「 日本書紀 」一覧

第2048話 2019/11/27

『古代に真実を求めて』23集巻頭言(草稿・前半)

 『古代に真実を求めて』二三集の「巻頭言草稿・前半」をご紹介します。これから推敲し、添削も受けますので、内容もまだまだ変化する可能性があります。読者の皆さんからのご意見やご助言もお受けします。

【巻頭言】(草稿・前半)
「古事記」「日本書紀」に息づく九州王朝
    古田史学の会 代表 古賀達也

 養老四年(七二〇)に『日本書紀』が編纂され、令和二年(二〇二〇)で千三百年を迎える。それに先立つ和銅五年(七一二)に成立した『古事記』とともに、わが国において『日本書紀』は最も多くの読者を得た歴史書と言ってもよいであろう。早くは大和朝廷が養老五年に「日本紀講筵(にほんぎこうえん)」と呼ばれる『日本書紀』の講義を催し、平安時代前期にはほぼ三十年毎に六度に及ぶ講義を行ったことが諸史料(『釈日本紀』『本朝書籍目録』)に見える。「日本紀私記」と呼ばれるその講義〝テキスト〟が四編ほど現存しており、その一端をうかがい知ることができる。
 他方、江戸時代後期に至り、本居宣長が名著『古事記伝』を著し、一躍『古事記』が脚光を浴び、『古事記』『日本書紀』は史書という史料性格を超えて、日本の国柄(国体)や日本人の思想(国学)を形作る原典とされるに至った。戦後の実証史学においても、『日本書紀』の基本的歴史観である近畿天皇家一元史観、すなわち神代の昔から近畿天皇家が日本列島で唯一の卓越した権力者であったとする歴史認識の大枠は揺らぐことはなかった。
 考古学においても、『日本書紀』の記述を根拠とした歴史編年を是として、出土土器などの相対編年をその暦年記事にリンクさせてきた。さらには、多くの文化・文物が大和朝廷で最も早く受容され、あるいは発生し、その後、日本列島各地に伝播したとする文化観・編年観が古代史学の主流を占めたのである。
 このように『古事記』『日本書紀』は編纂以来千三百年の永きにわたり、篤く遇されてきた。しかしその果てに形作られた古代史像は、古田武彦氏が提唱された多元史観・九州王朝説に立つ、わたしたち古田学派に見える景色とは大きく異なる。
 両書は、八世紀初頭(七〇一年)にそれまでの代表王朝であった九州王朝(倭国)に替わり、日本列島の第一権力者となった大和朝廷(日本国)による自らの正統性宣揚のための史書である以上、その主張の真偽は学問的検証の対象であること、論を待たない。ところが、この史料編纂の動機解明や記述内容そのもの全てをまずは疑うという学問的基本作業がこの千三百年間、必要にして充分に行われてきたとは言い難い。とりわけ、大和朝廷が自らと共通の祖先(天照大神ら)を持つ前王朝(九州王朝)の存在を隠しているという疑いなど全く抱くこともなく、わが国の古代史学は真面目かつ無邪気に『古事記』『日本書紀』の基本フレーム(近畿天皇家一元史観)を信じ、今日に至っているようである。
 古田武彦氏は『失われた九州王朝』(朝日新聞社刊、一九七三年。ミネルヴァ書房より復刻)において、近畿天皇家(大和朝廷)に先だって九州王朝が日本列島の代表王朝として存在し、中国史書に見える「倭国」とは大和朝廷のことではなく九州王朝のこととする多元的歴史観・九州王朝説を提唱された。たとえばその史料根拠として、『旧唐書』に別国表記された次の「倭国伝」(九州王朝)と「日本国伝」(大和朝廷)を提示された。

 「倭国は古の倭奴国なり。京師を去ること一万四千里。新羅東南の大海の中にあり。山島に依って居る。東西は五月行、南北は三月行。世、中国と通ず。その国、居るに城郭なく、木を以て柵を為(つく)り、草を以て屋を為(つく)る。四面に小島、五十余国あり、皆これに附属す。
 その王、姓は阿毎氏なり。一大率を置きて諸国を検察し、皆これに畏附す。(後略)」〔『旧唐書』倭国伝〕

 「日本国は倭国の別種なり。その国日辺にあるを以て、故に日本を以て名となす。あるいはいう、倭国自らその名を雅ならざるを悪(にく)み、改めて日本となすと。あるいはいう、日本は旧(もと)小国、倭国の地を併せたりと。その人、入朝する者、多くは自ら矜大、実を以て対(こた)えず。故に中国これを疑う。またいう、その国の界、東西南北、各数千里あり、西界南界はみな大海に至り、東界北界は大山ありて限りをなし、山外は即ち毛人の国なりと。(中略)
 貞元二十年(八〇四)、使を遣わして来朝す。学生橘逸勢、学問僧空海を留む。(後略)」〔『旧唐書』日本国伝〕

 わたしたち古田学派の研究者はこの古田説に基づき、『古事記』『日本書紀』の中に九州王朝(倭国)の痕跡が残されているはずと考え、多元史観・九州王朝説の視点から両書の史料批判を進め、古代史像復元を試みてきた。その現在の到達点を書き留めたものが本書である。千三百年続いた近畿天皇家一元史観を超え、多元史観の頂上(いただき)から見える景色を読者と共有し、日本古代史の奥底(おうてい)を学問の光で照らしたいと願っている。
〔以下、執筆中〕


第2009話 2019/10/09

九州王朝の「北海道」「北陸道」の終着点(4)

 九州王朝(倭国)官道名称の考察結果として、「東」の大国「蝦夷国」に向かう「東海道」「東山道」、「北」の大国「粛慎国」へ向かう「北海道」「北陸道」とする仮説を提起できました。次に、残された「西海道」と「南海道」についても考察を続けます。
 九州王朝から見て「西」の大国とは言うまでもなく「中国」でしょう。七世紀段階であれば、「隋」か「唐」としてよいと思います。しかし、「南」は難解です。「東」と「北」の国名を求めた方法論上の一貫性を重視すれば、「蝦夷国」「粛慎国」と同様に『日本書紀』に記された九州王朝との関係(交流・交戦記事など)が確認できる国を有力候補とすべきです。その意味でも、「西」の大国候補の「隋」「唐」は共に『日本書紀』に見える国なので、方法論上の一貫性というハードルをクリアしています。
 それでは『日本書紀』に記された「南」の大国候補はあるでしょうか。九州島よりも南方にあると思われる国として、『日本書紀』には次の名前が見えます。初出記事のみ記します。

○「掖久」(屋久島か)推古二四年条(616年)
○「吐火羅」(トカラ列島か。異説あり)孝徳紀白雉五年条(654年)
○「都貨邏」(トカラ列島か。異説あり)斉明三年条(657年)
○「多禰嶋」(種子島か)天武六年条(677年)
○「阿麻彌人」(奄美大島か)天武十一年条(682年)

 以上のような地名が散見するのですが、「蝦夷国」「粛慎国」「唐」と並ぶ「南」の大国とは言いがたく、いずれも比較的小さな島(領域)のようで、候補地と見なすのは難しいと思われます。『日本書紀』にこだわらなければ『隋書』に沖縄県に相当すると思われる「流求國」が見えますが、先に述べた方法論上の一貫性を保持できません。そこで、「よみがえる『倭京』大宰府 ―南方諸島の朝貢記録の証言―」(『発見された倭京』収録)などの『日本書紀』に見える「南島」に関する論文を発表されている正木裕さん(古田史学の会・事務局長)のご意見を仰ぐことにしました。(つづく)


第2005話 2019/10/04

九州王朝(倭国)の「都督」と「評督」(8)

 『倭国古伝』の出版記念東京講演会で参加者からいただいたご質問により、「都督」と「評督」の関係について、諸史料に基づき、どのような論理性が存在するのか考察を進めてきました。まだ〝正解〟には至っていませんし、新たな史料が見つかるかもしれませんが、とりあえず中間「回答」として、到達した認識をまとめてみます。

①七世紀後半の「評制」期間の九州王朝(倭国)に「都督」がいたとする史料痕跡には、『日本書紀』景行紀「東山道十五國都督」(年代が異なる)、天智紀「筑紫都督府」(唐が置いたとする見解もある)と『二中歴』「都督歴」(「大宰帥」を唐風に「都督」と後代に表記したとする見解あり)がある。
②しかしながら、いずれの史料理解にも異論が存在し、現時点の研究情況では確かな史料根拠とまでは断定できない。
③また、当時の九州王朝の行政単位は、九州王朝(倭王)・方面軍管区(総領)・各国(国司・国造)・各評(評督)と思われ、倭王から任命された「都督」がいたとしても、それは中央政府としての「筑紫都督」、あるいは方面軍管区の「都督」(「東山道都督」)という位置づけであり、いずれのケースも「評督」の〝直属の上位職〟とは言いがたい。

 およそ、以上ような解説を講演会ではしなければならなかったのですが、とてもそのような説明時間はありませんでした。「洛中洛外日記」での本シリーズをもって、とりあえずの回答とさせていただきます。ご質問していただいた方や参加された皆様に感謝いたします。

《追記とお詫び》
 本テーマの(6)で提起した、『日本書紀』景行五五年条の「彦狭嶋王を以て東山道十五國の都督に拝す。」を根拠として、「都督」に任命されたのは「筑紫都督」(蘇我臣日向)・「東山道都督」(彦狭嶋王)だけではなく、他の「東海道都督」や「北陸道都督」らも同時期に任命されたのではないかとする作業仮説について、山田春廣さんが『発見された倭京 -太宰府都城と官道』のコラム⑥「東山道都督は軍事機関」において既に発表されていました。この先行説の存在を失念していました。申し訳ありませんでした。


第1998話 2019/09/23

大和「飛鳥」と筑紫「飛鳥」の検証(10)

 飛鳥(飛鳥池遺跡・石神遺跡等)からの出土木簡に「大学官」「勢岐官」「道官」「舎人官」「陶官」とあることから、そのような職掌が飛鳥浄御原宮にあったことは明らかですが、通説のように「浄御原令」に基づく行政が近畿天皇家で行われていたとするには、その「官」はいわゆる上級官省(大蔵省・中務省・民部省・宮内省・刑部省・兵部省・治部省などに相当する官省)とはいえず、その下部官庁ばかりです。もちろん、たまたま「下部官庁」木簡だけが遺存し出土した可能性も否定できませんが、それにしても不自然な出土状況とわたしは感じていました。たとえば藤原宮や平城宮からは上級官省を記した木簡も出土しているからです。
 前期難波宮で評制による全国統治を行っていた九州王朝の官僚群の多くが飛鳥宮や藤原宮(京)へ順次転居し、新王朝の国家官僚として働いたのではないかとわたしは推定しています。従って、藤原宮(京)が完成するまでは、前期難波宮か近江大津宮にそれら上級官省が残っていたと思われます。例えば『日本書紀』に見える次の記事などはその痕跡ではないでしょうか。

○「丁巳(二十四日)に、近江宮に災(ひつ)けり。大蔵省の第三倉より出でたり。」天智十年(671)十一月条
○「乙卯の酉の時に、難波の大蔵省に失火して、宮室悉く焚(や)けぬ。或は曰く『阿斗連薬が家の失火、引(ほびこり)て宮室に及べり』といふ。唯し兵庫職のみは焚(や)けず。」朱鳥元年(686)正月条

 この「大蔵省」が7世紀当時の名称なのか、『日本書紀』編纂時の名称なのかという問題はありますが、「大蔵省」に相当する官庁が近江宮や難波宮にあったとする史料根拠と思われます。7世紀末頃の九州王朝から大和朝廷への王朝交替の経緯を考察する上で、こうした推測は重要な視点と思われます。考古学的にも、孝徳天皇没後も白村江戦の頃までは、飛鳥よりも難波の方が出土土器の量は多く、遺構の拡張なども活発であることが明らかにされており、わたしの推測と整合しているのです。
 大阪歴博の佐藤隆さんの論文「難波と飛鳥、ふたつの都は土器からどう見えるか」(大阪歴博『研究紀要』15号、2017年3月)に次の指摘があり、注目しています。

 「考古資料が語る事実は必ずしも『日本書紀』の物語世界とは一致しないこともある。たとえば、白雉4年(653)には中大兄皇子が飛鳥へ“還都”して、翌白雉5年(654)に孝徳天皇が失意のなかで亡くなった後、難波宮は歴史の表舞台からはほとんど消えたようになるが、実際は宮殿造営期以後の土器もかなり出土していて、整地によって開発される範囲も広がっている。それに対して飛鳥はどうなのか?」(1〜2頁)
 「難波Ⅲ中段階は、先述のように前期難波宮が造営された時期の土器である。続く新段階も資料は増えてきており、整地の範囲も広がっていることなどから宮殿は機能していたと考えられる。」(6頁)
 「孝徳天皇の時代からその没後しばらくの間(おそらくは白村江の戦いまでくらいか)は人々の活動が飛鳥地域よりも難波地域のほうが盛んであったことは土器資料からは見えても、『日本書紀』からは読みとれない。筆者が『難波長柄豊碕宮』という名称や、白雉3年(652)の完成記事に拘らないのはこのことによる。それは前期難波宮孝徳朝説の否定ではない。
 しかし、こうした難波地域と飛鳥地域との関係が、土器の比較検討以外ではなぜこれまで明瞭に見えてこなかったかという疑問についても触れておく必要があろう。その最大の原因は、もちろん『日本書紀』に見られる飛鳥地域中心の記述である。」(12頁)


第1986話 2019/09/10

天武紀「複都詔」の考古学

 古田学派には文献史学の研究者は多士済々なのですが、残念ながら本格的に考古学を研究分野とされている方は少数にとどまっています。たとえば関西では小林嘉朗さん(古田史学の会・副代表、神戸市)や大原重雄さん(古田史学の会・会員、大山崎町)、その他の地域でも古代信州の条里などを研究されている吉村八洲男さん(古田史学の会・会員、上田市)の活躍が管見では注目される程度です。
 こうした背景もあり、「古田史学の会」では各地の著名な考古学者を講演会にお招きして、考古学の最新研究に触れられるよう取り組んできました。わたし自身も、特に七世紀の須恵器編年の勉強をこの十年ほど続けてきました。難解でなかなか理解できなかった考古学論文も初歩的ではありますがようやく読み取ることができるようになってきました。そのため、当初はその重要性を理解できずに読み飛ばしていた部分も、今では正しく認識できるケースが増えてきました。今回は、その一例を紹介します。
 前期難波宮九州王朝複都説の研究において、わたしが注目してきた『日本書紀』の記事がありました。天武12年(683)12月条に見える「複都詔」と呼ばれる次の記事です。

 「又詔して曰はく、『凡(おおよ)そ都城・宮室、一處に非ず、必ず両参造らむ。故、先づ難波に都つくらむと欲(おも)う。是(ここ)を以て、百寮の者、各(おのおの)往(まか)りて家地を請(たま)はれ』とのたまう。」『日本書紀』天武12年12月条

 この記事について当初わたしは、天武の時代には既に前期難波宮が存在しているのに、難波にもう一つ都を造れというのは明らかにおかしい、従って既にあった前期難波宮は天武(近畿天皇家)の宮殿ではなく、九州王朝の宮殿と理解すべきと指摘したことがありました。
 しかしその後更に理解は進み、「洛中洛外日記」1398話(2017/05/14)「前期難波宮副都説反対論者への問い(3)」では次のように論じました。

【以下、転載】
 (前略)この「副(ママ)都詔」を精査して、あることに気づきました。それは、今まで岩波『日本書紀』の訳文で記事を理解していたのですが、「先づ難波に都つくらむと欲(おも)う」という訳は不適切で、原文「故先欲都難波」には「つくらむ」という文字がないのです。意訳すれば「先ず、難波に(の)都を欲しい」とでもいうべきものです。
 後段の訳「是(ここ)を以て、百寮の者、各(おのおの)往(まか)りて家地を請(たま)はれ」も不適切です。原文は「是以百寮者各往請家地」であり、「これを以て、百寮はおのおの往(ゆ)きて家地を請(こ)え」と訳すべきです(西村秀己さんの指摘による)。すなわち、岩波の訳では一元史観のイデオロギーに基づいて、百寮は天皇のところに「まかりて」、家地を天皇から「たまわれ」としているのですが、原文の字義からすれば、百寮は難波に行って(難波の権力者あるいはその代理者に)家地を請求しろと天武は言っていることになるのです。もし、前期難波宮や難波京を天武が造営したのであれば、百寮に「往け」「請え」などと命じる必要はなく、天武自らが飛鳥宮で配給指示すればよいのですから。
 このように、前期難波宮天武期造営説の史料根拠とされてきた副(ママ)都詔も、実は前期難波宮や難波京は天武が造営したのではなく、支配地でもないことを指し示していたのでした。(後略)
【転載おわり】

 このように天武による難波京造営の命令と理解されてきた「複都詔」の原文は「難波に都が欲しい」という記事だったことに気づいたのでした。また、この詔勅の約2年後の朱鳥元年(686)正月には前期難波宮は焼失しており、もし天武12年(683)12月に難波宮都造営を命じたとしても、それまでの短期間に上町台地を整地し、巨大宮殿を完成できるはずもなく、この「複都詔」を根拠とした前期難波宮天武朝造営説は常識的にみて成立不可能なのです。
 他方、正木裕さん(古田史学の会・事務局長)からは別の視点から「複都詔」への新理解を提示されました。それは「34年遡り説」というもので、天武12年条(683)に記された「複都詔」は34年前の649年に九州王朝が前期難波宮造営(難波複都建設。完成は652年)を命じた記事であり、『日本書紀』編纂時に34年ずらされたものという仮説です。
 このように文献史学では「複都詔」について諸仮説が提起され、研究が深化していました。ところが考古学の分野でも同様に「複都詔」などに基づく前期難波宮天武朝造営説が明確に否定されていたことに改めて気づきました。それは佐藤隆さん(大阪歴博)の論文「難波と飛鳥、ふたつの都は土器からどう見えるか」『大阪歴史博物館 研究紀要 第15号』(平成29年3月)の次の記事です。

 「また、天武12年(683)には『凡都城・官室非一処。必先欲都難波。』といういわゆる『複都制の詔』が出されているが、土器資料からみるかぎり、難波宮の宮城およびその周辺における動きは低調である。」(10頁)
 「(前略)水利施設が廃絶した後の堆積層(第6a層)から難波Ⅳ古段階の土器が出土しており、天武朝に当たる7世紀第4四半期には既に機能していなかった(後略)」(15頁)

 この記事に見える水利施設とは前期難波宮の北西側の谷から出土した水利施設(石積みの水路と木桶など)で、井戸がなかった前期難波宮に水を供給した施設と見られています。この水利施設造営時の層位から7世紀前半から中頃の土器が大量に出土したことや、木桶に使用された木材の年輪年代測定値(634年伐採)などが決め手となり、前期難波宮の造営が『日本書紀』孝徳紀白雉三年条(652年。九州年号の「白雉元年壬子」に当たる)に見える巨大宮殿完成記事に対応するという見解が通説となりました。
 そして、この水利施設廃絶後に堆積した層位(第6a層)から難波Ⅳ古段階(7世紀第4四半期)の土器が出土しており、天武朝に当たる7世紀第4四半期には既に水利施設は機能していなかったと指摘されています。すなわち、「複都詔」が出された頃には前期難波宮の水利施設は廃絶されていたわけで、そのことは前期難波宮自身も大勢の官僚が勤務できる状態ではなかったことを意味します。おそらく、その頃には前期難波宮の官僚群は完成間近の藤原宮(京)に移動していたのではないでしょうか。そうでなければ、水利施設は整備利用されていたはずだからです。
 以上のように、文献史学の研究成果と考古学の最新知見の双方が前期難波宮天武朝造営説を否定し、天武紀に見える「複都詔」を疑問視しています。この文献史学と考古学のダブルチェックともいえる研究成果は大きな説得力を有しているのですが、前期難波宮天武朝造営説論者からの史料根拠(エビデンス)を明示した論理的(ロジカル)な反論は聞こえてきません。わたしは〝学問は批判を歓迎する〟と考えています。エビデンスとロジックを明示したご批判を待っています。


第1980話 2019/09/02

大化改新詔はなぜ大化二年なのか(2)

 文武の即位年(697)は九州年号の大化三年に相当します。ご存じの通り、『日本書紀』にはこの大化年号が50年遡って転用されており、そのため大化元年は645年(孝徳天皇元年)となっています。そして翌年の大化二年(646)には有名な大化改新詔が次々と発せられます。この重要な大化改新詔が大化元年ではなく、なぜ大化二年なのかがよく分からなかったのですが、もし、この大化二年の改新詔が646年ではなく、九州年号の大化二年(696)の詔勅とすれば、翌年の文武即位を前にして、持統天皇が九州王朝の天子に国家システムの大きな変更を命じる詔勅を出させたのではないでしょうか。その場合、その詔勅には九州王朝の天子の御名(薩野馬か)と「大化二年」の年次が記されていたここととなります。そして『日本書紀』編纂時には、その詔勅をそのまま50年遡らせて、孝徳天皇が「大化二年(646)」に発した改新の詔勅とする記事が造作されたものと思われます。
 もちろん『日本書紀』に記された大化改新詔の中には、646年(九州年号の命長七年)に九州王朝が出した詔勅も含まれていると思われますが、それは個別の詔ごとに検証する必要があります。
 一例を挙げれば、大化二年正月の改新詔中に見える、「凡そ京には坊毎に長一人を置け。四つの坊に令一人を置け。」は、完成した藤原京の条坊の管理組織についての命令と考えざるを得ません。646年であれば近畿にはまだ条坊都市がありませんから、これは696年の大化二年のことと思われます。
 同じく、同改新詔に見える、「凡そ郡は四十里を以て大郡とせよ。三十里より以下、四里より以上を中郡とし、三里を小郡とせよ。」も従来の行政区画「評」から「郡」への変更を命じた「廃評建郡」の詔勅ではないでしょうか。もしそうであれば、696年(大化二年)に「廃評建郡」の詔勅を九州王朝の年号の下に告示し、その5年後の701年(大宝元年)に全国一斉に評から郡に置き換えたことになります。すなわち、696年の「廃評建郡」の命令から五年をかけて全国一斉に郡制へと変更し、同時に大宝年号を建元し、朝堂院様式(朝庭を持つ巨大宮殿)の藤原宮において文字通り「大和朝廷」が成立したわけです。すなわち、九州年号の大化二年(696)改新詔とは、九州王朝からの王朝交替を行うための一連の行政命令だったのではないかと、わたしは考えています。
 そしてその記事を『日本書紀』では「大化年号」とともに50年遡らせているのですが、七世紀中頃に九州王朝が全国に評制を施行した事績(県制から評制への変更「廃県建評」)を大和朝廷が実施した郡制樹立のこととする政治的意図をもった転用だったのではないかと推測しています。
 『続日本紀』の文武天皇の即位の宣命には、「禅譲」を受けた旨が記されていますが、この「禅譲」とは祖母の持統天皇からの天皇位の「禅譲」を意味するにとどまらず、より本質的にはその前年の「大化二年の改新詔」を背景とした九州王朝からの国家権力の「禅譲」をも意味していたのではないでしょうか。少なくとも、まだ九州王朝の天子が健在である当時の藤原宮の官僚や各地の豪族たちはそのように受け止めたことを、九州王朝説に立つわたしは疑えないのです。


第1972話 2019/08/24

大和「飛鳥」と筑紫「飛鳥」の検証(6)

 多元史観・九州王朝説による筑紫「飛鳥」説として、新・古田説(小郡「飛島」説)が出され、その弱点を補うべく正木さんが広域筑紫「飛鳥」説(小郡・朝倉・久留米)を出され、「律令制宮都の論理」というロジックと「飛鳥浄御原令」を根拠に服部さんが太宰府「飛鳥」説を出されました。次に、通説の大和「飛鳥」説の根拠(エビデンス)と論理構造(ロジック)について、その要点を紹介します。
 一元史観の大和「飛鳥」説は一言で言えば〝『日本書紀』の記事と考古学的出土事実、現地地名などが対応している〟という論理構造により成立しています。このロジックは単純で平明なだけに、否定しがたい説得力を有しています。それは次のようなものです。

①奈良県明日香村に七世紀後半頃の宮殿遺構が重層的に出土している。
②それら遺構の年代は出土土器や干支木簡などにより、比較的安定して編年が成立している。
③字地名「飛鳥」にある飛鳥池遺跡等から出土した七世紀後半頃の木簡の内容が『日本書紀』の記事と対応している。たとえば「飛鳥寺」「天皇」「○○皇子」など、多数。
④飛鳥寺のすぐ北西にある石神遺跡からは藤原宮の官衙域と状況が似た建物群が出土しており、同遺跡北方域から大量に(約三千点)出土した木簡に「大学官(だいがくのつかさ)」「勢岐官(せきのつかさ)」「道官(みちのつかさ)」と記されたものもあり、当地に官衙が存在したと考えられている。
⑤この「○○官」という官職名は七世紀の律令官制のものと考えられ、近畿から出土した同じく七世紀後半の金石文「釆女氏塋域碑」(拓本)に見える「飛鳥浄原大朝庭大弁官」とも対応している。

 この他にも多くの論点がありますが、『日本書紀』の史料事実や考古学的出土事実の存在そのものは否定できませんし、両者の対応も複雑な解釈や屁理屈によるものではなく、単純・平明な対応に基づいています。従って、上記のロジックは強力で説得力があります。先に紹介した筑紫「飛鳥」説が九州王朝論を基盤としたやや複雑なロジックにより成立していることと比較すれば、確かなエビデンスにも支えられている大和「飛鳥」説のほうが分かりやすいことは明白です。
 この大和「飛鳥」説をよく理解し、これら一元史観のエビデンスとロジックを軽視することなく、古田学派九州王朝説論者は自説を構築しなければならないのです。無視したり、解釈だけで逃げてはなりません。(つづく)


第1944話 2019/07/19

巨大前方後円墳が天皇陵とは限らない

 大和朝廷一元史観を支えている最大の考古学的根拠が河内・大和の巨大前方後円墳の存在です。その論理性は次のようなものです。

① 全国トップクラスの巨大前方後円墳が河内・大和に最濃密分布しているという考古学的事実は、その地に国内最大の権力者が存在していた証拠である。
② その権力者こそ『日本書紀』に記された天皇家(大和朝廷)のことと考えざるを得ない。
③ 最も古い前方後円墳の箸墓古墳などが大和で発生していることから、前方後円墳は大和朝廷のシンボル的古墳である。
④ その後、全国各地に前方後円墳が造営されたことは、大和朝廷の支配や影響力がその地方に及んでいた証拠と見なすことができる。『日本書紀』の記述もそのことに対応している。

 服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)は講演「盗まれた天皇陵 -卑弥呼の墓はどこに-」で、こうした一元史観の根拠となった前方後円墳の分布や規模の精査により、河内・大和の巨大前方後円墳を天皇陵とすることはできないと発表されたのです。
 服部さんの調査によれば、全国の巨大古墳ベスト50の内訳は次のようになっています。

○河内・大和の巨大古墳で、『延喜式』で天皇陵比定されているもの 13陵
○河内・大和の巨大古墳で、『延喜式』に天皇陵比定の無いもの 24陵(平城陵含む)
○河内・大和以外の巨大古墳 13陵

 このように古墳の規模上位50位の内、『延喜式』で天皇陵とされているものは約1/4の13陵で、その他3/4の巨大古墳は天皇陵とされていないのです。この事実から、巨大古墳を大和朝廷(天皇)による全国支配の根拠とすることはできないと服部さんは指摘されました。
 更に歴代天皇陵を即位年代順に並べ、同時期のその他の巨大古墳と比較すると、5世紀中頃からは天皇陵よりも巨大な「非天皇陵」古墳の方が多くなると言う現象も明らかにされました。すなわち、天皇陵は同時代の古墳の中で常に最大とは限らず、古墳の規模を比較して大和朝廷の天皇陵が最大であるとした大和朝廷一元史観の根拠は学問的検証に耐えられない〝誤解〟だったのです。なお、服部さんと同様の指摘は一元史観に立つ考古学者からもなされており、このことは別途紹介します。(つづく)


第1922話 2019/06/15

箸墓古墳改築説と応神陵の『日本書紀』不記載

 本日、「古田史学の会」関西例会がドーンセンターで開催されました。7月はアネックスパル法円坂(大阪市教育会館)、8月は福島区民センターで開催します。明日、16日はI-siteなんばで「古田史学の会」会員総会です(午前中は全国世話人会開催)。午後は大阪文化財研究所長の南秀雄さんをお招きし、「日本列島における五〜七世紀の都市化」という演題で講演していただきます(諸団体と共催。後述)。正木裕さん(古田史学の会・事務局長)も「姫たちの古伝承」というテーマで講演されます。
 今回は古墳について考古学と文献史学からの研究報告がありました。まず大原さんからは、箸墓古墳はホタテ貝式古墳に前方部を増築したものとする仮説が発表されました。確かに箸墓古墳の前方部の形は通常の前方後円墳とはやや異なっており、わたしも違和感を持っていました。ですから、大原さんの仮説に説得力を感じました。
 次いで、谷本さんからは、応神天皇のみが『日本書紀』にその陵墓についての記載がないことを指摘されました。従って、『日本書紀』からは応神陵の所在は不明であり、誉田山古墳を応神陵とする白石太一郎説には史料根拠がないとされました。
 百舌鳥・古市古墳群の世界文化遺産登録を目前にしたグッドタイミングの発表でした。また、谷本さんの発表ではカール・ポパーの反証主義に触れられていましたので、わたしも賛意を示し、反証可能性のない仮説は科学(学問)ではないとすることは自然科学では常識となりつつあり、その点、日本の古代史学界は「戦後型皇国史観」(近畿天皇家が古代日本列島の唯一卓越した権力者とする思想)ともいうべき反証を許さないイデオロギーに基づいていると批判しました。
 今回の例会発表は次の通りでした。なお、発表者はレジュメを40部作成されるようお願いします。発表希望者も増えていますので、早めに西村秀己さんにメール(携帯電話アドレス)か電話で発表申請を行ってください。

〔6月度関西例会の内容〕
①欽明-推古期の近畿天皇家系譜の異常性について(茨木市・満田正賢)
②壬申の乱(八尾市・服部静尚)
③箸墓古墳の本当の姿について(京都府大山崎町・大原重雄)
④誉田山古墳(伝応神天皇陵)の史料批判(神戸市・谷本 茂)
⑤「韓国西海岸水行説」批判(川西市・正木 裕)
⑥薩摩と南の島々の古代史《大和朝廷以前》(川西市・正木 裕)

○事務局長報告(川西市・正木 裕)
《会務報告》
◆『失われた倭国年号 大和朝廷以前』増刷。拡販協力要請。
◆『古代に真実を求めて』バックナンバー廉価販売が好調。在庫僅少。
◆2019年度会費納入状況。
◆6/13 NHKBSのダークサイドストーリーで東日流外三郡誌を偽書としてとりあげ、古田氏の名前も出された。

◆6/16 13:00〜16:00 古代史講演会(会場:I-siteなんば。共催:古代大和史研究会、市民古代史の会・京都、和泉史談会、古田史学の会。参加費無料)
 ①「日本列島における五〜七世紀の都市化」 講師:南秀雄さん(大阪文化財研究所長)。
 ②「姫たちの古伝承」 講師:正木裕さん(古田史学の会・事務局長)。
 ※京都新聞が無料告知。

◆6/16 11:00〜12:00 「古田史学の会」全国世話人会(会場:I-siteなんば)
 6/16 16:00〜17:00 「古田史学の会」会員総会(会場:I-siteなんば)
 総会終了後、希望者で懇親会開催(当日、会場で受け付け)。

◆「古田史学の会」関西例会(第三土曜日開催)
 7/20 10:00〜17:00 会場:アネックスパル法円坂(大阪市教育会館)
 8/17 10:00〜17:00 会場:福島区民センター
 9/21 10:00〜17:00 会場:I-siteなんば
10/19 10:00〜17:00 会場:アネックスパル法円坂(大阪市教育会館)
11/16 10:00〜17:00 会場:アネックスパル法円坂(大阪市教育会館)
12/21 10:00〜17:00 会場:I-siteなんば

◆11/09〜10 「古田武彦記念古代史セミナー2019」の案内。主催:公益財団法人大学セミナーハウス。共催:多元的古代研究会、東京古田会、古田史学の会。

《各講演会・研究会のご案内》
◆「誰も知らなかった古代史」(会場:アネックスパル法円坂。正木 裕さん主宰)
 7/26 18:45〜20:15 「飛鳥の謎」 講師:服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)。

◆「古代大和史研究会」講演会(原幸子代表。会場:奈良県立情報図書館。参加費500円)
 7/02 13:30〜17:00
 「磐井の乱-継体紀の謎に迫る-」 講師:正木 裕さん。

◆「和泉史談会」講演会(辻野安彦会長。会場:和泉市コミュニティーセンター。参加費500円)
 7/09 14:00〜16:00
 「徹底解説-邪馬『台』国九州説」 講師:正木裕さん。

◆「市民古代史の会・京都」講演会(事務局:服部静尚さん・久冨直子さん)。毎月第三火曜日(会場:キャンパスプラザ京都。参加費500円)。
 6/18 18:45〜20:15 「海を渡る倭人〜魏志倭人伝に記された国々」 講師:大下隆司さん。
 7/23 18:45〜20:15 「盗まれた天皇陵」講師:服部静尚さん。

◆火曜研究会(豊中倶楽部自治会館)
 6/26 13:00〜

◆久留米大学講演会(久留米大学御井校舎)
 7/07 14:30〜16:00 「『日本書紀』に盗用された九州の神話」講師:正木裕さん。
7/14 14:30〜16:00 「筑紫の姫たちの伝説《倭国古伝》」講師:古賀達也。


第1920話 2019/06/13

「難波複都」関連年表の作成(1)

 「洛中洛外日記」1649話(2018/04/13)〝九州王朝「官道」の造営時期〟において、わたしは九州王朝「官道」の造営時期の史料根拠として次の『日本書紀』の三つの「大道」記事に注目し、確実に九州王朝系史料に基づいた記事は(C)ではないかとしました。すなわち、前期難波宮を九州王朝が複都として造営したときにこの「大道」も造営したと考えたわけです。実際に前期難波宮朱雀門から真南に通る「大道」の遺構も発見されており、考古学的にも確実な安定した見解です。

(A)「この歳、京中に大道を作り、南門より直ちに丹比邑に至る。」『日本書紀』仁徳14年条(326)
(B)「難波より京への大道を置く。」『日本書紀』推古21年条(613)
(C)「処処の大道を修治(つく)る。」『日本書紀』白雉4年条(653)

 他方、この「処処の大道」が太宰府を起点とした「東海道」「東山道」などの「官道」造営を意味するのかは、『日本書紀』の記事だけからでは判断できず、7世紀中頃ではちょっと遅いような気がするとも考えていました。
 今回、改めてこれらの記事を精査したところ、わたしの理解が適切ではないことに気づきました。というのも『日本書紀』白雉4年条(653)の(C)「処処の大道を修治(つく)る。」の「修治(つく)る」とは初めて大道を造ったという意味ではなく、既にあった大道を「修治(修理)」したと解すべきだからです。岩波書店『日本書紀』の「修治」に付された訓み「つくる」に惑わされたようです。
 そうすると、『日本書紀』推古21年条(613)の(B)「難波より京への大道を置く。」の記事が注目されます。難波と京(太宰府か)の間に「大道」を造営したという記事ですから、これこそ難波複都や四天王寺(難波天王寺)造営に先立ち、筑紫から摂津難波へ建設に携わる大量の物資や工人(番匠)たちの輸送のための、九州王朝(倭国)による官道造営記事だったのではないでしょうか。
 なお、この記事の「置く」という表現も微妙です。初めて大道を造営したのなら、「造る」のような表現がより適切と思われるからです。もしかすると、既にあった「道」を官道(大道)として「認定」したことを「置く」と表現したのかもしれません。この点、『日本書紀』に見える他の「置く」の用例を調査する必要があります。
 以上のような視点で『日本書紀』などの難波関連記事を見直すことにより、難波複都の歴史を復元(年表作成)できるのではないかと考えています。(つづく)