「 九州王朝(倭国) 」一覧

第2115話 2020/03/20

湯岡碑文の「我」と「聊」の論理

 「洛中洛外日記」2112話(2020/03/16)〝蘇我氏研究の予察(2)〟において、「伊予温湯碑文」(「伊予湯岡碑文」)の次の冒頭記事にある三名の称号・名前(法王大王、恵忩法師、葛城臣)の他に、「我法王大王」(わが法王大王)の「我」(わが)という、本碑文の作成人物の存在が記されていると説明しました。

 「法興六年十月、歳在丙辰、我法王大王与恵忩法師及葛城臣、逍遥夷与村、正観神井、歎世妙験、欲叙意、聊作碑文一首。」(『釈日本紀』所引『伊予国風土記』逸文)。

 読者の方から、「我法王大王」の「我」は、「わが君」のような慣習的な呼称(用法)であり、「我」を4人目の特定の人物と考えなくてもよいのではないかというご意見が届きました。この見解には根拠があり、もっともな疑問で、わたしも理解できます。しかしながら、この「我」を碑文の作成人物とする中小路駿逸先生(故人、追手門学院大学教授)の説をわたしは支持しています。良い機会ですので、その中小路説について説明します。
 中小路先生は論文「湯岡碑文と赤人の歌について」(『愛文』第二七号、1992年)で、次の理由により同碑文の「我」を碑文作成者とされました。

①碑文は序文と本文からなっている。
②序文は「法興六年十月、歳在丙辰、我法王大王与恵忩法師及葛城臣、逍遥夷与村、正観神井、歎世妙験、欲叙意、聊作碑文一首。」であり、この碑文作成に至る事情が述べられている。
③「惟夫、日月照於上而不私。神井出於下無不給。(中略)後之君子、幸無蚩咲也。」が本文に当たる。
④この二つの部分の関係を示すのが「聊作碑文一首」の「聊」(いささか)の一字である。
⑤当碑文以前の先行例(『詩経』『楚辞』『文選』)によれば、「聊」なる語が、常に、その文における「われ」、すなわち第一人称の人物の、動作・状態を修飾するのに用いられており、第二人称・第三人称の人物の動作・状態について用いられた例を見いだしえない。
⑥当碑文の作者も先行例の用法に従ったものと考えるのが妥当である。

 こうした論理展開により、次のように結論づけられています。

⑦ゆえに、「聊作碑文一首」は「われは、いささか(しばらく、ひとまず)以下の(あるいは、この)碑文を作る」の意ととるほかなく、この場合「碑文」とは少なくとも「惟夫」から「蚩咲」までを含むがゆえに、その部分は「われ」が作ったのであり、また「その部分を『われ』が作る(作った)」という文辞を含む「序」を書いたのは、その「われ」以外ではありえないがゆえに、当碑はその「序」も「本文」も、同一の一人物の作である。

 このように中小路先生は指摘され、碑文に見える「法王大王」は「聖徳太子]ではなく、古田先生と同じく九州王朝の「大王」とされました。この中小路先生の、碑文中の「我」は碑文の作成者とする説をわたしは支持しています。


第2114話 2020/03/17

蘇我氏研究の予察(4)

 『日本書紀』の七世紀前半頃の「蘇我氏」関連記事には九州王朝・多利思北孤の重臣「葛城臣」の事績転用部分と本来の近畿天皇家の重臣「蘇我氏」の事績部分が混在しており、それらを分別する学問的方法論の確立が必要と、わたしは考えているのですが、実は事態はもっと複雑です。というのも、九州王朝にも重臣としての「蘇我臣」が存在した史料痕跡があるからです。
 「洛中洛外日記」655話(2014/02/02)〝『二中歴』の「都督」〟、777話(2014/08/31)〝大宰帥蘇我臣日向〟でも紹介しましたが、『二中歴』「都督歴」に次の記事が見えます。

 「今案ずるに、孝徳天皇大化五年三月、帥蘇我臣日向、筑紫本宮に任じ、これより以降大弐国風に至る。藤原元名以前は総じて百四人なり。具(つぶさ)には之を記さず。(以下略)」(古賀訳)

 鎌倉時代初期に成立した『二中歴』の「都督歴」には、藤原国風を筆頭に平安時代の「都督」64人の名前が列挙されていますが、それ以前にいた「都督」の最初を孝徳期の「大宰帥」蘇我臣日向としているのです。九州王朝が評制を施行した7世紀中頃、筑紫本宮で大宰帥に任(つ)いていたのが蘇我臣日向ということですから、蘇我氏は九州王朝の臣下ナンバーワンであったことになります。また、この「筑紫本宮」という表記は、筑紫本宮以外の地に「別宮」があったことが前提となる表記ですから、その「別宮」とは前期難波宮(難波別宮)ではないかとわたしは考えています。
 このように『二中歴』によれば、近畿天皇家の蘇我氏とは別に、九州王朝にも「蘇我臣」がおり、重用されていたこととなりますから、『日本書紀』には、近畿天皇家の「蘇我氏」関連記事、九州王朝の重臣「葛城臣」と「蘇我臣」の転用記事が混在している可能性があります。従って、この三者を分別する学問的方法論が必要と思われ、九州王朝説に基づく蘇我氏研究は一筋縄ではいかないと思われるのです。
 このような視点と理由により、古田学派内での従来の蘇我氏研究について、「わたしの見るところ、失礼ながらいずれの仮説も論証が成立しているとは言い難く、自説に都合のよい記事部分に基づいて立論されたものが多く、いわば『ああも言えれば、こうも言える』といった研究段階に留(とど)まってきました。」との辛口の批評をせざるを得なかったわけです。『日本書紀』に留まることなく、九州王朝系史料に基づいた多元的「蘇我氏」研究の本格的幕開けを期待しています。(おわり)


第2113話 2020/03/17

蘇我氏研究の予察(3)

 蘇我氏と「葛城」に深い関係があるように『日本書紀』が編纂されたのは、九州王朝の天子、多利思北孤の事績を「聖徳太子」記事として転用し、同時に多利思北孤の重臣「葛城臣」の事績も「蘇我氏」記事に転用するためではなかったかと、わたしは予察しているのですが、その根拠として次の論理性と史料状況があげられます。

①『日本書紀』編者は、九州王朝の天子、阿毎多利思北孤やその太子、利歌彌多弗利の事績を『日本書紀』に転用する際、同時代の近畿天皇家内の人物「聖徳太子」(厩戸皇子)に〝横滑り〟させている。
②従って、多利思北孤の重臣「葛城臣」の事績も、同事態の近畿天皇家の重臣「蘇我氏」に〝横滑り〟させていると考えられる。
③そのことを支持するように、蘇我氏と「葛城」とを関連付ける記事(蘇我馬子が葛城県を祖先の地として永久所有権を推古天皇に要請し、拒否される)が「聖徳太子」の時代、推古紀(32年条、624年)に現れている。
④この理解が正しければ、推古紀32年条の「葛城県、永久所有権申請」記事も、本来は九州王朝の天子、多利思北孤にその重臣「葛城臣」が北部九州の「葛城県」の「永久所有権」を「申請」した記事の転用と考えることができる。
⑤この考えを支持するかのように、「聖徳太子」の伝記『聖徳太子伝暦』推古天皇二十九年条の「葛城寺」注文に「蘇我葛木臣」と、近畿天皇家の「蘇我氏」と「葛木臣」を習合させた表記が見える。

 以上の予察(論証)によるならば、『日本書紀』の七世紀前半頃の「蘇我氏」関連記事には九州王朝・多利思北孤の重臣「葛城臣」の事績転用部分と本来の近畿天皇家の重臣「蘇我氏」の事績部分が混在していることになるので、それらを分別する学問的方法論の確立が必要となります。(つづく)


第2112話 2020/03/16

蘇我氏研究の予察(2)

 服部さんが指摘されたように、『日本書紀』に見える蘇我氏と「葛城」との不自然な関係付け記事にこそ、わたしは九州王朝説からの蘇我氏研究アプローチの鍵があるのではないかと直感しました。そしてその鍵を解くもう一つの鍵が九州王朝系史料にありました。それは、九州年号「法興」史料として有名な「伊予温湯碑文」(「伊予湯岡碑文」)です。
 現在、同碑は所在不明となっていますが、碑文冒頭には次の記事があったとされています。

 「法興六年十月、歳在丙辰、我法王大王与恵忩法師及葛城臣、逍遥夷与村、正観神井、歎世妙験、欲叙意、聊作碑文一首。」(『釈日本紀』所引『伊予国風土記』逸文)

 ここには三名の称号・名前が記されています。「法王大王」「恵忩法師」「葛城臣」です。なお、「法王大王」を「法王」と「大王」の二人(兄弟)を表すとする理解もありますが、本稿では従来説に従い、「法王大王」という人物一人としておきます(本稿の論点の是非に直接関わらないため)。厳密に言うのなら、「我法王大王」(わが法王大王)の「我」(わが)という、本碑文の作成人物の存在もありますが、その名前や称号は不明ですので、本稿では取り上げません。
 古田説では碑文の「法王大王」は『隋書』に見える九州王朝の天子、阿毎の多利思北孤(法隆寺釈迦三尊像光背銘に見える上宮法皇)のこととされ、「法興六年」はその年号で596年のこととされます。碑文に見える「法王大王」に従っている人物は、僧侶の「恵忩法師」と臣下の「葛城臣」の二人だけですので、いずれも天子に付き従って伊予まで来るほどの九州王朝内での重要人物と思われます。
 特に「葛城臣」にわたしは注目しました。もしかすると、『日本書紀』編者は九州王朝の重臣「葛城臣」を近畿天皇家の重臣「蘇我氏」に重ね合わせようとして、蘇我氏と「葛城」に深い関係があるように『日本書紀』を編纂した、あるいは、九州王朝史書の多利思北孤の事績を「聖徳太子」記事として転用し、その際、多利思北孤の重臣「葛城臣」の事績も「蘇我氏」記事に転用したのではないでしょうか。
 この点、「葛城」という地名が、大和にも北部九州(『和名抄』肥前三根郡に葛城郷が見える)にもあったことが、「葛城臣」記事を『日本書紀』に転用しやすくさせた一つの要因になったと思われます。(つづく)

【以下はウィキペディアより転載】
 ※近畿天皇家一元史観に基づく解説が採用されており、古田史学とは異なる部分がありますので、ご留意下さい。。

伊予湯岡碑(いよのゆのおかのひ)

法興六年[注 1]十月、歳在丙辰、我法王大王[注 2]与恵慈法師[注 3]及葛城臣、逍遥夷与村、正観神井、歎世妙験、欲叙意、聊作碑文一首。
惟夫、日月照於上而不私。神井出於下無不給。万機所以[注 4]妙応、百姓所以潜扇。若乃照給無偏私、何異干寿国。随華台而開合、沐神井而瘳疹。詎舛于落花池而化羽[注 5]。窺望山岳之巖※(山偏に「咢」)、反冀平子[注 6]之能往。椿樹相※(「广」の中に「陰」)而穹窿、実想五百之張蓋。臨朝啼鳥而戯哢[注 7]、何暁乱音之聒耳。丹花巻葉而映照、玉菓弥葩以垂井。経過其下、可以優遊[注 8]、豈悟洪灌霄庭意歟[注 9]。
才拙、実慚七歩。後之君子、幸無蚩咲也。

『釈日本紀』所引または『万葉集註釈』所引『伊予国風土記』逸文より。

注釈
1.「法興」は私年号で、法興寺(飛鳥寺)建立開始年(西暦591年)を元年とし、法興6年は西暦596年になる(新編日本古典文学全集 & 2003年)。
2.「法王大王」は聖徳太子を指す(新編日本古典文学全集 & 2003年)。
3.底本では「恵忩」であるが、「恵慈」に校訂(新編日本古典文学全集 & 2003年)。
4.底本では「万所以機」であるが、「万機所以」に校訂 (新編日本古典文学全集 & 2003年)。
5.底本では「化弱」であるが、「化羽」に校訂(新編日本古典文学全集 & 2003年)。
6.底本では「子平」であるが、「平子」に校訂(新編日本古典文学全集 & 2003年)。
7.底本では「吐下」であるが、「哢」に校訂(新編日本古典文学全集 & 2003年)。
8.底本に「以」は無いが、意補(新編日本古典文学全集 & 2003年)。
9.底本では「与」であるが、「歟」に校訂(新編日本古典文学全集 & 2003年)。


第2111話 2020/03/15

蘇我氏研究の予察(1)

 「洛中洛外日記」2108話(2020/03/12)「『多元』No.156のご紹介」で、『多元』No.156に掲載された服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)の論稿「七世紀初頭の近畿天皇家」をわたしは好論と評しました。その主たる理由は、蘇我氏と近畿天皇家の関係を論ずるにあたり、ピックアップされた『日本書紀』の蘇我氏関連記事が網羅的で、蘇我氏研究に役立つと思われたことでした。なかでも、『日本書紀』に見える蘇我氏と葛城氏とを結びつける記事や解釈に注目された点に、わたしは触発されました。そこで、九州王朝説による蘇我氏研究のアプローチ方法を示し、その予察を述べてみたいと思います。
 服部稿では蘇我氏と葛城臣とを同一とする『日本書紀』の記述を疑い、次のように論じておられます。

〝推古紀三二年(六二四)の、蘇我馬子が推古天皇に葛城県の永久所有権を請う記事を、岩波書店の『日本書紀』は「皇極元年に蘇我大臣蝦夷が葛城高宮に祖廟を立てるとあり、馬子は葛城臣ともいったのであろう。他に伝暦に蘇我葛木臣に賜う。」と注釈して辻褄を合わそうとする。しかし、蘇我氏が葛木に因んだ姓名を使ったという記述は見られない。〟(『多元』No.156、p.7)

 この服部さんの指摘は理解できますが、それではなぜ『日本書紀』には蘇我氏と「葛城」を結びつけるような記事が散見されるのかという、『日本書紀』編者の認識に迫る作業(フィロロギー)が必要です。この点についてのわたしの考え(予察)を述べることにします。(つづく)


第2108話 2020/03/12

『多元』No.156のご紹介

 友好団体「多元的古代研究会」の会紙『多元』No.156が先日届きました。同号には服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)の論稿「七世紀初頭の近畿天皇家」が掲載されていました。同稿は『日本書紀』に記された蘇我氏関連の記事をピックアップし、七世紀前半までは、九州王朝の重臣である蘇我氏が近畿天皇家よりも上位で、その関係が「乙巳の変(645年)」で逆転したとするものです。
 蘇我氏研究は一元史観でも多元史観でも多くの研究が発表されており、古田学派内でも蘇我氏を九州王朝の天子・多利思北孤とする説、九州王朝が大和に派遣した近畿天皇家のお目付役説など諸仮説が出されてきました。わたしの見るところ、失礼ながらいずれの仮説も論証が成立しているとは言い難く、自説に都合のよい記事部分に基づいて立論されたものが多く、いわば「ああも言えれば、こうも言える」といった研究段階に留(とど)まってきました。
 その点、服部稿は「乙巳の変までは、近畿天皇家よりも蘇我氏が上位」という史料的に根拠明示可能な「限定的仮説」の提起であり、学問的に慎重な姿勢を保っておられます。また、ピックアップされた『日本書紀』の記事には改めて着目すべきこともあり、わたしも蘇我氏研究に取り組んでみたくなるような好論でした。
 ちなみに、古田先生は「蘇我氏」についてはあまり論述されていません。それほど難しいテーマということだと思います。


第2102話 2020/03/06

「ウ冠」「ワ冠」の古代筆跡管見(4)

 七世紀当時の九州王朝公認筆法の「撥(はね)型」が隋代史料(恐らく写経)の影響を受けた可能性について紹介してきましたが、隋代よりも前の、たとえば北魏史料からの影響ということも考えられますので、この点は今後調査したいと思います。
 今回の調査では、隋代の写経史料中にこの「撥型」が多数見受けられましたが、『隋書』イ妥国伝にもそのことを裏付けるような国交記事があります。

 「大業三年(607)、其王、多利思北孤、遣使朝貢す。使者曰く〝海西の菩薩天子、重ねて佛法を與すと聞く。故に遣朝し拜す〟。兼ねて沙門數十人來たりて佛法を學ぶ。」

 大業三年(607)に九州王朝の天子、多利思北孤は隋に沙門数十人を派遣し、仏法を学ばせています。この沙門たちにより、隋代史料(写経類)が九州王朝にもたらされ、同時に筆法も導入されたのではないでしょうか。
 他方、隋では大業年間頃(605年~)から筆法に変化が生じ、「撥型」から「押型」などに変化したとすれば、九州王朝にその変化が伝わらなかった、あるいは受容しなかったのかもしれません。そのことを示唆する次の言葉で『隋書』イ妥国は締めくくられているからです。

 「此の後、遂に絶つ。」

 このように大業年間以降に九州王朝と隋は国交断絶します。これらの記事と国内史料・隋代史料が示す「撥型」筆法変遷との対応は、偶然の一致とは考えにくいように思われるのです。(終わり)


第2101話 2020/03/05

「ウ冠」「ワ冠」の古代筆跡管見(3)

 七世紀当時の九州王朝公認筆法の「撥(はね)型」は、いつ頃どこから伝わったのかを調べるために、『書道全集』の「第五巻 中国・六朝」「第七巻 中国・隋、唐Ⅰ」(平凡社、昭和30年)を見てみました。
 本調査に当たり、わたしは九州王朝は中国南朝の冊封を受けた時代が長いことから、筆法も南朝の影響を受けているのではないかと推定し、六朝時代から調査を始めたのですが、結論からいえば「撥型」は隋代に集中して出現していました。もっとも、『書道全集』という限定された史料対象から得た「結論」ですから、現時点での理解といわざるを得ませんが、とても興味深い現象でした。
 『書道全集』「第七巻 中国・隋、唐Ⅰ」に見える「撥型」の文字は次の史料に散見されました。JISコードにない旧字体は新字体に改めましたが、「撥型」調査結果には影響しません。

○『佛説月鐙三昧経』「大隋開皇九年」(589)
 「受」

○『大智度論 巻六十二』「開皇十三年」(593)
 「受」「帝」「當」「憂」「常」

○『大方等大集経 巻第廿』「大隋開皇十五年」(595)
 「宀/之」 ※「宀」の下に「之」。

○「美人董氏墓誌」「開皇十七年」(597)
 「宣」「婉」

○「龍山公墓誌」「開皇二十年」(600)
 「帝」「字」「※旁/衣」「官」「宗」「家」 ※「旁」の「方」を「衣」とする字。

○『大般涅槃経 巻第十七』「仁寿三年」(603)
 「當」

 以上の隋代史料に集中して「撥型」が見られましたが、中には判断に迷う字形や、明らかに「撥型」とは異なる字形が混在しているケースもあります。
 他方、大業年間以降(605年~)になると「撥型」が見えなくなり、下記の例のように「押型」など他の筆法に変化しています。これも限定された史料による判断ですから、隋代の一般的字形変遷と断定できませんが、不思議な傾向です。

●『大般涅槃経 巻第卅七』「大業四年」(608)
 「蜜」「受」「割」

●『賢劫経 巻第一』「大業六年」(610)
 「宿」「常」「安」「諦」「學」「當」「家」


第2100話 2020/03/04

「ウ冠」「ワ冠」の古代筆跡管見(2)

 鬼室集斯墓碑碑文の「室」の筆跡が古代に遡る可能性があるとの胡口康夫さんの指摘に基づき国内の古代史料を調査したところ、先に紹介したように法隆寺釈迦三尊像光背銘や『法華義疏』のように、九州王朝系史料に「撥(はね)型」が認められました。このことは九州王朝の時代の七世紀ではこの書体が流行だったのではないでしょうか。
 特に『法華義疏』冒頭の「上宮王」という署名の「宮」がこの「撥型」であることは、九州王朝の上宮王(多利思北孤か)自身がこの筆法を採用していたことを示します。更に、法隆寺釈迦三尊像光背銘も「上宮法皇」(多利思北孤)のためのものですから、「撥型」が当時の九州王朝公認の筆法と考えてよいと思われます。
 それではこの筆法はいつ頃どこから伝わったのでしょうか。そこで、『書道全集』の「第五巻 中国・六朝」「第七巻 中国・隋、唐Ⅰ」(平凡社、昭和30年)を調査しました。(つづく)


第2098話 2020/03/02

沖ノ島出土の

カットグラス碗片(国宝)はペルシャ製

 ウェブニュース(本稿末に転載)によれば、沖ノ島(福岡県宗像市)から出土していたカットグラス碗片(国宝)が5~7世紀の古代イラク(ペルシャ)製であることが判明したとのことです。沖ノ島は九州王朝の海上祭祀の聖地と考えられ、出土したカットグラス片は遙々ペルシャから九州王朝にもたらされたものと思われます。
 このニュースに接して、わたしの脳裏をよぎったのが、『倭国古伝 姫と英雄と神々の古代史』(『古代に真実を求めて』22集、古田史学の会編・明石書店、2019年)に掲載された正木裕さん(古田史学の会・事務局長、大阪府立大学講師)の論稿「太宰府に来たペルシアの姫」でした。同論稿によれば、『日本書紀』孝徳紀・斉明紀・天武紀に記された「舎衛女」はペルシアの姫であり、九州王朝の都、太宰府に来たとされています。今回、明らかにされたペルシャ製のカットグラス碗片こそ、このときの九州王朝とペルシャとの交流を示す物証ではないでしょうか。
 正木説と沖ノ島のカットグラス碗片が結びつき、古代のロマンが歴史の真実として蘇ってきたようです。

【共同通信社 2020/03/01 19:42】
ガラス製品、出自は古代イラク 福岡・沖ノ島の出土品
福岡県宗像市の宗像大社は1日、世界文化遺産に登録されている沖ノ島から出土した国宝のガラス製品について、調査の結果、5~7世紀のメソポタミア(現在のイラク)由来と分かったと発表した。ササン朝ペルシャからシルクロードを通って運ばれ、大規模な祭祀の際にささげられたとみられる。今秋に大社で一般公開される予定。
 沖ノ島は玄界灘に浮かぶ孤島で、大社が所有し神職以外の上陸が禁じられている。ガラス製品は、淡い緑色の「カットグラス碗片」(直径5.6センチ、厚さ3~5ミリ)と、深緑色の「切子玉」(長さ3.1~3.7センチ)で、1954~55年に見つかった。

【西日本新聞 2020/3/2 6:00】
国宝の切子玉 メソポタミア伝来 福岡・沖ノ島出土
 福岡県宗像市の宗像大社は1日、同市の世界文化遺産「沖ノ島」から出土した国宝のガラス製品についてササン朝(226~651年)のメソポタミア(現在のイラク)伝来とする化学組成の分析結果を発表した。これまで産地、制作時期ともに推測の域を出なかったが、初めて科学的に裏付けられた。
 東京理科大、岡山市立オリエント美術館との共同研究。組成元素を調べる蛍光エックス線分析で、円形の突起が切り出された容器片「カットグラス碗(わん)片」と細長い形状で中心に糸を通す穴が開く「ガラス製切子玉」を調査した。古代ガラスはローマ帝国でも作られたが、結果はササン朝の「ササンガラス」と組成が類似。碗片は5~7世紀、切子玉は3~7世紀製であるとした。
 碗片と切子玉は沖ノ島8号遺跡(5世紀後半~7世紀)から出土。碗片は類似品などからササン朝由来とされてきたが、切子玉は一切不明だった。宗像大社の福嶋真貴子学芸員は「8号遺跡の年代と大差ない。できあがって間もなく運ばれた」とみる。今後は伝来ルート、祭祀(さいし)上の意味などの研究につながることを期待する。早稲田大の田中史生教授(日本古代史)は「ユーラシアのガラス交易の始点、終点がくっきりしてきた。日本も含めたシルクロードの実態を考える上でも重要な結果だ」と評価する。(小川祥平))