古賀達也一覧

古田史学の会代表古賀達也です。

第3546話 2025/11/03

多元史観で見える蝦夷国の真実 (2)

  ―古代の津軽と筑紫の交流―

 10月25日(土)に、『東日流外三郡誌の逆襲』(古賀達也編)の版元、八幡書店が同書出版記念イベントとして、東京麹町でトークショー「壁の外に歴史はあった!」を開催しましたので、わたしも参加しました。トークメンバーはわたしと武田崇元社長・黒川柚月氏の三名。参加者からの質疑応答も活発で、夕食を兼ねた懇親会でも質問が続き、とても楽しい一日となりました。

 イベント冒頭に、わたしから『東日流外三郡誌の逆襲』の概要と30年前の津軽調査の想い出を話させていただきました。トークショーでは古代(弥生時代)に遡る津軽と筑紫の交流の痕跡として、青森県の砂沢水田遺跡を紹介し、同水田遺跡は関東の水田遺跡よりも古く、その工法が福岡県の板付水田と類似していることを紹介しました。

 砂沢遺跡は青森県弘前市にある弥生前期(2400~2300年前)の本州最北端の水田跡遺跡で、北部九州を起源とする遠賀川系土器が出土しており、九州北部の稲作農耕が日本海沿岸を経由して津軽平野へ伝播してきたことが分かりました。
さらに、青森県南津軽郡田舎館村にある弥生時代中期(2100~2000年前)の垂柳遺跡からも656面の水田跡が検出され、津軽平野には稲作をはじめとする弥生文化が受容されていた可能性が濃くなりました。このように、津軽(蝦夷国)と筑紫(九州王朝)には弥生時代から交流があったことを疑えませんが、その事情や歴史背景は未詳です。(つづく)


第3544話 2025/10/16

多元史観で見える蝦夷国の真実 (1)

 今年の7月6日(日)、久留米大学公開講座で「王朝交代前夜の倭国と日本国 ─温泉の古代史 太宰府遷都の背景─」というテーマで講演しましたが、その後半には「王朝交代前夜(七世紀第4四半期)の日本列島 —倭国・日本国・蝦夷国の三国時代—」という研究分野について解説しました。下記のような内容です。

❶ 列島の代表王朝だった倭国(九州王朝)から日本国(大和朝廷)への王朝交代は701年(大宝元年)のことと古田史学では考えられてきた。本研究により、それは七世紀第4四半期の天武天皇・持統天皇により準備されてきたことが明らかになった。

❷ 藤原京時代(694年遷都)には、出土木簡によれば近畿天皇家はヤマトを「倭国」と称していることから、自らの支配領域全体は「日本国」と称していた可能性が高い。

❸ しかし、その時期でも九州年号が各地で使用されていることから、大義名分上は九州王朝が700年まで倭国の代表王朝であり続けた。→大和朝廷(日本国)の年号は大宝(701年)から。

❹ 蝦夷国の存在をクローズアップすれば、七世紀後半の日本列島は倭国・日本国・蝦夷国の三国時代とも言いうる状況にあった。

❺ 蝦夷国は倭国(九州王朝)の冊封下にあったが、701年の王朝交代により独立を目指したようだ。八世紀になると新王朝の日本国と激しく争い、十世紀まで戦闘・抵抗を続け、蝦夷国は滅んだ。

❻ これからの日本古代史研究は、多元史観に基づき、「倭国・日本国・蝦夷国の三国時代」という視点が不可欠。

 古田史学の歴史認識の基本は多元史観であり、そうであれば九州王朝(倭国)や大和朝廷(日本国)だけではなく、古代において東北地方に存在した蝦夷国もひとつの「王朝」あるいは「国家」とする、七世紀頃までの〝倭国・日本国・蝦夷国の三国時代〟という視点での研究や史料理解が必要です。この提言を、わたし自身も含めた古田学派への〝警鐘〟として、久留米大学で発表しました。(つづく)


第3543話 2025/10/14

『古田史学会報』190号の紹介

 『古田史学会報』190号を紹介します。同号には拙稿〝温泉大国の九州王朝と蝦夷国 ―すいたの湯の入浴序列―〟を掲載して頂きました。同稿は、国内県別の温泉湧出量が蝦夷国(東北・北海道)と九州王朝(別府温泉・指宿温泉・他)に多いことに注目し、7~8世紀の都の中で太宰府(倭京)だけに温泉(二日市温泉=すいたの湯)が隣接していることから、九州王朝は意図的に温泉の側に遷都したとする仮説を提起しました。

 さらに、すいたの湯(川湯)には入浴序列が決められており、最初は大宰府官僚。その次に入浴できるのが、身分的には高くない「丁(よぼろ)」と呼ばれる労役に就いた人々であることを紹介しました。この序列が九州王朝時代にまで遡るのかは未詳ですが、当時の人々の思想性を考える上で興味深い風習であるとしました。

 本号で最も注目したのが谷本稿でした。昨今の「邪馬台国」説、なかでも畿内説の学問レベルが50年前(古田武彦の邪馬壹国説以前)にまで逆行していることを指摘したものです。近年、古田説支持者・古田ファンの中でさえも、ややもすれば古田説(邪馬壹国説・短里説など)への理解が曖昧になっていたり、誤解されていることをわたしも懸念していましたので、谷本さんの指摘には深く同意できました。古田史学の原点に戻って、多元史観やフィロロギーをわたし自身も学び直すきっかけにしたいと思えた、谷本さんの鋭い好論でした。

 萩野稿は編集部の手違いもあり、掲載が大きく遅れてしまいました。お詫びいたします。白石稿は、この度刊行された御著書『非時香菓(ときじくのかくのこのみ) ―斉明天皇・天智天皇伝説―』(郁朋社)の執筆動機から発行後の評判までを綴ったエッセイ。こうした投稿も大歓迎です。
190号に掲載された論稿は次の通りです。

【『古田史学会報』190号の内容】
○繰り下げられた利歌彌多弗利の事績 川西市 正木 裕
○考古学から論じる「邪馬台国」説の最近の傾向 神戸市 谷本 茂
○消された「詔」と移された事績 東大阪市 萩野秀公
○生島神社と『祝詞』(一) 上田市 吉村八洲男
○温泉大国の九州王朝と蝦夷国 ―すいたの湯の入浴序列― 京都市 古賀達也
○伊予朝倉の斉明天皇伝承を定説にするために 今治市 白石恭子
○史跡めぐりハイキング 古田史学の会・関西
○古田史学の会・関西例会のご案内
○『古代に真実を求めて』28集出版記念 新春古代史講演会のご案内
○編集後記 高松市 西村秀己

『古田史学会報』への投稿は、
❶字数制限(400字詰め原稿用紙15枚)に配慮し、
❷テーマを絞り込み簡潔に。
❸論文冒頭に何を論じるのかを記し、
❹史料根拠の明示、
❺古田説や有力先行説と自説との比較、
❻論証においては論理に飛躍がないようご留意下さい。
❼歴史情報紹介や話題提供、書評なども歓迎します。
読んで面白く、読者が勉強になる紙面作りにご協力下さい。

 また、「古田史学の会」会則に銘記されている〝会の目的〟に相応しい内容であることも必須条件です。「会員相互の親睦をはかる」ことも目的の一つですので、これに反するような投稿は採用できませんのでご留意下さい。なお、これは会員間や古田説への学問的で真摯な批判・論争を否定するものでは全くありません。

《古田史学の会・会則》から抜粋
第二条 目的
本会は、旧来の一元通念を否定した古田武彦氏の多元史観に基づいて歴史研究を行い、もって古田史学の継承と発展、顕彰、ならびに会員相互の親睦をはかることを目的とする。
第四条 会員
会員は本会の目的に賛同し、会費を納入する。(後略)


第3542話 2025/10/12

興国の津軽大津波伝承の理化学的証明(4)

 理化学的年代測定により「興国の大津波」があったとする報告書「津軽十三湖及び周辺湖沼の成り立ち」(1990年、注①)を「洛中洛外日記」3534話〝興国の津軽大津波伝承の理化学的証明(3)〟で紹介しましたが、その論文などを根拠とした文部科学省地震調査研究推進本部地震調査委員会(2003年)の報告が出されています。そこには次のように記されています。

〝表5 日本海東縁部における主な地震に関する文献での評価結果など
1341年10月31日
『東日流(つがる)外三郡誌』によれば、朝地震とともに約9mの津波が津軽半島の十三湊を襲い26,000名が溺死したとある。(渡辺、1985)。同歴史文書の信憑性について疑問視する人もおり、第二版の渡邉(1998)からは同地震の記述が削除されている。
然るに、十三湖水戸口に周辺での試錐調査からは、この時期巨大津波の襲来によるものと思われる海岸環境の劇的な改変が示唆される(箕輪・中谷、1990)。
本報告では、これらに中嶋・金井(1995)によるタービダイトの解析結果も加えて比較検討し、歴史記録からは信憑性に欠けるものの、この時期に巨大津波を伴う地震が青森県西方沖で発生したものと判断する。〟(注②) ※古賀注 1341年は興国二年。

 このように「この時期に巨大津波を伴う地震が青森県西方沖で発生したものと判断する。」と文科省の地震調査委員会は判断しており、『東日流外三郡誌』偽作キャンペーンで偽作の根拠とされた「興国の大津波」和田喜八郎偽作説が、科学的根拠に基づいて事実上否定されていることがうかがえます。
とは言え、「歴史記録からは信憑性に欠ける」という一文は非論理的で意味不明です。理化学的調査に基づき、「この時期に巨大津波を伴う地震が青森県西方沖で発生したものと判断」したのであれば、『東日流外三郡誌』など現地伝承史料に遺された「興国の大津波」記事は歴史事実の反映であり、その信憑性は高まったとするべきでしょう。文科省の地震調査委員会はいったい誰に忖度し、何を畏れたのでしょうか。歴史研究者が恐れなければならないのは歴史の真実であり、科学者であれば科学的エビデンスと科学の真理ではないでしょうか。(おわり)

(注)
①箕浦幸治・中谷 周「津軽十三湖及び周辺湖沼の成り立ち」『地質学論集』第36号、1990年。
https://dl.ndl.go.jp/pid/10809879
②『日本海東縁部の地震活動の長期評価』文部科学省地震調査研究推進本部 地震調査委員会、2003年。本報告の存在を竹田侑子さん(秋田孝季集史研究会・会長、弘前市)に教えていただいた。
https://www.jishin.go.jp/main/choukihyoka/03jun_nihonkai/s01.pdf


第3541話 2025/10/08

『東日流外三郡誌の逆襲』

八幡書店トークイベントのご案内

 『東日流外三郡誌の逆襲』(古賀達也編)の版元、八幡書店が同書出版記念イベントとして、10月25日(土)に東京でトークショーを開催します。わたしも参加することになりましたので、同社ブログより案内を転載します。定員50名とのことです。『東日流外三郡誌』にご興味のある方はご参加下さい。
その翌日の26日(日)午後には文京区民センターで、「古田史学の会」主催の『列島の古代と風土記』出版記念講演会を開催します。こちらにも是非ご参加下さい。

《以下、八幡書店ブログより転載》
トークイベント「壁の外に歴史はあった!」 (2025年10月25日)
【壁の外に歴史はあった!】
『東日流外三郡誌の逆襲』出版記念トークイベント
トーク:古賀達也・武田崇元・黒川柚月

 古代史最大のタブー『東日流外三郡誌(つがるそとさんぐんし)』に真正面から挑んだ衝撃の書籍『東日流外三郡誌の逆襲』(八幡書店刊)。
本書の登場により、「偽書」VS「正史」という単純な構図は崩れ、逆に問われるのは近代日本の“歴史認識”そのもの。
既成の壁を越えた「もうひとつの歴史」を求めて、あなたもこの知的冒険に加わってみませんか?
「逆襲」の編著者 古賀達也(古田史学の会・代表)、和田喜八郎と交流のあった弊社社主武田崇元、そしてゲストとして登壇する黒川柚月が、それぞれの視点からタブーの核心に斬り込む。三者三様に『東日流外三郡誌』に対しては温度差があるだけに面白い。
—————
【トークの見どころ(一部)】
●古賀達也による冷静かつ鋭利な文献批判と、新たな資料的価値の提示!
●武田崇元が語る、和田喜八郎との邂逅と『東日流』の伝承と霊的背景!
●黒川柚月が明かす!麻賀多神社~平将門~東日流文書をつなぐミッシングリンクとは?
—————
●日時:2025年10月25日(土) 13時~17時(途中休憩あり)
※それぞれ、開始15分前から受付開始します。
●場所:ゼン・ハーモニック(ZEN-HARMONIC)
5階 セミナールーム
●アクセス:
東京メトロ有楽町線 「麹町駅」 徒歩1分
東京メトロ半蔵門線 「半蔵門駅」 徒歩6分
JR 中央・総武線 「四ツ谷駅」 徒歩10分
※「麹町駅」からの行き方:
4番出口から左に出て、(株)ニップン(NIPPN)の角の信号を左折。

50mほど歩いて左に見える白い「高善ビル」のエレベーターで上がります。
●トーク:古賀達也・武田崇元・黒川柚月
●募集人数:50名様限定
●参加費:5,000円+税=5,500円
【早割:9月30日までにご予約の方は4,500円+税】
※終了後、懇親会あり(別料金当日精算。後日ご案内します)
●お申し込み方法
下記サイトにてお申し込み下さい。
八幡書店ANNEX
https://hachiman2.stores.jp/
電話でのお申し込みも受け付けております。03-3785-0881

https://hachiman2.stores.jp/items/68a8e44d0f090cc7e038fc40


第3540話 2025/10/07

津軽に多い「山神宮」

 弘前市立図書館で津軽藩内の神社や社司の調査記録「安政二年 神社微細社司由緒調書上帳」(写本)を読んだところ、津軽各地に「山神宮」という神社が多いことに気づきました。いずれもそれほど大きな神社ではないように見えましたが、以前の調査「洛中洛外日記」〝東北地方に濃密分布する「山神社」〟(注①)で、東北地方に「山神社」が濃密分布していることを報告し、なぜか青森県には少ないとしました。次の通りです。

 〝福岡県出身で京都に五十年住んでいるわたしには、「山神社」という聞き慣れない名称が気になり、ネットで調べてみました。各県神社庁のホームページによれば、山神社は東北地方に濃密分布しており、中でも宮城県と山形県が最濃密地域のようでした。秋田県や岩手県にも分布が見られますが、なぜか青森県には分布を見いだすことが、今のところできていません。〟

 しかし、弘前市立図書館で読んだ「神社微細社司由緒調書上帳」には、「山神宮」という神社名が各地に散見されました。ご祭神は記されておらず、津軽の「山神宮」で祀られている神様の調査はまだできていません。「山神宮」の訓みについても、「さんじんぐう」なのか「やまがみのみや」なのかも未調査です。当地の方に聞いてみたいと思います。

 次に問題なのが、「山神宮」の「山」とは何なのかということです。一般的には mountain のことと思われますが、「山」一般を神様とする信仰にも違和感があります。やはり、津軽で「山」と言えば岩木山のことではないでしょうか。たとえば、わたしの調査によれば東海地方にも「山神社」が濃密分布しており(注②)、こちらの「山」は富士山のことと思います。山梨県の富士山の周囲に「山神社」が分布していることも(注③)、この理解を支持しているように思われます。(つづく)

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」3519話 2025/08/20〝東北地方に濃密分布する「山神社」〟
②Wikipediaには愛知県の次の山神社が紹介されている。
山神社 – 愛知県名古屋市千種区田代町:旧村社
山神社 – 愛知県名古屋市中区松原:旧村社
山神社 – 愛知県名古屋市北区安井
山神社 – 愛知県刈谷市一里山町
山神社 – 愛知県名古屋市港区知多:旧村社
山神社 – 愛知県名古屋市緑区大高町:旧村社
山神社 – 愛知県尾張旭市瀬戸川町
山之神社 – 愛知県半田市山ノ神町
山神社 – 愛知県半田市天王町
山神社 – 愛知県半田市岩滑東町
山ノ神社 – 愛知県知多郡武豊町山ノ神
③Wikipediaには山梨県の次の山神社が紹介されている。
新屋山神社 – 山梨県富士吉田市新屋:山神社
山神社 – 山梨県中央市大鳥居

《写真解説》五所川原市金木町の山神宮。ブログ「神社探訪・狛犬見聞録」より転載させていただきました。


第3539話 2025/10/06

津軽にいた阿倍比羅夫の御子孫

 弘前市立図書館では、キリシタン禁圧文書の他に、津軽藩内の神社や社司の調査記録「安政二年 神社微細社司由緒調書上帳」(写本)を閲覧しました。同書は安政二年(1855)に編纂されたもので、原本は弘前市の最勝院が蔵しています。そのため、弘前市立図書館にある八木橋文庫の同書写本(注①)のコピー版を閲覧しました。

 「神社微細社司由緒調書上帳」はかなり大部の史料のため、精査は無理でしたが、5時間ほどかけて二~三度目を通したところ、面白い記事が目にとまりました。それは『日本書紀』斉明紀に見える大将軍、阿倍比羅夫(あべのひらぶ)の御子孫についての記録です。弘前にある熊野神社の神主、長利(おさり)家の祖を阿倍比羅夫とする記事が「神主由緒書」の冒頭に次のように記されています。

 「神主由緒書
一神代 二津石 又、比羅賀□王より*号す。
右は阿倍比羅夫の子孫。(中略)

二二代 長利麿
(以下略)」
※古賀による訳文。□は一字不明。「*号」は偏が「号」、旁が「逓」の中の字か。

 長利家は津軽の著名な社家ですが、その祖先を阿倍比羅夫とする伝承が津軽藩による公的な調査資料に記されていることから、長利家自身がそのように自家の系譜を認識していたと考えられます。東北の蝦夷討伐で活躍し、更に北方の粛慎とも戦ったと『日本書紀』に記された阿倍比羅夫を祖先とするのですから、それは誇るべき事ではありますが、津軽には滅ぼされた側(蝦夷国)の末裔が多数住んでいるのですから、長利家は古代においては複雑な立場に置かれたのではないでしょうか。

 なお、阿倍比羅夫を祖先とする家系は他にもありますが(注②)、津軽(旧蝦夷国)にその後裔がいたことに、歴史の秘密が隠されているように思います。もしかすると、阿倍比羅夫は津軽に逃れた安日彦(あびひこ)の子孫ではないでしょうか。これからの研究課題です。(つづく)

(注)
①中村良之進(北門)書写『津軽史料』「安政二年 神社微細社司由緒調書上帳」。
②阿倍仲麻呂は阿倍比羅夫の子孫と伝えられている。

《写真解説》クマと戦う阿倍比羅夫。その孫と伝えられている阿倍仲麻呂。


第3538話 2025/10/03

弘前市立図書館で

  キリシタン禁圧書状を閲覧

 昨日は朝から弘前市立図書館に行き、9時30分の開館を待って、史料調査室で夕刻まで江戸期成立の津軽藩文書など10数点を閲覧しました。最初に、キリシタン禁圧に関する報告書(藩への報告書)数点を拝見しました。江戸時代の津軽藩でのキリシタン禁圧史は、島原での弾圧ほど有名ではありませんが、とても興味深いもので、和田家文書にも少数ですが関連記事が見えます。

 今回、閲覧したのは弘前市立図書館に所蔵されている「津軽家古文書」にある次の書状です。

〔津軽きりしたんの者共死罪之儀御奉書〕TK190-3
津軽土佐守(信義)宛 写(原本)1通
註:阿部豊後守忠秋 松平伊豆守信綱 酒井讃岐守忠勝 土井大炊頭利勝より

〔南蛮伴天連いるまん等白状之趣に就き御奉書〕TK190-9
津軽土佐守(信義)宛 写(原本)1通
註:阿部対馬守重次 阿部豊後守忠秋より

〔森元功白状・伴天運市左衛門白状〕TK190-11
写(原本)2通

『東日流外三郡誌』(八幡書店版4巻、696頁)に「イルマン訴人」(津軽犯科帳)の記事があり、その年代(寛永12年・1635)も「津軽家古文書」に対応しているようですので、「南蛮伴天連いるまん等」との関係性を確認するために閲覧したものです。ここでの「いるまん」とはクリスチャンとしての信仰上の「兄弟」や「修道士」を意味しているようです。

 しかし、わたしの関心事は文書の内容だけではなく、使用された紙にもありました。天井の蛍光灯にそれら文書を透かしながら見るのですが、図書館の方からは変な閲覧者と思われたかも知れません。

 思っていたよりも厚手の手漉き和紙が使用されおり、これには驚きました。当時の津軽藩で、このような和紙が公文書に使用されていることを知り、勉強になりました。「東日流外三郡誌」明治写本に使用された機械漉の和紙よりもかなり分厚く、ページ数が多くなる書籍用と一枚の報告書(手紙)とで紙を使い分けているのかも知れません。(つづく)

 

《写真解説》弘前市立図書館旧館と新館


第3537話 2025/10/02

津軽の政治家の皆さんとの一夕

 ―興国の大津波は歴史事実―

 昨晩は弘前市議・青森県議の有志(超党派)の皆さんに、「東日流外三郡誌」に記された興国の大津波が歴史事実であることを証明した地質学論文、箕浦幸治・中谷 周「津軽十三湖及び周辺湖沼の成り立ち」『地質学論集』第36号(1990年)について説明し、「十三湖水戸口に周辺での試錐調査からは、この時期巨大津波の襲来によるものと思われる海岸環境の劇的な改変が示唆される。」「この時期に巨大津波を伴う地震が青森県西方沖で発生したものと判断する」と結論した文部科学省地震調査委員会による次の報告書を紹介しました。

「1341年10月31日  (1341年は興国二年。興国は南朝の年号:古賀注)
『東日流(つがる)外三郡誌』によれば、朝地震とともに約9mの津波が津軽半島の十三湊を襲い26,000名が溺死したとある。(渡辺、1985)。同歴史文書の信憑性について疑問視する人もおり、第二版の渡邉(1998)からは同地震の記述が削除されている。
然るに、十三湖水戸口に周辺での試錐調査からは、この時期巨大津波の襲来によるものと思われる海岸環境の劇的な改変が示唆される(箕輪・中谷、1990)。
本報告では、これらに中嶋・金井(1995)によるタービダイト(海底堆積物:古賀注)の解析結果も加えて比較検討し、歴史記録からは信憑性に欠けるものの、この時期に巨大津波を伴う地震が青森県西方沖で発生したものと判断する。」『日本海東縁部の地震活動の長期評価』『日本海東縁部の地震活動の長期評価』文部科学省地震調査研究推進本部 地震調査委員会、2003年。

 そして最後に、「歴史地震学、文献史学、地質学のそれぞれの研究者がそれぞれの理由に基づいて、興国の大津波を歴史事実とする判断に至っています。貴重な現地伝承を無視することなく、数百年に一度の大地震や大津波に、政治の力で備えていただきたい。津軽の先人が伝えた興国の大津波伝承を現代を生きる津軽の人々に知らせていただきたい。」と訴え、話を締めくくりました。

 その後も参加者から請われて、わたしの専門分野の化学にまで話題は広がり(PET樹脂〔ポリエチレンテレフタレート〕リサイクルにおける再生エネルギー効率について・白色LED光成分による活性酸素発生メカニズムの人体への影響について・福島原発爆発時の原研OBから聞いた逸話・他)、議員の皆さんとの宴は夜の10時過ぎまで続きました。それは、青森県の若い政治家の皆さんとの、とても楽しく有意義な一夕でした。素敵な出会いの場を作っていただいた石岡千鶴子さん(弘前市議、秋田孝季集史研究会・副会長)に深く感謝します。


第3536話 2025/10/01

陸奧新報に出版記念講演会の記事

 弘前市に来て六日目です。昨日は宮下宗一郎青森県知事を表敬訪問し、短時間でしたが有意義な懇談ができました。若さと行動力が魅力的な知事さんでした。知事との懇談後、青森県の文化財保護課で石塔山関連遺跡の調査などについて相談しました。

 9月27日に開催された『東日流外三郡誌の逆襲』出版記念講演会の記事が、今朝の陸奧新報にカラー写真付きで掲載されました。講演会当日は、ご来場いただいた方々へのご挨拶や記念写真撮影、著書へのサインなどで忙しく、新聞記者さんにはご挨拶できないままでした。記事にしていただき、ありがとうございます。

 また、ご多忙にもかかわらず講演会でご挨拶いただいた衆議院議員の岡田華子さん(立憲民主党・青森三区)には改めて御礼申し上げます。ちなみに岡田さんは『東日流外三郡誌』を持っておられるとのこと。お祖父様から頂いたものとか。不思議なご縁でした。

 今日の夕方からは、弘前市議・青森県議・弘前市立図書館の方々に「東日流外三郡誌」を紹介することになりました。こちらは超党派の方々とのこと。当初の予定にはなかったイベントですので、議員さん向けのテーマに変更したパワポ資料をホテルに籠もって作成しました。タイトルは「和田家文書と興国の大津波」です。大地震や大津波に備えるためにも、「東日流外三郡誌」を初め津軽の先人が伝えた現地伝承〝興国元年・二年(1340・1341)の大津波〟が歴史事実であること、〝興国の津波は史実ではなく和田喜八郎氏による偽作〟とする「東日流外三郡誌」偽作キャンペーンが否であることを説明します。


第3535話 2025/09/26

盛岡と岡山は言語的には姉妹都市か

 今日は新幹線で青森県に向かっています。東京駅で東北新幹線はやぶさに乗り換え、車中でこの「洛中洛外日記」を書いています。明日、弘前市で開催される『東日流外三郡誌の逆襲』出版記念講演会(秋田孝季集史研究会主催)で講演します。

 現役時代は出張で東北新幹線や山形新幹線をよく利用していましたので、車窓から見える東北地方の山々の風景は懐かしいものです。西日本のなだらかな稜線とは異なり、東北や四国の山々には〝ぼた山〟のようにボコボコと盛り上がった形状の山が目につきますが、これは火山地帯特有の風景ではないでしょうか。

 ちなみに、東北や四国では、山(ヤマ)のことをモリ(森、盛)と称する例が少なくなく、この「○○モリ」という山名(動詞の「盛る」の名詞形か)はかなり古い時代(恐らく縄文時代)まで遡る言葉と思われます。青森県の最高峰、岩木山(1625m)も「阿蘇部(アソベ)の森」と呼ばれており、これは「阿蘇部山」と同義であり、共に火山である九州の阿蘇山との関係も興味深いものです。ちなみに、北海道には「○○モリ」という山名は見えません。沖縄には少しあるようです。
ここまで書いたら仙台駅を通過していました。「次は盛岡です」と車内アナウンスがあって気づいたのですが、この地名の盛岡の「盛(もり)」も「山」のことではないでしょうか。もしそうであれば、盛岡とは〝山と丘〟のこととなります。岡山県の岡山は〝丘と山〟のことでしょうから、盛岡市と岡山市は言語的には姉妹都市と言えそうです。

 この論理を突き詰めると、青森も「青山」であり、決して〝青い森(Blue Forest)〟のことではないことになります。そうすると、青森市付近に〝あおもり〟と呼ばれる(呼ばれた)山があるはずです。ご存じの方があればご教示下さい。なお、当地に〝青い森(Blue Forest)〟があったので、それを地名にしたという、後から取って付けたような説があることは知っていますが、わたしは納得していません。なぜなら、〝青い森〟のような林や森は青森市内に限らず全国各地にありますが、だからといって全国各地に「青森」という地名があるわけではないからです。おそらく、「青(あお)」もBlue の意味ではないと思います。言語本来の意味を解明する「言語考古学」の重要なテーマの一つと考えています(注)。

(注)古賀達也「『言語考古学』の成立(序説) ―「山」と「森」について―」『古田史学会報』22号、1997年。


第3534話 2025/09/25

興国の津軽大津波伝承の理化学的証明(3)

 国立歴史民俗博物館の報告書「十三湊遺跡北部地区の発掘調査」(1995年)によれば、江戸期成立文献に見える「興国の大津波」伝承は史実ではないとされていますが、理化学的年代測定により「興国の大津波」があったとする報告書があります。『地質学論集』第36号に掲載された箕浦幸治・中谷周「津軽十三湖及び周辺湖沼の成り立ち」(1990年、注①)です。それには次のように報告されています。

 「1983年5月、日本海北東部で発生した日本海中部地震津波は、青森県から秋田県の海岸域に押し寄せ、これらの地域に多大な被害をもたらした。遡上した海水は、海岸湖沼や跡背湿地に流入し、一時的に水系の環境を大きく変えた(箕浦・中谷、1989)。寛保元年(西暦1741年)、渡島半島西方沖で発生した大津波は、津軽半島にも襲来し、十三湖に近い小泊で7mに達する波高を記録した(渡辺、1985)。その時の様子を、橘南谿が自著「東遊記」に克明に記録している。十三湖周辺の海岸地形は、この津波によって少なからず変容したことが推定されている(箕浦・中谷、1989)。十三往生記或は東日流外三郡誌(小館・藤本、1986)によれば、興国二年(西暦1341年)日本海北東縁に大津波が発生して津軽半島に波及し、多数の犠牲者を出すとともに、津軽の覇者安東氏の本拠であった十三浦(十三湖)を襲ってこれを壊滅させたという。」(71頁)

 「海側の砂丘の出現と砂丘間水路の閉塞の年代は、鉛同位体法により各々640年±20年前(西暦1340年±20年)及び240年±20年前(西暦1748年±20年)と推定される。

 既に述べたように、今から遡ること約650年前津軽の海岸に大津波が押し寄せたという記録或は伝承(佐藤・箕浦、1987)が、不正確ながら今日に残されている。砂丘間湖沼を出現させた海側の砂丘の発達は、その推定年代値(西暦1340年前後)から、この時の津波(興国の大津波)の襲来によって作られた可能性が大いに考えられる。十三湖の堆積物中には堆積相の急変部が認められず、従って、この津波は湖に直接及ばなかったと思われる。恐らく、海岸での急激な堆積物の移動と海岸砂丘の形成に終始し、津波による当時の港湾施設の破壊の言伝え(小館・藤本、1986)は後の誇張によるものであろう。或は、砂丘の出現による湖口部の閉鎖が水上交易を阻害し、中世十三浦の支配者たる津軽安東氏(桜井、1981)は、これ以降急速に衰退の一途を辿ったとも解釈できよう。水路の閉鎖による砂丘間湖沼の誕生は、既に報告されているように(箕浦ほか、1985)、寛保元年(西暦1741年)北海道渡島大島沖に発生した大津波によってもたらされた。」(85頁)

 この報告の要点は次の通りです。

❶海側の砂丘の出現と砂丘間水路の閉塞の年代は、鉛同位体法により640年±20年前(西暦1340年±20年)及び240年±20年前(西暦1748年±20年)と推定される。※数値はママ。
❷寛保元年(西暦1741年)、渡島半島西方沖で発生した大津波により十三湖周辺の海岸地形は少なからず変容したことが推定されている(箕浦・中谷、1989)。その時の様子を橘南谿が「東遊記」に克明に記録している。
❸海側の砂丘の出現と砂丘間水路の閉塞は640年±20年前(西暦1340年±20年)と考えられ、これは興国元年(1340)・二年(1341)の大津波伝承に対応している。
❹従って、砂丘間湖沼を出現させた海側の砂丘の発達は、その推定年代値(西暦1340年前後)から、この時の津波(興国の大津波)の襲来によって作られた可能性が大いに考えられる。
❺十三湖の堆積物中には堆積相の急変部が認められず、従って、興国の大津波は湖に直接及ばなかったと思われる。恐らく、海岸での急激な堆積物の移動と海岸砂丘の形成に終始している。
❻津波による当時の港湾施設の破壊の言伝え(『東日流外三郡誌』)は後の誇張によるものであろう。或は、砂丘の出現による湖口部の閉鎖が水上交易を阻害し、中世十三浦の支配者たる津軽安東氏は、これ以降急速に衰退の一途を辿ったとも解釈できよう。

 ❶~❹で示されているように、鉛同位体比年代測定により明らかとなった十三湊が閉塞された年代が、興国の大津波伝承と一致することは重要です。すなわち、理化学的年代測定値と現地伝承史料の年代が一致するという当報告は、『東日流外三郡誌』偽書説に対する強力な反証となります。少なくとも、〝『東日流外三郡誌』にしかない興国の大津波伝承は考古学調査で否定されており、従って『東日流外三郡誌』は偽書である〟というレベルの偽作キャンペーンが全く成立しないことは明白です。

 なお、『地質学論集』第36号掲載の報告書「津軽十三湖及び周辺湖沼の成り立ち」の存在を、わたしはブログ「釜石の日々」の記事(注②)で知りました。同ブログ編集者に感謝します。(つづく)

《追記》明日、弘前市に向かいます。明後日の『東日流外三郡誌の逆襲』出版記念講演会(秋田孝季集史研究会主催)で講演し、その後は現地調査などを行う予定です。

(注)
①箕浦幸治・中谷 周「津軽十三湖及び周辺湖沼の成り立ち」『地質学論集』第36号、1990年。
https://dl.ndl.go.jp/pid/10809879
箕浦幸治(?-?) 東北大学理学部地質学古生物学教室
中谷 周(?-1992.08) 弘前大学理学部地球科学教室
②ブログ「釜石の日々」〝津軽十三湊の興国の大津波〟2016-09-08 19:13:23 | 歴史
https://blog.goo.ne.jp/orangeone_2008/e/260cd259cee059990c7e8c1be68426c1

《写真》「東日流外三郡誌」に描かれた〝興国二年の大津波〟