古賀達也一覧

古田史学の会代表古賀達也です。

第3534話 2025/09/25

興国の津軽大津波伝承の理化学的証明(3)

 国立歴史民俗博物館の報告書「十三湊遺跡北部地区の発掘調査」(1995年)によれば、江戸期成立文献に見える「興国の大津波」伝承は史実ではないとされていますが、理化学的年代測定により「興国の大津波」があったとする報告書があります。『地質学論集』第36号に掲載された箕浦幸治・中谷周「津軽十三湖及び周辺湖沼の成り立ち」(1990年、注①)です。それには次のように報告されています。

 「1983年5月、日本海北東部で発生した日本海中部地震津波は、青森県から秋田県の海岸域に押し寄せ、これらの地域に多大な被害をもたらした。遡上した海水は、海岸湖沼や跡背湿地に流入し、一時的に水系の環境を大きく変えた(箕浦・中谷、1989)。寛保元年(西暦1741年)、渡島半島西方沖で発生した大津波は、津軽半島にも襲来し、十三湖に近い小泊で7mに達する波高を記録した(渡辺、1985)。その時の様子を、橘南谿が自著「東遊記」に克明に記録している。十三湖周辺の海岸地形は、この津波によって少なからず変容したことが推定されている(箕浦・中谷、1989)。十三往生記或は東日流外三郡誌(小館・藤本、1986)によれば、興国二年(西暦1341年)日本海北東縁に大津波が発生して津軽半島に波及し、多数の犠牲者を出すとともに、津軽の覇者安東氏の本拠であった十三浦(十三湖)を襲ってこれを壊滅させたという。」(71頁)

 「海側の砂丘の出現と砂丘間水路の閉塞の年代は、鉛同位体法により各々640年±20年前(西暦1340年±20年)及び240年±20年前(西暦1748年±20年)と推定される。

 既に述べたように、今から遡ること約650年前津軽の海岸に大津波が押し寄せたという記録或は伝承(佐藤・箕浦、1987)が、不正確ながら今日に残されている。砂丘間湖沼を出現させた海側の砂丘の発達は、その推定年代値(西暦1340年前後)から、この時の津波(興国の大津波)の襲来によって作られた可能性が大いに考えられる。十三湖の堆積物中には堆積相の急変部が認められず、従って、この津波は湖に直接及ばなかったと思われる。恐らく、海岸での急激な堆積物の移動と海岸砂丘の形成に終始し、津波による当時の港湾施設の破壊の言伝え(小館・藤本、1986)は後の誇張によるものであろう。或は、砂丘の出現による湖口部の閉鎖が水上交易を阻害し、中世十三浦の支配者たる津軽安東氏(桜井、1981)は、これ以降急速に衰退の一途を辿ったとも解釈できよう。水路の閉鎖による砂丘間湖沼の誕生は、既に報告されているように(箕浦ほか、1985)、寛保元年(西暦1741年)北海道渡島大島沖に発生した大津波によってもたらされた。」(85頁)

 この報告の要点は次の通りです。

❶海側の砂丘の出現と砂丘間水路の閉塞の年代は、鉛同位体法により640年±20年前(西暦1340年±20年)及び240年±20年前(西暦1748年±20年)と推定される。※数値はママ。
❷寛保元年(西暦1741年)、渡島半島西方沖で発生した大津波により十三湖周辺の海岸地形は少なからず変容したことが推定されている(箕浦・中谷、1989)。その時の様子を橘南谿が「東遊記」に克明に記録している。
❸海側の砂丘の出現と砂丘間水路の閉塞は640年±20年前(西暦1340年±20年)と考えられ、これは興国元年(1340)・二年(1341)の大津波伝承に対応している。
❹従って、砂丘間湖沼を出現させた海側の砂丘の発達は、その推定年代値(西暦1340年前後)から、この時の津波(興国の大津波)の襲来によって作られた可能性が大いに考えられる。
❺十三湖の堆積物中には堆積相の急変部が認められず、従って、興国の大津波は湖に直接及ばなかったと思われる。恐らく、海岸での急激な堆積物の移動と海岸砂丘の形成に終始している。
❻津波による当時の港湾施設の破壊の言伝え(『東日流外三郡誌』)は後の誇張によるものであろう。或は、砂丘の出現による湖口部の閉鎖が水上交易を阻害し、中世十三浦の支配者たる津軽安東氏は、これ以降急速に衰退の一途を辿ったとも解釈できよう。

 ❶~❹で示されているように、鉛同位体比年代測定により明らかとなった十三湊が閉塞された年代が、興国の大津波伝承と一致することは重要です。すなわち、理化学的年代測定値と現地伝承史料の年代が一致するという当報告は、『東日流外三郡誌』偽書説に対する強力な反証となります。少なくとも、〝『東日流外三郡誌』にしかない興国の大津波伝承は考古学調査で否定されており、従って『東日流外三郡誌』は偽書である〟というレベルの偽作キャンペーンが全く成立しないことは明白です。

 なお、『地質学論集』第36号掲載の報告書「津軽十三湖及び周辺湖沼の成り立ち」の存在を、わたしはブログ「釜石の日々」の記事(注②)で知りました。同ブログ編集者に感謝します。(つづく)

《追記》明日、弘前市に向かいます。明後日の『東日流外三郡誌の逆襲』出版記念講演会(秋田孝季集史研究会主催)で講演し、その後は現地調査などを行う予定です。

(注)
①箕浦幸治・中谷 周「津軽十三湖及び周辺湖沼の成り立ち」『地質学論集』第36号、1990年。
https://dl.ndl.go.jp/pid/10809879
箕浦幸治(?-?) 東北大学理学部地質学古生物学教室
中谷 周(?-1992.08) 弘前大学理学部地球科学教室
②ブログ「釜石の日々」〝津軽十三湊の興国の大津波〟2016-09-08 19:13:23 | 歴史
https://blog.goo.ne.jp/orangeone_2008/e/260cd259cee059990c7e8c1be68426c1

《写真》「東日流外三郡誌」に描かれた〝興国二年の大津波〟

 


第3533話 2025/09/22

「34年遡り」説で

 天武紀の一切経・放生会記事を解明

 一昨日、「古田史学の会」関西例会が東成区民センターで開催されました。リモート参加は4名でした。10月例会の会場は豊中倶楽部自治会館です。

 わたしからは、「和田家文書の真実 ―『東日流外三郡誌の逆襲』出版記念―」を発表しました。9月27日(土)、青森県弘前市で開催される『東日流外三郡誌の逆襲』出版記念講演会(秋田孝季集史研究会主催)のリハーサルを兼ねて発表したもので、9/05・リモート古代史研究会(多元的古代研究会主催)、9/13・和田家文書研究会(東京古田会主催)に次いで3回目のリハーサルです。様々なご意見をいただき、本番に向けての準備はほぼ完了しました。貴重なご意見を賜り、ありがとうございました。

 弘前市講演会には、新聞各社や地元選出議員の参加も予定されているようです。『東日流外三郡誌』は偽書ではなく、江戸時代における当地の歴史伝承が採録された貴重な史料であること、和田家文書以外にも津軽の民間で成立した江戸期の伝承史料が青森県には数多く遺っていることなどを紹介する予定です。

 今回の例会で最も注目したのが正木裕さんの発表「繰り下げられた利歌彌多弗利の事績」でした。『日本書紀』天武紀には不自然な記事がありました。例えば、天武二年(673)の初めての一切経書写記事、天武四年(675)の殺生・肉食禁止記事、天武五年(676)の放生会記事などです。唐突に記されたこれら一連の記事は、本来は九州王朝によるものであり、それらが三十四年後の天武紀に転用されたとする仮説です。これは正木さんにより提起されてきた「34年遡り」説の適用であり、この方法と理解により、『二中歴』年代歴の九州年号細注記事などと整合することを明らかにしました。
この正木説によれば、『日本書紀』編纂時の九州王朝記事の概要を推定できそうですし、それは九州王朝史復元研究に貢献できます。正木説の検証や展開が期待されます。

 9月例会では下記の発表がありました。発表希望者は上田さんにメール(携帯電話アドレス)か電話で発表申請を行ってください。発表者はレジュメを25部作成されるようお願いします。
なお、古田史学の会・会員は関西例会にリモート参加(聴講)ができますので、参加希望される会員はメールアドレスを本会までお知らせ下さい。

〔9月度関西例会の内容〕
①蘇我馬子と聖徳太子 ―俀国と兄弟統治を解明する― (姫路市・野田利郎)
②一つ目の人面付き甲冑埴輪の謎 (大山崎町・大原重雄)
③東日流外三郡誌の後出しジャンケンの六本柱復元絵図 (大山崎町・大原重雄)
④中国史書の方位表記の検討 (京都市・二宮廣志)
⑤和田家文書の真実 ―『東日流外三郡誌の逆襲』出版記念― (京都市・古賀達也)
⑥多元的九州王朝論のすすめ (茨木市・満田正賢)
⑦消された「詔」と遷された事績(後編) (東大阪市・萩野秀公)
⑧『古事記』『日本書紀』の成立事情 (八尾市・服部静尚)
⑨繰り下げられた利歌彌多弗利の事績 (川西市・正木裕)

□「古田史学の会」関西例会(第三土曜日) 参加費500円
10/18(土) 10:00~17:00 会場:豊中倶楽部自治会館


第3532話 2025/09/20

興国の津軽大津波伝承の理化学的証明(2)

 長谷川成一氏(弘前大学文学部教授)が「近世十三湊に関する基礎的考察」(1995年、注①)で紹介した国立歴史民俗博物館の報告書「福島城・十三湊遺跡 1991年度調査概要」(1993年、注②)には、十三湊(とさみなと)遺跡から出土した遺物(陶器・漆器・他)の点数が年代別に表記されています。次の「表6」(319頁)です。

 表6 遺物年代別個体数(十三湊遺跡で年代を判定できた資料)
(1991年度分布調査分)
破片数  口縁部
12世紀 1 0.1
13世紀 4 0
14世紀 19 0.7
15世紀 21 0.7
16世紀 0 0

 津軽の「興国の大津波」は興国元年(1340)・二年(1341)と伝承されていますから、14世紀の事件となります。伝承ではこの大津波で十三湊は壊滅したとされますが、採取遺物の編年によれば14~15世紀の遺物が増加しており、興国の大津波が十三湊を襲ったとは思われません。むしろ16世紀に遺物が激減しており、十三湊の活動停止時期がこの頃であることを示しているようです。また、津波の痕跡についての報告も同報告書には見えません。

 津軽十三湊の遺構に津波の痕跡が無かったことをはっきりと記した報告は、国立歴史民俗博物館の報告書「十三湊遺跡北部地区の発掘調査」(1995年、注③)に見えます。それには次の発掘調査所見と意味深な「付言」が記されています。

〝 5 十三湊遺跡北部地区の発掘調査
ここでは十三湊遺跡の土塁以北の調査について記述する。対象となるのは92年度調査第1地区および93年度調査第1地区である。
《中略》
B 93年度第1地区
(1)位置と層序
93年度調査区は92年度調査の成果を受けて、土塁北側地区でもっとも中心的な施設が存在すると推測した十三小学校周辺で、面的な調査が可能であった地点として選択された。
《中略》

 また、この調査では茶褐色砂質土中に厚さ1cm~5cm程度の薄い黄褐色のきめ細かな砂層がまばらに形成されている様子が観察された。この層は水性堆積によって、十三湖岸の砂がもち込まれたことで生み出されたと評価され、この地域が十三湊の活動期から何度かの水害に悩まされていたことを裏付ける。

 しかし、このことは巷間に広く伝えられているように、大規模な水害によって十三湊が最終段階に壊滅的な被害を受けたという伝説を考古学的に認めるものではない。逆に水害の後、砂で埋まった道路側溝などの諸施設が速やかに修復されている様子がはっきりと確認できることから、十三湊の直接の廃絶の原因を大規模な水害とする可能性はなくなったと言える。そして、十三湊の成立と廃絶は安藤氏権力の消長とともに、日本海・北方交易の展開、北部日本の政治構造の変化を見据えた中で位置づけられ、評価していかなければならない。

 なお、ひとこと付言すれば、二次的な編纂物と考古学的な調査成果との整合性を云々するのも、生産性のない議論であることは言うまでもない。(千田)〟『国立歴史民俗博物館研究報告』第64集(1995)

 このように、十三小学校周辺には水害の痕跡はあるものの、大規模な水害(大津波)で廃絶したとする可能性を否定しています。そして、「二次的な編纂物と考古学的な調査成果との整合性を云々するのも、生産性のない議論であることは言うまでもない。」との付言で締めくくられています。ここでの「二次的な編纂物」とは『東日流外三郡誌』や津軽藩系の系譜の「興国の大津波」記事のことと思われますが、文献と考古学的出土物の関係や整合性を論じることを、「生産性のない議論であることは言うまでもない。」と切り捨てるのはいかがなものでしょうか。こうした論法が許されるのなら、倭人伝や『日本書紀』の記述と考古学的出土物の整合性を論じるのも「生産性のない議論」となりかねず、学問や歴史研究を志すものとしては到底首肯できるものではありません。(つづく)

(注)
①長谷川成一「近世十三湊に関する基礎的考察」『国立歴史民俗博物館区研究報告』第64集、237頁、1995年。
②千田嘉博・小島道裕・宇野隆夫・前川要「福島城・十三湊遺跡 1991年度調査概報」『国立歴史民俗博物館研究報告』第48集、1993年。
③千田嘉博・高橋照彦・榊原滋隆「十三湊遺跡北部地区の発掘調査」『国立歴史民俗博物館研究報告』第64集、88~112頁、1995年。


第3531話 2025/09/17

興国の津輕大津波伝承の理化学的証明(1)

 三十年ほど前に突然始まった『東日流外三郡誌』偽作キャンペーンは、同文書の所蔵者である和田喜八郎氏を偽作者、古田先生を偽作の協力者として、学問的批判の域を超えた誹謗中傷・名誉毀損の限りを尽くしたものでした。その一端をこの度上梓した『東日流外三郡誌の逆襲』で紹介し、反証を行いました。残念ながら偽作説への全ての反論を掲載できなかったので、残りは同書続編に委ねますが、良い機会でもありますので、偽作キャンペーンのテーマになった「興国の津軽大津波伝承」についての偽作説への反証を紹介します。

 偽作キャンペーン誌『季刊 邪馬台国』53号(1994年)に掲載された長谷川成一氏(弘前大学文学部教授・当時)の「津軽十三津波伝承の成立とその性格 ―「興国元年の大海嘯」伝承を中心に―」には、文献史学の立場から次のように述べています。

〝すなわち、「興国元年の大海嘯」はそれを記す何本かの十三藤原氏系図の内容それ自体が荒唐無稽であって、歴史的な事実を記したものとはとうてい考えられない。したがって文献史料からは、その存在を確認するのは不可能であり、大津波は興国元年になかった可能性が非常に高い、と言わざるを得ないのである。(中略)したがって、現段階においては、文献史学の分野からの、これ以上の十三津波へのアプローチはできないし、またその意味もないと思われ、自然科学の分野における解明を期待して擱筆することにしたい。〟(216頁)

 長谷川氏は『東日流外三郡誌』などに記された「十三藤原氏系図の内容それ自体が荒唐無稽」と全否定したため、「文献史学の分野からの、これ以上の十三津波へのアプローチはできないし、またその意味もないと思われ、自然科学の分野における解明を期待して擱筆することにしたい。」と言わざるを得なくなっているわけです。そしてこの論稿の翌年(1995年)に発表した「近世十三湊に関する基礎的考察」(注①)でも同様の所見が見えます。

 〝近年の国立歴史民俗博物館を中心とした、十三湊の本格的な発掘による貴重な成果が、千田嘉博・小島道裕・宇野隆夫・前川要「福島城・十三湊遺跡 1991年度調査概報」(『国立歴史民俗博物館研究報告』第48集 1993年 所収)として発表され、従来の文献史料を主とした研究に大きな影響を与えた。
(中略)

 自然科学的に津波が存在したか否かは、人文科学系の研究者にとってとうてい解明できる問題ではないが、このたびの中世の十三湊遺跡の発掘調査においては、津波の痕跡は検出されておらず、歴史考古学の立場から津波の存在は否定されたと見て支障なかろう。〟

 このように、長谷川氏は文献史学では興国年間(1340~1345)の津軽大津波伝承の史実性を確認できないとして、考古学的出土報告の所見に従って、『東日流外三郡誌』などに記された興国二年(1341年)あるいは興国元年(1340年)に十三湊を大津波が襲ったとする当地の伝承は歴史事実ではないとするわけです。このような見解は文献史学としても不適切とわたしは考えており、「洛中洛外日記」などで次のように指摘しました(注②)。

 〝江戸時代に「興国の大津波」が伝承されていたことを考えても、「起きもしなかった〝興国の大津波〟を諸史料に造作する、しかも興国年間(元年、二年)と具体的年次まで記して造作する必要などない」と言わざるを得ません。

 これは法隆寺再建論争で、「燃えてもいない寺院を、燃えて無くなったなどと、『日本書紀』編者が書く必要はない」と喝破した喜田貞吉の再建論が正しかったことを想起させます。いずれも、史料事実に基づく論証という文献史学の学問の方法に導かれた考察です。いずれは、発掘調査という考古学的出土事実に基づく実証によっても、証明されるものと確信しています。〟

 こうした視点こそ、文献史学の文献史学たる由縁ではないでしょうか。それでは、長谷川氏が「従来の文献史料を主とした研究に大きな影響を与えた」とする国立歴史民俗博物館の発掘調査報告を見てみることにします。(つづく)

(注)
①長谷川成一「近世十三湊に関する基礎的考察」『国立歴史民俗博物館区研究報告』第64集、1995年。
②古賀達也「洛中洛外日記」3111話(2023/09/12)〝興国の大津波の伝承史料「津軽古系譜類聚」〟
同「興国の津軽大津波伝承の考察 ―地震学者・羽鳥徳太郎の慧眼―」『東京古田会ニュース』215号、2024年。


第3530話 2025/09/14

ミネルヴァ書房・杉田社長からの電話

 半月後に迫った弘前市での『東日流外三郡誌の逆襲』(八幡書店)出版記念講演会(9/27、弘前市立観光館。秋田孝季集史研究会主催)の準備で忙しくしていますが、先日、京都市山科区に本社を置くミネルヴァ書房の杉田啓三社長からお電話をいただきました。古田先生の追悼講演会以来のことですから、お声を聞くのも十年ぶりです。

 開口一番、「『東日流外三郡誌の逆襲』を送ってくれてありがとう。三日かけて読んだ。これは面白いねえ。」とのこと。京都の人文・社会科学系出版の雄、ミネルヴァ書房と言えば、本作りのプロ中のプロの集団。そこの社長の杉田さんからのお褒めの言葉だけに、感激しました。「三十年かかりました」と言うと、「ようあれだけ調べたねえ。それにしても偽作論者はひどい。彼らには何を言っても無駄だろうけれども、本当によう調べたと思う。」

 このようなやりとりのあと、三十数年前に起きた和田家文書偽作キャンペーンと「市民の古代研究会」への激しい組織攻撃(理事会の切り崩し、裏切りなど)を受け、最後はわたし一人で「古田史学の会」の立ち上げを決意し、集まってくれた数人の同志と、そして古田武彦先生と共に、全国の古田ファン・古田史学支持者を糾合するため、北海道から九州まで行脚し、「古田史学の会」の組織を作り、この本の発刊に至ったことを杉田社長に説明しました。ですから、「古田史学の会」が今日あるのは、偽作論者や偽作キャンペーンの賜とも言えそうです。何よりも、『季刊 邪馬台国』や週刊誌・書籍、右翼雑誌などから名指しの攻撃を受けたことにより、わたし自身も精神的・学問的にタフになりました。

 思い起こせば、当時、古田先生は次のように言われました。
「偽作キャンペーンが今でよかった。もしこれが十年後であったなら、わたしの身体は到底もたなかった。」
このとき、先生は六十七歳、わたしは三十八歳でした。
話を戻します。ミネルヴァ書房からは、これまで「古田史学の会」の本を二冊出版していただきました。『「九州年号」の研究』(2012年)と『邪馬壹国の歴史学』(2016年)です。どちらも「古田史学の会」編の自信作です。電話の最後に、「また機会があれば「古田史学の会」の本を出していただきたいと思います。」と述べ、拙著へのお褒めの言葉に対して重ねてお礼を申し上げました。


第3529話 2025/09/11

王朝交代時の九州年号「大化」の考察 (3)

 王朝交代時の九州年号「大化」の字義ですが、岩波の『日本書紀』頭注には次の二例をあげています。

❶大化は、広大な徳化の意。
❷尚書、大誥に「肆予大化誘我友邦君」。

 『日本書紀』孝徳紀の大化(645~649)は一元史観を前提としていますから、孝徳天皇自らの意志や業績を讃えるという❶の「広大な徳化の意」という解釈でよいのですが、九州王朝説による九州年号「大化(695~703)」の場合は、❶の解釈では今ひとつピントが外れているように思います。そこで注目したのが、❷の『尚書』大誥に見える「肆予大化誘我友邦君」という出典記事です。

 『尚書』の大誥とは、周公が東征の前に発表した訓戒文とされ、天子や王の命令を下すための文書であり、官吏や臣民に対して戒めや訓戒を伝えるために使用されたとのこと。したがって大誥は古代中国の王の意志を反映した重要な文献とされています。もし、九州年号「大化」が『尚書』の大誥からとられたとすれば、それは何を意味しているのでしょうか。

 『尚書』大誥に見える「肆予大化誘我友邦君」は〝肆(ゆゑ)に予(われ)大いに我が友邦の君(くん)を化誘す。〟と読めますから、その意味は「ゆえに余は大いにわが友邦諸国の君主たちを教え導くのである」となり、九州王朝の天子が友邦諸国の君主たちに発した訓戒とする理解が成立します。七世紀末の九州王朝にとって最大の友邦とは近畿天皇家であり、後の日本国です。あるいは更に東の大国、蝦夷国も含まれるかもしれません。そうであれば、近畿の持統天皇や蝦夷国の王に対する〝大いなる化誘〟という意味を込めて「大化」という年号に改元したとする仮説が提起できます。

 もちろん「大化」という用語の出典は『尚書』以外にもありますから、他の仮説も成立しそうですが、周公が東征の前に発表したとされる大誥が出典であれば、九州王朝の西都太宰府から、東の有力諸国、藤原宮の持統天皇や蝦夷国の王へ訓戒・化誘するにあたり、年号としての「大化」改元は相応しいよう思いますがいかがでしょうか。しかしながら、訓戒・化誘の意味を込めた「大化」改元後に王朝交代となったのですから、歴史の皮肉と言えるかも知れませんね。(おわり)


第3528話 2025/09/09

王朝交代時の九州年号「大化」の考察 (2)

 九州年号「大化」の字義は〝大きく化する〟ですから、九州王朝(倭国)から大和朝廷(日本国)への王朝交代を見据えた年号ではないか、あるいは大化元年(695)が持統天皇の藤原遷居(694年12月、注①)の翌年(翌月)に当たることから、藤原遷都に関係したものではないかとも考えてきました。しかし、そうであれば大化改元は大和朝廷の意向(禅譲の強要か)にそったものとなり、大和朝廷が大宝建元(701)したときに九州年号「大化」は廃止されると思うのですが、大化は九年(703)まで続き、その後は「大長」と改元され九年まで続き、九州年号は王朝交代の11年後に終わります。この「大化」「大長」の九州年号が、単純な禅譲説を斥けるのです。

 『日本書紀』では大化改元が、九州年号「大化」を孝徳紀まで50年遡らせていますから、大化の字義を〝広大なる化導。大なる徳化。徳を以て大いに導き、人心をよき方向にかえること。〟のように孝徳天皇の意志や業績と関連づけた建元(注②)と理解されているようです。しかし九州王朝説では、大化は王朝交代直前の九州王朝による改元ですから、こうした解釈では、5年後に交代する新王朝への讃辞のような字義となり、ちよっと不自然のような気がします。(つづく)

(注)
①持統九年十二月条に「藤原宮に遷(うつ)り居(おは)します。」とあり、「遷都」としていないことが注目される。
②日本古典文学大系『日本書紀』(岩波書店)の頭注には次の説明がある。〝大化は、広大な徳化の意。尚書、大誥に「肆予大化誘我友邦君」。(中略)書紀では大化が年号のはじめ。〟。


第3527話 2025/09/08

王朝交代時の九州年号「大化」の考察 (1)

31歳の時、古田武彦先生に師事し、入門以来主要テーマとしたのが九州年号研究でした。これまでの研究成果として次のことがわかってきました。

❶九州年号の改元理由として、王宮・王都の造営や遷都・廃都がある。
(例) 倭京元年(618):太宰府遷都(注①)、白雉元年(652):前期難波宮創建、朱鳥元年(686):難波宮焼亡、白鳳元年(661):大津宮創建(注②)。この他にも正木裕氏の研究がある(注③)。
❷年干支が「辛酉」のときにも改元されている(注④)。
(例) 明要元年(541)・願轉元年(601)・白鳳元年(661)。
❸年号に仏典・仏教の影響が見られるものがある。
(例) 教到(531~535)、僧聴(536~540)、和僧(565~569)、金光(570~575)、仁王(623~634)、僧要(635~639)。
❹701年の王朝交代後も九州年号「大化」(695~703)・「大長」(704~712)が続いている(注⑤)。

これまでの研究成果を前提として、わたしが最も注目しているのが「大化」年号です。王朝交代した701年の前後にまたがっている年号ですが、この大化年間に九州王朝に何が起きたのでしょうか。なぜ「大化」のような年号をこの時期に九州王朝は採用したのでしょうか。ここに王朝交代の真相に迫るヒントが隠されているように思われるのです。(つづく)

(注)
①古賀達也「太宰府建都年代に関する考察 ―九州年号『倭京』『倭京縄』の史料批判―」『「九州年号」の研究』ミネルヴァ書房、2012年。
②古賀達也「九州王朝の近江遷都」『「九州年号」の研究』ミネルヴァ書房、2012年。
③正木裕「九州年号の改元について(前編)」『古田史学会報』95号、2009年。
「九州年号の改元について(後編)」『古田史学会報』96号、2010年。
④古賀達也「辛酉革命と甲子革令の王朝」『「九州年号」の研究』ミネルヴァ書房、2012年。
⑤古賀達也「最後の九州年号 ―『大長』年号の史料批判」『「九州年号」の研究』ミネルヴァ書房、2012年。初出は『古田史学会報』77号、2006年。
「続・最後の九州年号 ―消された隼人征討記事」『「九州年号」の研究』ミネルヴァ書房、2012年。初出は『古田史学会報』78号、2007年。 同「九州年号『大長』の考察」『失われた倭国年号《大和朝廷以前》』(『古代に真実を求めて』20集)、2017年。

【写真】九州年号の「大化五子年」土器。


第3526話 2025/09/05

『東日流外三郡誌の逆襲』

     出版記念講演のリハーサル

 本日、「多元的古代研究会」主催のリモート研究会で、「和田家文書の真実」というテーマを発表させていただきました。9月27日(土)の弘前市(秋田孝季集史研究会主催)と10月25日(土)に東京(八幡書店主催)で開催される『東日流外三郡誌の逆襲』出版記念講演会のリハーサルを兼ねて発表しました。
この三十年間の研究成果をパワポファイル120枚を使用して説明しましたが、最後に、これから十年をかけて『東日流外三郡誌』の編者秋田孝季の生涯と思想を研究し、古田武彦先生ができなかった『秋田孝季』の伝記執筆のための研究を続け、後継者に委ねたいと締めくくりました。この思いを綴ったのが『東日流外三郡誌の逆襲』の最後に収録した「謝辞に代えて ―冥界を彷徨う魂たちへ―」です。その末尾の一節を転載します。同書出版に込めた思いの一端が読者に伝われば幸いです。

【以下、転載】
あるとき、古田先生はわたしにこう言われた。「わたしは『秋田孝季』を書きたいのです」と。東日流外三郡誌の編者、秋田孝季の人生と思想を伝記として世に出すことを願っておられたのだ。思うにこれは、古田先生の東北大学時代の恩師、村岡典嗣(むらおかつねつぐ)先生が二十代の頃に書かれた名著『本居宣長』を意識されてのことであろう。
それを果たせないまま先生は二〇一五年に逝去された。ミネルヴァ書房の杉田社長が二〇一六年の八王子セミナーにリモート参加し、和田家文書に関する著作を古田先生に書いていただく予定だったことを明らかにされた。恐らく、それこそが『秋田孝季』だったのではあるまいか。先生が遺した『秋田孝季』の筆を、わたしたち門下の誰かが握り、繋がねばならない。その一著が世に出るとき、東日流外三郡誌に関わった、冥界を彷徨い続ける人々の魂に、ひとつの安寧が訪れることを信じている。
〔令和七年(二〇二五)五月十二日、筆了〕


第3525話 2025/09/03

東北地方の「山」地名〝山形〟を考える

 東北地方に濃密分布する「山神社」ですが、なぜか山形県が最も多いようでした。同県には下記の「山神社」がウィキペディアで紹介されています。

【山形県の主な山神社】
山神社 – 山形県新庄市本合海
山神社 – 山形県最上郡金山町有屋
山神社 – 山形県最上郡最上町富沢
山神社 – 山形県最上郡舟形町舟形
山神社 – 山形県最上郡真室川町及位
山神社 – 山形県最上郡鮭川村曲川
山神社 – 山形県最上郡戸沢村松坂
山神社 – 山形県最上郡最上町本城
山神社 – 山形県山形市神尾
山神社 – 山形県寒河江市田代
山神社 – 山形県村山市河島
山神社 – 山形県天童市山口
山神社 – 山形県東根市関山
山神社 – 山形県尾花沢市五十沢
山神社 – 山形県東田川郡三川町押切新田
山神社 – 山形県西村山郡朝日町杉山
山神社 – 山形県西村山郡大江町柳川
山神社 – 山形県西置賜郡白鷹町萩野

 山形県内の「山神社」をプロットした地図を見ていて、山形県・山形市の山も「山神社」と無関係ではないのではないかと考えました。そこで「山形」地名の由来を調べてみました。関係自治体ホームページなどでは、『倭名抄』(注)に見える「山方郷」(山形市の南部とされる)が地名の由来とされています。それはその通りだと思いますが、今、問題にしているのは、「山形・山方(やまかた)」の「山(やま)」の由来ですから、こうした説明だけでは不十分です。平地から見て山の方にある郷だから山方郷とする説明も見えますが、内陸部にある山形市の四方はほぼ山ですから、南側だけ「山方」と名づけられたことになる、このような説明では納得できそうにありません。

 そこで、ここからはわたしの作業仮説(思いつき)ですが、「山方(やまかた)」は「やま」の「県(あがた)」が本来の行政地名であり、その「やまあがた」が「やまがた」と呼ばれ、漢字の「山方」「山形」を当てられたのではないでしょうか。そうであれば、その地名の語幹は「やま」となり、当地はもともと「やま」と呼ばれていた領域と考えることができます。なお、この場合の「やま」は moutain のこととは限りません。

 しかしながら「山県(やまあがた)」由来説には考えなければならない問題があります。それは、「県(あがた)」は七世紀前半以前の倭国(九州王朝)の行政単位であり、古代の蝦夷国であった山形県に倭国の行政単位が採用されていたのかという問題です。引き続き、この作業仮説が成立するのか深く考えてみます。(つづく)

(注)『倭名類聚抄』の略称。『和名類聚抄』『和名抄』ともいう。同書は源順による辞典類で、平安時代中期の承平年間(931~938年)に成立。当時の地名が記されており、地名研究では基本資料として重視されている。


第3524話 2025/08/30

「山神社」名称の由来を考える

 「洛中洛外日記」3519話〝東北地方に濃密分布する「山神社」〟で、山神社が東北地方や東海地方に濃密分布していることを紹介しましたが、その神社名の意味や由来についてはよくわかりませんでした。そこで、今回はこの「山神社」名称の由来を考えてみました。

 神社名には、地名や山名、神名などが一般的には用いられています。白山神社とか月山神社は山の名前を採用した例です。大山祇神社や八幡神社は神名です。その点、「山神社」は「山(やま・さん)」という神様を祀る神社なのか、「山(やま・さん)」という地名・領域を冠した神社なのか、あるいはそれ以外なのか、まだよくわかりません。

 「山の神」伝承は各地にありますが、その神様の本名が「山(やま・さん)」なのか、本名は不明だが山に住んでいる神様だから「山の神」と呼ばれているのか、これもまたよくわかりません。

 東北地方に分布する「山神社」のご祭神は大山祇であったり、コノハナサクヤ姫であったりと統一されていないところをみると、もともと「山神社」とあったので、『日本書紀』成立以降に著名な大山祇やコノハナサクヤ姫を祭神として後付け、あるいは本来の神様と取り替えたようにも思われます。しかし、後者であれば本来の神様の名前が共通の祭神として各地に遺っていてもよさそうですが、今のところそうした様子はうかがえません。

 「山神社」と似た名称構造を持つ神社に「天神社(てんじんしゃ)」があります。この「天」は sky や heaven ではなく、海を意味する倭語「アマ」です。地名にも使われている、たとえば「天草」のアマです。なお、この場合の「草(クサ)」は grass plnat ではなく、太陽・日を意味する古語「クサ」であり、「天草」とは〝海の太陽=海に沈む夕日〟とする説をわたしは発表しました(注①)。

 古田武彦説では天孫族の故地〝高天原〟と呼ばれている壱岐・対馬などの海洋領域を天国(あまくに)としており、「天神」とはアマテラスなどのアマ国領域の神様を意味します。従って、「天神社」の「天」とは天国(あまくに)領域を意味します。「山神社」がこれと同様の名称構造であれば、「山(やま)」という領域の神の社という理解が可能です。

 そこで思い起こされるのが、『三国志』倭人伝の中心国名「邪馬壹国」です。古田説によれば、倭(wi)国の中の邪馬(yama)という領域を意味する「邪馬壹国」が、倭国の中心領域の国名になったとしますから、九州王朝の故地、筑紫がヤマであり、それを漢字で「山」と表すことがあるとします(注②)。この理解に基づけば、「山神社」の「山」は筑紫を意味しますが、そうであれば「山神社」の分布が筑紫にあってほしいところですが、それはありません。したがって、「山」の由来を領域名とするのであれば、筑紫ではなく、「山神社」が濃密分布する東北地方に淵源を求めなければなりません。そのような領域が東北地方にあるでしょうか。(つづく)

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」425話(2012/06/12)〝「天草」の語源〟
②筑後(福岡県南部にあった山門郡)の「山門(やまと)」、筑前(福岡市西区)にある「下山門(しもやまと)、上山門(かみやまと)」は、「やま」領域の南北の入り口「門」「戸」を意味する地名と考えられる。

【写真】広島県厳島神社の天神社。山梨県南都留郡富士河口湖町本栖の山神社。


第3523話 2025/08/28

多賀神社(宮城県名取市)の日本武尊伝承

 「洛中洛外日記」3522話〝宮城県の日本武尊伝承を持つ神社〟で紹介した神社伝承のなかで最も注目したのが名取市高柳下西に鎮座する多賀神社です。同神社の創建は景行天皇二八年(98)に日本武尊(景行天皇の皇子)が東征の際に勧請したと伝えられています。

 伝承によれば、日本武尊は東国遠征での連戦により当地で重病となり、そこで柳の樹で祭壇を設けて病気平癒を祈願すると完治したとされています。その後、この故事から棚柳と呼ばれるようになり、霊地には祠が設けられて信仰の対象になったとのことです。

 また、仙台藩の『奥羽観蹟聞老志』(注①)には、雄略二年(458)に初めて祭禮で圭田(注②)五八束を寄進されたとあり、同神社が『延喜式』神名帳に記された式内社の多加神社とされてきました。わたしが注目したのは、この雄略二年(458)の圭田寄進という伝承です。景行天皇二八年(98)に創建されたとする伝承の年代は信頼できませんが、雄略二年(458)であれば、『宋書』倭国伝に記された九州王朝(倭国)の東方侵略〝東征毛人五十五國〟の時期とほぼ対応するからです(注③)。

 「風土記ニ曰ク。多賀ノ神社、圭田五十八束、二字田。所祭、伊弉諾尊也。雄畧二年、始奉圭田ヲ行フ神禮式祭。
神名、秘書ノ説載ス之宮城郡多賀ノ下ニ。」『奥羽観蹟聞老志』巻五 「国書データベース」による。句読点は古賀が付した。
https://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/100350427/1?ln=ja

 このように「雄略二年」という具体的な年次で伝承されているケースは、何らかの根拠(史料)に基づいている可能性が高いだけに貴重です。(つづく)

(注)
①『奥羽観蹟聞老志』は、仙台藩の史官佐久間洞巌が仙台藩主伊達綱村の命により、奥州の歴史・地名・産物などを主に纏めた地誌。享保四年(1719)の序がある。原本は宮城県立図書館が所蔵し、宮城県指定文化財に登録されている。
②けいでん【圭田】:「圭」は潔(きよ)いの意。 昔、その収穫を祭祀用にあてるために設けた田地。神田(しんでん)。
③『宋書』倭国伝によれば、「雄略二年(458)」は倭王済か興の時代にあたる。