世清の官位が『隋書』(文林郎:従八品)と『日本書紀』(鴻臚寺の掌客:正九品下)では異なる理由について、「仮官」という制度で説明できるという視点は新鮮でした。参加者からは反対意見が多かったのですが、検討すべきテーマと思いました。

 なお、発表者はレジュメを25部作成されるようお願いします。発表希望者は西村秀己さんにメール(携帯電話アドレス)か電話で発表申請を行ってください。

〔8月度関西例会の内容〕
①阿武山に眠る貴人の墓 (大山崎町・大原重雄)
②船行一年の参問 ―裸国と黒歯国は誤読されていた― (大山崎町・大原重雄)
③太湖望での実験から (明石市・不二井伸平)
④裴世清の称号問題 (茨木市・満田正賢)
⑤「大夫人」と「大后」 奈良時代の称号論争に見る九州王朝時代の残滓 (たつの市・日野智貴)
⑥九州年号の出典調査(仏典編) ―九州王朝(倭国)の仏典受容史― (京都市・古賀達也)

(注)
①阿部周一「『倭国年号』と『仏教』の関係」『古田史学会報』157号、2020年4月。
②古賀達也「洛中洛外日記」2033~2046話(2019/11/03~22)〝『令集解』儀制令・公文条の理解について(1)~(6)〟。

◎「古田史学の会」関西例会(第三土曜日) 参加費500円(「三密」回避に大部屋使用の場合は1,000円)
09/18(土) 10:00~17:00 会場:i-siteなんば
 ※コロナによる会場使用規制のため、緊急変更もあります。最新の情報をホームページでご確認下さい。

《関西各講演会・研究会のご案内》
 ※コロナ対応のため、緊急変更もあります。最新の情報をご確認下さい。

◆「市民古代史の会・東大阪」講演会 会場:東大阪市 布施駅前市民プラザ(5F多目的ホール) 資料代500円 〔お問い合わせ〕090-7364-9535
○08/28(土) 14:00~17:00 「倭の五王と倭国独立 ―九州年号の成立」 講師:服部静尚さん
○09/25(土) 14:00~17:00 「朝鮮半島と倭国 ―磐井の乱の真実」 講師:服部静尚さん

◆「古代大和史研究会」講演会(原 幸子代表) 資料代500円 〔お問い合わせ〕℡080-2526-2584
○08/24(火) 13:00~16:00 会場:浄照寺本堂(奈良県田原本町茶町584)
 前半「本薬師寺は九州王朝の寺」 講師:服部静尚さん(古田史学の会・会員)
 後半「野中寺彌勒菩薩像の真実」 (同上)
○09/28(火) 13:00~16:00 会場:浄照寺本堂(奈良県田原本町茶町584)
 前半「卑弥呼と邪馬台国 ―徹底解明邪馬台国九州説①卑弥呼と魏使の行程」 講師:正木裕さん(古田史学の会・事務局長)
 後半「卑弥呼と邪馬台国 ―徹底解明邪馬台国九州説②邪馬台国の物証」 (同上)

◆「和泉史談会」講演会 会場:和泉市コミュニティーセンター(1階中会議室)
○09/14(火) 14:00~16:00
「縄文にいたイザナギ・イザナミ」 講師:大原重雄さん(『古代に真実を求めて』編集長)
 「天皇と三種の神器」 講師:服部静尚さん(古田史学の会・会員)
○10/12(火) 14:00~16:00
 「疫病の歴史に学ぶ」 岡本康敬さん

◆「市民古代史の会・京都」講演会 会場:キャンパスプラザ京都 参加費500円
 《未定》

◆誰も知らなかった古代史の会 会場:福島区民センター 参加費500円
 《未定》