九州王朝(倭国)一覧

第2566話 2021/09/13

古田先生との「大化改新」研究の思い出(9)

 古田先生は「大化改新」共同研究会を立ち上げられると、坂本太郎さんと井上光貞さんの郡評論争をはじめ大化改新関連重要論文を次から次へと配られ、参加者に同研究史を勉強するよう求められました。学界での研究・論争の大枠を把握しておくことが不可欠な分野だったからです。そこで、本シリーズでも「大化の改新」についての研究史が比較的わかりやすくまとめられている『ウィキペディア(Wikipedia)』の関係部分を転載し、要点を解説します。

【「大化の改新」研究史】
 (前略)そんな中、坂本太郎は1938年(昭和13年)に「大化改新の研究」を発表した。ここで坂本は改新を、律令制を基本とした中央集権的な古代日本国家の起源とする見解を打ち出し、改新の史的重要性を明らかにした。これ以降、改新が日本史の重要な画期であるとの認識が定着していった。
 しかし戦後、1950年代になると改新は史実性を疑われるようになり、坂本と井上光貞との間で行われた「郡評論争」により、『日本書紀』の改新詔記述に後世の潤色が加えられていることは確実視されるようになった。さらに原秀三郎は大化期の改革自体を日本書紀の編纂者による虚構とする研究を発表し「改新否定論」も台頭した。
 「改新否定論」が学会の大勢を占めていた1977年(昭和52年)、鎌田元一は論文「評の成立と国造」で改新を肯定する見解を表明し、その後の「新肯定論」が学会の主流となる端緒を開いた。1999年(平成11年)には難波長柄豊碕宮の実在を確実にした難波宮跡での「戊申年(大化4年・648年)」銘木簡の発見や、2002年(平成14年)の奈良県・飛鳥石神遺跡で発見された、庚午年籍編纂以前の評制の存在を裏付ける「乙丑年(天智4年・665年)」銘の「三野国ム下評大山五十戸」と記された木簡など、考古学の成果も「新肯定論」を補強した。
 21世紀になると、改新詔を批判的に捉えながらも、大化・白雉期の政治的な変革を認める「新肯定論」が主流となっている。
【転載おわり】

 以上のように、「大化改新」は坂本太郎さんの研究により重視されますが、戦後、お弟子さんの井上光貞さんとの郡評論争(注①)などを経て、『日本書紀』編纂時の潤色が明らかとなり、「改新否定論」が優勢となります。その流れを大きく変えたのが前期難波宮の出土でした(注②)。このことが決定的証拠となり、「新肯定論」が大勢を占め、今日に至っています。
 単純化すれば、七世紀半ばの改新詔などが『日本書紀』編纂時に令制用語で潤色されたが、本来の詔勅「原詔」は存在したとする説が最有力説となっており、その範囲内で諸説が出されています。たとえば潤色に使用された「令」を近江令・浄御原令・大宝律令のいずれとするのかという問題や、改新詔が発せられた都は難波なのか飛鳥なのかなどです。
 このような諸説や視点は、通説のみならず九州王朝説・多元史観でも同様に生じます。古田先生が共同研究会のメンバーに通説を勉強することを求められていた理由もここにあったのです。(つづく)

(注)
①坂本太郎「大化改新詔の信憑性の問題について」『歴史地理』83-1、昭和27年(1952)2月。
 井上光貞「再び大化改新詔の信憑性について ―坂本太郎博士に捧ぐ―」『歴史地理』83-2、昭和27年(1952)7月。
 井上光貞「大化改新の詔の研究」『井上光貞著作集 第一巻』岩波書店、1985年。初出は『史学雑誌』73-1,2、昭和39年(1964)。
②中尾芳治『考古学ライブラリー46 難波京』(ニュー・サイエンス社、1986年)には、「孝徳朝に前期難波宮のように大規模で整然とした内裏・朝堂院をもった宮室が存在したとすると、それは大化改新の歴史評価にもかかわる重要な問題である。」「孝徳朝における新しい中国的な宮室は異質のものとして敬遠されたために豊碕宮以降しばらく中絶した後、ようやく天武朝の難波宮、藤原宮において日本の宮室、都城として採用され、定着したものと考えられる。この解釈の上に立てば、前期難波宮、すなわち長柄豊碕宮そのものが前後に隔絶した宮室となり、歴史上の大化改新の評価そのものに影響を及ぼすことになる。」(93頁)との指摘がある。


第2565話 2021/09/12

「多元的古代研究会」月例会にリモート初参加

 昨日に続いて、本日は「多元的古代研究会」月例会にリモートで参加させていただきました。今回の月例会はコロナ禍のため、リモート参加のみにしたとのことでした。どの研究会も苦労されているようで、スカイプやズームのシステムなどについて、同会事務局長の和田昌美さんと情報交換もさせていただきました。
 今回は「天子の系列・後編~利歌彌多弗利から伊勢王へ」という演題で、七世紀中頃に活躍した九州王朝の天子「伊勢王」の事績について正木裕さん(古田史学の会・事務局長)が研究発表されました。『日本書紀』に見える「伊勢王」は九州王朝(倭国)の天子、即位は常色元年(647年)で白雉九年(660年)まで在位したとされ、評制の施行や律令制定など数々の痕跡が『日本書紀』に遺されていることを論証されました。これらは、七世紀前半から後半にかけての九州王朝史復原の先端研究です。
 質疑応答タイムでは、わたしから二つの質問をさせていただきました。

(1)『日本書紀』天武十年条(注①)や持統三年条(注②)に見える律令関連記事を通説では「浄御原令」のこととするが、それを34年遡って九州王朝律令とする正木説では、九州王朝複都の前期「難波宮」時代のことになり、「飛鳥(大和であれ筑紫であれ)」の「浄御原宮」での制定を前提とした「浄御原」令という名称は不自然ではないか(「難波律令」なら妥当)。

(2)大化二年(646年)の改新詔など大化期の一連の詔について、どのように位置づけるのか。

 正木さんからの回答(概略)は次のようなものでした。

(1)『日本書紀』では天武・持統による律令制定という建前にしているので、その制定場所も飛鳥浄御原宮ということになる。そのため、九州王朝が常色・白雉年間にかけて策定・公布した九州王朝律令を近畿天皇家が「浄御原令」(『続日本紀』大宝元年八月条。注③)と後に〝命名(改名)〟した可能性もあり、名称にこだわる必要はないと思われる。

(2)九州王朝(倭国)が常色年間(647~651年)に発した律令や詔勅と近畿天皇家(日本国)が王朝交代時(九州年号の大化年間、695~700年)に発した詔勅が、『日本書紀』の大化年間(645~649年)に配置されており、どちらの詔勅かは個別に検証しなければならない。

 以上のような回答でしたが、(1)の見解は初めて聞くもので、〝なるほど、そのような可能性(視点)もあるのか〟と勉強になりました。(2)については、「古田史学の会」関西例会で散々論議したテーマでもあり、わたしも同意見です。なお、リモート例会終了後に正木さんと電話で論議・意見交換を続けました。
 このように、有意義でとても楽しいリモート例会でした。これからも時間の都合がつく限り、参加したいと思います。

(注)
①「詔して曰く、『朕、今より更(また)律令を定め、法式を改めむと欲(おも)う。故、倶(とも)に是の事を修めよ。然も頓(にわか)に是のみを就(な)さば、公事闕くこと有らむ。人を分けて行うべし』とのたまう。」『日本書紀』天武十年(682)二月条
②「庚戌(29日)に、諸司に令一部二十二巻班(わか)ち賜う。」『日本書紀』持統三年(689)六月条
③「癸卯、三品刑部親王、正三位藤原朝臣不比等、従四位下下毛野朝臣古麻呂、従五位下伊吉連博徳、伊余部連馬養等をして律令を選びしむること、是を以て始めて成る。大略、浄御原朝庭を以て准正となす。」『続日本紀』大宝元年(701)八月条
 この記事の「大略、浄御原朝庭を以て准正となす」を史料根拠として「浄御原令」が持統により制定されたとするのが一般的な通説ですが、「古田史学の会」内でも諸説が発表されています。


第2562話 2021/09/10

宮崎県の「あま」姓と「米良」姓の淵源

 宮崎県の西都市や宮崎市に「あま」姓(阿万、阿萬)が濃密分布しており、九州王朝(倭国)王族の姓「天(あま)」の子孫とする仮説を「洛中洛外日記」などで発表してきました(注①)。また、「米良」姓についても宮崎県に最濃密分布していることを紹介したことがあります(注②)。この宮崎県の米良氏が熊本県の菊池氏の後裔で、「天」姓を名のっていたことが記録に遺っています。『山岳宗教史研究叢書16 修験道の伝承文化』に収録されている、日向米良修験道を紹介した次の文です。

 「さてその米良氏は、現在すでに各地に分家してしまったが、その出自については、菊池氏の後裔という説がある。これは近世、近代に書かれた系図、系譜、由緒書に基づいており、また天(あめ)氏を名乗った形跡も見られる。(中略)また、東臼杵郡東郷町附近に定着した米良氏は、天氏を名乗っており、天文十八年には羽坂神社に梵鐘を奉納している。」603~604頁、「米良修験と熊野信仰」(注③)

 肥後の菊池氏と日向の米良氏が関係しているとのことですが、肥後には「蜑(あま)の長者」伝説(注④)があり、『隋書』俀国伝にも天子・阿毎(あま)多利思北孤の名前や噴火する阿蘇山の描写があり、九州王朝と関係が深い地域です。これらから推定すると、九州王朝の王族である「天(あま)」氏の一族が何らかの事情で日向へ移動し、「あま」(阿萬、阿万)姓をそのまま名乗り続けた人々と、「米良」姓に代えた人々がいて、現在に至っているのではないでしょうか。
 幸いも、日向修験道や熊野信仰の史料中に米良氏が「天氏」を名のっていた記録が遺っていたのですが、「あま」(阿萬、阿万)姓の家にもそうした伝承が遺っている可能性があります。当地の方に調査していただけると有り難いです。
 ちなみに、九州王朝の中枢領域である福岡県や佐賀県には「あま」姓の分布は見つかりません。しかし面白いことに、「天本(あまもと)」姓が基山(基肄城)周辺地域(佐賀県・福岡県)に集中分布していることを中島徹也さん(福岡市)からご教示いただきました。この「天本」さんについても調査したいと思います(注⑤)。お知らせいただいた中島さんにお礼申し上げます。

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」2543~2548話(2021/08/19~23)〝「あま」姓の最密集地は宮崎県(1)~(4)〟
 古賀達也「『あま』姓の分布と論理 ―宮崎県の「阿万」「阿萬」姓と異形前方後円墳―」『古田史学会報』166号、2021年10月(予定)。
②古賀達也「洛中洛外日記」234話(2009/11/08)〝九州王朝天子「天」一族の行方〟
 古賀達也「洛中洛外日記」236話(2009/11/22)〝「米良」姓の分布と熊野信仰〟
③五来重編『山岳宗教史研究叢書16 修験道の伝承文化』昭和五六年(1981)。
④古賀達也「洛中洛外日記」950話(2015/05/12)〝肥後にもあった「アマ(蜑)の長者」伝説〟
⑤「日本姓氏語源辞典」 https://name-power.net/ によれば、「天本」姓の分布は次の通り。
 人口 約3,000人 順位 3,894位
【都道府県順位】
1 佐賀県(約1,100人)
2 福岡県(約1,000人)
3 長崎県(約200人)
4 東京都(約70人)
4 埼玉県(約70人)
6 神奈川県(約70人)
6 大阪府(約70人)
8 広島県(約70人)
9 岡山県(約40人)
9 兵庫県(約40人)

【市区町村順位】
1 佐賀県 鳥栖市(約600人)
2 佐賀県 三養基郡基山町(約500人)
3 福岡県 小郡市(約300人)
4 福岡県 筑紫野市(約120人)
5 福岡県 久留米市(約70人)
6 長崎県 長崎市(約50人)
7 福岡県 福岡市西区(約50人)
8 福岡県 福岡市早良区(約40人)
8 香川県 高松市(約40人)
10 福岡県 北九州市小倉北区(約30人)


第2555話 2021/09/04

古田先生との「大化改新」研究の思い出(1)

 本年八月、わたしは66歳を迎えました。古田門下に入って、35年になります。その当時、古田先生は東京におられ、昭和薬科大学で教鞭をとっておられましたので、京都にいるわたしが直接お会いできる機会は限られていました。そのようなとき、古田先生は東京で「大化改新」共同研究会を立ち上げられ、関東の研究者や支持者と共に文京区民センターで毎月のように「大化改新」研究を行われました。先生が66歳(1992年)の頃のことでした。
 関西のわたしたち(市民の古代研究会)へも、共同研究会の録音テープと先生からの資料や発表者のレジュメが送られてきましたので、わたしは外部からその様子をうかがうことができました。有り難いご配慮でした。
 この30年前の共同研究会のことを詳しく知る人たちも少なくなり、その後に古田史学を知った方々が古田学派内で増えました。そこで、わたしの記憶がまだ確かなうちに、当時の「大化改新」研究の様子や、古田先生のお考え、その後の古田学派内での研究動向などを「洛中洛外日記」に書き留めておこうと思います。わたしの記憶違いなどがあれば、是非ご指摘ください。(つづく)


第2552話 2021/08/30

11月14日、八王子セミナー2021 発表原稿の作成

―「倭の五王」時代(5世紀)の考古学―

 前話で紹介した久留米大学公開講座用論文の採用決定通知が同大学担当者より届きました。字数制限を大幅に超えていたのですが、まずは一安心です。
 ところが、今度は11月13~14日に開催される〝八王子セミナー2021〟の発表原稿の締め切りが近づいてきました。一応は完成させたのですが、こちらも更に字数が増え、A4で35枚(資料込み)を越えてしまいました。引き続き、字数削減と修正を行います。
 現時点でのテーマと小見出しは次の通りです。

「倭の五王」時代(5世紀)の考古学

1.「筑後川の一線」の論理
2.古墳時代の最大都市、大阪上町台地
3.須恵器窯跡群、筑後・肥後・豊後「空白の5世紀」
4.九州最大の西都原古墳群(日向国)
5.考古学の実証(出土事実)と論証(出土解釈)
6.西都原古墳群の事実と解釈
7.倭王武「上表文」に見える倭国の領域「衆夷」
8.倭王武「上表文」に見える倭国の領域「毛人」
9.倭王武「上表文」と大阪上町台地倉庫群
10.「毛人五十五国」と仙台市の前方後円墳
11.古田説の変遷とその論理構造
(1)『失われた九州王朝』朝日新聞社、昭和48年(1973)。
(2)『古代の霧の中から 出雲王朝から九州王朝へ』徳間書店、昭和60年(1985)。
(3)「『筑後川の一線』を論ず ―安本美典氏の中傷に答える―」『東アジアの古代文化』61号、平成元年(1989)。
(4)『古田武彦の古代史百問百答』東京古田会(古田武彦と古代史を研究する会)編、ミネルヴァ書房、平成二六年(2014)。

【資料Ⅰ】
古賀達也「九州王朝の筑後遷宮 ―高良玉垂命考―」『新・古代学』第4集、新泉社、1999年
一、玉垂命と九州王朝の都
二、高良玉垂命と七支刀
三、高良玉垂命の末喬
四、多利思北孤の都
〈追記〉『九躰皇子』異論
《高良玉垂命と九人の皇子(九躰皇子)》
高良玉垂命(初代)――┬―斯礼賀志命(しれかし)→隈氏(大善寺玉垂宮神職)へ続く
物部保連(やすつら) |
          ├――朝日豊盛命(あさひとよもり)→草壁(稲員)氏へ続く
          ├――暮日豊盛命(ゆうひとよもり)
          ├――渕志命(ふちし)
          ├――渓上命(たにがみ)
          ├――那男美命(なをみ)
          ├――坂本命(さかもと)
          ├――安志奇命(あしき)
          └――安楽應寳秘命(あらをほひめ)

【資料Ⅱ】
古賀達也「大宰府政庁「倭の五王」王都説の検証」『多元』165号、2021年9月。
一、九州大学「坂田測定」の検証
二、「坂田測定」サンプルの試料性格
三、水城堤防出土サンプルの由来
四、水城出土物の放射性炭素年代測定値
五、「水城出土杭」、もう一つの可能性
六、内倉さんの「太宰府・筑後」王都説

【資料Ⅲ】
古賀達也「前畑土塁と水城の編年研究概況」『古田史学会報』140号、2017年8月。
一、前畑遺跡土塁の炭片の年代
二、前畑遺跡土塁に地震の痕跡
三、「羅城」「関」「遮断城」?
四、井上信正さんの問題提起
五、木樋による水城の造営年代
六、敷粗朶による水城の造営年代
七、敷粗朶の出土状況
八、敷粗朶のサンプリング条件
九、おわりに


第2550話 2021/08/25

「倭の五王」時代の九州の古墳(2)

 「倭の五王」の陵墓にふさわしい大型古墳の調査対象として、九州王朝(倭国)の中枢領域である筑前と筑後を見てみることにします。調査には吉村靖徳さんの『九州の古墳』(注①)を主に参照しています。同書は通説により解説されていますが、美しいカラー写真で古墳が紹介されており、わたしは重宝しています。
 同書の巻末資料には旧国別・年代別の「九州主要古墳年表」があり、それによると筑前には100mを越える古墳は糸島市の一貴山銚子塚古墳(墳丘長103m、前方後円墳、四世紀後半)と福津市の在自剣塚(あらじつるぎづか)古墳(墳丘長102m、前方後円墳、六世紀後半)が表示されていますが、五世紀の「倭の五王」の時代の筑前には倭国王墓にふさわしいトップクラスの規模の古墳は見えません。
 なお、福津市の宮地嶽古墳(現状径34m、七世紀前半、円墳)は奈良県・見瀬丸山古墳に次ぐ国内二番目の長さを誇る横穴式石室(22m)を持っており、注目されます。
 次いで筑後の100mを越える古墳は、「九州主要古墳年表」によれば次のようです。

〔四世紀〕
法正寺古墳(墳丘長102m、前方後円墳、四世紀末、)
〔五世紀〕
石櫃山古墳(墳丘長115m、前方後円墳、五世紀後半、久留米市)※消滅
石人山古墳(墳丘長110m、前方後円墳、五世紀前半~中頃、八女郡広川町)
〔六世紀〕
岩戸山古墳(墳丘長138m、前方後円墳、六世紀前半、八女市)
田主丸大塚古墳(墳丘長103m、前方後円墳、六世紀後半、久留米市)

 筑前より筑後の方が100m超の古墳は多いのですが、西都原古墳群などを擁する日向(宮崎県)と比べると質量ともに見劣りします。しかし、六世紀になると筑紫君磐井の陵墓である岩戸山古墳(八女市)が現れます。これは倭国王墓にふさわしく、六世紀の九州では最大規模です。この事実は、〝古墳の規模〟が倭国王墓の重要条件であることを示唆しています。この論理性を徹底すると、五世紀の「倭の五王」の陵墓は日向にあったこととなり、古墳が多数ある日向は九州王朝の〝王家の谷〟(注②)と考えることもできそうです。(つづく)

(注)
①吉村靖徳『九州の古墳』海鳥社、2015年。
②エジプトの「王家の谷」は、ツタンカーメン王墓出土の豪華な副葬品などで有名である。
 宮崎県からは国内最大の玉璧(直径33cm)が串間市王の山から出土しており、えびの市・島内114号地下式横穴墓から出土した「龍」銀象嵌大刀とともに注目される。古賀達也「洛中洛外日記」1504話(2017/09/20)〝南九州の「天子」級遺品〟、1502話(2017/09/17)〝「龍」「馬」銀象眼鉄刀の論理〟で論じたので参照されたい。
 また、「景初四年」(240年)銘を持つ斜縁盤龍鏡(兵庫県辰馬考古資料館蔵)が持田古墳群(児湯郡高鍋町)から出土している。


第2549話 2021/08/24

「倭の五王」時代の九州の古墳(1)

 「倭の五王」の宮都にふさわしい五世紀の遺構が見つかりませんので、視点を変えて、倭国王の陵墓にふさわしい大型古墳について検討してみます。とりあえず、九州島内に限定して考察します。
 場所にこだわらず規模だけを見れば、宮崎県西都原古墳群の九州最大の前方後円墳、女狭穂塚古墳(墳丘長176m、五世紀前半)が年代とともに「倭の五王」の陵墓候補に最もふさわしいと思います。同じく隣接する男狭穂塚古墳(墳丘長155m、五世紀前半)も国内最大の帆立貝式前方後円墳で、これも「倭の五王」の陵墓候補にふさわしいものです。同県にはこの他にも次の五世紀頃の大型前方後円墳(墳丘長100m以上)があります。

○児屋根塚古墳(墳丘長110m、五世紀前半の前方後円墳)西都市茶臼原
○松本塚古墳(墳丘長104m、五世紀末~六世紀初頭の前方後円墳)西都市三納
○菅原神社古墳(墳丘長110m、四世紀末~五世紀前半の前方後円墳)延岡市

 さらに、生目(いきめ)古墳群(宮崎市跡江)の1号墳(墳丘長120m、前方後円墳)は四世紀初頭では九州最大規模の古墳です。続いて3号墳(墳丘長143m、前方後円墳)は四世紀前半の古墳ですが、四世紀代を通じて九州最大です。そして五世紀には同じく九州最大の女狭穂塚古墳、男狭穂塚古墳へと続きます。
 このように宮崎県では、四~五世紀にかけて九州最大規模の古墳造営が続いています。更に、全県的に多数の古墳があり、大和(奈良県)や両毛(群馬県・栃木県)とともにわが国で最も古墳の多いところといわれており、古墳が全く見当たらないのは二~三町村にすぎないとされています(注①)。
 古田先生も宮崎県について、『失われた九州王朝』第五章「九州王朝の領域と消滅」の「遷都論」において次のように述べておられます(注②)。

 「九州王朝の都は、前二世紀より七世紀までの間、どのように移っていったのだろうか。少なくとも、一世紀志賀島の金印当時より三世紀邪馬壹国にいたるまでの間は、博多湾岸(太宰府近辺をふくむ)に都があった。(中略)また、同様に、南下して宮崎県の『都城』といった地名も、同県の古墳群とともに、注目されねばならぬ。」『失われた九州王朝』ミネルヴァ書房版475~476頁

 この指摘を重視するのであれば、宮崎県の西都原古墳群を筆頭とする四~五世紀の九州最大の古墳群の濃密分布と、当地に今も濃密分布する「阿万」姓の人々の存在(注③)などから、この地と「倭の五王」との関係を九州王朝史の視点から考察すべきではないでしょうか。(つづく)

(注)
①日高次吉『宮崎県の歴史』山川出版社、1970年。
②古田武彦『失われた九州王朝』朝日新聞社、昭和四八年(1973年)。ミネルヴァ書房より復刻。
③古賀達也「洛中洛外日記」2543~2548話(2021/08/19~23)〝「あま」姓の最密集地は宮崎県(1)~(4)〟


第2549話 2021/08/24

「倭の五王」時代の九州の古墳(1)

 「倭の五王」の宮都にふさわしい五世紀の遺構が見つかりませんので、視点を変えて、倭国王の陵墓にふさわしい大型古墳について検討してみます。とりあえず、九州島内に限定して考察します。
 場所にこだわらず規模だけを見れば、宮崎県西都原古墳群の九州最大の前方後円墳、女狭穂塚古墳(墳丘長176m、五世紀前半)が年代とともに「倭の五王」の陵墓候補に最もふさわしいと思います。同じく隣接する男狭穂塚古墳(墳丘長155m、五世紀前半)も国内最大の帆立貝式前方後円墳で、これも「倭の五王」の陵墓候補にふさわしいものです。同県にはこの他にも次の五世紀頃の大型前方後円墳(墳丘長100m以上)があります。

○児屋根塚古墳(墳丘長110m、五世紀前半の前方後円墳)西都市茶臼原
○松本塚古墳(墳丘長104m、五世紀末~六世紀初頭の前方後円墳)西都市三納
○菅原神社古墳(墳丘長110m、四世紀末~五世紀前半の前方後円墳)延岡市

 さらに、生目(いきめ)古墳群(宮崎市跡江)の1号墳(墳丘長120m、前方後円墳)は四世紀初頭では九州最大規模の古墳です。続いて3号墳(墳丘長143m、前方後円墳)は四世紀前半の古墳ですが、四世紀代を通じて九州最大です。そして五世紀には同じく九州最大の女狭穂塚古墳、男狭穂塚古墳へと続きます。
 このように宮崎県では、四~五世紀にかけて九州最大規模の古墳造営が続いています。更に、全県的に多数の古墳があり、大和(奈良県)や両毛(群馬県・栃木県)とともにわが国で最も古墳の多いところといわれており、古墳が全く見当たらないのは二~三町村にすぎないとされています(注①)。
 古田先生も宮崎県について、『失われた九州王朝』第五章「九州王朝の領域と消滅」の「遷都論」において次のように述べておられます(注②)。

 「九州王朝の都は、前二世紀より七世紀までの間、どのように移っていったのだろうか。少なくとも、一世紀志賀島の金印当時より三世紀邪馬壹国にいたるまでの間は、博多湾岸(太宰府近辺をふくむ)に都があった。(中略)また、同様に、南下して宮崎県の『都城』といった地名も、同県の古墳群とともに、注目されねばならぬ。」『失われた九州王朝』ミネルヴァ書房版475~476頁

 この指摘を重視するのであれば、宮崎県の西都原古墳群を筆頭とする四~五世紀の九州最大の古墳群の濃密分布と、当地に今も濃密分布する「阿万」姓の人々の存在(注③)などから、この地と「倭の五王」との関係を九州王朝史の視点から考察すべきではないでしょうか。(つづく)

(注)
①日高次吉『宮崎県の歴史』山川出版社、1970年。
②古田武彦『失われた九州王朝』朝日新聞社、昭和四八年(1973年)。ミネルヴァ書房より復刻。
③古賀達也「洛中洛外日記」2543~2548話(2021/08/19~23)〝「あま」姓の最密集地は宮崎県(1)~(4)〟


第2548話 2021/08/23

「あま」姓の最密集地は宮崎県(4)

 宮崎県に集中分布する「あま」姓と「阿毎多利思北孤」(『隋書』イ妥国伝)の「阿毎」との〝一致〟、それと「あま」姓最密集分布地域(西都市・他)と九州最大の西都原古墳群の地域が重なるという二つの事実により、「阿万」「阿萬」姓の分布状況が古代の九州王朝に由来するとしたわたしの仮説は、更に傍証を得て有力仮説となるのですが、その傍証について説明します。
 わたしが白石恭子さん(古田史学の会・会員、今治市)からのメールで、「阿万」「阿萬」姓が宮崎県に濃密分布していることを知ったとき、文献史学と考古学の二つの研究が真っ先に脳裏に浮かびました。その一つは、西井健一郎さん(古田史学の会・前全国世話人、大阪市)の論稿「新羅本紀『阿麻來服』と倭天皇天智帝」(注①)で、『三国史記』新羅本紀の文武王八年(668年)条冒頭に見える記事「八年春、阿麻來服。」の「阿麻」を、白村江戦(663年)で敗北した九州王朝(倭国)の元天子とする仮説です。もう一つは、近年、韓国から発見が続いた前方後円墳の形状が宮崎県西都市やその近隣の前方後円墳とよく似ているという考古学的事実でした(注②)。
 まず西井さんの研究により、『三国史記』の不思議な記事〝阿麻が新羅に来て、服した〟のことがずっと気になっていました。「阿麻」という名前はいかにも倭人の名前らしく、九州王朝の王族に繋がる有力者ではないかと考えていたのです。
 また、韓国で発見された前方後円墳(注③)の形状は〝前「三角錐」後円墳〟とも言いうるもので、方部頂上が三角錐のようにせり上がっており、この特異な形状の古墳が宮崎県にも分布(注④)していることから、韓国で前方後円墳を造営した勢力と南九州(宮崎県)の勢力とは関係があったのではないかと考えてきました。
 この一見無関係に見える事象、『三国史記』の「阿麻來服」と韓国・宮崎の前「三角錐」後円墳とが、宮崎県西都市を中心とする「阿万」「阿萬」姓の分布事実が結節点となり、「あま」姓を名のる九州王朝(倭国)の支族が、宮崎県(日向国西都原)と韓国(恐らく任那日本府を中心とする領域)に割拠し、独特の前方後円墳(前「三角錐」後円墳)を造営したとする仮説へと発展しました。
 白石さんから届いたメールをヒントに、南九州と韓半島を結ぶ九州王朝史の一端に迫る仮説を提起したのですが、はたしてこの仮説が歴史の真実に至るものかどうか、皆さんのご判断に委ねたいと思います。(おわり)

(注)
①西井健一郎「新羅本紀『阿麻來服』と倭天皇天智帝」『古田史学会報』100号、2010年10月。
②古賀達也「前『三角錐』後円墳と百済王伝説」『東京古田会ニュース』167号、2016年4月。
 古賀達也「洛中洛外日記」1126話(2016/01/22)〝韓国と南九州の前「三角錐」後円墳〟
 古賀達也「洛中洛外日記」1127話(2016/01/23)〝百済王亡命地が南郷村の理由〟
③韓国の代表的な前方後円墳として月桂洞1号墳(光州広域市光山区)がある。全長は36.6m(推定復元45.3m)、後円部の高さ4.8m(推定復元6.1m)、方部の高さ4.9m(推定復元5.2m)。造営年代は6世紀前半頃で、九州の前「三角錐」後円墳と同時期。石室の構造には九州系横穴式石室の要素が指摘されている。
④宮崎県西都市の松本塚古墳。墳長104mで、五世紀末から六世紀初頭頃の「前方後円墳」とされている。
 熊本県山鹿市岩原古墳群の双子塚古墳も、墳長102mmの前方後円墳で五世紀中頃の築造と説明されており、その形状が似ている。
 宮崎県児湯郡新富町祇園原古墳群の弥吾郎塚古墳も同様で、墳長94mの六世紀代の「前方後円墳」とされている。『祇園原古墳群1』(1998年、宮崎県新富町教育委員会)掲載の測量図によれば、弥吾郎塚古墳以外にも次の古墳が前「三角錐」後円墳に似ている。
○百足塚古墳 墳長76.4
○機織塚古墳 墳長49.6m
○新田原五二号墳 墳長54.8m
○水神塚古墳 墳長49.4m
○新田原六八号墳 墳長60.4m
○大久保塚古墳 墳長84.0m


第2545話 2021/08/21

「あま」姓の最密集地は宮崎県(3)

 宮崎県に集中分布する「阿万」「阿萬」姓調査の結果、宮崎県内の分布中心は西都原古墳群を擁する西都市、隣接する宮崎市の両市であることがわかりました。そのため、「阿万」「阿萬」姓が、西都原古墳群とは無関係に発生したとは考えにくく、古代の九州王朝(倭国)にまで遡る淵源を持っているのではないかとしました。その理由について説明します。
 まず、わたしが注目したのが「あま」という姓です。『隋書』俀国伝によれば九州王朝(倭国)の天子の名前が「阿毎多利思北孤」とあり、「阿毎」(あま、あめ)という姓を名のっていたことがわかります。従って、古代において、「あま」という姓は誰にでも名のれるものはなく、倭国王族に限られたと考えるのが妥当です。この単純で頑強な理屈により、宮崎県に集中分布している「阿万」「阿萬」姓を名のっている人々は倭国王族の末裔ではないかと、まずは考えなければなりません。これは論理(単純で頑強な理屈)に導かれた作業仮説(思いつき)の段階です。
 なお、このアイデアは、「阿万」「阿萬」姓の分布状況をお知らせいただいた白石恭子さん(古田史学の会・会員、今治市)の鋭い直感に導かれたものであることは言うまでもありません。
 次に、宮崎県内の分布を見ると、九州最大の西都原古墳群がある西都市と同市に隣接する宮崎市などに分布が集中している事実があり、この「阿万」「阿萬」姓が西都原古墳群と関係しているのではないかと考えることができます。むしろ、倭国王家の姓を名のっている人々の集中分布と九州最大の古墳群の存在が、偶然に重なったとするほうが無理な考えではないでしょうか。なぜなら、九州最大の古墳群が九州王朝(倭国)と無関係に造営されるはずはないからです(注)。
 このように、宮崎県に集中分布する「あま」姓と「阿毎多利思北孤」(『隋書』俀国伝)の「阿毎」との〝一致〟、それと「あま」姓最密集分布地域(西都市・他)と九州最大の西都原古墳群の地域が重なるという二つの事実により、先の作業仮説は史料根拠と考古学的根拠を持つ学問的仮説へと発展するのです。この仮説は更に傍証を得て、有力仮説となります。(つづく)

(注)大和朝廷一元史観の通説では、西都原古墳群にある前方後円墳などを畿内の前方後円墳の影響を受けたものとする。


第2544話 2021/08/20

「あま」姓の最密集地は宮崎県(2)

 白石恭子さん(古田史学の会・会員、今治市)からのご教示により、「あま」姓の分布調査を行いました。宮崎県に集中していたので、更に詳しく市区町村レベルの分布を調査したところ、明らかに古代にまで遡ると思われる分布痕跡が見て取れました。次の通りです。

(1) 宮崎県内の分布中心は西都原古墳群を擁する西都市と隣接する宮崎市である。児湯郡新富町、東諸県郡綾町も近隣であり、「阿万」「阿萬」姓が、西都原古墳群と無関係に発生したとは考えにくい。
(2) 鹿児島県の分布地域は指宿市であり、同地は九州王朝の皇女「大宮姫」伝説の地である(注①)。
(3) 「倭の五王」(五世紀)の時代、九州王朝の天子(倭王)は「玉垂命(たまたれのみこと)」を襲名していたと考えているが(注②)、玉垂命を御祭神とする筑後一宮高良大社(久留米市)に由来する「高良(こうら)」姓の分布は、福岡県に次いで鹿児島県に多い(注③)。ただし、宮崎県に「高良(こうら)」姓の分布は見られず、鹿児島県における「高良(こうら)」姓と「阿万」「阿萬」姓の分布領域はあまり一致していないようである。
(4) 「阿万」姓の兵庫県の分布領域は南あわじ市であり、同地には高良神社が分布している(注④)。

 以上のように、宮崎県に濃密分布する「阿万」「阿萬」姓は、古代の九州王朝(倭国)に何らかの淵源を持っているように思います。(続く)

○宮崎県 推計人口(令和3年3月) 約1,061,000人(100%)
○宮崎市 推計人口(令和3年8月) 約 397,000人(約37%)

【阿万】姓 人口 約900人 順位 8,448位
〔市区町村順位〕
1 宮崎県 宮崎市 (約200人)
2 宮崎県 西都市 (約200人)
3 宮崎県 日南市 (約80人)
4 宮崎県 児湯郡新富町 (約60人)
5 鹿児島県 指宿市 (約30人)
6 兵庫県 南あわじ市 (約30人)
7 宮崎県 東諸県郡綾町 (約20人)
8 宮崎県 延岡市 (約10人)
8 宮崎県 日向市 (約10人)
8 宮崎県 西諸県郡高原町 (約10人)

【阿萬】姓 人口 約400人 順位 14,505位
〔市区町村順位〕
1 宮崎県 宮崎市 (約120人)
2 宮崎県 児湯郡新富町 (約30人)
3 宮崎県 西都市 (約30人)
4 鹿児島県 指宿市 (約20人)
5 宮崎県 都城市 (約10人)
6 千葉県 船橋市 (約10人)
6 大分県 大分市 (約10人)
6 鹿児島県 南九州市 (約10人)
9 神奈川県 厚木市 (ごく少数)
9 神奈川県 大和市 (ごく少数)

※「日本姓氏語源辞典」(https://name-power.net/)による。

(注)
①古賀達也「最後の九州王朝 ―鹿児島県『大宮姫伝説』の分析―」『市民の古代』10集、新泉社、1988年。
 正木 裕「大宮姫と倭姫王・薩末比売」『倭国古伝 姫と英雄と神々の古代史』(『古代に真実を求めて』22集)古田史学の会編、2019年、明石書店。
 古賀達也「洛中洛外日記」2239話(2020/09/23)〝南九州の「天智天皇」伝承〟
②古賀達也「九州王朝の筑後遷宮 ―高良玉垂命考―」『新・古代学』第四集、新泉社、1999年。
③古賀達也「洛中洛外日記」2209話(2020/08/21)〝高良玉垂命と甲良町と高良健吾さん〟
④古賀達也「洛中洛外日記」1260話(2016/08/21)〝神稲(くましろ)と高良神社〟


第2543話 2021/08/19

「あま」姓の最密集地は宮崎県(1)

 『古田史学会報』164号(2021年6月)で「斉明天皇と『狂心の渠』」を発表された白石恭子さん(古田史学の会・会員、今治市)から、とても興味深いメールが届きましたので、紹介します。
 白石さんのメールによれば、〝テレビで「新婚さんいらっしゃい」を見ていて、阿萬という姓の御夫婦が出演されているのに驚き、「阿毎多利思北狐」を思い浮かべた〟とのことでした。そして、ネットで調べると、「阿萬」姓の80%が宮崎に住んでいるとのことで、〝「倭の五王」の王都が特定されていない中、何らかの参考になれば〟とありました。研究者にとって、ありがたい情報提供です。
 わたしは、「阿萬」姓が宮崎県に濃密分布していることを知り、驚きました。と同時に、今まで「あま」姓の調査をしてこなかったことに気づかされました。そこで、わたしも調べてみました。
 「日本姓氏語源辞典」(https://name-power.net/)で「阿万」「阿萬」姓を検索したところ、ご指摘通り宮崎県に濃密分布しており、他県を圧倒しています。従って、この分布は歴史的背景の影響を色濃くうけていると思われます。敢えて指摘すれば、鹿児島県と兵庫県の分布も注目され、これも偶然ではないように思います。
 なお、「阿万」「阿萬」以外の「あま」姓として、「天」「安満」「阿満」「尼」「海士」「阿磨」「阿間」がありましたが、いずれも人数が少ないので歴史資料として使用するには、母集団として適切ではないようです。(つづく)

宮崎県推計人口(令和3年3月)約1,061,000人

【阿万】姓 人口 約900人 順位 8,448位
〔都道府県順位〕
1 宮崎県(約600人)
2 兵庫県(約90人)
3 鹿児島県(約60人)
4 大阪府(約50人)
5 福岡県(約20人)
6 東京都(約20人)
6 埼玉県(約20人)
8 神奈川県(約10人)
8 愛知県(約10人)
10 長崎県(約10人)

【阿萬】姓 人口 約400人 順位 14,505位
〔都道府県順位〕
1 宮崎県(約200人)
2 鹿児島県(約50人)
3 神奈川県(約30人)
3 兵庫県(約30人)
5 千葉県(約20人)
6 埼玉県(約10人)
7 静岡県(約10人)
7 東京都(約10人)
7 愛知県(約10人)
7 大阪府(約10人)

※「日本姓氏語源辞典」(https://name-power.net/)による。