九州王朝(倭国)一覧

第3293話 2024/05/29

『東京古田会ニュース』216号の紹介

『東京古田会ニュース』216号が届きました。拙稿「古代都市成立の指標 ―都城論争の収斂を求めて―」を掲載していただきました。同稿では、昨年11月の八王子セミナーで発表した律令制都城の〝絶対条件〟として次の5点を示し、少なくともこれら全てを満たす七世紀の都城は難波京(前期難波宮)と藤原京(藤原宮)だけと結論づけました(注①)。

【律令制王都の絶対5条件】
《条件1》約八千人の中央官僚が執務できる官衙遺構の存在。
《条件2》それら官僚と家族、従者、商工業者、首都防衛の兵士ら計数万人が居住できる巨大条坊都市の存在。
《条件3》巨大条坊都市への食料・消費財の供給を可能とする生産地や遺構の存在。
《条件4》王都への大量の物資運搬(物流)を可能とする官道(山道・海道)の存在。
《条件5》関や羅城などの王都防衛施設や地勢的有利性の存在。

さらに「古代都市」の指標(必要条件)として提唱された〝G・V・チャイルドの古代都市成立の十基準〟(注②)などを紹介しました。そして、日本古代史が空理空論でなければ、研究者が合意できる「律令制都市存立の必要条件」と、誰もが知りうる「考古学的出土事実」にのみ基づいて、九州王朝都城を探るべきと主張しました。
『東京古田会ニュース』216号掲載記事で注目したのが、つぎの遺跡巡り旅行記でした。

○大宮姫伝承を訪ねて 東久留米市 村田智加子
○和田家文書をみちづれに「和田家文書と国東半島」の旅行に参加して 白井市 讃井優子

当地の状況が目に浮かぶような旅行記です。なかでも村田さんが紹介された鹿児島県の大宮姫伝承の報告は懐かしく拝読しました。わたしは学生時代に指宿市や枕崎市を旅行した経験もあり、初めて書いた長文の論文が「最後の九州王朝 ―鹿児島県「大宮姫伝説」の分析―」(注③)だったこともあり、とても印象深い旅行記でした。
会員の皆さんからの『古田史学会報』への遺跡巡り報告の投稿をお待ちしています。

(注)
①同セミナーでのわたしの演題と論旨は次の通り。
《演題》律令制都城論と藤原京の成立 ―中央官僚群と律令制土器―
《要旨》大宝律令で全国統治した大和朝廷の都城(藤原京)では約八千人の中央官僚が執務した。それを可能とした諸条件(官衙・都市・他)を抽出し、倭国(九州王朝)王都と中央官僚群の変遷、藤原京成立の経緯を論じる。
②Vere Gordon Childe (1950),The Urban Revolution. The Town Planning Review 21.
③古賀達也「最後の九州王朝 ―鹿児島県「大宮姫伝説」の分析―」『市民の古代』10集、新泉社、1988年。


第3282話 2024/05/07

難波宮湧水施設出土「謹啓」木簡の証言

 泉論文(注①)では、下層遺跡から出土した「贄」木簡を孝徳朝宮殿の根拠としたのですが、前期難波宮北西の湧水施設(SG301)から出土した次の「謹啓」木簡(注②)も自説(前期難波宮天武朝説)の根拠としました。

・「謹啓」 ・「*□然而」 *□[初カ](遺物番号533)

 同水利施設は、井戸がなかった前期難波宮の水利施設と見なされ、七世紀中葉の造営であることが出土土器編年(須恵器坏G、坏H)により判明しました。さらに年輪年代測定により、湧水施設の木枠の伐採年が634年であったことも、「洛中洛外日記」で紹介した通りです(注③)。

 この従来説に対して、泉論文では、「謹啓」木簡は七世紀後葉の飛鳥池や石神遺跡の天武朝の遺構から出土しており、難波宮出土の「謹啓」木簡も天武朝のものと理解できるとされました。そして、「謹啓」木簡の出土層位(第7B層)は水利施設の最下層であり、難波宮水利施設が天武朝(七世紀後葉)に造営された証拠とされました。従って、この水利施設を利用した前期難波宮は天武朝の宮殿であり、その下の下層遺跡を孝徳朝の宮殿としたわけです。

 しかしながら、前期難波宮を九州王朝(倭国)の複都の一つとするわたしの見解によれば、この「謹啓」木簡は九州王朝の難波進出の痕跡であり、前期難波宮九州王朝王宮説を示唆する傍証となります。すなわち、飛鳥に居した近畿天皇家の天武らよりもはやく九州王朝の難波宮では「謹啓」という用語が使用されていたと理解することができるからです。泉論文の「謹啓」木簡の証言は、九州王朝が採用していた「謹啓」という用語を、七世紀後葉に実力者となった天武らが飛鳥で使用開始したことに気づかせてくれたという意味で、貴重なものとわたしは評価しています。(つづく)

(注)
①泉武「前期難波宮孝徳朝説の検討」『橿原考古学研究所論集17』2018年。
同「前期難波宮孝徳朝説批判(その2)」『考古学論攷 橿原考古学研究所紀要』46巻、2023年。
②『難波宮址の研究 第十一 ―前期難波宮内裏西方官衙地域の調査―』大阪市文化財協会、2000年。
③古賀達也「洛中洛外日記」3278話(2024/05/01)〝泉論文と前期難波宮造営時期のエビデンス〟


第3280話 2024/05/05

難波宮西側谷出土

    「贄」「戊申年」木簡の証言

 泉論文(注①)で、孝徳朝宮殿の根拠とされた「贄」木簡(前期難波宮整地層直下の土壙SK10043出土)は、その北側約450mの地点から検出された東西方向の谷からも出土しています。出土層位は前期難波宮のゴミ捨て場跡と考えられており、その第16層から33点の木簡が出土しています(注②)。その中に次の表記を持つ木簡が特に注目されました。

 「委尓ア栗□□」(4号木簡) ※「尓ア」は贄(にえ)。
「戊申年」(11号木簡) ※戊申年は648年。

 泉論文では、土壙SK10043から出土した「贄」木簡とあわせて、隣接する二地点から「贄」木簡が出土したことは、その近傍に孝徳天皇の宮殿があった根拠としました。しかも「戊申年」(648年)木簡と伴出したことにより、下層遺跡の建物の造営が孝徳朝の頃とする根拠にもなりました。こうした指摘も、近畿天皇家一元史観の通説では反論困難です。

 この点も、前期難波宮を九州王朝(倭国)の複都の一つとするわたしの見解に立てば、これらの木簡は九州王朝の難波進出の痕跡であり、前期難波宮九州王朝王宮説を示唆する傍証とできることは前話で述べたとおりです。また、『伊予三島縁起』に見える「孝徳天王位、番匠初。常色二戊申、日本国御巡礼給。」(孝徳天皇のとき番匠の初め。常色二年戊申、日本国をご巡礼したまう。)は、九州王朝による難波宮造営のための「番匠」派遣記事であり、九州年号の「常色二年戊申」と難波宮出土「戊申年」木簡との年次(648年)の一致は偶然ではなく、何らかの関係を示唆するとの正木氏の指摘もあります(注③)。(つづく)

(注)
①泉武「前期難波宮孝徳朝説の検討」『橿原考古学研究所論集17』2018年。
同「前期難波宮孝徳朝説批判(その2)」『考古学論攷 橿原考古学研究所紀要』46巻、2023年。
②『大阪城址Ⅱ 大阪城跡発掘調査報告書Ⅱ ―大阪府警察本部庁舎新築工事に伴う発掘調査報告書― 図版編』大阪府文化財調査研究センター、2002年。
③正木裕「常色の宗教改革」『古田史学会報』85号、2008年。


第3279話 2024/05/03

難波宮下層遺構出土の「贄」木簡の証言

 前期難波宮を天武朝による造営とする泉論文(注①)では、難波宮出土木簡に記された用語を根拠とした、前期難波宮整地層の下層遺構を孝徳朝の宮殿とする見解があります。今までにはなかった視点であり、興味深いものでした。それは前期難波宮整地層の直下に掘られた土壙SK10043から出土した次の木簡です。

「・□□□□・□□〔比罷ヵ〕尓ア」 (木簡番号0)

 東野治之氏の釈読によれば(注②)、「此罷」は枇杷、「尓ア」は贄(にえ)とのこと。贄とは天皇や神に捧げる供物であることから、同木簡が出土した土壙SK10043の近傍に天皇の居所が存在していたことを示唆し、それは孝徳天皇としか考えられないことから、下層遺構の建物こそが孝徳天皇の宮殿であると泉論文は結論づけています。従って、前期難波宮整地層上に造営された巨大宮殿は天武朝のものとしたわけです。

 『日本書紀』によれば、七世紀の難波に宮殿を最初に造営したのは孝徳天皇ですから、その天皇に捧げる「贄」木簡が出土した下層遺構の建物は孝徳天皇の宮殿と理解する他ありません。この泉論文の指摘は、近畿天皇家一元史観の通説では反論困難です。

 しかし、前期難波宮を九州王朝(倭国)の複都の一つとするわたしの見解に立てば、遅くとも五世紀の「倭の五王」時代には九州王朝は難波に進出し、七世紀前葉には難波天王寺を創建(倭京二年・619年)していますから、七世紀前葉の下層遺構から、九州王朝の有力者に捧げられた「贄」木簡が出土しても不思議ではありません。むしろこの木簡は九州王朝の難波進出の痕跡であり、前期難波宮九州王朝王宮説を示唆する傍証ではないでしょうか。泉論文の結論には反対ですが、優れた論文であると、わたしが評価した理由は正に下層遺構から出土した「贄」木簡の指摘にありました。(つづく)

(注)
①泉武「前期難波宮孝徳朝説の検討」『橿原考古学研究所論集17』2018年。
同「前期難波宮孝徳朝説批判(その2)」『考古学論攷 橿原考古学研究所紀要』46巻、2023年。
②東野治之「橋脚MP-2区SK 10043出土木簡について」『難波宮址の研究 第7』大阪市文化財協会、1981年。


第3276話 2024/04/24

「天皇」地名と天子宮の分布比較

 「天皇」地名が愛媛県東部に濃密分布していることについて、古代越智氏が九州王朝(倭国)の天子から、臣下としての「天皇」号を称することを許されたことが歴史的背景にあったためとする、多元的「天皇」併存説をわたしは発表しました。古田旧説によれば、九州王朝のナンバーワン天子の下のナンバーツー天皇を近畿天皇家は名乗っていたと考えられているのに対して、多元的「天皇」併存説は、臣下としての天皇を名乗った複数の有力氏族があったとする仮説です。
その痕跡として、愛媛県を筆頭として四国地方に「天皇」地名が濃密分布することを紹介しました(注①)。次の通りです。

【国内の「天皇」地名】
※〔未確認〕とあるものは、web上の地図では確認できなかったもので、存在しないということでは無い。
《四国以外》
宮城県仙台市泉区実沢細椚天皇 ※当地に須賀神社がある。
宮城県仙台市泉区野村天皇  ※当地に須賀神社がある。
福島県喜多方市塩川町小府根午頭天皇 ※当地に牛頭天皇神社がある。
愛知県安城市古井町天皇
京都府綴喜郡宇治田原町荒木天皇 ※当地に大宮神社がある。
《四国》
徳島県美馬郡つるぎ町半田天皇 ※近隣に式内建神社がある。
香川県高松市林町天皇
香川県仲多度郡まんのう町四條天皇
愛媛県西条市福武甲天皇 ※当地に天皇神社(スサノオと崇徳上皇を祭神とする)がある。崇徳上皇来訪伝承があり、それにより「天皇」地名が付けられたとされているようである。
愛媛県西条市明理川(天皇) ※〔未確認〕
愛媛県西条市丹原町長野天皇 ※近隣に無量寺がある。
愛媛県今治市朝倉天皇
高知県高知市春野町弘岡上天皇 ※当地に天皇神社がある。
高知県香南市香我美町徳王子天皇 ※〔未確認〕
高知県香南市夜須町国光天皇

 以上の「天皇」地名が見つかりましたが、他方、九州と北海道には「天皇」地名がないとする文献もあります(注②)。北海道はともかく、九州にないことを不思議に思っていました。しかし、よくよく考えてみると、九州王朝の臣下としての多元的「天皇」併存説であれば、九州王朝の天子の直轄支配領域である九州に、「天皇」地名がないのは当然であることに気づきました。あるとすれば、それは「天皇」ではなく、「天子」地名ではないでしょうか。そうであれば、「天子宮(てんしぐう)」が熊本県北部を中心に分布していることが注目されます。管見では次の通りです。

○天子宮 熊本県菊池郡大津町森223
○天子宮 熊本県葦北郡芦北町大字小田浦752-1
○平国天子宮 熊本県葦北郡津奈木町平国
○天子宮 熊本県葦北郡芦北町乙千屋574
○小天(こあま)天子宮 熊本県玉名市天水町小天1170
○天子宮 熊本県玉名郡玉東町大字山口
○天子宮 熊本県玉名市玉東町木葉

 他方、佐賀県には「天子社」の分布が見られます(別途、紹介します)。これらは九州王朝の天子(阿毎多利思北孤か)に淵源するのではないかと想像していますが(注③)、残念ながら未だ決定的なエビデンスの発見や論証には至っていません。しかしながらこれらの特徴的な分布事実は、九州王朝の「天子」とその臣下としての多元的「天皇」併存説に整合するように思いますので、引き続き検討します。

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」3126話(2023/09/29)〝全国の「天皇」地名〟
②鏡味完二・鏡味明克『地名の語源』角川書店、昭和52年。
③古賀達也「洛中洛外日記」136話(2007/08/12)〝天子宮〟


第3275話 2024/04/22

『九州倭国通信』214号の紹介

 友好団体「九州古代史の会」の会報『九州倭国通信』No.214号が届きましたので、紹介します。同号には拙稿「筑前地誌で探る卑弥呼の墓」を掲載していただきました。古田先生は卑弥呼の墓の有力候補地として、弥生遺跡として著名な須玖岡本遺跡(福岡県春日市須玖岡本)の山上にある熊野神社社殿下とされました(注①)。拙論では、この古田説を補強すべく、『筑前国続風土記拾遺』(注②)に見える次の記事を紹介しました。

 「熊野権現社
岡本に在。枝郷岡本 野添 新村等の産神也。
○村の東岡本の近所にバンシヤクテンといふ所より、天明の比百姓幸作と云者畑を穿て銅矛壱本掘出せり。長二尺余、其形は早良郷小戸、また當郡住吉社の蔵にある物と同物なり。又其側皇后峰といふ山にて寛政のころ百姓和作といふもの矛を鋳る型の石を掘出せり。先年當郡井尻村の大塚といふ所より出たる物と同しきなり。矛ハ熊野村に蔵置しか近年盗人取りて失たり。此皇后峯ハ神后の御古跡のよし村老いひ傅ふれとも詳なることを知るものなし。いかなるをりにかかゝる物のこゝに埋りありしか。」『筑前国続風土記拾遺』上巻、三二〇~三二一頁。

 ここに記された皇后峯の山頂が現・熊野神社に当たり、卑弥呼のことが神功皇后伝承として伝えられているとしました。
同号冒頭には大宰府蔵司遺跡の写真が掲載されており、本年二月十七日に開催された発掘調査報告会(九州歴史資料館主催)について、工藤常泰さん(九州古代史の会・会長)より詳細な報告がなされており、勉強になりました。なかでも、蔵司地区から出土した大型建物(479.7㎡)が政庁正殿よりも巨大で、大宰府官衙群中最大です。その用途として、「大宰府財政を束ねた中枢施設」や「外国の使節をもてなした饗応施設」とする諸説が出されているとのことです。九州王朝説に立った場合、どのような仮説が成立するのか楽しみなテーマです。

(注)
①古田武彦「邪馬壹国の原点」『よみがえる卑弥呼』駸々堂、一九八七年。
②広渡正利校訂・青柳種信著『筑前国続風土記拾遺 上巻』文献出版、平成五年(一九九三年)。


第3270話 2024/04/14

九州王朝(天子)の「親藩」諸国の天皇たち

 わたしは毎月の第二土曜日に、各地の古田学派研究者とリモートで勉強会を開催しています。その三月と四月の勉強会で、九州王朝の天子の下に複数の天皇号を称した有力氏族が併存したとする仮説を恐る恐る発表し、参加した研究者にご批判を要請しました。幸いにも概ね好評でしたが、とても興味深く重要な指摘もありました。

 従来の古田旧説では、倭国のトップとしての九州王朝の天子と、ナンバーツーとしての大和の天皇がいたとされてきましたが、今回の拙論は、大和以外にも天皇号を許された有力氏族が複数併存したというものです。その候補として越智国(愛媛県)の氏族の越智氏(注①)がいます。野中寺彌勒菩薩像銘の「中宮天皇」や『大安寺伽藍縁起』に見える「仲天皇」もその候補と考えています。その他に、『日本書紀』天武紀に見える「吉備大宰(石川王)」が仕えた吉備天皇がいたのではないかと推定しています。

 こうしたことを昨日のリモート勉強会で述べたところ、参加された奥田さん(古田史学の会・会員、埼玉県)から次の指摘がありました。

〝天皇号を認められたのは有力氏族というだけではなく、九州王朝の天子と血縁関係がある、言わば江戸幕府の親藩に相当するような氏族だったのではないか〟

 この指摘には、なるほどと思いました。実は越智氏は天孫降臨以来の天孫族を始祖とする伝承・系図(注②)を持つ氏族ですから、奥田さんの指摘に適っています。それでは吉備の豪族はどうでしょうか。名前に「吉備」を持つ有名な人物に吉備津彦(注③)がいますので、その先祖が天孫族かどうかを調べてみました。

 『日本書紀』孝霊紀によれば、吉備津彦命は孝霊天皇皇子の彦五十狭芹彦命(ヒコイサセリヒコノミコト)の亦の名とされていますから、天孫系の人物と見ることができますが、吉備津彦命は「亦の名」とありますから、本来は別人で、吉備の元々の王者が吉備津彦であり、それを滅ぼした天孫族の彦五十狭芹彦命と習合させたのではないかと想像しています。

 いずれにしても彦五十狭芹彦命は天孫族となりますから、九州王朝の「親藩」諸国の有力氏族として、天皇を名乗ることが許されたと考えてみたいところです。新しい仮説ですので、断定することなく、慎重に研究を進めたいと思います。

(注)
①『大安寺伽藍縁起』に「袁智天皇」が見える。愛媛県に少なからず現存する「天皇」地名なども拙論の傍証とする。次の拙稿を参照されたい。
古賀達也「洛中洛外日記」2969~2973話(2023/03/19~25)〝『大安寺伽藍縁起』の仲天皇と袁智天皇 (1)~(4)〟
同「多元的『天皇』号の成立 ―『大安寺伽藍縁起』の仲天皇と袁智天皇―」『古代に真実を求めて』27集、明石書店、2024年。
②越智氏一族河野氏の来歴を記す『予章記』には、始祖を孝霊天皇の第三皇子、伊予皇子とする。越智氏・河野氏について、九州王朝説に基づく次の論稿がある。
古賀達也「『豫章記』の史料批判」『古田史学会報』32号、1999年。
八束武夫「『越智系図』における越智の信憑性 ―『二中歴』との関連から―」『古田史学会報』87号、2008年。
「大山祇神社の由緒・神格の始源について ―九州年号を糸口にして―」『古田史学会報』88号、2008年。
③ウィキペディアには次の説明がある。
吉備津彦命(きびつひこのみこと)は、記紀等に伝わる古代日本の皇族。第7代孝霊天皇皇子である。四道将軍の1人で、西道に派遣されたという。
【名称】
『日本書紀』『古事記』とも、「キビツヒコ」は亦の名とし、本来の名は「ヒコイサセリヒコ」とする。それぞれ表記は次の通り。
『日本書紀』
本の名:彦五十狭芹彦命(ひこいさせりひこのみこと)
亦の名:吉備津彦命(きびつひこのみこと)
『古事記』
本の名:比古伊佐勢理毘古命(ひこいさせりひこのみこと)
亦の名:大吉備津日子命(おおきびつひこのみこと)
そのほか、文献では「キビツヒコ」を「吉備都彦」とする表記も見られる。
第7代孝霊天皇と、妃の倭国香媛(やまとのくにかひめ、絙某姉、意富夜麻登玖邇阿礼比売命)との間に生まれた皇子である。
同母兄弟姉妹として、『日本書紀』によると倭迹迹日百襲媛命(夜麻登登母母曽毘売)、倭迹迹稚屋姫命(倭飛羽矢若屋比売)があり、『古事記』では2人に加えて日子刺肩別命の名を記載する。異母兄弟のうちでは、同じく吉備氏関係の稚武彦命(若日子建吉備津日子命)が知られる。
子に関して、『日本書紀』『古事記』には記載はない。

【記録】

『日本書紀』崇神天皇10年9月9日条では、吉備津彦を西道に派遣するとあり、同書では北陸に派遣される大彦命、東海に派遣される武渟川別、丹波に派遣される丹波道主命とともに「四道将軍」と総称されている。

同書崇神天皇9月27日条によると、派遣に際して武埴安彦命とその妻の吾田媛の謀反が起こったため、五十狭芹彦命(吉備津彦命)が吾田媛を、大彦命と彦国葺が武埴安彦命を討った。その後、四道将軍らは崇神天皇10年10月22日に出発し、崇神天皇11年4月28日に平定を報告したという。
また同書崇神天皇60年7月14日条によると、天皇の命により吉備津彦と武渟川別は出雲振根を誅殺している。

『古事記』では『日本書紀』と異なり、孝霊天皇の時に弟の若日子建吉備津彦命(稚武彦命)とともに派遣されたとし、針間(播磨)の氷河之前(比定地未詳)に忌瓮(いわいべ)をすえ、針間を道の口として吉備国平定を果たしたという。崇神天皇段では派遣の説話はない。


第3266話 2024/04/08

高橋工氏の難波宮最新報告を聴講

 一昨日、「古田史学の会・関西」の遺跡巡りがあり、その最後に高橋工さん(大阪市文化財協会)をお招きして、難波宮調査の最新状況をお聞きするという企画がありました。久しぶりに大阪歴博を訪問し、近くのマンションの集会所で高橋さんのお話を聞くことができました。

 高橋さんは難波京条坊を初めて発見した考古学者で、その主張は優れて論理的で、わたしが尊敬する考古学者の一人です。今回のお話しでは、次の三点の興味深い知見が示されました。

1. 難波京条坊・朱雀大路の造営は、前期難波宮が創建された孝徳朝から始まっており、その後、徐々に宮殿から南へ延伸した。朱雀大路から堺市方面(今塚遺跡)へ真南に伸びる難波大道の設計(グランドデザイン)は孝徳期に作られたと考えられる。

2. 前期難波宮内裏北側から大型宮殿(東脇殿)の一端が昨年3月に出土した。その規模は既に出土している内裏後殿よりも大きいと見られ、天皇の内裏にふさわしい(注①)。

3, 前期難波宮孝徳朝説への新たな批判が泉武氏(橿原考古学研究所)より出されたが、考古学的にも反論可能と考えている。

 特に3の批判が今も続いていることに驚きました。このことを知り、早速、泉さんの論文を拝読しました(注②)。難解な考古学論文ですので、もう二~三度は精読する必要がありますが、一読して感じたのは、今までにはない新たな視点と論理構築であり、通説の考古学者には反論が難しいように思いました。しかし、その主要論点こそ、前期難波宮九州王朝王宮説にとって有利なものであることに気づきました。このことについて、稿を改めて紹介します。

 最後に、高橋さんのお話を聞く機会を企画された上田武さん(古田史学の会・関西例会担当)に感謝いたします。

(注)
①「前期難波宮の内裏の発掘調査で重要な区画を発見!」『葦火』210号、大阪市文化財協会、2023年7月。
②泉武「前期難波宮孝徳朝説批判(その2)」『考古學論攷 橿原考古学研究所紀要』46巻、2023年。


第3242話 2024/03/05

2024年 久留米大学公開講座の案内

毎年行われている久留米大学公開講座の2024年案内冊子が届きました。「古田史学の会」からは、正木裕さん(古田史学の会・事務局長)とわたしが講演させていただきます。日時とテーマなどは次の通りです。九州の皆さんのご参加をお待ちしています。

【九州の古代史 ―九州王朝論を中心に】
□6月30日(日) 14時40分~16時10分
古賀達也 九州王朝の天子と臣下の天皇たち ―「天皇」号と「天皇」地名の変遷―
□7月7日(日) 午後14時40分~16時10分
正木 裕 氏 王朝交代と隼人

□会場 久留米大学御井キャンパス
□受講料 全4講座合計 2500円
□定員 75名
□申込先・問い合わせ先 久留米大学御井学舎事務部
地域連携センター
電話0942ー43ー4413
E-mailアドレス koukai@kurume-u.ac.jp
□会場は御井キャンパス 500号館51A教室


第3239話 2024/02/28

二つの「薩摩国一宮」の真実

 南九州に遺る「天智天皇」行幸伝承や「天智の后」とされる大宮姫伝承の再検討を進めていて、不思議なことに気づきました。それは薩摩には一宮が二つあることです。一つは薩摩国府(薩摩川内市)にある新田神社、もう一つが開聞岳の麓、指宿市の枚聞(ひらきき)神社です。ちなみに、この「ひらきき」の当て字に「開聞」が使用され、後に山名は開聞岳(かいもんだけ)と呼ばれるようになり、本来の地名「ひらきき」は神社名に遺ったようです。

 通常、一宮や国分寺・国分尼寺などその国を代表する寺社は、国府またはその近傍にあるもので、薩摩国は古代の国府があったとされる薩摩川内市にある新田神社が一宮であるのは理解できますが、薩摩半島の最南端(指宿市)にある枚聞神社が本来の一宮であったことは、何とも不思議です(注①)。この経緯について、ウィキペディアには次の解説がなされています。

〝一宮 新田神社(薩摩川内市) 式外社。国府の近くにあった。
元々の一宮は枚聞神社であった。鎌倉時代ごろから、新田神社が擡頭して枚聞神社と一宮の座を争うようになり、鎌倉時代末から南北朝時代のころに守護の島津氏の力を背景に新田神社が一宮となった。明治時代に定められた社格も新田神社の方が上になっている。日本全国の一宮が加盟する「全国一の宮会」には両社とも加盟している。 〟(Wikipedia)

 わたしは学生時代に指宿市・枕崎市を旅行したことがあります。秀麗な開聞岳(薩摩富士)がある良い観光地ですが、薩摩半島最南端であり、国府を置くには適切な地とは思われませんので、そこに一宮(枚聞神社)があることは不思議です。しかも、大和朝廷(日本国)時代の国府があった薩摩川内市からもかなり離れています。この現象を説明できる最有力の仮説が、当地や南九州に遺る「天智天皇」巡幸説話、頴娃(えい)郡出身の「大宮姫」伝承を九州王朝に関わる史実の反映とする仮説です。従って、大枠に於いては36年前に発表した拙論「最後の九州王朝 ―鹿児島県『大宮姫伝説』の分析―」(注②)には、未熟ではありますが、学問的意義が残されているように思うのです。(つづく)

(注)
①薩摩国内主要施設
薩摩国府 薩摩川内市
薩摩国分寺 薩摩川内市(国分寺跡)
薩摩国分尼寺(推定) 薩摩川内市
一宮 新田神社 薩摩川内市
枚聞神社 指宿市
②古賀達也「最後の九州王朝 ―鹿児島県「大宮姫伝説」の分析―」『市民の古代』10集、新泉社、1988年。


第3238話 2024/02/26

『開聞古事縁起』に見える「中宮明神」

 指宿市から出土した暗文土師器の探索から始まった今回のテーマは、思わぬ研究余滴をもたらしました。その一つが『開聞古事縁起』「一、當末神末社之事」に見える「中宮明神」の記事です。当該部分を転載します。

「中宮明神 在知覧之下郡名
天智帝皇子開聞后宮御子云々。第二宮也イ。別當知覧持寶院真言宗往古ノ別當ハ有中宮寺ト云。真言宗社寺有八箇寺云傳。」

 この記事によれば、開聞神らを祀る枚聞神社(指宿市)の末神末社として、知覧(鹿児島県南九州市)に「中宮明神」があり、それは天智の皇子であり開聞后宮(大宮姫)の御子とあります。「第二宮也イ」とあることから、この伝承には「イ」(異伝)があるようです。そこで『三國名勝圖會』を調査したところ、次の記事がありました。

「神社
正一位山口六社大明神(中略)安楽村にあり、祭神六座 天智天皇、倭姫、玉依姫、大友皇子、 持統天皇、乙姫宮是なり、(中略)按ずるに初め 天智天皇頴娃(えい)へ行幸し玉ふや、當邑に船を着られ、頴娃に到り、復此地に路を取りて還幸あり、 天皇崩後、和銅元年六月十八日、 天皇の廟を御在所嶽に建て、山宮大明神と號す、事は前條御在所嶽に記すが如し、又大友皇子の靈社を、御在所嶽の山下に創建す、山口大明神と號す、山口とは、山宮の口に建る故、名を得たりとぞ、(中略)其後鎭母(ジツボ)神社、〈 天智天皇の后倭姫を祭る、〉若宮、〈 持統天皇を祭る、 天智天皇の第二女にして、 天武天皇の后となる、〉中之宮、〈 天智天皇の妃、玉依姫なり、頴娃の人、 天智天皇の妃となる、〉蒲葵御前社、〈 天智天皇の妃、玉依姫の所生なり、〉の四社あり、是と彼山宮神社、〈 天智帝〉及び此山口神社、〈大友皇子、〉を合せて、凡六社、所々に散在す、」
「神社合記 中之宮大神社 安楽村にあり、祭神 天智帝の妃玉依姫なり、(中略)◁鎭母(ジツボ)大明神社 安楽村にあり、祭神、 天智天皇の后、倭姫なりといふ、祭祀正月未日、打植祭と號す、往古は山口六社の一なりとぞ、」『三國名勝圖會』巻之六十 日向國 諸縣郡

 宮崎県(日向國)では、「中之宮」「中之宮大神社」とあり、天智の「妃」の玉依姫とされています。他方、倭姫は天智の「后」と書き分けられており、鹿児島県(薩摩國)の伝承、天智の「后」としての大宮姫とはやや異なります。恐らく、宮崎側の伝承の方が『日本書紀』の影響を強く受けて、頴娃(えい)出身の「玉依姫」と記し、その立場も「后」ではなく、下位の「妃」としています。大宮姫もこの玉依姫も開聞岳がある頴娃の出身としていますから、同一人物の伝承と思われます。

 この頴娃出身の大宮姫(玉依姫)が、「中宮明神」や「中之宮」「中之宮大神社」に祭られていることに気づき、とても驚きました。三十数年前の研究時点(注①)では、この神社名・祭神の持つ意味に気づきませんでした。現在の研究水準では、野中寺(注②)の彌勒菩薩像台座銘に見える「中宮天皇」を天智の后の倭姫王とし、九州王朝出身の姫とする見解が古田学派内では有力視されており、その「中宮」を、天智の后(妃)の大宮姫のこととして祭っている神社が鹿児島や宮崎にあることは、偶然とは思えないのです。

 ちなみに、「中宮天皇」を九州王朝の天子、筑紫君薩夜麻の后とする説をわたしは「古田史学の会」関西例会(2011年7月)で発表しました(注③)。他方、「中宮天皇」を天智の后の倭姫王であり、大宮姫(『開聞古事縁起』)、薩摩比売(『続日本紀』)のこととする説を正木裕さんが発表しています(注④)。また、「中宮天皇」を九州王朝の天子(女帝)で倭姫王のこととする説を服部静尚さんが発表しています(注⑤)。なお、「中宮天皇」を倭姫王とする説は喜田貞吉氏が早くから発表しています。今回、大宮姫(玉依姫)を「中宮」として祭る神社の発見は、正木説を支持するものではないでしょうか。(つづく)

(注)
①)野中寺弥勒菩薩像銘 大阪府羽曳野市 丙寅年(666年)
「丙寅 年四 月大 旧八 日癸 卯開 記栢 寺智 識之 等詣 中宮 天皇 大御 身労 坐之 時請 願之 奉弥 勒御 像也 友等 人数 一百 十八 是依 六道 四生 人等 此教 可相 之也」
②古賀達也「最後の九州王朝 ―鹿児島県『大宮姫伝説』の分析―」『市民の古代』10集、新泉社、1988年。
③古賀達也「洛中洛外日記」327話(2011/07/23)〝野中寺彌勒菩薩銘の中宮天皇〟で紹介した。

 「7月16日の関西例会で、わたしは野中寺の弥勒菩薩銘にある「中宮天皇」を九州王朝の天子(薩夜麻)の奥さんのこととする、仮説以前のアイデア(思いつき)を発表しました。中宮天皇の病気平癒を祈るために造られた弥勒菩薩像のようですが、銘文中の中宮天皇について、一元史観の通説では説明困難なため、偽作説や後代造作説なども出ている謎の仏像です。
造られた年代は、その年干支(丙寅)・日付干支から666年と見なさざるを得ないのですが、この年は天智5年にあたり、天智はまだ称制の時期で、天皇にはなっていません。斉明は既に亡くなっていますから、この中宮天皇が誰なのか一元史観では説明困難なのです。

 従って、大和朝廷の天皇でなければ九州王朝の天皇と考えたのですが、この時、九州王朝の天子薩夜麻は白村江戦の敗北より、唐に囚われており不在です。そこで、「中宮」が後に大和朝廷では皇后職を指すことから、その先例として九州王朝の皇后である薩夜麻の后が中宮天皇と呼ばれ、薩夜麻不在の九州王朝内で代理的な役割をしていたのではないかと考えたのです。」
④正木 裕「よみがえる古伝承 大宮姫と倭姫王・薩摩比売(その1)」『古田史学会報』145号、2018年。
同「よみがえる古伝承 大宮姫と倭姫王・薩摩比売(その2)」『古田史学会報』146号、2018年。
「よみがえる古伝承 大宮姫と倭姫王・薩摩比売(その3)」『古田史学会報』147号、2018年。
同「大宮姫と倭姫王・薩末比売」『倭国古伝』(『古代に真実を求めて』22集)古田史学の会編、2019年、明石書店。
⑤服部静尚「野中寺弥勒菩薩像銘と女帝」『古田史学会報』163号、2021年。
同「中宮天皇 ―薬師寺は九州王朝の寺―」『古代史の争点』(『古代に真実を求めて』25集)古田史学の会編、2022年、明石書店。
本薬師寺は九州王朝の寺 服部静尚(会報165号)


第3234話 2024/02/22

指宿市「暗文土師器」の出土層位

 尾長谷迫遺跡(鹿児島県指宿市)から出土した暗文土師器は考古学的に恵まれた条件下で検出されました。それは出土層位が〝青コラ〟と呼ばれている開聞岳噴火層の下から出土したため、編年が可能となったことです。青コラとは七世紀後半の噴火により生じた火山灰の層です。従って、暗文土師器の年代を七世紀の中頃から後半にかけてと編年されました。

 「青コラの噴火年代は、次のような事例から推定される。橋牟礼川遺跡から約5km南西方向にある山川町成川遺跡では、青コラの下に豊富な土器・鉄器・遺構が検出されているが、なかでも多数の人骨が出土し墓域であったことが判明している。これらの人骨に共伴している土器・鉄器は、古墳時代に属する5~6世紀のものとされ、青コラは6世紀以降の噴出物であることが明らかにされた。その後橋牟礼川遺跡で行われた発掘により、後述のように直接覆われた須恵器が出土したが、その編年は他地方との比較により7世紀後半とされており、噴火は古墳時代の終わり頃に発生したことが明らかになった。」(注①) ※橋牟礼川遺跡は指宿市十二町にある縄文時代から平安時代にかけての複合遺跡。

 暗文土師器は、官僚制の整備とそれに伴う官人層の大量発生を背景として出現しており、通説では大和朝廷の飛鳥時代(七世紀中頃)に畿内で製造・使用開始されたとしますから、それとほぼ同時期の薩摩で暗文土師器が出土したことは、〝存在しないはずだった〟と驚きをもって受け止められたのです。しかし、多元史観・九州王朝説の視点で考えると、九州王朝(倭国)の律令制官僚の発生時期は七世紀前半~中頃(太宰府Ⅰ期)まで遡りますから、七世紀後半の薩摩に暗文土師器が伝播していても、何の不思議もありません。同土師器の出土を報道した南日本新聞にも次の記事があり、必ずしも「畿内産」ではないことを示唆しています(注②)。

 今回の暗文土師器出土により、その編年の確認のため、開聞岳の噴火年代について勉強したところ、面白いことに気づきました。(つづく)

(注)
①成尾英仁・下山 覚「開聞岳の噴火災害 ―橋牟礼川遺跡を中心に―」『加速器質量分析計業績報告書 Ⅶ』名古屋大学、1995年。
②「南日本新聞」WEB版(2024/01/01)には次の解説がある。
〝存在しないはずだった…飛鳥時代の「暗文土師器」が鹿児島で初確認 大和政権の影響勢力、指宿に存在か 尾長谷迫遺跡から出土
鹿児島県指宿市の尾長谷迫(おばせざこ)遺跡で、7世紀中ごろ、飛鳥時代の「暗文土師器(あんもんはじき)」と呼ばれる土器が鹿児島県内で初めて見つかった。古代国家・大和政権の都があった畿内地域の影響を受けた土器とされ、これまでの南限は宮崎県だった。鹿児島県内では政権と衝突した隼人が暮らしており、専門家は「県内には存在しないと考えられていた。政権と何らかの関係を持つ勢力が指宿にいたことを示す」と注目している。
暗文土師器は元々は都の「畿内産土師器」を模倣したもので、器の内面には大陸から流入した金属器の光沢を表現した放射状の線が施されている。政治施設である「官衙(かんが)」に関連する遺跡から見つかるケースが多く、国立歴史民俗博物館研究部の林部均教授(考古学)は「古代国家、都の存在を示す象徴となる土器。国家と関わりがあった地域でのみ出土する」と解説。これまでは西都市にある日向国府跡の寺崎遺跡と水運関連施設の宮ノ東遺跡が南限とされていた。
指宿市教育委員会によると、今回見つかった土器は口径17.1センチ、器高6.4センチ。7世紀後半に噴火した開聞岳の噴出物(青コラ)の下の地層から、南九州特有の成川式土器と一緒に割れた状態で出土した。〟