古賀達也一覧

第3569話 2026/01/01

令和八年の抱負 (1)

 ―「秋田孝季遺訓」の編纂―

 「古田史学の会」会員の皆様、友人、読者の皆様、新年のご挨拶を申し上げます。令和八年も「洛中洛外日記」をよろしくお願いいたします。

 昨年11月、持病治療のため入院手術しました。お陰様で一週間で退院でき、寿命も延びたようです。延びた寿命をどのように使うべきか、病院のベッドで、古田先生がやり残された研究を引き継ぐのは当然として、それは何だろうかと考え続けました。

 先生最後の公の場となったKBS京都放送のラジオ番組「本日、米團治日和。」の収録にお供したとき、対談の最後に桂米團治さんと次のようなやりとりがありました(注①)。

米團治 本当に、話は尽きませんね。湯水のごとく出てまいります。――まだまだ先生、研究続けられますよね。
古田 ハハハ、まあ、もう今年ぐらいでお陀仏になると思いますが……。
米團治 何をおっしゃいます。でも、たくさんのお弟子さん……。
古田 こういうね、素晴らしい後継者が出てますからね。私は安心して……。ま、古田が死んだら、と楽しみにしている人もおると思うんですがね。しかし、私が死んだからってね、ここまで分かって来たら、ストップはかけられませんわね。
米團治 うちの親父(桂米朝)と同世代ということで、そんなよしみもありまして、KBS京都に来ていただきまして、本当にありがとうございました。お弟子さんの古賀達也さんもどうもありがとうございました。

 二時間に及んだ収録(2015年8月27日)の後、対談は三回(9月9日、16日、23日)に分けて放送され、翌月の10月14日に先生は亡くなられました。

 先生が〝弟子〟らに託したこととは何か、残された寿命で何をなすべきか、先生没後10年に当たる昨年、病床で考えました。そして、最初に思い浮かんだのが、『東日流外三郡誌』の編者、秋田孝季伝の筆を執ることでした。わたし一人でできる事業ではありませんので、志を継ぐ後学のために、秋田孝季の遺訓を『東日流外三郡誌』などから抜粋する作業だけでも始めることを改めて決意しました。

 この思いを『東日流外三郡誌の逆襲』(八幡書店、2025年)の掉尾に記しています(注②)。

 〝あるとき、古田先生はわたしにこう言われた。「わたしは『秋田孝季』を書きたいのです」と。東日流外三郡誌の編者、秋田孝季の人生と思想を伝記として世に出すことを願っておられたのだ。思うにこれは、古田先生の東北大学時代の恩師、村岡典嗣(むらおかつねつぐ)先生が二十代の頃に書かれた名著『本居宣長』を意識されてのことであろう。

 それを果たせないまま先生は二〇一五年に逝去された。ミネルヴァ書房の杉田社長が二〇一六年の八王子セミナーにリモート参加し、和田家文書に関する著作を古田先生に書いていただく予定だったことを明らかにされた。恐らく、それこそが『秋田孝季』だったのではあるまいか。先生が遺した『秋田孝季』の筆を、わたしたち門下の誰かが握り、繋がねばならない。その一著が世に出るとき、東日流外三郡誌に関わった、冥界を彷徨い続ける人々の魂に、ひとつの安寧が訪れることを信じている。〟

 令和八年、新年の抱負の一つです。(つづく)

(注)
①桂米團治・古田武彦・古賀達也「古代史対談」『古田武彦は死なず』古田史学の会編、明石書店、2016年(『古代に真実を求めて』19集)。
②古賀達也「謝辞に代えて ―冥界を彷徨う魂たちへ―」『東日流外三郡誌の逆襲』八幡書店、2025年。

〖写真説明〗『古田武彦は死なず』。米團治さんの還暦記念パーティーにて(2018.12.20)。


第3568話 2025/12/31

AI編集(インタビュー形式)

 「戦後型皇国史観に抗する学問」

 令和七年の大晦日、お願いしていた原稿が竹村順弘さん(古田史学の会・事務局次長)から届きました。それは拙論「『戦後型皇国史観』に抗する学問 ―古田学派の運命と使命―」(『季報 唯物論研究』138号、2017年)をAI(ChatGPT)により、短文のインタビュー形式に編集したものです。

 同稿は「古田史学の会」創立に至る経緯と、古田学派の運命と使命について論じたものです。執筆にあたっては、「古田史学の会」役員会にはかり、事前にチェックを受けた、言わば「古田史学の会」の綱領的性格を有する一文です。

 令和七年「洛中洛外日記」の最後に、初心を忘れず、決意を新たにすべく、一部修正して転載します。

 《以下、転載》
「邪馬台国」畿内説は学説に非ず ―戦後型皇国史観に抗する学問―
語り:古賀達也(古田史学の会 代表)

◇日本古代史に横たわる「宿痾」とは何か
――まず、日本古代史学が抱えてきた根本的な問題についてお聞かせください。
古賀:日本古代史には、学問以前の「通念」が不動の前提として存在しています。それが、神代の昔から日本列島の中心権力は一貫して近畿天皇家であった、という考え方です。古田武彦先生はこれを「近畿天皇家一元史観」と名づけました。この通念は、『日本書紀』成立以来、ほとんど疑われることなく受け継がれ、戦前だけでなく、戦後の民主教育においても当然視されてきました。しかし、これは学問的な論証を経た結論ではありません。

――その通念が、具体的にどのような問題を生んだのでしょうか。
古賀:最大の問題は、通念に合わない史料事実が無視され、あるいは改変されてきたことです。最も象徴的なのが、『三国志』倭人伝に記された倭国の中心国名「邪馬壹国」を、「邪馬臺(台)国」と書き換えた原文改訂です。

◇「邪馬壹国」から「邪馬台国」へ ――原文改訂の罪
――なぜ、そのような改訂が行われたのですか。
古賀:江戸時代の学者・松下見林が行ったものですが、その理由は実に単純です。「日本の中心はヤマトでなければならない。だからヤマトと読めない『邪馬壹国』はおかしい。ならば『邪馬臺国』に直してしまえばよい」という発想です。これは学問ではなく、イデオロギーです。しかし、この方法がその後の日本古代史学に受け継がれ、宿痾となってしまった。

――それは国名だけの問題ではなかった、と。
古賀:ええ。行程記事にある「南に至る邪馬壹国」の「南」まで、「東」に書き換えられました。南では奈良県に到達しないから、東の誤りだとされたのです。基本史料を自説に合わせて自由に改訂する。これは研究不正以外の何ものでもありません。

◇「邪馬台国」ブームという悲劇
――その結果、「邪馬台国」論争が大衆化したわけですね。
古賀:そうです。学者自身が原文改訂という非学問的方法を採用してしまったため、アマチュア研究者も同じことをやり始めた。「南を東にしていいなら、西でも北でもいい」。結果、全国に邪馬台国候補地が乱立しました。出版ブームも相まって、思いつきを「学説」と称する書籍が溢れ、学問的な負の連鎖が生まれたのです。

――学界はそれを止められなかった。
古賀:止められなかったのではなく、止める資格を失っていたのです。自らが同じ手法を使っていた以上、アマチュアの俗説を真正面から批判できなかった。これが戦後「邪馬台国」ブーム最大の悲劇です。

◇1969年、「邪馬壹国」論文の衝撃
――そこに登場したのが、古田武彦先生の論文ですね。
古賀:1969年、古田先生は「邪馬壹国」という論文を発表しました。倭人伝の原文は「邪馬壹国」であり、「邪馬臺(台)国」は後世の改訂だ、と真正面から論証されたのです。特に重要なのは、『三国志』全体における「壹」と「臺」の使用例をすべて調査した点です。両者は明確に使い分けられており、誤用はない。これは誰もやってこなかった方法でした。

――「臺」という字の意味も重要だったと。
古賀:ええ。『三国志』の時代には「臺」は魏の天子やその宮殿をも指す、いわば神聖至高の文字でした。それを当時の史官が夷蛮の国名に使うなど、あり得ない。この論文は、それまでの恣意的な原文改訂を根底から否定し、日本古代史研究を異次元の高みに引き上げました。

◇九州王朝説と「多元史観」
――続いて提示されたのが、九州王朝説ですね。
古賀:『失われた九州王朝』で、古田先生は邪馬壹国の後継として北部九州に存在した「九州王朝」を明らかにしました。『旧唐書』には「倭国」と「日本国」が別国として記されています。倭国(九州王朝)は邪馬壹国の後継であり、日本国(大和朝廷)は後にそれを併合した小国だった、と。

――この理解が「多元史観」につながる。
古賀:そうです。日本列島には複数の王朝が並立・興亡していた。これが多元史観です。これは近畿天皇家一元史観と、地動説と天動説ほどに相容れません。

◇市民運動としての古田史学
――古田史学は、市民運動としても広がりました。
古賀:はい。通説に疑問を持つ多くの人々が支持し、「市民の古代研究会」などが生まれました。私もその一人で、1986年に参加しました。一時は会員が千名近くに達しましたが、その影響力に危機感を抱いた学界から、露骨な「古田外し」が始まりました。

◇学界からの排除と「古田史学の会」の誕生
――某新聞社主催シンポジウムからの排除などもあったそうですね。
古賀:古田先生の参加が決まると、他の全パネラーが出ないと言いだす。そのことを古田先生には知らせないまま、先生抜きでシンポジウムが開催されました。その後、東日流外三郡誌をめぐる偽作キャンペーンが起こり、事態は決定的になります。

――そこから「古田史学の会」が生まれた。
古賀:1994年、迫害に屈しない研究者が集まり、「古田史学の会」を創立しました。以来、会誌や論文集を刊行し、九州年号や邪馬壹国研究を発展させてきました。

◇古田学派の運命と使命
――最後に、古田学派の使命をどう考えていますか。
古賀:古田史学の会は、学術研究団体であると同時に社会運動団体でもあります。この二重性を背負うという、複雑で過酷な運命にあります。しかし私は、古田史学が将来この国で必ず受け入れられると信じています。古田史学を継承し、発展させる。それが私たち古田学派に課された歴史的使命だと考えています。
《転載おわり》

 それでは皆様、良いお年をお迎え下さい。


第3567話 2025/12/29

AIが5秒で編集した

 「多元史観で見える蝦夷国の真実」

 近年のAIの進化には目を見張るものがあります。たとえば竹村順弘さん(古田史学の会・事務局次長)が、AIに「洛中洛外日記」の拙論〝多元史観で見える蝦夷国の真実〟を短文のインタビュー形式に編集させたところ、5秒ほどで次の記事にしたとのこと。ご参考までに、一部修正して転載します。

《以下、転載》
【はじめに】
〔聞き手〕今回は「多元史観で見える蝦夷国の真実」シリーズについて、お話を伺います。まず、この連続論考の出発点からお聞かせください。
〔古賀達也〕出発点は2025年7月6日に久留米大学公開講座で行った講演です。そこで私は、七世紀後半の日本列島を「倭国(九州王朝)・日本国(大和朝廷)・蝦夷国」という三国が併存した時代として捉える必要性を提示しました。これは従来の一元史観では見えなかった歴史像です。

【三国時代という視点】
〔聞き手〕七世紀後半を「三国時代」と捉える根拠はどこにありますか。
〔古賀〕古田史学では、701年(大宝元年)をもって倭国から日本国への王朝交代が起きたと考えます。しかし近年の木簡研究から、その準備は天武・持統期(七世紀第4四半期)に進められていたことが明らかになりました。
一方で藤原京出土の七世紀末頃の木簡では、近畿天皇家が自らの支配領域を「日本国」、ヤマトを「倭国」と称していた可能性が見えてきます。しかし、九州年号はなお全国で使用されており、大義名分上の代表王朝は九州王朝のままでした。
その時、東北には独自の政治体をもつ蝦夷国が存在していた。これを含めなければ、七世紀後半の列島史は理解できません。

【蝦夷国は「国家」だったのか】
〔聞き手〕蝦夷は「蛮族」とされてきました。その認識を覆す根拠は。
〔古賀〕まず中国史書です。『通典』『唐会要』には明確に「蝦夷国」と記されています。中国は蝦夷国を、倭国・日本国と同列の「東夷の国」と認識していた。一方、『日本書紀』では蝦夷を人種名のように扱い、「蝦夷国」という国家認識を意図的に曖昧にしています。これは近畿天皇家一元史観の反映です。
決定的なのは多賀城碑です。そこには「蝦夷国界」「靺鞨国界」と、日本国の律令国である常陸国・下野国と並んで刻まれています。これは同時代の金石文であり、蝦夷国が日本国とは別個の国家であったことを示す最重要史料です。

【三種の蝦夷と「都加留」の謎】
〔聞き手〕斉明紀五年の「三種の蝦夷」記事が重要だと指摘されていますね。
〔古賀〕はい。唐の天子に対して、倭国の使者が「都加留・麁蝦夷・熟蝦夷の三種がある」と説明しています。注目すべきは都加留(津軽)です。領域は狭いのに、三種の筆頭に挙げられ、しかも「蝦夷」の字が付かない。漢字も「都」という好字が使われている。これは都加留が、蝦夷国全体を象徴する政治的拠点であった可能性を示します。私は、侵略に備えて最北端の津軽に中枢を置いた可能性も考えています。

【筑紫と津軽――弥生時代からの交流】
〔聞き手〕蝦夷国と九州王朝の関係はかなり古いのですね。
〔古賀〕ええ。考古学的には、青森県の砂沢遺跡・垂柳遺跡が決定的です。弥生時代の津軽で、北部九州系の稲作技術と土器が確認されています。つまり、津軽と筑紫は弥生時代から日本海ルートで交流していた。この長期的関係が、七世紀の政治関係にも影響していたと考えるべきでしょう。

【安日王伝承と津軽】
〔聞き手〕安日王伝承も都加留重視と関係しますか。
〔古賀〕深く関係します。秋田氏・安東氏系図には、長髄彦の兄・安日王が津軽へ逃れたという伝承があります。これは、ヤマト王権成立以前の政治勢力が、津軽に根を下ろした記憶です。
系図史料は軽視されがちですが、複数が一致して伝える場合、歴史的記憶の核が存在します。津軽が「辺境」ではなく、古層の政治的中枢であった可能性を示しています。

【唐・倭国・蝦夷国の国際関係】
〔聞き手〕斉明五年の記事では、唐は蝦夷国をどう認識していますか。
〔古賀〕唐の天子ははっきりと「此等の蝦夷國は何れの方に有るぞ」と問うています。これは蝦夷を国家として認識していた証拠です。さらに『冊府元亀』には「蝦夷国、倭国の使に随いて入朝す」とあり、蝦夷国が独自の朝貢主体であったことが分かります。

【古田武彦の蝦夷国観】
〔聞き手〕古賀さんの議論は、古田武彦氏の研究を継承していますね。
〔古賀〕まさにその通りです。『失われた九州王朝』『真実の東北王朝』で古田先生は、蝦夷国は日本列島内の独立国家、「蝦夷国」という名称は中国側の造字、陸奥国は日本国側から見た蝦夷国の別称と喝破しました。
私の研究は、その視点を七世紀史料と考古学で再検証し、補強する試みです。

【「蝦夷(エミシ)」という和訓の深奥】
〔聞き手〕最後に、「エミシ」という訓の問題ですね。
〔古賀〕はい。「蝦夷=エミシ」という訓は日本独自のものです。しかも『日本書紀』神武紀では「愛瀰詩」という美しい表記が用いられている。これは蔑称ではなく、在地の人々への敬称的呼称だった可能性がある。後世の一元史観が、「夷」という差別的漢字を重ねていったのです。

【おわりに】
〔聞き手〕このシリーズで何を最も伝えたかったのでしょうか。
〔古賀〕七世紀の日本列島は決して単一国家ではなかった。倭国・日本国・蝦夷国という多元的世界があり、その相互関係の中で歴史は動いていた。この視点を欠いたままでは日本古代史の核心には到達できません。それが、古田史学から受け継いだ私の問題提起です。
《転載おわり》

AIは「洛中洛外日記」の拙稿を編集し、この記事をわずか5秒で作成します。いやはや、とんでもない時代に突入したものです。しかし、一旦誕生した革新的技術は止まることなく発展するのが〝歴史法則〟です。AI編集はとても便利な機能ですが、投稿論文を査読する側にとっては、難儀な時代となりました。こうなると、〝投稿査読AI〟や〝先行研究探索AI〟の高度化が待たれます。嗚呼。


第3566話 2025/12/28

新野直吉氏の「蝦夷」観

 古田先生の多元史観により、蝦夷国を国家とする視点での考察〝多元史観で見える蝦夷国の真実〟を「洛中洛外日記」で(補遺)も含めて計15回連載しました。これだけの長期連載は久しぶりです。同連載を始めるにあたり、蝦夷国に対する通説も調べました。その中の一つ、新野直吉さん(秋田大学名誉教授)が日本思想史学会誌『日本思想史学』第30号(1998)で発表した「古代における『東北』像――その虚像と実像――」を紹介します。同論稿は岩手大学で開催された同学会〝[平成九年度大会]特集・歴史としての「東北」〟の特集論文の一つです。

 新野先生のお名前は、『東日流外三郡誌』を紹介した学者の一人として、度々目にした著名な古代東北史の研究者でした。拙著『東日流外三郡誌の逆襲』(八幡書店、2025年)を進呈するつもりでしたが、昨年一月、鬼籍に入られ(98歳)、その願いは叶いませんでした。
「古代における『東北』像――その虚像と実像――」には次のような新野さんの蝦夷観が記されています。抜粋します。

 たしかに八世紀後半(天平宝字六・七六二)の〝多賀城碑〟にはこの蝦夷国を意識したと言うべき「蝦夷国界」の語がある。(中略)
しかし、この表記を、日本律令制度のもとで、「蝦夷国」なる公式組織があったことを示すものと取るならば、虚像を見ることになる。行政組織があったことを意味しないのみならず、仮に「蝦夷」の地域があったとしても、その表記は、東北全部が蝦夷の住む領域であったわけではないことを、現地行政機関も明確に認識していた事実を記している。(中略)

 とはいっても境界の北に独立国があったということではない。令の条文に「凡そ辺縁の国、夷人雑類有り」(賦役令)などと記入される存在に相当する蝦夷の地方圏であると理解すべきである。そして、「蝦夷」は和銅三年紀に「天皇大極殿に御し朝を受く。隼人蝦夷等も亦列に在り」とあるごとく、隼人とならぶ位置づけであり、食糧獲得手段や言語文化などに差異はあったとしても、法規上蕃人・蕃客(外国人)ではなかったのである。日本の中の北方の一部族であるという位置づけが実像である。

 以上のように、東北の碩学新野直吉さんも、失礼ながら近畿天皇家一元史観の〝宿痾〟に冒されていたと言わざるを得ません。『続日本紀』和銅三年(710)条に「蝦夷」と並んで記された「隼人」が、701年の王朝交代後の南九州における九州王朝(倭国)系の抵抗勢力であったことなど、国家としての蝦夷国と同様、氏の視界には全く存在しないのです。


第3565話 2025/12/27

多元史観で見える蝦夷国の真実 (補遺)

 青森県の日本中央碑と佐賀県の中央碑

 〝蝦夷国の中でも津軽は特別な領域で、エミシという和訓は、筑紫の先住民「愛瀰詩(えみし)」に淵源する〟とする考察に至った今、以前に「洛中洛外日記」(注)で紹介した青森県と佐賀県の「中央」碑のことを思い出しました。その概要は次の通りです。

 〝「日本中央」碑という有名な石碑が青森県東北町にあるが、佐賀県にも「中央」碑がある。佐賀平野の地神信仰に「チュウオウサン」(中央神)がある。この中央神は古い家々の庭先の、多くはいぬい(乾・北西)やうしとら(艮・北東)のすみに祀られ、小さな石か石塔が立っている。文字を刻んだものは「中央」「中央尊」「中央社」とある。これらは大地の神を祀ったもので、旧佐賀市内や神埼郡に多く分布している。

 この中央神は肥前盲僧の持経「地神陀羅尼王子経」などに、荒神が中央を占めて四季の土用をつかさどると説くことに由来するとされている。この佐賀の「中央」碑は青森県の「日本中央」碑と同じ淵源を持つのではあるまいか。それは次の理由からだ。

 青森の「日本中央」碑は「日の本将軍」とも自称していた安倍・安東と関係するものと思われるが、古代では蝦夷国だった地域であり、東北や関東に分布する荒覇吐(アラハバキ)信仰とも繋がりそうだ。一方、佐賀(北部九州)には『日本書紀』神武紀に見える次の歌謡があり、蝦夷との関係が指摘されている(古田武彦『神武歌謡は生きかえった』新泉社、一九九二年)。
「愛瀰詩(えみし)を 一人 百(もも)な人 人は云えども 抵抗(たむかひ)もせず」
古田武彦氏によれば、これは天孫降臨時の天国軍側の歌(祝戦勝歌)であったとされ、侵略された側の人々は愛瀰詩と呼ばれていたことがわかる(おそらく自称)。津軽の和田家文書によれば、この侵略された人々(安日彦・長髄彦)が津軽へ逃げ、アラハバキ族になったとされる。従って、神武歌謡の愛瀰詩と東北の蝦夷国とは深い関係を有していたことになる。

 そして、その両地域に「中央」碑が現在も存続していることは偶然ではなく、「中央」信仰の痕跡と見るべきではあるまいか。佐賀県の「中央」神が「荒神」とされていたり、庭先の北西や北東に祀られていることも、東北の蝦夷国や荒覇吐信仰との関係をうかがわせる。また、佐賀県三養基郡に江見(えみ)という地名があるが、これもエミシと関係がありそうである。

 佐賀県の「中央」碑は、「あまり粗末にしても、あまり丁寧にお祭りしてもいけない」とされており、侵略された側の神を祀る上での民衆の知恵を感じさせる。〟

 それでは、〝大地の神〟とされる佐賀県の「中央」神・「荒神」とはどのような神様でしょうか。(つづく)

(注)古賀達也「洛中洛外日記」57話(2006/01/15)〝佐賀の「中央」碑〟


第3564話 2025/12/24

多元史観で見える蝦夷国の真実 (14)

 ―「山」系譜と「山神」の分布―

 わたしの考察〝蝦夷国の中でも津軽は特別な領域で、エミシという和訓は、筑紫の先住民「愛瀰詩(えみし)」に淵源する〟に対応する「安日彦・長髄彦以前の系譜」(注①)に基づく古田先生の仮説〝安日彦・長髄彦の故国は、「山」と呼ばれるところ〟(注②)に衝撃を受けました。

 古田説によれば、三世紀の「邪馬壹国」と五世紀の「邪馬臺国」は同一地域(筑紫)であり、両者に共通する「邪馬(=山)」はこの地域の中心国名です。他方、安日彦・長髄彦の故国も筑紫であり、彼等の先祖らが名前に「山」の一字を冠していることから、「邪馬(=山)」という地域名は安日彦・長髄彦が津軽に追われた事件「天孫降臨」以前からのものと考えられます。そうであれば、東北地方(蝦夷国領域)に濃密分布する「山神」信仰の痕跡は、「天神」信仰の天孫族(ニニギ)に追われた愛瀰詩(エミシ)と呼ばれる安日彦・長髄彦らの信仰に由来する可能性があるからです。

 「洛中洛外日記」で紹介しましたが、東北地方には「山神社」が濃密分布します。中でも山形県は最濃密分布しているようで、山形県・山形市の「山」も「山神」信仰や安日彦・長髄彦の故国「邪馬(=山)」地名に由来する地名ではないでしょうか(注③)。ところが安日彦らが落ち延びた青森県には「山神社」の分布が見られず不思議に思っていたところ、弘前市立図書館で閲覧した江戸期の史料「安政二年 神社微細社司由緒調書上帳」には、「山神宮」が津軽の各地に分布していることが記されていました(注④)。

 東北に広く分布する「山神社」と津軽に濃密分布する「山神宮」。両者の名称の違い、「社」と「宮」は何を意味し、何に由来しているのでしょうか。未検証の作業仮説ですが、わたしは「愛瀰詩(えみし)」と呼ばれた安日彦らが落ち延びた津軽こそ、蝦夷国の宮が置かれた聖地ではないでしょうか。したがって津軽には「山」国の「神宮」がおかれ、崇め祭られた。その他の蝦夷国領域には〝分社〟として「山神社」が置かれたのではないかと推定しています。すなわち、津軽は蝦夷国領域でも特別な地域(聖地)であったと考えています。これには、史料根拠があります。『日本書紀』斉明五年(659)七月条の「伊吉連博德書」に記された倭国の使者と唐の天子との会話です。

 「天子問いて曰く、蝦夷は幾種ぞ。使人謹しみて答ふ、類(たぐい)三種有り。遠くは都加留(つかる)と名づけ、次は麁蝦夷(あらえみし)、近くは熟蝦夷(にきえみし)と名づく。今、此(これ)は熟蝦夷。毎歳本國の朝に入貢す。」

 なぜ小領域の都加留(津軽)が、広領域の麁蝦夷(あらえみし)・熟蝦夷(にきえみし)と肩を並べて唐の天子に紹介されたのか。「洛中洛外日記」(注⑤)で、わたしは〝もしかすると、都加留には蝦夷国全体を代表(象徴)するような「都」があったのでしょうか〟と述べましたが、その理由が、津軽に分布する「山神宮」により、ようやくわかりかけてきたようです。しかしこれは未検証の作業仮説であり、調査の必要があります。慎重を期して、これ以上の論理展開は一旦保留し、本シリーズを終えることにします。(おわり)

(注)
① 八幡書店版『東日流外三郡誌1 古代編』「耶馬台国王之事」に次の系譜が見える。
「安東浦林崎荒吐神社譜より
山大日之國命・山大日見子(妹)――山祇之命――山依五十鈴命――山祇加茂命――山垣根彦命――山吉備彦命――山陀日依根子命――山戸彦命――安日彦命・長髄彦命――荒吐五王」
②古田武彦「『山』を父祖の地とする勢力」『真実の東北王朝』駸々堂、平成二年(1990)。ミネルヴァ書房版 165~166頁。
③古賀達也「洛中洛外日記」3525話(2025/09/03)〝東北地方の「山」地名〝山形〟を考える〟
④古賀達也「洛中洛外日記」3540話(2025/10/07)〝津軽に多い「山神宮」〟
⑤古賀達也「洛中洛外日記」3548話(2025/11/08)〝多元史観で見える蝦夷国の真実(4) ―都加留は蝦夷国の拠点か―〟

〖写真説明〗津軽の十三湖、遠くに岩木山が見える。山形県の「山神社」分布図。


第3561話 2025/12/18

多元史観で見える蝦夷国の真実 (13)

   ―安日彦以前の「山」系図―

 津軽と筑紫の交流を裏付ける、砂沢水田遺跡(青森県弘前市)と板付水田遺跡(福岡市博多区)の工法の類似と、津軽に逃げた安日王伝承を記す「秋田家系図」「藤崎系図 安倍姓」を根拠とするわたしの考察〝蝦夷国の中でも津軽は特別な領域で、エミシという和訓は、筑紫の先住民「愛瀰詩(えみし)」に淵源する〟には、古田先生による怖い仮説が待ち受けていました。それは『真実の東北王朝』で発表された次の論証と仮説です(注①)。

 〝不思議な史料がある。もちろん、『東日流外三郡誌』の中だ。
「譜
安東浦林崎荒吐神社譜より
山大日之國命 *山大日見子(妹)――山祇之命――山依五十鈴命――山祇加茂命――山垣根彦命――山吉備彦命――山陀日依根子命――山戸彦命――安日彦命 *長髄彦命――荒吐五王

  右の如く、東日流国古宮に遺れるを祖系図とせば、誠に以て耶馬台国王なるを偲ぶるに、日之本国に神代あるべきもなく、民族の起こしたる国造りなり。
元禄十年は月二日 藤井伊予」
(小館衷三・藤本光幸編『東日流外三郡誌』第一巻古代編、北方新社、昭和五十八年刊、一〇頁)
右は、安日彦・長髄彦以前の系譜だ。
ほとんどの場合、いきなり、右の両者から話がはじまるのが常だ。
ところが、ここにはこの両人を「九代目」とする系譜がある。それが両人活躍の当地、安東浦の林崎、その荒吐神社に伝えられていた。その文書を、元禄十年(一六九七)、藤井伊予が書写した。その書写本を、さらに孝季が「再写」しているのだ。孝季の「偉大なる書写の大業」が、津軽における学的伝統をもっていたことが知られよう。

 さて、「安日彦命・長髄彦命、前」の八代には、きわ立った特徴がある。いずれもみな、「山」の一字を冠していることだ。
あの、記・紀の天照大神以降の各代に、しばしば「天、(=海)」が冠せられているように、否、それ以上に、一回の例外もなく、「山」が冠せられている。

 そしてその故地(筑紫)をはなれた、安日彦・長髄彦において、はじめて「山」がなくなる。

 してみると、彼等の故国は、「山」と呼ばれるところであった。――そういう様相を呈しているのだ。

 ところで、読者は記憶せられているであろう。三世紀の「邪馬壹国」と五世紀の「邪馬臺国」は同一地域であり、両者に共通する「邪馬(=山)」こそ、この地域の中心国名であった、と。

 これは『失われた九州王朝』以来の、わたしの年来の持説だった。

 今、その「山」をこの系図に見出し、わたしは慄然とせざるをえない。

 『東日流外三郡誌』は、あまりににも“危険”で、あまりにも“魅力”に富む、一大史料集成だった。〟 (『真実の東北王朝』第五章 東日流外三郡誌との出会い 「『山』を父祖の地とする勢力」)
※「*山大日見子(妹)」は「山大日之國命」の左に併催。八幡書店版『東日流外三郡誌』1古代篇 (436頁)には、「山大日美子(妹)」とある。「*長髄彦命」は「安日彦命」の左に、兄弟として併記。
それぞれの名前にはルビがふってあるが、本稿では省略した。(古賀)

 『東日流外三郡誌の逆襲』の上梓後、この一節に〝再会〟したとき、わたしは震え上がりました。当シリーズを書き進め、ようやくたどり着いた考察が、『東日流外三郡誌』に採録された安日彦・長髄彦の祖系譜に基づく古田先生の仮説と一致していたからです。

 江戸時代の津軽の伝承を採録した『東日流外三郡誌』を古代史研究の史料として使用することに、わたしは一貫して用心してきました。むしろ、意識的に避けてきました。当の『東日流外三郡誌の逆襲』でも、「『東日流外三郡誌』を古代史研究の史料としてどの程度信頼できるのかという悩ましい問題が残っています。」と述べていたほどです(注②)。あまりにも“危険”で、あまりにも“魅力”に富む『東日流外三郡誌』を史料根拠として古代史研究に使用することに、二の足を踏んでいました。

 しかし恩師の仮説は『東日流外三郡誌』を古代史研究に使用したもので、その論理・論証を無視することはできません。論理の導くところへ行こう。たとえそれが何処に至ろうとも。古田学派の研究者であれば、恩師のこの言葉から逃げてはならないからです。(つづく)

(注)
①古田武彦「『山』を父祖の地とする勢力」『真実の東北王朝』駸々堂、平成二年(1990)。ミネルヴァ書房版 165~166頁。
②古賀達也編『東日流外三郡誌の逆襲』「特別対談『東日流外三郡誌の逆襲』」 398頁。


第3560話 2025/12/17

多元史観で見える蝦夷国の真実 (12)

 筑紫から津軽に逃げた「愛瀰詩」の伝承

 本シリーズの最後に、古田先生によるちょっと怖い仮説を紹介します。

 神武紀歌謡に見える、勇敢な、かつ敬意を表す字面で記された「抵抗勢力」愛瀰詩(えみし)を天孫降臨時(筑紫侵攻)のニニギが戦った筑紫の先住民とした場合、筑紫と東北地方(蝦夷国)との交流を示す痕跡があるはずです。それこそが、本シリーズの「洛中洛外日記」3546話(2025/11/03)〝多元史観で見える蝦夷国の真実(2) ―古代の津軽と筑紫の交流―〟同3549話(2025/11/15)〝多元史観で見える蝦夷国の真実(5) ―津軽に逃げた安日王伝承―〟で紹介した考古学と文献史学の二つのエビデンスです。

《考古学エビデンス》―古代の津軽と筑紫の交流―
古代に遡る津軽(蝦夷国)と筑紫の交流の痕跡として、青森県弘前市の砂沢水田遺跡がある。同水田遺跡は関東の水田遺跡よりも古く、その工法が福岡県の板付水田と類似する。同遺跡は弥生前期(2400~2300年前)の本州最北端の水田跡遺跡で、北部九州を起源とする遠賀川系土器が出土しており、九州北部の稲作農耕が日本海沿岸を経由して津軽平野へ伝播してきたことを示す。
さらに、青森県南津軽郡田舎館村の弥生時代中期(2100~2000年前)の垂柳遺跡からも656面の水田跡が検出され、津軽平野には稲作をはじめとする弥生文化が受容されていたことを示す。

 これらは関東の稲作遺構よりも早く、言わば、関西や関東を通り越して筑紫の稲作集団や同技術・土器文化が津軽(蝦夷国)へ移動伝播したことを示している。

《文献史学エビデンス》―津軽に逃げた安日王伝承―
「秋田家系図」「藤崎系図 安倍姓」は始祖を「孝元天皇」とするものだが、その後に「開化天皇―大毘古命―建沼河別命―安部将軍―安東―(後略)」と続き、「建沼河別命」と「安部将軍」の間に次の傍記が挿入されている。
「兄安日王
弟長髓彦
人皇之始。有安日長髓〈以下十一行文字不分明故付記之〉安東浦等是也。
安国
安日後孫。」※〈〉内は細注。

 ここに見える安東浦とは西津軽群深浦町深浦のこと。「秋田家系図」では、安日王は弟の長髄彦が神武天皇の東征の時に抵抗し殺された後、津軽に逃れ安倍一族の始祖となったとある。わたしの研究では、これは『日本書紀』の神武東征記事の影響を受け、系図に挿入されたもので、本来は天孫降臨説話からの盗用とする。古田武彦氏も安日彦・長髄彦兄弟がニニギ軍の天孫降臨(筑紫侵攻)により、津軽へ稲穂(稲作技術)を持って逃げた伝承とした(注①)。

 この考古学と文献史学両分野の筑紫と津軽との交流を示すエビデンスは、神武紀の「愛瀰詩」伝承もこのことと深く関係しているのではないかとする仮説を成立させます。そしてこの仮説は、当シリーズ3548話(2025/11/08)〝多元史観で見える蝦夷国の真実(4) ―都加留は蝦夷国の拠点か―〟、3558話(2025/12/14)〝多元史観で見える蝦夷国の真実(10) ―「蝦夷国」深奥の謎、和訓「エミシ」―〟で提起した次の問題の解をも示唆します。

❶『日本書紀』斉明五年(659年)七月条では、なぜ小領域の都加留(津軽)が、広領域の麁蝦夷(あらえみし)・熟蝦夷(にきえみし)と肩を並べて唐の天子に紹介されているのか。しかも三種の蝦夷の冒頭だ。最も遠方で小領域の都加留を最初に紹介するのは不自然。
国名表記の字面にも〝格差〟が見える。都加留の場合は一字一音表記で、「都」のように好ましい漢字が使用されている。比べて、麁蝦夷・熟蝦夷の場合は「蝦」や「夷」のように貶めた漢字だ。都加留に「蝦夷」表記がないのはなぜか。

❷わが国の古代史学では蝦夷をエミシと訓むのが常だ。なぜ、わが国では蝦夷を「カイ」ではなく、エミシと訓むのか。

 これらの考察は、〝蝦夷国の中でも津軽は特別な領域で、エミシという和訓は、筑紫の先住民「愛瀰詩(えみし)」に淵源する〟と発展するのです。このわたしの考察には、古田先生による怖い仮説が待ち受けていました。拙著『東日流外三郡誌の逆襲』(注②)を書き終えたとき、亡き恩師の仮説から逃げることができないことに、わたしは改めて気づいたのです。(つづく)

(注)
①古田武彦「第五章 東日流外三郡誌との出会い」『真実の東北王朝』駸々堂、平成二年(1990)。ミネルヴァ書房より復刻。
②古賀達也編『東日流外三郡誌の逆襲』八幡書店、2025年。


第3559話 2025/12/15

多元史観で見える蝦夷国の真実 (11)

 ―盗まれた神武紀の「愛瀰詩」説話―

 古田先生は『日本書紀』神武紀に見える「愛瀰詩」(注①)を〝神武の軍の相手側、大和盆地の現地人を指しているようである〟とされました。すなわち近畿の先住者(銅鐸圏の住民)と見なし、神武に追われた「愛瀰詩」を東北の蝦夷国と称された人々と同類、あるいは有縁の人々と理解されたようです(注②)。しかし、わたしはこの「愛瀰詩」を天孫降臨時、ニニギが戦った北部九州の先住民と考えています。

 わたしは記紀に見える神武東征記事に天孫降臨説話が盗用されているとする説を2002~2003年に発表しました(注③)。記紀の神武東征説話中に、大和侵攻の主体を「天神御子」(『古事記』)・「天神子」(『日本書紀』)とする記事が突然のように、あるいは「天皇」記事中に紛れ込んでいることにわたしは注目し、「天孫」(アマテラスの子孫)ではあっても、神武は「天神御子」「天神子」(アマテラスの子)ではないとして、この「天神御子」「天神子」を主人公とする説話部分は天孫降臨時のニニギの筑紫・肥前侵攻説話の盗用としました。

 こうした視点に立てば、同じく「天神子」の名前が「天皇」説話に紛れ込んでいる「愛瀰詩」との戦闘譚もニニギらによる天孫降臨説話であり、そこに現れる「愛瀰詩」は北部九州(筑紫・肥前)の先住民ではないでしょうか。なお、神武歌謡の「愛瀰詩」を佐賀県を舞台とした説話とする先行研究が福永晋三氏より発表されています(注④)。古田先生も神武歌謡に筑前糸島で歌われたものがあるとする研究を発表しています(注⑤)。

 この仮説が正しければ、ニニギに追われた「愛瀰詩(エミシ)」と呼ばれ人々は筑紫から東北地方(蝦夷国)に落ち延び、そのため蝦夷国はエミシ国と呼ばれるようになったのではないでしょうか。ちなみに、佐賀県三養基郡には「江見(エミ)」という地名があり、「愛瀰詩」と語源的に関係があるのかもしれません。(つづく)

(注)
①次の神武紀歌謡に「愛瀰詩(エミシ)」が見える。
愛瀰詩烏、毗儴利、毛々那比苔、比苔破易陪廼毛、多牟伽毗毛勢儒。
〔えみしを、ひだり、ももなひと、ひとはいへども、たむかひもせず〕
(「ひだり」は〝ひとり〟。「ももなひと」は〝百(もも)な人〟。『岩波古典文学大系』による。二〇五頁)
②古田武彦『真実の東北王朝』駸々堂、平成二年(1990)。ミネルヴァ書房版 293~294頁。
③古賀達也「盗まれた降臨神話 『古事記』神武東征説話の新・史料批判」『古田史学会報』48号、2002年。『古代に真実を求めて』第五集、明石書店、2002年、に転載。
同「続・盗まれた降臨神話 ―『日本書紀』神武東征説話の新・史料批判―」 『古代に真実を求めて』第六集、明石書店、2003年。
④福永晋三「於佐伽那流 愛瀰詩(おさかなる えみし) ―九州王朝勃興の蔭」『九州王朝の論理 「日出ずる処の天子」の地』古田武彦・福永晋三・古賀達也共著、明石書店、2000年。
⑤古田武彦『神武歌謡は生きかえった』新泉社、1992年。


第3558話 2025/12/14

多元史観で見える蝦夷国の真実 (10)

 ―「蝦夷国」深奥の謎、和訓「エミシ」―

 古田先生の見解によれば、「蝦夷国」の造字は中国側によるもので、〝「倭国」は、中国にとって「東夷」であった。その「東夷の、さらに、はるかなる彼方の夷」、それをしめすのが、「蝦夷」という字面の意義なのである。(「叚」は〝はるか〟の意。「虫へん」は、〝夷蛮用の付加〟。)〟として、蝦夷の音はカイとされました(注)。

 他方、わが国の古代史学では蝦夷をエミシと訓むのが常でした(後にエゾと訓む史料が現れる)。しかし、なぜ、わが国では蝦夷をエミシと訓むのか、ここに蝦夷国研究における深奥の謎があると、わたしは捉えています。

 そもそもエミシという名称の初出は『日本書紀』神武紀です。古田先生は次のように紹介します。

 **敬称として使われた「えみし」**

 では、「えみし」とは。これが、新しい課題だ。『日本書紀』の神武紀に、有名な一節がある。

 愛瀰詩烏、毗儴利、毛々那比苔、比苔破易陪廼毛、多牟伽毗毛勢儒。

 〔えみしを、ひだり、ももなひと、ひとはいへども、たむかひもせず〕

  (「ひだり」は〝ひとり〟。「ももなひと」は〝百(もも)な人〟。『岩波古典文学大系』による。二〇五頁)

 この「愛瀰詩」は、神武の軍の相手側、大和盆地の現地人を指しているようである。岩波本では、これに、

 「夷(えみし)を」

という〝文字〟を当てているけれど、これは危険だ。なぜなら「夷」は、例の〝天子中心の夷蛮呼称〟の文字だ。このさいの〝神武たち〟は、外来のインベーダー(侵入者)だ。「天子」はもちろん、「天皇」でもなかった(「神武天皇」は、後代〈八世紀末~九世紀〉に付加された称号)。

 第一、肝心の『日本書紀』自身、「夷」などという〝差別文字〟を当てていない。「愛瀰詩」という、まことに麗しい文字が用いられている。これは、決して〝軽蔑語〟ではないのだ。それどころか、「佳字」だ、といっていい(「瀰」は〝水の盛なさま〟)。彼等は〝尊敬〟されているのだ。〔『真実の東北王朝』ミネルヴァ書房版 293~294頁〕

 古田先生はこのように述べ、〝「蝦夷」の語は、字面では、差別字。発音では、佳語〟としました。わたしはこの先生の見解に賛成です。

 そして、神武紀の「愛瀰詩」を大和盆地の現地人、すなわち近畿の先住者(銅鐸圏の住民)と見なし、〝日本列島の関東及び西日本の人々、つまり一般庶民は、この東北地方周辺の人々を「えみし」と呼び、敬意を隠さなかった。〟としました。

 このことから、神武に追われた「愛瀰詩」を東北の人々、すなわち、中国から蝦夷国と称された人々と同類、あるいは有縁の人々と理解されたようです。

 中国史書に見える「倭国」を〝九州王朝〟と称したように、この蝦夷国を〝東北王朝〟と先生は名づけました。この認識こそ、古田史学・多元史観の面目躍如です。(つづく)

(注)古田武彦『真実の東北王朝』駸々堂、平成二年(1990)。ミネルヴァ書房より復刻。


第3557話 2025/12/11

多元史観で見える蝦夷国の真実 (9)

古田先生の蝦夷国観(『真実の東北王朝』)

『失われた九州王朝』(注①)で示された古田先生の蝦夷国観は、『真実の東北王朝』(注②)において、更に研ぎ澄まされました。同書第九章「歴史の踏絵 東北王朝」に示された次の二つの視点です。

まず一つ目は、蝦夷国の領域について論じたものです。

**蝦夷国と陸奧国の実態は同じ**

エジプトへ向かう機内で、わたしの思いは「蝦夷国」にあった。あの多賀城碑に銘刻された国名。その実態は、何か。

この問題である。

そして従来の論者が依拠してきた「陸奧国」という国名。それとの関係は何か。

それらを、機内の「夜」の中で、くりかえし反芻していたのである。そしてその想念の結節点、それは次の一語――「蝦夷国と陸奧国の相補性」だった。

すなわち、この両語は〝別の実態〟をもつ国名ではない。一方から見れば「蝦夷国」、他方から見れば、その同じものが「陸奧国」と呼ばれる。そういうことだ。「陸奧国」の方は、もちろん、近畿天皇家側からの〝呼び名〟だ。「蝦夷国」の方は。――これが、わたしの問いだった。〔ミネルヴァ書房版 284~285頁〕

 

二つ目は、「蝦夷国」の字義と誰による命名かについて論じたものです。

**『蝦夷国』とは中国側の造字**

「蝦夷国」とは、何か。この問題をさらに追いつめてみよう。

先ず、誰が、この字面を構成したか。――その答えは、ズバリ言って、中国だ。決して近畿天皇家ではない。

この点、従来の学者は、漫然と、つまり、確たる論証なしに、「近畿天皇家側の造字」と〝信じ〟て、叙述しているものが少なくない。おそらく、『日本書紀』や『古事記』に「蝦夷」の語が多出しているからであろう。

しかしながら、忘れてならぬ史料がある。中国のものだ。

「(顕慶四年、六五九、高宗)十月、蝦夷国、倭国の使に随いて入朝す」(冊府元亀、外臣部、朝貢三)

これは、当然ながら、〝中国中心の目〟から見た、「外臣」(中国は、周辺の国々の王者を「外臣」と称した)の記事。その「外臣」からの「朝貢」の記事である。その中に、この「蝦夷国」の表記が現れている。

これと、並出している「倭国」も、当然ながら、中国側から見た場合、「外臣」である。(それを〝うけいれなかった〟から、唐と倭国〈九州王朝〉との間に戦争〈白村江の戦〉が生じたのだ)。

その「倭国」は、中国にとって「東夷」であった。その「東夷の、さらに、はるかなる彼方の夷」、それをしめすのが、「蝦夷」という字面の意義なのである。(「叚」は〝はるか〟の意。「虫へん」は、〝夷蛮用の付加〟。)〔ミネルヴァ書房版 289~290頁〕

「蝦夷」を中国側の造字とする古田先生の視点と『冊府元亀』に見える「外臣」「朝貢」は、中国と蝦夷国との〝国交〟を不可避としています。こうした視点と蝦夷国観は、蝦夷国研究にとって避けられないテーマなのです。ところが、近畿天皇家一元史観に立つ、わが国の古代史学界はそれを欠いたまま、蝦夷を論じており、ここにも千数百年続く、近畿天皇家一元史観の宿痾を見るのです。(つづく)

(注)

①古田武彦『失われた九州王朝』朝日新聞社、昭和四八年(1973)。ミネルヴァ書房より復刻。

②古田武彦『真実の東北王朝』駸々堂、平成二年(1990)。ミネルヴァ書房より復刻。


3555話 2025/12/09

多元史観で見える蝦夷国の真実 (8)

  古田先生の蝦夷国観

   (『失われた九州王朝』)

 このシリーズでは、蝦夷国を独立した国家とする多元史観に基づく認識が必要であることを主張していますが、これはわたしが古田史学に入門以来、抱き続けた問題意識でした。その学問的背景にあったのは古田武彦初期三部作の一つ、『失われた九州王朝』(注①)の次の一節です(ミネルヴァ書房版 213~217頁)。要約して紹介します。

「蝦夷国 本書の論証の目指すところは、九州に連続した王権にあった。これと近畿の王権との関連が焦点となってきたのである。けれども、これと対をなすべき問題がある。近畿の王権の、さらに東方に位置した「蝦夷国」の問題だ。」

 このような書き出しの後、「洛中洛外日記」3554話(2025/12/01)〝多元史観で見える蝦夷国の真実(7) ―唐と倭国(九州王朝)と蝦夷国の関係―〟でも紹介した『日本書紀』斉明紀(斉明五年)の蝦夷記事を取り上げて、次のように指摘します。

「ハッキリいえば、何か〝珍獣〟まがいの扱いだ。(中略)

 このような『日本書紀』の文面にふれたあと、わたしは中国側の文献『冊府元亀(さっぷげんき)』(注②)の中に、つぎの文面を見出して、ハッと胸を突かれた。「(顕慶四年、六五九、高宗)十月、蝦夷国、倭国の使に随いて入朝す」〈冊府元亀、外臣部、朝貢三〉。ここでは、蝦夷国人は観賞用の「珍獣」でも、「珍物」でもない。レッキとした蝦夷国の国使として、唐朝に貢献してきた、と記録されている。年代も『日本書紀』とピッタリ一致している。」

 そして、結論として次のようにまとめています。

 「以上の結論と関連事項を記そう。
(一)『日本書紀』本文は、日本列島全体を〝近畿天皇家の一元支配下〟に描写した。ために、「蝦夷国」を日本列島東部の、天皇家から独立した国家とする見地を、故意に抹殺して記述している。これは九州に対し、たとえば磐井を「国造」「叛逆」として描写するのと同一の手法である。

(二)「蝦夷国の国使派遣」は、歴史事実であるにもかかわらず『旧唐書』『新唐書』には記されていない。これは舒明二年(六三〇)の近畿天皇家派遣の遣唐使が、『旧唐書』や『新唐書』に記載されていないのと同じ扱いである。すなわち、倭人を代表する王権ではなく、辺域に国家として、いまだ『旧唐書』などの「正史」には記載されていないのである。

(三)なお、これと類似した現象は、『冊府元亀』の「琉球国」の記事においてもあらわれている。「煬帝、大業三年(六〇七)三月、羽騎尉朱寛を遣わして、琉球国に使せしむ」〈冊府元亀、外臣部、通好〉。ただし、「琉球国」の場合は、『隋書』俀国伝においても、すでに、「俀国」とは別個に出現している。
以上、日本列島内の多元的国家の共存状況と、『日本書紀』の一元的描写。――両者の対照があざやかである。」

 五十年前に出版された『失われた九州王朝』にある、古田先生の蝦夷国観こそ、本シリーズを貫くわたしの蝦夷研究のバックボーンなのです。(つづく)

(注)
①古田武彦『失われた九州王朝』朝日新聞社、昭和48年(1973)。ミネルヴァ書房より復刻。
②『冊府元亀』は北宋時代に成立した類書。王欽若・楊億らが真宗の勅命により大中祥符六年(1013)に完成させた。巻数は1000巻に及び、分類は31部1104門(実際は1116門)。